ドイツ研修旅行

体験記
1997年7月28日から約2週間山村恒年教授に連れられて総勢11名の学生がドイツのフランクフルトに降り立った。旅費の総合計が20万前後と少々高かったため、メンバーが限られたのは大変残念だったが、それでも、11名もの参加者がいたことは大変うれしいことであった。当時、山村教授
は、1997年12月に開催される温暖化防止京都国際会議を成功させるためにも、学生のコミットメントが必要であるとして、大学内で勉強会をスタートさせたばかりであった。

会議に出席したのは4日間ほど。それ以外はせっかく来たということでドイツの暮らしを満喫した。主に、ケルンのユースホステルに居を構え、ボンに通った以外は、観光客がほとんど訪れない小さな村にワインを飲みに行ったり、お城を見たり、モーゼル川を船で観光したりした。

ドイツでの暮らしは環境問題の意識の違いを見せつけられるとともに、その美しい自然に心を奪われた。また、国際会議に出席した経験はメンバーにとって忘れがたい思い出として残っている。

一介の学生が、たいした予備知識も持たずに、AGBM7(地球温暖化締約国準備会議第7回会合)に出席するということで大変緊張して入った。中でも忘れがたいことは会議を揺るがした重大な事件であり、これを通して 日本人として これを見過ごすわけにはいかない自体は 我々の危機感を高めた。それがkyoto killer terget事件である。以下にその模様を抜粋してみる。


kyoto killer target 事件
「1997年7月末からボンで開催されたAGBM7には135カ国の締約国の
代表団、国連環境計画などのオブザーバーと環境NGO、産業NGOなどが参
加し、数値目標、政策と措置、組織と機構問題、途上国問題の4つのノングルー
プが設置され討議が進められた。いよいよ具体的な議定書交渉が開始されるとい
うことで会議のほとんどが非公開とされNGOは会議から締め出された。しかし
具体的な数値目標や政策と措置のあり方については各国の主張が対立した
ままで交渉はほとんど進まなかった。途上国問題では先進国の率先的名削減の実
施を求め、新たな対策が求められるなら新たな資金メカニズムが必要とする途上
国と、議定書に途上国の新たな対応(コミットメント)を盛り込むべきとするア
メリカなどの主張が対立した。AGBM7の直前に、アメリカの上院で「アメリ
カ経済に悪影響を与える国際拘束に反対し、途上国のコミットメントを求め
る」決議(バード決議)が全会一致で採択されたこともあって、途上国問題が議
定書交渉に大きな影を落とし始めていた。
 外務省はAGBM7の前に記者会見し 具体的な数値目標の提案は9月以降に
先送りし、今回は日本から数値目標の提案はしないと言明していた。ところが、
8月2日の読売新聞の夕刊のトップに「日本がアメリカに、2010年から2015年の間
に一人あたりの排出量を3トンかそう排出量を1990年レベルにするかの選択
性を提案した」とのきじが掲載された。記事どおりとすれば、削減どころか、大
幅な増加を許しかねない提案になる。このニュースがもたらされたのは、8月の2
日の午前8自前である。早速日本から参加しているNGOyたCANのメンバー
が集まり対応を協議した。そしてこの記事に記載された日本提案どおりであれ
ば、削減どころか2010年には11%もの大幅な増加が許されることが、分析
され(中略)結局8月4日の午前中に開催された全体会合で日本の代表が「そのよ
うな提案はしていない」と弁明せざるを得なくなった」 環境NGO 山村恒年(編)P88より抜粋

私たちは 8月3日から 会議に参加した。
山村先生から 「きちっとした格好をしていれば どんな格好でもいいよ」と言われていたのも手伝って?
全員がなんと平服で(!) 、この事件の後の異様な雰囲気の漂う 会議場へ乗り込んでしまった。

しかしこの事件に出会い、同じ日本人として 周りから常に監視されているような 感じがして そこにい
るだけで 神経が磨り減る思いがした。

もしかしたら、日本での会議は失敗するかもしれない。そんな危機感にとらわれたことが、グローバルアイズの前身である、気候変動研究会を作り、12月の会議直前まで走りつづけたことの契機であっただろう