はじめに
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<日本におけるエコツーリズムとその展望>

「ひとつの国民の発育成長のために、“旅行”はどれほどまでの役目を勤めなければならないか。別の言葉で言うならば“旅行”の栄養価値はいかん。」と著書『青年と学問』のなかで言ったのはわが国の民俗学の先駆者柳田国男である。また、ソニーの盛田昭夫氏は父君からよく「本人が自ら進んで勉学に励まない限り,どんなに大金を投じてもその人を教育することはできない。だが金銭によってできる教育がひとつだけある。それは旅行である。」と薫陶を受けておられたそうである。

本稿ではエコ・ツーリズムの定義についてくどくど述べない。今は自然と触れ合いつつそれを損なわない気概を養うスタイルの観光旅行ぐらいに考えて頂けばよろしい。ノープロブレムだ。旅行保険の約款(事故に遭ったら幾ら出るか、等がびっしり書かれたもの)ではないから細かいことは気にしなくてよろしい。その代わりエコ・ツーリズムに至る道程を紹介したい。

旅行、といえば今日では普通観光旅行のことを指す。修学旅行や新婚旅行とて「観光」という条件とまったく無縁の代物ではない。国内旅行はいわんや、まして海外渡航ができるのは、相当将来を嘱望されたエリート学徒か外交官、ないしは商社マンと相場が決まっていたかつての時代とは隔世の感がある。

それまでの「旅」という言葉に加えて新しく「旅行」という言葉が生まれたのは明治に入ってのことである。「かわいい子には旅をさせろ」という言葉からもわかるように、旅には何かしかの厳しさを漂わせたニュアンスがある。「旅に出る…」と親しい友人に言われたらすわ何事か!旅に出る前に借金の清算だけは済ませとけ、と思うことはあっても「旅行に行く☆」と言われたらああそうか景気の良いやつだ勝手にしろ、と思うだけであろう。

古くは江戸時代のお伊勢参りが西洋の巡礼と異なり、ただのお参りを主たる目的とした旅行ではなくて、道中に遭遇するであろう、田舎に引っ込んでいては得られない様々な社会経験(……昼間から安酒で泥酔する、大博打を打つ、芸者遊びをたしなむ等)を積むことを目的とした旅だったことからも伺える。そのような旅と比較して旅行には純粋な娯楽の雰囲気が濃厚である。もっとも一般庶民にとってそれが身近に感じられるようになったのは精々ここ三十年ほどであろう。不況の今日でも中,長期の海外旅行が衰える様子はさほどないが、平成11年度『観光白書』によると日本人の余暇の過ごし方は日帰りないしは二泊三日の旅行が堂々トップに陣取っている。多くの日本人は「安・近・短」をモットーに一撃必中即離脱の隙のない構えで国内旅行に挑むのである。

国内旅行と言えば、JTB(Japan Travel Bureau)という名詞は誰もが一度は耳にしたことがおありと思うが、それの誕生は明治45年(1912)までさかのぼる。出資者の内訳は鉄道院(当時)を中心に日本郵船,東洋汽船,帝国ホテル,南満州鉄道など官・民のそうそうたるメンバーであった。ちなみに誕生当初はトラベルではなくてツーリストであった。まだ日本が国際社会から一人前と認知されていなかったころのことである。日露戦争で白人の大国ロシアに勝ったのはいいが。期待したほど知名度が上がらない。国家の財布もなんだか手元不如意。そんな時代、最初はポケットを札束で膨らませた欧米列強の紳士淑女たちがターゲットだった。今日、発展途上国が旅行,観光業を国家がバックアップする産業として取り上げるのと事情は似たり寄ったりである。要するに外資が獲得できる、しかも元手いらず、という点がビンボー国には大変魅力的なのである。

先ほど列強と書いたが、第一次世界大戦で袋叩きにされた上身包み剥ぎ取られたドイツもイタリアもそれぞれ戦後復興の過程で現代につながる旅行業者が誕生している。少し話が横にそれたがそのような事情で外交・外貨獲得手段として日本人の眼前に姿をあらわした観光旅行がいよいよ庶民の手の届くところに近づいてきた。昭和を目前にした大正13年旅行専門雑誌『旅』が創刊され、続いて『汽車時刻表』が発行されるようになる。昭和2年、現在の毎日新聞の前身が主催した「日本新八景選定」という企画が大評判を呼んだ。葉書による日本の名風景トップ8人気投票だった。しかし、実際は海岸部門、渓谷部門などに分かれていたので、実質的には各部門ナンバーワンを決める日本一決定戦的性格のものだった。投票総数は一ヵ月間で約9800万枚。ちなみに当時の人口は6000万人だった。葉書の在庫がなくなる郵便局が続出した。郵政大臣が葉書の在庫について異例の談話を新聞紙上に発表するに至って、新聞社の企画は全国民的一大ムーブメントとなった。

この選定以後華厳の滝、十和田湖、別府温泉、室戸岬などが国内有名観光地として名実共に認められるようになった。また昭和9年、雲仙、霧島、瀬戸内海、阿寒、大雪山、日光、中部山岳、阿蘇が国立公園に指定された。国立公園は昭和40年代に至るまで国内観光のメッカの位置を占めることとなる。近年登場したエコ・ツーリズムはわが国にとって決して真新しい概念ではない。古き良き昭和における観光旅行とは、美しい日本の風景を愛で、帰りに御土産を購入して地元経済に寄与するエコ・ツーリズムの基本をはっきりと押さえていたのである。そして、地元に国立公園があることは、地元民にとって「誇り」だった。

そんな美しい誇りが米軍爆撃機に空襲を受ける時代が過ぎた昭和25年、今度は「新日本観光地100選」という企画が行われた。前回と大きく異なるのはGHQ経済科学局観光課が係わっていたという点である。先述したドイツ、イタリアの例に漏れず戦後日本においても観光産業による外貨獲得が国内活性化に有効とみなされたのだ。当然主なターゲットは外国人。そのせいでもなかろうが前回ほどには盛り上がらなかった。それでも二ヶ月で7000万強の葉書が投票された。同じころ隣国では朝鮮戦争が勃発していたので製造業が息を吹き返しつつあった。製造業、非製造業の如何を問わず戦後復興の兆しが見え隠れしていた時代だった。

二十年後、大阪万国博覧会の翌年から六年間続くDISCOVER JAPANと銘打った国鉄のキャンペーンが始まる。何処へ行こうと特定の目的地は示していない。まずは出発しよう、そうすれば何かが見つかる、自分が何処にたどり着くか決めるのは自分だと言う趣旨のキャンペーンだった。ここにきて「旅行」は個人の主体性が強く求められるかつての「旅」と融合を果たす。今日のエコ・ツーリズムはその流れを受け継いだものだと断言できる。

行く先で珍しいものにも、絶景にも、異国の人にも出会える、しかし気軽に持ち帰ることはできない。深入りしてはいけない。こちら側のものを持ち込んでもいけない。意思が要求されるその代わり観光地に手垢はつかない。いつ訪れてもそこで旅行者は異邦人だ。パリに行ったら日本人ばかりいた、というようなジョークみたいな現実に幻滅することは避けられる。訪れた土地から学ぶのは大いに結構、だがそこを所有物にはできない。これがエコ・ツーリズムの精神である。占領時代GHQ観光課の人間は日本を「東洋の公園」呼んだ。言い得て妙である。これから日本がエコ・ツアーを観光産業の柱の一つとして育成したいならば官民一体となって普及啓蒙に取り組む必要がある。質の高いガイドをロンドンキャブの運転手のように国家資格にする必要もある。「漫画」を東京都や経済産業省が「産業」として後押しするご時世である。まんざら的外れの提案でもなかろうと思うが如何?

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