新たな問題、日本の実情

蔓延するニヒリズムと享楽主義

 「答え」はない。「革新」と「保守」の立場を検証し、出た答えがこれでした。なんとも虚しいものです。私たちがいくら考え抜いて判断し、決断しても正しい解答はでないのです。そうであるならば、そもそも決断する意味なんてあるのでしょうか。少なくとも、現代の日本ではそのように考える人々が多くなってしまったように思えます。政治に対するあまりの関心のなさの原因は、もしかすると日本人が虚脱感、無意味感、「あきらめ」に苛まれていった結果かもしれません。政治だけではありません。マスコミや企業CMなど私たちの行動を促すものにたいしてあまりに無警戒に飛びつくような傾向は、もしかしたら決断すること判断する事の無意味さを潜在的に感じている個人が、促されるがままにすることを致し方ないと無意識で了解しているのかもしれません。現実世界で私たちを取り囲む諸問題は、その根があまりにも複雑で、簡単に答えを出す事ができません。それにもかかわらず、情報化によって私たちの視野は否応なく広がり、一定の価値基準によって独断的に判断する事がもはやできない事を知ってしまっているのです。「私」という個人の力が大きくなり、判断材料はどんどん増えていますが、決断するのは依然として一つの「私」でしかないのです。(オルテガ「大衆の反逆」)そして、その「答え」は依然としてはっきりしません。だからこそ、個人は選択を回避し、決断を止めることを開始するのです。また、決断を止めた個人は、決断を先送りするが故に、その場限りの享楽的な性格を持つようにもなります。今この瞬間がよければそれでいいという享楽的な姿勢は、決断をしないという曖昧な態度そのものです。日本人の特徴として理解されているこの独特の「曖昧さ」は、それだけではないとしても、もしかしたら今日的ニヒリズムによってもたらされているのかもしれません。

刺激だけを求める個人は常に受動的で、その結果、それ以外の困難への決断から逃避するようになります。その意味で、ニヒリズムと享楽主義とは一体であり、日本人に蔓延しているニヒリズムと大衆天国娯楽天国としての日本の姿が無関係ではない事は明らかです。日本のあらゆるものは欲望と刺激に特化しています。街に出れば、見渡す限りの風俗や刺激的な言葉や色彩に彩られた看板に埋め尽くされています。店頭のディスプレイから公衆トイレまで、いかに心地よく利用できるかが追及されえいます。その一方では、欲望を掻き立てる刺激的な享楽以外には、人々は「あきらめ」の気分を持って無関心に徹しているのです。

 この日本の現代的風潮を生んだ「革新」に対する反動として、「保守」は力を増してきました。特に90年代に入ってからは「ナショナリズム」が目に見える形で現れ始め、「新しい歴史教科書を作る会」や小林よしのりの「戦争論」など右翼言説を中心に、日本の固有性への回帰を呼びかける動きが活発になってきたのです。しかし、これら「ナショナリズム」の伝統に向けられた視点は、文化や思想などの伝統的あり方に対して思い出や郷愁の念をもって恣意的に取り上げるといった向きがありました。彼らが、本質的な意味で「保守」の視野と危機感を持って語っていたかどうかはわかりませんが、そのような仕方では、恣意的に取り出された日本の伝統自体に盲従する事に簡単に陥ってしまうのです。

 さらに、このニヒリズムは、循環的に発展するでしょう。つまり、無関心に陥った人々が政治から離れ、決断から離れれば、ますます社会は彼らの思うようにはいかなくなるのです。例えば、今の不況を作り出した政府を変えるような努力をしなければ、不況は進行していきます。また、享楽的な思考性によって、即効性のある政策ばかりに気を取られてしまっては、ゆっくりとした後退が進行し続けます。こうなってしまえば、人々はさらに無力感に陥っていくでしょう。このニヒリズムのループが、今日本全体に蔓延している閉塞感を作り出している社会的な雰囲気です。これを打破する努力をしなくては、私たちは、本当にどうしようもなく後退していく一方でしかありません。

 確かに、私たちの二つのポスター発表はこのニヒリズムを引き起こす原因を明らかにすることはできたのです。しかし、これをどうやって打破すればいいかは導けませんでした。問題があるところには解決もあります。何が問題であるかを自覚しなくては、それを打ち破る事はできません。「革新」と「保守」という二つの中心的な態度を探る事で、私たちはようやくスタート地点に立つ事ができたのです。

 次に、私たちは、「革新」と「保守」の二つの議論がうまくかみ合っていなかった事に注目しました。つまり、両者の議論をもう一度すり合わせ、検討することで共通点と相違点を見つけ出したいと思います。その共通点に、新たな可能性があるのではないかと考えたのです。