「革新」と「保守」に共通の危機意識

「誤解」

私たちの二つのプレゼンテーションを見られたみなさんは、何か違和感があると感じられたかもしれません。実は、「革新」と「保守」の両者では、伝統とは何なのか、あるいは自由とは何なのかという定義が全く違っているのです。「革新」派と「保守」派の間には、初めから一つの誤解が生じていました。この「誤解」が何なのかを明らかにしなくては、私たちの議論は前に進みません。ここでは、その「誤解」を検証し、両者の差異と共通点を示したいと思います。

「伝統」に対する認識の相違

「革新」とは自由な主体を肯定する立場です。つまり、個人とは伝統や社会などあらゆるレベルで個人を取り囲む全ての要素から、個人は基本的に自由であると考える立場でした。もちろん、個人は社会から影響を受け形成されるものであることは否定しませんが、個人とはそれに引きずられて決定されるものであってはならないと考えるのが「革新」の立場です。この地点に立って「伝統」を捉えてみると、その危険性とは、伝統によって個人のあり方が排他的となることや、伝統に固執して問題がいつまでも解決しなくなくなるといったものでした。そこには、伝統という運命的要素によって個人の主体性が失われ、それによって様々な弊害を生み出すという危機意識があったのです。しかし、一度「保守」の立場を理解した人なら、この危険なものとしての伝統の捉え方が、「保守」側からの伝統の捉え方とは違っている事に気づかれるでしょう。「保守」にとって伝統とは個人を規定するものでありますが、決してそれは一方的ではないのです。「保守」派は、伝統と個人をその「関係」において位置づけています。つまり、個人にとって伝統とは自らを規定するものであると同時に、個人は伝統を担う形で主体性を発揮しなくては、伝統は成り立たないのです。「保守」にとっての伝統は、決して「革新」が危険視したように個人の主体性を奪うようなものではなく、むしろ主体性によって支えられるような伝統であったのです。

しかし、だからといって「革新」の問題意識が完全に的外れであるということはないのです。「保守」側が、彼らが目指すように伝統と個人の関係を守ろうとする限り、そこには常に主体性のない「伝統と個人の関係」に陥る危険が潜んでいます。なぜなら、私たちにとって、伝統との緊張関係つまり伝統に規定されつつも個人の働きかけをなすような関係を保つことが簡単な事ではないからです。私たちはよく、「伝統を守ろう」と言って伝統芸能や建物を保存しようと呼びかけます。「保守」の立場に立てば、「伝統を守ろう」と言って何かを保存しようとすることは、ものそのものを残すのではなくて、そのものと私たち個人との「関係」を中心に据えて保存しようと言っているのです。もし、建物や芸能をものとして「残す」こと事態に意味を見出しているのなら、そのものへの見方は「革新」的で、「保守」からは批判されるところです。そこでは、ものは「もの自体」として扱われ、私たち個人とは切り離されているのです。伝統をものとして、伝統自体として個人から切り離すような捉え方をすれば、伝統と個人との「関係」は失われます。そうなれば、個人が主体性を発揮せず、伝統に一方的に引っ張られるような個人になりかねません。

考えてみると、これは奇妙な現象です。「保守」からすれば、伝統に対する「革新」的な捉え方に危険があるのであり、また、「革新」の伝統批判とは同じ視点に立っているのです。言い換えると、「保守」と「革新」の伝統への危機意識が本質的に同じであると言えるのです。つまり、問題は双方等しく、主体性のない伝統との関わり方であったのだということがわかります。

「自由」に対する認識の相違

 「保守」の自由への批判とは、伝統との関係を忘れ自分勝手に振舞うような「自由」に対する警告でした。個人の自由な意思がなんでも解決と過信することで、その危険性に対して無警戒になってしまうのです。例えば、環境破壊によって壊された地球環境を、新しい技術を開発する事で克服しようとするのは、「革新」という発想それ自体に潜んでいる危険性を覆い隠す恐れがあるのです。環境破壊を生んだそもそもの原因は、近代以降社会との関係から自由になった個人が自らの利益を追求する余りに肥大していった欲望によって、大量消費社会を生み出したことにあるのです。確かに、「革新」によって地球を守る事ができるのならそれ自体は喜ばしい事です。しかし、「革新」と、私たちの利己心と傲慢さに気づかせなくさせることとは本当に紙一重なのです。そして、「保守」側が批判するところとはまさにその「革新」に内在する無反省なのです。

ところが、「革新」にとっての自由とはそうではありません。伝統や社会などあらゆる個人を規定するようなものから個人の主体性を確保する、その意味での自由なのです。そこには、「保守」が批判する、意味の抜け落ち形式化した自由の姿はありません。両者の間には、自由をどのように捉えているかの相違が伺えるが、どのような自由を求めどのような自由を危険視しているのかは、共通しているように思えます。つまり、両方の立場とも、自由を、伝統や克服すべき現状に対する主体的働きかけの意味で理解しており、意味を失いただ利己的に振舞うような自由ではないのです。注目すべきは、個人が主体として自由にどのように関わるかです。どちらも、ただ自由の誘惑に流されるようにそれを受け入れる自由ではなく、能動的に自由の意味を問い、社会に対して積極的に行使するような自由なのです。

 「革新」と「保守」、両者の位置を捉えなおし、その誤解を検証してみれば、お互いが実は非常に近い問題意識の中で動いているというのが分かります。両者とも、個人の主体性を重視し、主体として伝統あるいは自由とどのように関わっていくかが論点となっている事で共通しているのです。もちろん、お互いの位置は両極をなしている事は確かです。しかし、伝統を重んじるにせよ、自由を重んじるにせよ、そこに主体的な個人なくしては、すぐさま両者が非難していたような危険に陥る可能性が生れてくるのです。この危険こそ、主体性の欠如、すなわちニヒリズムです。

問題は個人の主体性である

主体性を失いニヒリズムに落ち込むこと、両者が問題としていたのはまさにこのことだったのです。その意味では、たとえ「革新」であろうとも「保守」であろうともその違いはあくまで二次的でしかないのかもしれません。個人として主体的に、伝統とあるいは自由と関わることができれば、「革新」と「保守」の違いはどちらに重心をおくかの僅かな差異でしかないのです。伝統に生きるにせよ、自由に生きるにせよ、それらの理念が持つ意味が抜け落ち、お題目のように唱えられ、人々がそれに盲従する危険は常に潜んでいます。「革新」派が指摘するように、伝統の枠組みに囚われ、それを超えた大きな視点で問題解決に取り組めない事があるとすれば、それは伝統それ自体に問題があるのではなく、伝統とどう関わるかといいう個人のあり方、つまり主体的能動的に関わるようなあり方を放棄する個人に問題があるのです。例えば、グローバリズムにおいて、グローバリズムを自国の利権や枠組みで利用とすれば、本来グローバリズムが持っている地球規模の視野に立った地域の問題解決への理想が、利己主義によって逆利用される結果を招いてしまうのです。つまり、無警戒にその理念を受け入れる姿勢が、それを利用しようとする政治力学のカモにされているのが実情なのです。もちろん、後進国の人々にグローバリズムや自由に対して批判的な姿勢を持つなどと言う事を求めるのは酷な話かもしれませんが、私たち先進国や比較的恵まれた人たちがグローバリズムに潜む危険性に対して声を上げて警告するといった風潮が皆無であったのは認めなくてはなりません。ブラジルのポルトアレグレで2001年以来行われている世界社会フォーラムなど、グローバリズムに対する警告は各地で草の根的になされてはいます。そのような努力が日本の一般大衆に届くことはほとんどありません。マスコミの「自由万歳」「民主主義万歳」という理念への盲従を促すような報道の仕方を、疑問を抱く事無く受動的に受け入れている現実的な私たちの姿には、やはり主体性というものが欠けているのです。情報化社会は、情報自体を手に入られる可能性を広げています。私たちが望めばいくらでも情報は手に入るのです。しかし、そのように情報を主体的に取り入れ判断するような意欲をなくしてしまった私たちは、目の前に広がる世界から目をそむけて、自分の世界に閉じこもり、与えられる情報のみを我が物としているのです。

個人が主体性を持つように努力できれば、その時「革新」や「保守」の違いや世界のパワーバランス、価値基準などは個々の具体的な仕方であって、二次的なものにすぎません。私たち総合政策に携わるものは、具体的仕方という意味での価値観や理念を扱うという以上に、個人が主体性を持たなくてはならないという事、また、いかにもてばよいのかという事を世に広く訴えることを念頭に置かなくてはならないのではないでしょうか。

独断からの脱出

 個人の主体的態度が総合政策の中心に据えられなくてはならないのなら、私たちがポスターセッションで「革新」「保守」という二つの立場を扱ったのは、二次的なものに囚われてしまって本質を捉えることができなかったからでしょうか。確かにその事も全く否定できませんが、無意味ではなかったと考えます。たとえ主体的に問題に当たることができたとしても、どちらか一方の論理から出発していたのなら、独断を免れなかったでしょう。ここにもう一つの「独断」という危険があります。独断とは、一元的な価値判断を信じ、盲従している状態という意味です。そのような姿勢には、常に一つの価値基準から個人の主体的が奪われ、結局はその価値自体が空洞化し意味を失うという同じ危険があります。主体的にその理念に関わるとは、常に批判的な見方を備えていなくてはなりません。批判的態度は、それ以外の価値やあり方をその立場においてある程度認めるような事がなくては在りえないのです。主体的であると考えていてもそれが一元的であれば、次の瞬間その価値に縛られて主体性を失う可能性を持っていると言えるのです。

 その意味で、私たちが全く二つの違う価値観を一つ一つ検証したのは意味があったと思います。私たちがこうやって回りくどく、一つ一つのステップを踏んで進んでいったのは、こうしたやり方をしなくては本質的なところで主体性の必要を感じることはできないと感じたからなのです。