2.構造の明確化

1.個と社会の不断の関わり

2.「革新」の動機と危険性

3.伝統の肯定

個と社会の不断の関わり

 ここでは、「伝統」とは何であるかを説明させていただきます。まず、第一に、個人と社会との「関係」が「伝統」をつくるという事。第二に、「個人」の意味が大きくなりすぎた結果、危険が生じてしまった事を述べていきます。

でははじめに、なぜ個人と社会との関わりに着目するかと言いますと、グローバリズムやイラク問題など私たちを取り囲む社会の問題点は、私たち個人がどのように生きるか、また何に価値を見出すのかという生き方の問題に関わってくるからです。私たちの社会への態度こそ、これからの日本人が取るべき「選択」を導き出すのです。

私たちの決定、決断、選択には、なんらかの理由・動機などがなくしてはあり得ませんが、その動機は、社会や他者との関わりの中で育まれたものであるはずです。

つまり、「動機」は私たちの中からは決して自然発生的に生れてきません。

例えば、あなたがダイエットするのはなぜですか。その動機は、「私がダイエットしたいから」といった個人を出発点としたようなものでは決してないことは明らかです。「ダイエット」によって得られる何らかの効果が、その意味が、私たちを「ダイエット」させるのです。

一方では、私たち個人は、その行動の動機あるいは私たちをそうさせる価値基準を社会によって規定されて生きていおり、また他方では、そんな個人が集まって社会を作り出しています。言うなれば、個人は社会の一部であり、その担い手なのです。

そして、過去のそのような個人と社会との絶えざる関わり合い、相互関係の中で積み上げられていったものが「伝統」です。

個人の価値基準を規定する社会、言い換えると、これがまさしく「伝統」であり「歴史」なのです。「伝統」との「関わり」を通してでしか、個人は意味を持ち得ないのです。

しかし一見、これでは個人の選択には何の自由もないのではないか、選択はあらかじめ決まっているのではないか、と感じられるかもしれません。しかし、決してそうではないのです。個人の集合が社会を作る以上、個人が社会に対して働きかけをしなくては社会は成り立ちません。例えば、ある不遇な立場にある人が社会に異議申し立てするなどということはまったく自然な事です。どのように働きかけをするかが個人によって担われているという意味では、確かに個人は「自由」をもっているのです。

それにも関わらず、現代に生きる私たちは、まるで社会から独立した一つの個人として、「自由」が私たち自身に由来しているかのように振舞っています。個人が社会、「伝統」との関わりを無視し、そこから離れて存在し得ると考えています。しかし、これは全く、「私」というものに対する大きな誤解であり、過信としか言いようがありません。

次に、この「自由」の発生と誤解がどのようになされたかを説明します。また、そこで生まれる「革新」の概念がいかに危険かということを述べたいと思います。


「革新」の動機と危険性

「自由」は、その生まれ自体、現在のような理解のされかたをしている「自由」とは異質なものでした。つまり、伝統的・封建的社会に抑圧されていた人々の、社会への異議申し立てという意味での「自由」であったのです。

しかし、この「自由」な個人の肯定は、時代とともにその歴史的意義、位置付けを失い一人歩きする結果となりました。「自由」はまるで麻薬のようなものです。これを知ってしまった人々は、「関わり」の中に生きる生活に戻る事ができなくなってしまうのです。

社会との「関係」から自由になった個人は、社会への働きかけの「動機」を自分自身に見出します。彼らは、個人が「自由」である以上、選択において決定的意味を持っているのは「伝統」ではなく「個人」であると主張するでしょう。これこそ人間の傲慢なのです。

ここに「革新」という概念が、今日的意味を持ち始めます。

不十分な「現実」を修正し得るのは、「伝統」に規定された個人ではなく、「個人」そのものであると考えるのが今日的「革新」の本音であり、誤解の始まりなのです。

 そのような「自由」の何が悪いのか、と思っている方もいるかもしれません。

空洞化し一人歩きした「自由」は、私たちに新たな「革新」への意欲を次から次へと掻き立てます。それは一見素晴らしい事のようですが、現状に満足せず常に未来への働きかけを余儀なくされるのですから、決して到達のあり得ない「確信」という矛盾を抱えることになってしまいます。「関係」から「自由」であるがゆえに、「革新」という歩みに縛られているのです。

グローバリズムとは、人間の「革新」の歩みそのものです。つまり、「進歩」的な先進国が、「未開」の国や地域を「進歩」させるという理念をその内に秘めています。また、新たな市場を開拓してさらなる「獲得」を目指す帝国主義的発想も持っています。

そもそもグローバリズムの始まりは、イスラム教やキリスト教による宗教的動機なしには語りえません。実は、グローバリゼーションそのものが「善」であるような発想は、こうした歴史的意義が抜け落ちていった近代になってからのことなのです。

重要な問題は、「革新」で生まれた問題が、また「革新」によって「克服」できるのだと考えられてしまうことです。つまり、個人を原因の出発点とする「革新」が常に問題解決すると考えられている以上、「革新」の発想そのものに問題の原因が潜んでいる事に誰も気づかないのです。それでは、いつまでたっても問題解決がその根源的原因にはたどり着きません。「革新」に根付く傲慢な発想を取り除かない限り問題は堂々巡りでしかないのです。



伝統の肯定
 
問題の根本は、人間が伝統や歴史を忘れ、自らを過信し、自分勝手に振舞っている事にあります。そして、そのような振る舞いは、私たちが「伝統」や「歴史」によって支えられているのだということを忘れてしまった事を本質的な原因としているのです。これを認め、「伝統」に支えられた自分を自覚するような生き方、それが「保守」という言葉の本当の意味です。上辺でなく本当に他者との繋がりを持ちえるのは、こうした「保守」の視点に立ったものでしか在りえないのです。

今必要なのは、「伝統」と共に生きるということです。

「伝統」というものの意味を私たちがここで主張するのは、以上のような問題意識にもとづいています。