3.相撲の価値とその危機

1.相撲の意義

2.曙の肯定

3.K-1の危険


相撲の意義 

相撲の価値は、相撲という伝統の形式が、日本人の精神の形式を伝える担い手のひとつであるところにあります。それは競技であると同時に、ひとつの芸能です。それは横綱審議会が、作家や映画監督など様々な文化人から構成されていることからもよくわかっていただけるでしょう。

相撲の日本性とその価値
 相撲には日本的な美徳が多く含まれていています。例えば相撲は礼に始まって礼に終わります。K-1に象徴されるような新種格闘技においてしばしば試合前に言葉や動作による挑発が行われるのとは対照的です。その相撲の礼儀には、日本の道徳心が存在しています。古代、相撲は神に豊作の祈願や感謝をする奉りごとでありました。合理的な力と力の勝負相撲を目指すのではなく、様々な不合理的とでも言えるような決まりごとが存在していることは、そのような相撲の起源に端を発しています。このことから、相撲は合理性をもって説明しつくすことができない、日本的な意味を持ち合わせる文化そのものである、ということが見えてきます。発表の導入部分で、伝統と慣習は違うのか、という問いがありました。この問いに答えると、本当の伝統とは、伝統の育まれた共同体の人々の基準であり続けるような精神であり、そして慣習とはそのような精神から生み出された実体です。曙が非難したのは、精神の抜けてしまった相撲における慣習でしょう。しかし相撲は慣習でありながら、精神を注入されたものであることには間違いありません。だから、もし私たちが伝統を精神として存在させるのならば、相撲に象徴されるような、不合理な側面を持ちつつも、私たちのよりどころであるような精神を持つ伝統的慣習を、もっと尊重すべきでしょう。


曙の肯定 

われわれの態度からすれば、曙ら外国人力士が相撲をとることに異論はありません。相撲の精神は、その日本的な宗教観、道徳観にもとづいているのであり、その精神の形式が受け継がれる限りは、変化することを厭わないのです。事実、相撲は、様々な変化を受け入れてきました。例えば、現在はあって当然と思われている土俵というものも、江戸時代、相撲の娯楽性が高まり、民衆との距離がうんと近くなってしまったことから新しく作られたものなのです。曙ら外国人力士の誕生も、土俵がそうであったように、日本的に、うまく対象を取り込んだかたちだといえます。曙は、日本的精神の伝達を担う、一人の若武者となったのです。しかし彼は変わってしまいました。いや、変えられてしまったのです・・・。

相撲界を襲う革新的変化
 現在、相撲界は大きな波の中にあります。それは外からの変化が起こす波です。太田房江大阪府知事は、「外国人が土俵に上がることができて、女性ができない道理はない」といって女性初の土俵入りにこだわっています。しかしこれは、フェミニズムという西洋的な思考法にもとづく価値観によって、女性の土俵入りを正当化しようとすることであります。われわれは男女平等であることを否定するのではありません。そのような西洋的価値観を無反省に飲み込んでしまうことに問題があると言っているのです。そして最も大きな問題は、日本人にあった娯楽感覚が、西洋的なエンタテイメントに変貌しようとしていることです。相撲がプロレス化するような変革に迎合しようとすることは、最終的には相撲としての意味をなさなくなります。朝昇龍関の品格を問う議論が勃発したり、高見盛関の派手なパフォーマンスに注意が与えられたりするのも、大相撲協会にそのような懸念があるからでしょう。

K−1の危険 

K-1という競技は、新しい、エンタテイメント性を追求した競技であります。マスコミによる大々的な宣伝、ドーム球場で行われるその興行規模をみても、明らかでしょう。「このビースト様が日本のヨコヅナを食ってやるぜ」などと語るボブ・サップは、そのようなK-1の象徴的存在でしょう。K-1は、より享楽的なものだけを取り入れようとする、欲望の化身とも言うべき革新的な態度を象徴しています。様々な伝統競技に属していた選手を寄せ集め、見世物にする、そういった姿勢は、歴史の反省がなく、バランス感覚の欠けるものです。曙関がK-1に転身するということは、そのような危険を端的に示しています。曙関という伝統の担い手が、K-1という合理的で享楽的な変化そのものに吸い込まれる、ということから、個人主義の蔓延による道徳の崩壊、そして共同体の崩壊へと続くことへの危険がはっきりと見えてくるのではないでしょうか。

変わるけど、変わらないもの。
 以上、まとめてみれば、「変化の仕方」に重要な違いがあることがわかります。確かに相撲は時代の多くの変化に対応してきました。しかし、それらの変化は日本という共同体の中から、起こったものだったのです。そこには歴史を振り返り、いかに発展させるべきか、という態度があります。しかし、今相撲界が直面している危機とは、変化に外的な価値で対応することを余儀なくされていることです。もしくは、そのような変化に照らし合わせる基準を何ももたないことです。自家用車に、F1車用のエンジンを搭載してもうまく走らないように、あるものには、ある「然るべき」ものが存在しているのです。このことから、相撲が日本人の歴史を体現し、その精神を訴えかけてくること、そしてそれに耳を傾けることが、我々の取るべき態度である、ということがわかるでしょう。