「自分はどこから来て、どこへ行くのか」、「自分は何者なのか」という問題は、人が一
生お付き合いしなければならないものである。そして、国際化や都市化が進み、多様化・複雑化していく日本社会をみていると、この問題はますます大切なものに感じられる。
日本語もブラジル語さえもぎこちなく風船のようなアイデンティティ(佐藤もにか)
作者は日系ブラジル人児童であろうか。人は異なった文化の中で生活するとき、自分の正体と直面せざるをえなくなる。
日本国内の移住でも同じである。
「なつかしい」という感情の中には、アイデンティティの確認があるのではないか。「自分はどこから来たのか」という根本的な問いへのひとつの答えなのである。おそらく、アイデンティティには頭で理解するものと、心で感じるものがあると思う。啄木は理屈抜きに体で感じている。
関西を中心にファドを歌いつづける月田秀子さんが、ファドの心を、ポルトガル語で「サウダーデsaudade」と言っておられた。なつかしく、いとしく、ゆかしく感じる気持ちである。なつかしさやサウダーデを感じるものを持っている人は、そのアイデンティティに揺らぎはないのではなかろうか。
・「中間言語」文化(5月号)
ユー・ガット・メール,マイ・ネーム・イズ・ジョー,ライフ・イズ・ビューティフル。
昨年,日本で上映された洋画である。何かおかしい。どうかしている気がする。これが堂々と街の看板に掲げられ,街の風景のひとつとなるのである。映画の題名は責任重大だ。もっと美的感覚を研ぎ澄ましてもらいたい。だらだらとしたカタカナ語の羅列は頂けない。
いずれ自然淘汰の摂理によって消滅するのはわかっているが,このような題名は,日本人の「中間言語文化」志向の産物と思える。翻訳文化が,外来文化を自分の方に引き寄せ,吸収する文化だとすれば,中間言語文化は自文化から相手文化へと擦り寄り,両者の間に居場所を求めようとする文化である。縦横無尽で自由闊達な日本語であるから,いろいろなものを大いに取り込んでほしいが,自分を忘れて相手に擦り寄るだけでは困る。しかし,待てよ,という声も聞こえてくる。日本文化は「間(ま)」の文化とも言われるから,案外日本人は「間(はざま)」に居心地の良さを感じる習性があるのかもしれない。
・ケータイ天国(6月号)
ある日の帰宅電車。中年おじさんの鞄の中からFirst Loveの着メロ。おじさんの携帯電話にはふさわしくない。娘の「ケータイ」でも借りていたのだろうか。
若い独身者の7割がケータイを持つという。群がる理由は情報の玉手箱を求めて、といえば格好いいが、どうも、アクセサリーとしての必携グッズか、閉じた仲間集団の表面的つながりを示すための道具、と映る。「いつでもどこでも」連絡が取れるという利便性がその最大の理由であろうが、そこで失われるものは、人が本来持っている身体的感覚ではないか。目の前の相手より遠くの他者を優先してしまうのは自然ではないし、いつでもどこでも縛られていては健全な精神は育たない。玉手箱は悪くするとパンドラの箱になり、ケータイ天国とケータイ地獄へと姿を変えるのである。
・ローマ字化(7月号)
終戦直後,日本語の表記をローマ字に変えようという計画が本気で考えられていた。井上ひさしの小説「東京セブンローズ」にそのあたりの事情が詳しく語られている。漢字が民主化を妨げていると考えられたためらしい。五十年あまり経って,現在では民主主義と漢字が存在している。日本人は見事にこの「二律背反」を統合したといえる。
ただし,図らずも,現在はローマ字が第四の表記法として君臨する時代となった。社名,車名,雑誌名,表札と,日常生活のあらゆるところでローマ字が目に付く。漢字とローマ字の共存もまた可能なのである。ともかくも,日本語には豊かな文字があり,われわれはそれを賞味できるのである。
・脱・標準語時代(8月号)
彗星は楕円軌道で太陽系を航行し、太陽の周りを回っていく。もし,各地の方言を彗星になぞらえて現在地を推測してみると、そろそろ太陽から遠ざかる地点にあると思える。十九世紀後半から二十世紀前半は標準語の強力な引力に引っ張られて、方言色もずいぶん溶け出してしまったが、二十世紀後半からはだんだんと遠ざかりつつあり、また新たな物質を集めつつ太陽へ接近中とは一味違う天体へと脱皮しつつある。
ところで楕円には二つの中心があるというが、もう一方は?と望遠鏡を覗くと、そこには関西言葉が見えてきた。もちろん、いにしえの昔より一千年以上の間、政治・文化の中心であったところであるが、ここにきて再びその輪郭が見えてきた。文化的活力という点からみると、中心は一つより二つあった方がよい。一極集中は硬直化をもたらすが、二極分散は活力をもたらす。経済の世界ではグローバルスタンダードで騒がしいが、日本語の世界は脱スタンダードで活況を呈している。
・国語世論調査(9月号)
文化庁からさきごろ出された「国語に関する世論調査」(平成十二年一月調査)を目にした。ぱらぱらと眺めていると,「日本語は乱れている」と考えている人が八十六パーセントもいることに目が止まった。その内訳は,四十代がもっとも高いが老若男女の差はあまりない。日本人は規範意識が強いのか,あるいは自分の言葉に自信がないのか。多様化・個性化が容認され,なんでもありの時代風潮の中でも,言葉についてのなんでもありは許されないようである。ただし,乱れ意識は持ちながらもその乱れを正そうとする兆候は一向にない。「揺れ」を「乱れ」と言う「良い子」意識の現われとも映ってしまう。二十一世紀の日本語像を考える上で,乱れ意識をどう扱ったものか迷ってしまう。「言葉遣い」「若者言葉」「敬語の使用」が乱れのベストスリーであったが,形からではなく,働きの面から言葉を眺めた時,この乱れ意識はどう変わるであろうか。
・だらしな発音(10月号)
ずり下げズボンにルーズソックス。いわゆる「だらしなファッション」が90年代中頃から若者の間に流行った。服装史をみると、平和な世相には「ゆったり」「だぶだぶ」が流行っているという。少し遅れてだらしない発音をする若者が目立ってきた。「それでぁ…」「うちらもぁ…」のように、語尾の母音をはっきり言わず、あいまい母音[ e ]にしてしまうのである。「とか」「みたいな」といった語尾や文末をぼかす表現だけでは飽き足らず、母音の音色にまで細工をしているのであろうか。いや、曖昧路線の延長などではなく、きちんと決めることへの反抗なのであろう。なにをイケテルと感じるかは、その世代が決めることである。終わりをきちんと決めないで、なんだか気だるく投げやりにしておくことが彼らの感性を刺激するのである。窒息しそうなマニュアル社会からの逸脱と映ってしかたがない。
・IT革命(11月号)
「IT」(情報技術)という言葉を見ない日はないご時世である。官民挙げてのITの大合唱を聞いていると,この語は今年度の流行語ベストテン,いや,ひょっとすると流行語大賞を取るのではないかと思える。今年度の通信白書でも,その副題は「ITがひらく21世紀」と謳いあげる。今世紀末から始まった情報革命は,十八世紀末の産業革命と同じくらい世の中を変えてしまうといわれる。効率性と利便性の裏に公害や環境ホルモンがあり,自然環境や生物が非常に危うい状況にあることを教えてくれたのが産業革命である。一方で情報革命は人間の心に大きな影響を与えるであろう。コミュニケーションの在り方が激変し,産業革命同様後戻りできない状況が作り出されていっているからこそ,生身の肉体の上に存在する「心」を忘れてはなるまい。ET(地球外生物)はかわいらしいお客さんであることがわかったが,はたしてITはどうであろうか。
・タメ口と敬意表現(12月号)
縦のものを横にしても大して変わらないのが押し入れなら,
タテからヨコへと大いに揺れているのが日本語の世界。
タメ口に無礼さと不躾さを感じるのが年配者なら,
相手との距離が縮まることに快感を覚えるのが若者世代。
先ごろ国語審議会は,相手を配慮する表現をより広く捉えていこうと,
「敬語」に代わり「敬意表現」を提唱した。
なんのことはない,人の話す言葉はすべてが敬意表現なのである。
狭い意味での敬語にとらわれるのをやめて,その場面に即したものならどんな表現も価値あるものとする「表現の民主化」といえる。
従来の上下意識と形式のみにもとづいた「敬語」は,これからの日本語には合わない。
タテのものをヨコにしだした若者世代が,これからどのような「敬意表現」を作り出すか,期待したい。
・「□」と「鴎」(2001年1月号)
天国の鴎外は予想外の結末に憤慨しているかもしれない。
空のカモメは,どう書かれようとどうでもいいと,人間界の厄介事に無関心。
先ごろ国語審議会は,「□」の略字体「鴎」も正式な字体として認める判断を下した。
情報化社会や日本語の国際化を考えれば,きわめて妥当な決断である。
漢字政策については,明治期から連綿と議論が続いている。言葉というものが,長い歴史を背負った文化遺産でありながら,一方では現実のコミュニケーションで有効に機能することを求められる宿命を持っているからである。
ただ,歴史というものが時代の積み重ねである以上,まずはその時代の言葉の機能性が重視されるべきである。
ともかくも,空を舞うカモメの唯一の関心事といえば,「鰊」か「○」か,ということくらいであろう。
・公用語論(2月号)
日本はこれまで国語や公用語を法的に定めずにやってきた。
それが,昨年2月に「21世紀日本の構想」懇談会が打ち出した「英語第二公用語論」の出現以来,にわかに言語政策論が盛んになった。この種の議論は,明治の文明開化期と戦後アメリカ占領期などに,英語国語論や仏語国語論が飛び出して以来のことだろう。今回は,経済・情報・人流の地球規模化によるものである。「公用語」という言葉が,その重みをきちんと了解することなく,ショック療法として標語的に用いられたのは問題であったが,来世紀に向け,「国際対話能力」と今や国際語となった英語による発信能力の必要性が説かれたことは良かったと思う。ただし,それはあくまでもコミュニケーションの手段である。
日本語は歴史と文化を背負った日本人のアイデンティティであり,とりわけ幼少の時期にこれをしっかりと根づかせなければ,精神的に不安定な日本人が量産される恐れが大である。懇談会の考える第一公用語と第二公用語は,位置付けがまったく違うと了解すべきである。
・和語のすすめ(3月号)
社会現象としての「癒し」、 トップページへ
教育現場での「気づき」、
パソコンの「立ち上げ」。
このところ和語の新語が目に付く。
情報化が進み、人工環境も肥大することであろう21世紀日本社会。
そこで、ますます大切なのが「身体感覚」である。
漢語・外来語はそもそも科学の言葉、つまりアタマの言葉なのに対し、
和語は身近な日常語、つまり身体感覚に根ざしたココロの言葉である。
21世紀人間回復の鍵は、和語的発想にある。
そういう意味で、「ヒーリング」ではなく、「癒し」という言葉が作られ受け入れられたことには、まさに癒されたのである。