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チューリンゲンの聖エリザベート・現状拒否の人生
(St. Elisabeth von Türingen - die radikale Verweigerung)

◎ビデオを見たい方は、鎌田までご連絡ください。

13世紀の人、ハンガリーの王女、方伯(公爵と伯爵との間の地位)夫人であった。

 つい最近ドイツが統一されるまでは、チューリンゲンの森は、東ドイツにありました。それでもドイツ人の歴史にとっては、常に重要な意味を持ち続けたのです。ことに重要なのは、ワルトブルクと聖エリザベートです。

 このワルトブルク急行列車は、東西ドイツ統一後に、西ドイツの会社が持ち込んだものです。しかし、驢馬はもう90年も前からワルトブルク詣での観光客を運んで来ました。驢馬飼いの家族は、はるか800年も前、吟遊詩人がワルトブルク方伯の繁栄を讃え、聖エリザベートの物語を歌っていた頃から、城に水を運んで生計をたてていました。

 観光客がアイゼナッハの近郊にあるこのワルトブルクのいただきにまで登ってくるのは、聖エリザベートのためばかりではありません。ワルトブルクは、吟遊詩人の歌合戦とタンホイザーでも有名です。また、ルターは、この城の小部屋に閉じ込もって新約聖書をドイツ語に翻訳しました。ゲーテはこの城の壮大な眺めを讃え、ドイツ学生組合(ブルシェンシャフト)は、1817年、ここに集まって自由と市民権を要求し、19世紀末にはロマン派運動が中世文化を発見すると共に、中世文化のシンボルとなり、訪れる人が急増しました。東ドイツも、このワルトブルクを史跡として重視しましたが、ルター生誕500年にあたる1983年には、この城に50万人が訪れました。そして、現在では年間70万人の観光客が、失われたドイツの歴史を求めて、ワルトブルクにやってきます。

 しかし私たちは、失われた静けさを求めて行くことにしましょう。 − 城の麓の森の中に、静けさがありました。かつてこのあたりを聖エリザベートが、貴族達の疑い深い目を後目に、貧しい人たちの収容所へ、施しものを持って下って行ったことでしょう。しかしエリザベートの慈善事業は、当時の貴族達には、行き過ぎとしか見えなかったのです。

 この道をエリザベート日々通ったにちがいありません。1226年、エリザベートは、貧しさにあえぐ人たちのために28人収容の救済施設を作りました。夫であるルードヴィッヒ4世がイタリア方面へ行っている間に、この地方に飢饉が起こったのですが、エリザベートは、城の食料倉庫を開放し、自分の宝石などを売り払って、食べるもののない貧しい人々を助けようとしました。

 貴族達は、エリザベートの慈善事業を行き過ぎだと非難し、領主のお后の威厳を損なうものだと考えました。しかしエリザベートは、そのような非難に耳を貸しませんでした。

 施設の脇にあるこの水場から、エリザベートは水を汲んだということです。観光客のひしめく城よりもここの方が、聖女を身近に感じることができます。病人の看護にあたっては、領主の后であるエリザベートは、侍女達と共に、身分の低い人にあてがわれるあらゆる卑しい勤めをはたしたのでした。エリザベートの一生については、当時の詳しい記録が残っていますが、もっとも有名なエピソードは、後世に作られた「薔薇の奇跡」の話です。ある時エリザベートは、貧しい人に分け与えるパン、肉、卵などの食べ物をマントの下に抱えて城から降りて行ったということです。すると、領主である夫が向こうからやってきて、「何を持っているのだ、見せよ」と言うや、エリザベートのマントをまくりあげたのです。すると食べ物は、今までに一度も見たこともないほど美しい赤い薔薇と白い薔薇の束に変わっていました。しかし、その時は薔薇の季節はとうに過ぎていたということです。この教訓的な話は、ロマン主義の時代に大いにもてはやされました。

 エリザベートは、キリストの教える隣人愛を本気で実行しようとしたために、周囲の人の怒りを買いました。またキリストを模範に生活しようとしたために、人々を挑発するものと受け取られました。悪はしゃぎと受け取る者もありました。今では、これらの非難からエリザベートは清められ、ワルトブルクを訪れて初めてエリザベートのことを聞く人々は、彼女の深い信仰を理解できずにただ驚くばかりです。



【エリザベート・ギャラリー】

 これは、有名なエリザベートギャラリーです。エリザベートの一生を描いた美しいモザイク画がちりばめられています。しかしそれらは、いわゆるヴィルヘルム・ビザンチン様式、つまり最後のドイツ皇帝、ヴィルヘルム2世が20世紀に入ってから基金を出して作らせたもので、聖エリザベートの生きた中世のものではありません。

 しかし、そこには聖エリザベートの障害が美しく描かれているので、それをみなさんにお話ししましょう。私たちはあの奇蹟の年、西暦1207年まで遡りたいと思います。そのころハンガリーには、マイスター・クリングゾルという有名な魔法使いがおりました。クリングゾルの名前は、ワーグナーの歌劇パルジファルにでてきますので、ご存じでしょう。彼は星を占って、聖女の誕生を予言したのですが、まさにそのとおり、1207年7月7日にエリザベートはハンガリー王アンドレアスとその妻ゲルトルートの王女として生まれたのです。ゲルトルート妃は、ドイツとも親しい間柄にあるアンデクス家からとついでいます。



【エリザベートの生涯】

 そのように、エリザベートは、1207年7月7日、ハンガリーの、トカイに近いシャロッシュパルタークで、ハンガリー王アンドレアII世と、后ゲルトルートの娘としてうまれました。

最近、近くのシャロッシュパルタークで、ロマネスク様式の教会が見つかり、礎石が発掘されました。この王家の教会でエリザベートが洗礼を受けたと思われます。

 さて、エリザベートは4歳の時、故郷ハンガリーを後にします。その後、1221年の秋に一度だけ里帰りしましたが、それは、エリザベートがルードヴヒ4世と結婚した直後のことでした。南ドイツのアンデックス出身、ドイツ人だった母ゲルトルートが、余りにもドイツ人ばかり優遇すると言うので、1213年にハンガリー人貴族の恨みを買って殺された、その母親の墓参りのためでした。

 エリザベートがチューリンゲンに到着して馬から下りるのを、方伯ルードヴヒが助ける場面の像。

 1211年、ルードヴヒの父ヘルマンが、大きな使節団をハンガリーの花嫁候補エリザベートのところへ送りました。その使節は、幼いエリザベートが気に入り、また、持参金も十分であったし、両家の結びつきは相互に有益であるとの判断から、使節団はエリザベートを連れて帰ることになったのでした。こうして、未知の国への長い旅が始まりました。ドナウ川のプレスブルクで家族に別れ、ブダペスト、プラハを経てルードヴィンガ家の治めるチューリンゲンにつきました。ルードヴンガ家は精力的に、勢力を東方に拡大しようとねらっていたのでした。そして、皇帝シュタウフェン家を模範として、統治力を強化していたのです。

 エリザベートが4歳でチューリンゲンへ行ったのは、そこの領主ルードヴィンガー家の王子ヘルマンの許嫁としてでした。そして、ルードヴィンガー家の支配の中心となっていたのが、ワルトブルクでした。ところが、チューリンゲンへ行って5年目、エリザベートが9歳の時に許嫁のヘルマンが死んでしまいました。そのため彼女は、それから5年後、14歳の時、21歳になっていたヘルマンの弟の地方伯ルードヴィッヒと結婚したのです。《ドイツ人の母を持ち、ハンガリー生まれのエリザベートが、どうして「聖エリザベート」になったのか?幼い頃故郷を離れ、将来を共に暮らすはずだった人の死が、幼いエリザベートの宗教性を培ったのかも知れません。》

 政略結婚で結ばれたルードヴィッヒ2世と王妃エリザベートとは、新婚生活をクロイツブルク城に住みました。しかし二人はやがて、熱烈な愛情に結ばれるようになります。やがて二人の娘にも恵まれます。しかし、王妃の位に登り、権力を得ても神への深い信仰は衰えることなく、それどころか、王妃としての地位を用いて、貧しい人々、乞食、アウトサイダーたちを助けるために努力します。そのために、宮廷の反感を買うことにもなりました。

 様々なエピソードも伝えられています。高価なマントを乞食に恵んでしまったとき、天使が別のマントを与えて、領主の晩餐会に出席できるようにした、などというものです。

 また、祈りながら眠りに落ちてしまうこともあったようです。

 宿なしの乞食を城に入れてやり、体を洗って寝室のベッドに寝かせてやったということを、夫のルードヴィッヒが聞いて驚き《誤解し?》、部屋に飛び込んで布団をめくると、そこには十字架につけられたキリストが横たわっていた、という話しも伝えられています。

 エリザベートは、貧しい人、苦しんでいる人は、だれでも区別なしに助けようとしました。エリザベートには、すべての悲惨な人々の苦しみが、キリストの受難と同じものに思われたのでした。そして、そのようなエリザベートに、夫のルードヴィッヒも理解を示していたようです。


 エリザベートには、マールブルクのコンラートという神父が告解師になっており、この人をエリザベートは師と仰いでいました。この神父は平民出身で、異端者と見る人もいたようです。しかし、このコンラート神父のおかげで、エリザベートは民衆、殊に貧しい人々の苦しみを教えられたようです。コンラート神父はエリザベートに、民から不当に奪い取ったものを食べてはいけないと命じたのです。もっとも、税などを不当にたくさん取り立てるという事態、また家来達の悪行などについては、領主自身は余りはっきり知らなかったよです。

 エリザベートは、貧しい人々のために、すべてをなげうって奉仕し、そのために健康を害してしまったのでした。しかし、それがエリザベートにとって「害」であったのかどうか、それは疑問です。なぜなら、エリザベートにとって死は望ましいことであり、キリスト者の勤めを果たして、神の許へ帰る幸福であったのだからです。それは現代のわれわれには理解しにくいことでしょう。しかし、中世の信仰、宗教心は、今日とは異なるものだったということを知る必要があります。それは、あの野心家で武力政治家の夫ルードヴィッヒが、同時に宗教的な人間でもあった、ということとも比べられます。1227年、ルードヴィッヒは、エルサレムの奪回と同時に、地位の向上と巨万の戦利品を夢見て十字軍に参加したのでした。

(コンラート神父がエリザベートに課した苦行を、現代の一流スポーツ選手とそのトレー名との関係と比較することができないだろうか?)

《ens creatum、すべてが神に支えられている。自立しているものはない。(後光・死神の影・一枚岩のレリーフ、教会や墓のどくろ)−無我、実体性の否定》

 ルードヴィッヒが十字軍遠征に出発するとき、エリザベートとの別れを惜しむシーンは、その後エリザベートの生涯を描いた絵の一こまとして好んで取り上げらています。

 エリザベートは、ヴェラ川まで何日もの行程を夫につきそったのでした。

 一方ではエリザベートは、修道院に入ってただ神だけに仕える生活を選ばず、ひとりの男の妻となったことを、それでよかったのだろうかと思い悩むこともありました。しかし、ルードヴィッヒの出征にあたっては、夫への激しい愛を隠そうとしません。まるでそれが最後の別れになることを予期していたようです。

 このヴェラ川の橋のほとりのリボリウス教会には、エリザベートの一生を描いた25枚のフレスコ画があります。1520年の作品です。

 1227年、ルードヴィッヒがイタリアで死んだという知らせが届いたとき、エリザベートはまだ20歳でした。3人目の赤ちゃんを身ごもっていましたが、反狂乱に陥ったということです。「彼が死んだのなら、それは世界が死んだのと同じことです」と叫んだのでした。

《20歳の愛、現代、東西を問わず、熱烈・一筋の愛が難しくなった》

 夫ルードヴィッヒが死ぬと、エリザベートは周囲から、いけ好かないよそものとして扱われるようになります。エリザベートはワルトブルクを去らなければならなくなります。ワルトブルクにエリザベートが受け入れられたのは、1855年、エリザベートの一生を描く壁画が、ワルトブルクにかけられた頃のことでした。

 エリザベートは夫の死の翌年の1228年、家来たちに見捨てられ、ワルトブルクを追われ、3人の子供を連れてアイゼナッハに下ります。そこでエリザベートは初めて望み通りの生活に入ることができました − 彼女が初めの晩に泊まったのは、豚小屋だったのです。エリザベートは、すべてのぜいたくが消え去ったことを、神に感謝しました。

 しかし、エリザベートが助けてきた貧民はは、逆にエリザベートに冷淡であり、中にはエリザベートを汚物の中につき落とす者もいたということです。しかしエリザベートは笑いながら起きあがり汚れた服を洗ったと伝えられています。

 エリザベートは、親子、財産、そして何よりも自分の意志、自我を棄てる誓いをたてます。今やエリザベートは、全身全霊神に仕える者となったのです。


(以下略)


【メモ】

◆エリザベートの無償の愛は、貧民の仕打ちへの態度で分かる。人間は人に奉仕をしても、普通はどこかで償いを期待している。(自分のしていることが、ほかの人のためになるのだという密かな自己満足によって償いを受けている。)それが凡人のボランティア。これにたして、エリザベートの奉仕は、自己利益を求める心を超えようとする(禁欲・自己否定の)結果に過ぎない。凡人のわれわれの目には、こうしたエリザベートの態度は偽善としか見えない。本当に自分を棄て切る、無我・無私の立場からのみ、エリザベートの奉仕の意味が理解できる。マスタリー・フォー・サービスとは?

◆エックハルト(心の貧しき人)、ドナウヴェルトのマルガレーテ(エーブナー)、その他の当時の敬虔主義運動



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