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アリストテレス『自然学』より


二〈自然〉について
(一)〈自然〉とはなんであるか

 [192b]およそ存在するところのものは、自然によって存在するものと、それ以外の原因によって存在するものとに大別される。
 このうち、〈自然によって〉存在するものというのは、動物やその部分、植物、そして土・火・空気・水のような単純物体のことである。なぜなら、われわれは、これらのものや、これに類するものを、「自然によってある」というからである。
 ところで、いまあげたものはすべて、自然によって形づくられたのではないものと比較すると、明らかな相違点を示している。というのは、これらの自然物と呼ばれるもののどれをとってみても、それぞれ動(運動変化)と静止の始原を自分自身のうちにもっているからである。すなわち、あるものは場所的運動に関して、あるものは増大と減少の面で、あるものは性質的変化という面で、それぞれの動と静止の始原をうちにもっているのである。他方、寝椅子とか上衣とか、そのほかそういったたぐいのものは、それぞれ「寝椅子である」「上衣である」といわれるものであるかぎりでは、すなわち、それが技術の製品(人工物)であるかぎりにおいては、運動変化をはじめようとするなんらの傾向をも、それ自身のうちに本来的にもっていない。【註1】しかし、それらがたまたま石や土や両者の混合からできているかぎりでは、そしてちょうどそのかぎりにおいてだけ、それらのものは、運動変化の傾向をそれ自身のうちにもっているのである。
 こうした事実は、つぎのことを意味している。すなわち、〈自然〉とは、それ(動と静止の始原・原因)が付帯的にではなく直接的・自体的(本来的)に内属しているようなものにおいて、そのものが遅動変化したり静止したりすることの始原・原因となっている何ものかのことにほかならない。【註2】
 私がとくに「付帯的にではなく」という条件をつけるのは、たとえば、ある人が医者であって、自分で自分の健康回復の原因となる、といったことがあるからである。しかしこのばあい、彼が医療の技術を所有しているということは、彼が医療を受けて健康を回復するという事実があるかぎりにおいてのことではない。ただたまたま、同じ人が医者であるとともに患者でもあったというだけのことである。だからまた、医者であることと患者であることとは、相互に切り離されるばあいもむろんあるわけである。
 同様のことはそのほか、人間によってつくられるものすべてについてもいえる。すなわち、そのどれをとってみても、それをつくるはたらきの始原をそれ自身のうちにもっているものはない。あるばあいには、その始原はほかのものの中にあって外から与えられる。たとえば家とか、そのほか人間の手でつくられるものはどれもそうである。またあるばあいには、その始原はたしかにそれ自身のうちにあるけれども、しかしそれは、そのもの自体の本質に即してのことではない。たまたまそのものに付帯的に所属しているもののおかげで、自分が自分に対するなんらかのはたらきの原因となるようなものは、みなそうである。
 かくて〈自然〉とは、上に述べられたような始原のことであり、およそそのような始原をうちにもつかぎりのものは、〈自然をもつ〉のである。そして、それらのものはすべて実体である。つまり、一つの基体となるものだからである。そして〈自然〉はつねに、ある基体のうちにある。
 また〈自然に従って〉ということは、これらの存在、および、これらの存在それ自体に本質的に属するかぎりの性格についていわれる。たとえば火には、上方へ運ばれるという性格が本質的に属しているが、このような性格についていわれる。というのは、このような性格は〈自然〉そのものではなく、[193a]また〈自然をもつ〉ものでもなくて、〈自然によって〉あるもの、〈自然に従って〉あるものだからである。
 さて、〈自然〉とはなんであるか、また〈自然によって〉とか〈自然に従って〉とかいうことはどのような意味であるかは、これで語られたことになる。他方、その〈自然〉というものが、そもそもあるということを証明しようと試みるのは、滑稽なことである。なぜなら、われわれが規定したような種類の事物が数多く存在することは、明々白々であるから。そして、明白な事柄を明白ならざる事柄を介して証明しようとするのは、それ自体によって知られることと、それ自体によっては知られないこととを、区別する能力のない者がすることである〔そういう精神状態がありうることは疑いない。生まれつき盲目の人は、色について推論するであろうから〕。 ― したがって、そのような証明をしようとする人びとは、ただことば(名前)をめぐって議論するだけで、実際には何も考えていないことにならざるをえないのである。
 ところで、ある人びとの見解によれば、〈自然〉とは、すなわち、自然によって存在するものの存在主体(本質)とは、それ自体としては形をもたないところの、それぞれの事物に内属する第一のもの(素材)のことであるとされる。たとえば、寝椅子の自然本性をなすものは木材であり、銅像のそれは青銅である、というように。
 このことの証拠として、アンティポン【註3】はつぎの事実をあげている。すなわち、もしだれかが寝椅子を地中に埋め、それが腐敗して芽を出す力を得たとすれば、そのとき生じてくるのは寝椅子ではなく、木であろう。このことは何を意味するかといえば、人為的に技術によって与えられた状態は、たんに付帯的な仕方でその事物に属するだけであって、これに対してその事物の本質とは、そうした人為的変様を加えられながらも一貫して存続しているものこそがそれなのだ、というわけである。
 そして、もしこれら木材や青銅などの一つ一つが、またさらに、別の何かに対して、ちょうど寝椅子が木材に対するのと同じ関係にあるとするならば〔たとえば、青銅や金の原質は水であり、骨や木材の原質は土であり、そのほかどれについても同様の関係が成立するとするならば〕、そういう原質こそが、それらの事物の自然本性であり本質にほかならないと主張される。
 まさにこのような考え方によって、ある人びとは火を、ある人びとは土を、ある人びとは空気を、ある人びとは水を、ある人びとはこのうちのいくつかを、ある人びとはこれらの全部を、およそ存在するところのものの自然本性をなすものであると主張するのである。すなわち、それぞれの論者は、それを一つだけと考えるにせよ二つ以上と考えるにせよ、とにかく上に述べられたような性格のものとして彼がとらえたものをこそ、そしてそのような性格のものとして認められるだけの数のものを、存在の真の主体(実体)をなすすべてであるとし、それ以外のものはみな、それらのものの様態・あり方・状態でしかないと主張する。そして、こうした実体的なものはどれも永遠なものであるが〔なぜなら、自分自身の本性を離れてほかのもの、に変化することがないから〕、それ以外のものは、何度も際限なく生成したり消滅したりするのである、と。
 かくて〈自然〉ということは、一つには、いまみられたような意味で語られる。すなわちこの説によれば、それは、自己自身のうちに動と変化の始原をもつもののそれぞれにとって、その基体をなしている第一の質料(素材)であることになる。
 これに対して、別の見方によれば、形態、ないしは定義のうちに示される形相がそれであるといわれる。この説の論拠はつぎのようなものである。
 すなわち、ちょうど「技術」という語が、技術に従ってあるもの・技術的なものについて使われるのと同じように、「自然」という語もまた、自然に従ってあるもの・自然的なものについて語られる。そして、技術のばあいにおいて、もしあるものがたんに可能的にのみ寝椅子であって、まだ寝椅子の形相をもつにいたっていないとするならば、われわれはそのような状態にあるものを、技術に従ってあるとはいわないだろうし、また技術作品であるともいわないであろう。自然によって形づくられるものにおいても、このことは同様である。すなわち、肉となり骨となる可能性をもつというだけのものは ― 「肉とはなんであるか」「骨とはなんであるか」を[193b]われわれが規定して語るための定義のうちに示されるような、肝心の形相をそれが獲得するにいたらないうちは ― 、まだそれ自身の自然(本性)をもってはいないし、自然によってあるものでもない。
 したがって、このもう一つの見方によれば、〈自然〉とは、自己自身のうちに動(運動変化)の始原をもつ事物の形態であり形相であるということになる。この形相は、定義という側面においてしか、当の事物から引き離されえないものである。他方、これら素材と形相の結合体〔たとえば人間〕は、〈自然〉そのものではなく、〈自然によって〉あるものである。
 そして事実、質料(素林)よりもむしろ形相のほうが、事物の自然本性であるといえる。なぜなら、(i) それぞれの事物は、それが可能態にあるときよりも、完全現実態(形相が実現された状態)にあるときにこそ、まさにそのものであるといわれるから。
 (ii)人間からは人間が生まれる。しかし、寝椅子からは寝椅子は生まれない。そしてこの後者を理由として、形式(形相)は寝椅子の自然本牲をなすものではなく、質料(素材)としての木材こそがそれであると主張される。つまり、もし寝椅子が芽を出すとすれば、生じてくるのは寝椅子ではなくて木材であろうから、と。 ― しかし、もしそれが自然本性をなすものであるならば、形態(形相)もまた自然本性をなすものということになる。なぜなら、人間からは「人間」(という形相をもったもの)が生まれてくるからである。
 (iii)〈自然〉という語は、「生成」(生長)という意味で語られるばあいがあるが、この意味での「自然」(おのずからなる生長)とは、まさにそのものの自然本性へ向かっての道程のことにほかならない。この語法は、たとえば「医療」という語が医療術に向かっての道程ではなく、健康に向かっての道程という意味で用いられるのとは、異なっているからである。つまり、「医療」は医療術から出発するものであって、医療術へと向かうものではないのが必然であるのに対して、「自然生長」の「自然本性」に対する関係はそうではない。生長するものは、それが生長の過程にあるかぎり、何かから何かへと進んでいるのであるが、それではいったい、この生長の過程から生じるものはなんであるのか。それは、それから出発するところのもの(質料)ではなく、それへと向かうところのもの(形相)でなければならない。とすれば、形相こそが自然本性である。
 なお、〈形相〉や〈自然〉という語は二義性をもっている。というのは、〈欠如態〉というものも、ある意味では一種の形相であるとみなすことができるからである。しかし、端的な意味での生成のばあいに、欠如態 ― つまり、積極的な形相に対立する状態 ― がそこにあるのかないのかという間題は、のちの課題としなければならない。




【註】
  1. たとえば寝椅子という技術の製品も、下へ落ちるという「動」の傾向をもっているが、しかしそれは、寝椅子がたまたま木材や石などの重い材料からできているかぎりでのことであって、寝椅子がまさに寝椅子であるかぎりにおいてもつのではない。[本文にもどる

  2. これがアリストテレスによる〈自然〉、の定義である。簡単にいえば、〈自然〉とは自然物における動と静止の始原(自然物をまさに自然物たらしめている当のもの)である、ということになる。この前後でいわれているような意味において(注(1)参照)、たとえば寝椅子にも「動の始原」が内属しているといえるけれども、それは直接的・自体的に(寝椅子が寝椅子であるかぎりにおいて)ではなく、付帯的に(たまたまそれが重い材料からできているという一種間接的な仕方で)内属しているだけである。したがって、それは自然物ではなく、この定義から除外される。 ― なお、文法的にも、「内属している」(ヒュバルケイ)の主語はむろん、あくまでも「動と静止の始原」であって、「自然」ではない。[本文にもどる

  3. 前五世紀のソフィスト。 ― なお、この前後で〈自然〉に関する例として寝椅子や銅像などの人工物があげられているのはおかしいが、一般にこの個所二九三a九)以後、〈自然〉の意床の重心が「本性」「本質」ということのほうへ移っている。そして、そのようなそれぞれの事物の「本性」「本質」をなすものが、質料(素材)であるか形相であるかが問われる。[本文にもどる


アリストテレス『自然学』



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