ユング『心理学的類型』、フロム『正気の社会』

発表者;池田和代、佐藤輝展、松原洋平


「心理学的類型」 ユング著

1 ジョルダンの類型の問題点、ユングの類型との相違点をどのように言っているか。

2 ユングが一般的な態度の類型と機能の類型と呼んでいるのはどのようなものか。

3 ユングは意識と無意識の関係をどのように区別しているか。

4 外向型(外向的態度)、内向型(内向的態度)とはどのようなものか。

5 ユングは外向的思考と内向的思考をどのように区別しているか。

6 フロイトの心理学やアドラーの心理学をどのような点から批判しているか。

7 機能の類型に関してユングは合理型(判断型)と非合理型をどのように分類しているか

8 ユングは矛盾する機能同士にはどのような関係がみられるといっているか

9  心的関係(ラポルト)とはなにか

10  ユングは自我と我の違いをどのように説明しているか

11  原始類型とはなにか。また原始類型と心理学的類型とはどのような関係にあると考えられる

12  外向的な人間は内向的な人間に対してどうような判断をすると述べているか

13  補助機能のはたす役割とは

14  ユングは類型をわける意義をどのように説明しているか

「正気の社会」フロム著

15 フロムは個人の病理と社会の病理をそれぞれどのようにとらえているか

16 動物と人間の違いをどのように考察しているか

17 人間の情熱や欲求を引き起こす原動力をフロイトはリビドーに見出しているが、フロムはどこにあるといっているか

18 フロムは愛情をどのようにいっているか

19 社会的性格とはなにか

20  疎外された状態とはどのような状態か


発表用レジメ

文責 1〜6 池田和代 7〜14 佐藤輝展 15〜20 松原洋平

ユング「心理学的類型」

1 ジョルダンの類型の問題点、ユングの類型との相違点をどのように言っているか。

 ジョルダンは心理学的類型の半分にしか目を止めていない。他の半分は直観型と感覚型という観点を他の観点と混同している。

 まず、活動的な人間と思考的な人間を対立させている。情熱の度合が少ないもの=活動的 情熱の度合の多いもの=非活動的といっているが、情熱の度合が少ないものでも非活動的な場合もあり、情熱の度合が多いものでも活動的な場合がある。これらのあやまちは感情面だけを考察の対象とし、無意識の内面生活という特性を強調する事を忘れている事によっておきている。意識を持った人間と無意識の人間を区別ができていない。また、自分自身の影(無意識)の認識不足により内向型に関する観察が正確にできなくなっている。

 ジョルダンの中間の類型=直観型と感覚型に解消されるべきである。(p85参照)

2 ユングが一般的な態度の類型と機能の類型と呼んでいるのはどのようなものか。

 一般的な態度の類型:内向的と外向的とに分けている。客体に対する関心又はリビドー運動にとって区別されるもの。内向型は客体に対して抽象的な態度をとり、外交型は逆に積極的な態度をとる。機能の類型:事態に適応したり進むべき方向を定めたりするときに最も際立って用いられる機能。思考型、感情型、感覚型、直観型に分けている。(p109参照)

3 ユングは意識と無意識の関係をどのように区別しているか。

 意識と無意識との関係は補償的なものである。たとえば外向型の人間は意識の態度では客観的なものが主導権を握る。たとえば、外向的な意識の態度によって抑圧されてきた主観的な欲求や要求が無意識の態度に現れる。(p118ーp119参照)

4 外向型(外向的態度)、内向型(内向的態度)とはどのようなものか。

 外向型 :客体によって運命が制約されている。
 内向型 :主体によってより多く制約されている。(P109参照)

5 ユングは外向的思考と内向的思考をどのように区別しているか。

 思考が外向的であるというのは現代広く認められる事である。科学や哲学や芸術などすべての思考は客体から直接うまれてくるか一般的な理念に合致しているかどちらかであり、外向的思考は客観的事

実や普遍的理念を目標としている。しかしユングは内向的思考というものも認めている。外向的な思考過程が客観的所与を向いているとしても、思考する主体というものがいる限り主観が入らざるを得ない。主なアクセントが主観のほうに重心がおかれると外向的思考とは別種の内向的思考が生まれる。内向的思考とは、主観的所与から出発して主観的理念に向かう思考である。(p125ー129参照)

6 フロイトの心理学やアドラーの心理学をどのような点から批判しているか。

 観察者として自分自身の個人的な心理を判断の基準としたり、観察の対象に押し付けたりしている。(p14参照)

7 機能の類型に関してユングは合理型(判断型)と非合理型をどのように分類しているか

 合理型の要約 P.146下

  私は上述した(外交的思考型および感情型の)二つのタイプを合理型ないしは判断型と呼んでいるが、それはこの二つが理性的判断機能が優位をしめているという特性を持っているからである。これら両者の一般的特徴は、その生命が高度に理性的判断の指揮下におかれていることにある。

 非合理型のまとめ P.160上

  私は上述した(外向的感覚型および直観型の)二つのタイプを非合理型と呼んでいるが、その理由はすでに説明したように、これらのタイプの挙措動作が理性の判断によらずに、知覚の絶対的な強度にも戸づいているからである。彼らの知覚は、判断によるいかなる選択にもしただおうとしない、ただ単純に生起したくる事柄に向けられている。

8 ユングは矛盾する機能同士にはどのような関係がみられるといっているか

 たとえば、思考とならんで感情が第二の機能として登場するなどということは、けっしてありえない。というわけは、感情の本質と思考の本質とははなはだしく矛盾するからである。思考は、もしもそれが自己の原理に忠実な真正の思考であろうとするならば、細心の注意をはらって感情を締めだすようにしなくてはならない。 P.204上

 たとえば主要機能としての思考が直観を、ないしは同様に感覚を副次的機能として、これと一対になることはあっても、さきにも言ったように、これが感情と結び付くことはけっしてない。 P.205下

9 心的関係(ラポルト)とはなにか

 ラポルトの本質をなしているのはなによりもまず、そこになんらかの相違は認められるにしても、ともかくある種の一致が存在しているという感情である。さまざまな相違の存在を認めるということも、それが共通の認識であるかぎりは、もちろんすでに一つのラポルトであり、一致の感情である。  P.162

10 ユングは自我と我の違いをどのように説明しているか

本来心理の根底をなしている主観、すなわち我は、自我にくらべてはるかに広大なものであって、我が無意識をも包括しているのに対して、自我は本質的には意識の中心をなしているにすぎない。 P.167

11 原始類型とはなにか。また原始類型と心理学的類型とはどのような関係にあると考えられるか

 原始類型は、象徴形式の一つであって、まだ意識的な概念が存在しないか、あるいは、内的ないしは外的理由によって、そういう概念をうることが不可能である場合には、いつでもその機能を発揮する。集合的無意識の諸内容は、意識の面では、様々な傾向や見解という形式ではっきりと代表される。 P.168

 「原始類型」は人類の記憶の沈殿物であって、たとえば神話的主題としてくりかえしあらわれてくるような表現を意味している。 P.533

12 外向的な人間は内向的な人間に対してどうような判断をすると述べているか

 外向型に人間にとっては、主観的な立場が客観的状況に優越するなどというのは、解きがたい謎なのである。外向型の人間にしてみれば、内向型の人間はうぬぼれの強いエゴイストか、独りよがりの夢想家なのだという推測に、どうしても到達しないわけにはいかない。  P.168下

13 補助機能のはたす役割とは

 さきに言った育成の過程(「すぐれて知性的な人間をつかまえて、その人の無意識をもとにしていきなり感情機能を育てあげよう」という過程)が副次的機能を経ておこなわれる場合、つまり合理型について言えば、それが非合理的な機能を経ておこなわれる場合には、無意識への、またもっとも抑圧されている機能への通路は、おのずから開けてくる。すなわち、この非合理機能は意識の立場に、将来ありうること、おこりうることについての見通しと展望とをあたえることから、意識はこれによって、無意識の破壊的な作用に対して十分身を守ることができるようになる。これとは反対に、非合理型の人間は、無意識の襲撃をうけとめられるだけの十分なそなえをしておくために、意識の代行をする合理補助機能をさらに強力に育成していく必要がある。 P.203

14 ユングは類型をわける意義をどのように説明しているか

 党派間の争いは、相手の個人的な装備のもつ欠陥をねらうという仕方で、純外面的におこなわれるのが通例である。このような争いからは通常、たいした収穫は望めない。これにくらべてはるかに重大な価値があると思われるのは、この対立が元来どこから生じてきたものであるにしても、これを心理的な領域へ移してみることである。このような転移をおこなってみると、さまざまな心理的態度というものがあって、それらのいずれについても、もしこれが存在しているとするとさまざまな両立しがたい理論を立てざるをえないことになるが、それでもそれらはいずれも存在を主張する権利をもっているのだ、ということがじきにあきらかになってくるだろう。外面的な妥協を計ることで争いを調停しようとするかぎり、いまだかつって原理的な事柄に熱中できたためしのない浅薄な頭脳の持主たちのひかえめな要求を、せいぜい満足させるだけのことである。しかし私の考えでは、心理的前提条件の相違が承認された場合にだけ、真の了解が達成されるのである。  P.208上L3-最後からL2まで

★他の重要な箇所
P.208下L10-〜209上L3 P.210上L4-L9
P.211上L7-L12 P.215下L5-216L9

●フロム「正気の社会」

15 フロムは個人の病理と社会の病理をそれぞれどのようにとらえているか

「正気の社会」の第1章は「われわれは正気か?」である。われわれは自分自身を正気であると判断するとき、あるいはだれかを正気ではないと決めつけるとき、いったいなにを基準にしているのであろうか。社会生活が送れないとき、たとえば何かを触ってしまったことが気になって1時間以上も石鹸で手を洗わなければ気が済まなくなってしまったら、われわれは正気の枠から出てしまったことになる。それは、つまり社会に適応しているのか否かの一点にかかっている。こうした個人の病理に対してフロムは「社会が全体として正気でないことがある」という考えを提出する。極端な例をあげれば社会の大部分の成員が1時間以上も手を洗うのならば、それは「社会的に規定された欠陥現象」ということになる。たしかにそうした社会があったとしたら重度の潔癖症患者は正気のままである。

第2章の「病的な社会とは?―常態における病理」のなかで、フロムはこうした社会的につくられた欠陥の問題を指摘し、これを社会的な病理として、「自由と自発性がすべてのひとのめざす客観的な目標である以上、もしある人間が、自由と自発性とのいつわらざる自己表現ができなくなったばあい、かれは、ひどい欠陥をもっているとみなされていい。もし特定の社会の大部分の成員が、こういう目標を達成できないとしたら、これは、社会的に規定された欠陥現象だということになる」と述べている(p238)。しかしここで問題になるのは社会にとっていったい何が正気で何が正気でないのかという判断である。何をもって「正気の社会」というのか。フロムはフロイトの「社会神経症」の概念をうけて(p242)、次のように述べる。「正気の社会とは、人間の欲求に一致した社会、すなわち、人間が、自己の欲求と感ずるものに必ずしも一致するのではなくて―というのは、もっとも病的な目的さえも、主観的には当人がもっとも欲するのもと感ぜられるから―、人間の研究によって確認されうる客観的な欲求に一致して社会であるという考えにもとづいている」(p243)つづく第3章「人間の状況―人間主義的な精神分析への鍵」ではその人間の研究がくりひろげられる。

16 動物と人間の違いをどのように考察しているか

端的にのべれば、動物は自然に生かされており、人間は自然にうちかった動物であるといえる。フロムは動物を「自然の生物学的諸法則にしたがって「生かしてもらっている」。つまり、動物は、自然の一部分なのであって、自然を越えることは決してない」(p244)と捉えている。また、続く段落では「動物の存在というものは、動物と自然との間にできたある種の調和のあらわれである。だが、それは、自然の諸条件がしばしば動物を脅かし、生存のためのきびしい闘争を動物に強いることがないという意味ではもちろんない。(中略) 動物が、遭遇する条件そのものに適応するすべを、生まれながらにそなえているという意味においてである」(p242)と述べている。

これに対して「動物が自然にうちかったとき、それが被造物のもつまったく受け身的な役割にうちかったとき、生物学的にいえば、それがもっとも無力な動物となったとき、人間が生ずる」(p242)と指摘し、「人間の一生は、その種族の生活様式をくりかえすことで「生かしてもらう」というわけにはいかない。人間はみずから生きなければならない」(p245)と人間の特殊性を説明する。そしてフロムは「自分の存在をみずから解決すべき問題であるとして、この問題からのがれることはできないことに気づく動物は、人間だけである。人間は、かつて自然と調和していた人間以前の状態にはもどるわけにはいかない。つまり、人間は、その理性を発達させて自然をも、自分自身をも支配できるようになるまで前進しなければならない」(p245)という人間の存在の問題を導く。

17 人間の情熱や欲求を引き起こす原動力をフロイトはリビドーに見出しているが、フロムはどこにあるといっているか

「人間の情熱や欲求をひき起こす原動力を探求したフロイトは、それをリビドーに見いだした。だが、性欲や性欲の派生物はすべて有力ではあるが、それらはけっして人間内部の最強の力ではなく、性欲の欲求不満が精神障害の原因でもない。人間の行動をひき起こすもっとも強い力は、人間の存在条件、つまり「人間の状況」から生ずる」(p249)。ではこの人間の情熱や欲求を引き起こす原動力としてフロムがあげている「人間の存在条件、つまり人間の状況」といっているのはどういうことであろうか。

またそれがどうして原動力となりうるのか。

具体的には次のように説明している。「人間の実存にひそむもろもろの矛盾にたいして、いつも新しい解決を見だし、自然とも仲間とも、自分自身とも、いつも高度の調和のかたちを見いださねばならないという必要性は、人間のあらゆる情熱や愛情や不安をひき起こすすべての精神力の源泉なのである」(pp246-247)。つづく箇所では、動物のように飢えや乾きといった生理的欲求は同様にさけられないとしたうえで、「しかし、人間が人間であるかぎり、こういう本能的な欲求を満足させるだけでは、人間を幸福にするのに十分ではない。いや、人間を正気にするのさえ十分ではない。人間の力動学にかんするアルキメデス的な特徴は、人間のこの特殊性にある。人間の精神の理解は、人間の存在にもとづく人間の諸欲求を分析することに基礎をおかなければならない」と述べている(p247)。また人間の抱える矛盾的な要素として人間は2つの対立する傾向から脱却できないとして、「一方では、子宮からぬけだし、動物的な存在形態からぬけだしてもっと人間的な存在になり、束縛からぬけだして自由を求める傾向にあり、他方では、子宮にもどり、自然にもどり、確実さと安全さにもどろうとする傾向がある」(p248)と考察する。

こうした点からフロムは「人間のもつ最高の情熱や欲求は、からだに根ざすものではなくて、まさに人間存在の特殊性に根ざしている」(p249)と結論づける。また、そこに人間主義的な精神分析の鍵があると考えている。フロムはフロイトが人間の情熱の生理学的基礎をリビドーに見出したのは、「すべてのおもな精神現象は、それ相当の生理学的ないし身体的な過程に根ざしている〔それに起因する〕にちがいないと仮定した19世紀の唯物論の哲学的な前提にたって」(p285)考えた結果であると考察する。そして唯物論では、「関係づけや、克服などをもとめる欲求に対応するような生理学的基礎はない」として「その基礎は身体的な基礎ではなくて、世界や自然や人間との相互作用における人間の全体的なパーソナリティーである。つまりそれは、人間存在の諸条件から生ずる人間的な人生の実践である」(p285)と人間主義的な精神分析学の考えを述べている。

18 フロムは愛情をどのようにいっているか

「自分を世界と結びつけ、しかも同時に、統合感と個別感を得ようとする人間の欲求を満たす唯一の情熱がある。それがすなわち、愛情である」、またはその直後に言い換えて「愛情とは、自分自身は切りはなされ独立したままで、自分以外のだれか、なにものかと結ばれることである」(p252)とフロムは述べている。そして「愛することによって、「わたしはあなたである」という経験をする。このあなたとは愛する人間であり、他人であり、生きとし生けるものである。愛情を経験することにのみ人間らしいあり方の唯一の答えがあり、ここに正気がある」(p253)と、いわば正気の基準となるような評価を愛情に与えている。

読書案内の17でもふれたようにフロムは人間の欲求や情熱は人間の存在から生ずると考えている。愛情の定義はこうした欲求や情熱とそれを生み出す人間の状況とから導き出されている。こうした手続きを踏むことでフロムは「愛情の経験が人間らしく生きることのただひとつの解答である」と言い切り、客観的にそれが人間の目標であると位置づけているのだ。またフロムは「何を愛するのか」という対象よりも「どのように愛するのか」という愛情の性質のほうが大切であるとも述べており(p252)、こうした愛情の議論を展開している。

19 社会的性格とはなにか

「同じ文化に属しながらめいめいがたがいに異なっているという意味での個性」に

対比して、フロムは社会的性格を「同じ文化の大部分の成員が共有している性格構造の核心の意味で用いる」と定義する(p292)。また、その直前ではこうした「社会的性格」を想定することが現代人の精神の健康と正気を判断するよりどころとなりうると述べている。つまりフロムは「社会的性格」によって話がぐるぐると回ってしまうことを防ごうとしたのである。「社会」の仕組みをそこに生きる「人間」との関係から捉えようと試みる。しかし「人間」が「社会」によって規定される部分を無視することはできない。そのため「社会」を捉えようとして「人間」を持ち出したはずが「人間」を捉えるために「社会」を捉える必要が出てきて結局はぐるぐると困ってしまう。だから、たとえば経済学では「人間」を「お金を稼いで消費して、求めるのは効用」と考えて出発するのだし、フロムの場合は「人間」の「社会的性格」に着目したのである。

その「社会的性格」のはたらきをフロムは「特定の社会の人間のエネルギーを、この社会が持続してはたらくように型にはめ動かす」と説明する。さらに「現代の産業社会における高度に分化した仕事」のもとでは「労働、几帳面さ、整頓にたいする必要性は、こういう目的を求める内的な衝動に変化せざるをえなかった」と分析し、「このことは、社会がこういう衝動を生まれつきのものだとする社会的性格をつくりださざるをえなかったことを意味する」という(p293)。そのようにして第5章「 資本主義における人間」ははじまる。

20  疎外された状態とはどのような状態

序文のなかでフロムは次のように述べている。「本書『正気の社会』で、わたしは、二十世紀の民主主義における生活も、多くの点で、別の形の自由から逃走であることを示そうとこころみた。したがって、疎外という概念で要約されるこの特殊な逃走の分析が、本書の主要部分をなしている」(p224)。「自由からの逃走」について解説では「『・・・・・・からの自由』の重荷に耐えられず、『・・・・・・への自由』へと進むこともできないとすれば、けっきょくは自由から逃れるほかはない」(p64)といっている。社会をつくることで自然からの自由を人間は手にいれることができた。しかし、現在も人間はその社会のなかで次の段階に進むことができずに、やがて「自由からの逃走」をはじめてしまった。このような社会をフロムは「疎外」という概念を用いて分析している。

人間は自然から自由になろうとしてさまざまなものを作り上げた。その結果、たしかに自然を征服してしまったと誤解するほど自然からは自由になった。しかし、今度は自然にかわって自らつくりだしたさまざまな人工物によって支配されてしまった。神様は偶像にかわり、労働は機械に主役の座をゆずり、科学においては「抽象化・数量化」によって人間が自分自身のからだで感じとれる以上のものを扱うことが可能になった。実際にはみることもできないものも、そのなかに身を置くことのできないような場所のことも、把握できないほど大きなものも、小さなものも、人間の科学の対象である。具体的に人間とは関係づけることができないものであり、具体的な経験の可能な領域を逸脱してしまっている。第5章ではさまざまな角度から「疎外された社会」を考察している。「疎外とは、人間が自分自身を例外者として経験する経験様式を意味する」(p326)。


講義録

担当:大木 竜児

レジュメの進行について 以下の3部構成

(1)近代科学批判としてのユング・フロム
(2) ユング・フロムの立場
(3) 近代科学の歴史と争点: 「データ集め→仮説→検証」に対する批判を意識して

ユング

1「外向的思考と内向的思考」の区別

外向的思考:一般的な思考の概念、客体から発生、一般的理念に合致(近代科学の手法)
内向的思考:主体から発生(読書案内12、内向性への偏見・・・エゴイズムetc)

(読書案内5)「ユングは外向的思考と内向的思考をどのように区別しているか」

思考が外向的であるというのは現代広く認められることである。科学や哲学や芸術などすべての思考は客体から直接生まれてくるか一般的な理念に合致しているかどちらかであり、外向的思考は客観的事実や普遍的理念を目標としている。しかしユングは内向的思考というものも認めている。外向的な思考過程が客観的所与を向いているとしても、思考する主体というものがいる限り主観が入らざるをえない。主なアクセントが主観の方におかれると外向的思考とは別種の内向的思考が生まれる。内向的思考とは、主観的所与から出発して主観的理念に向かう思考である。 (本書参照p125ー129)

2「主体は一にして同一であるという仮定」に対する批判

(本書p210上段)人間の心理は同質であるということを前提としているわけだが、これは、自然は一にして同一であると言う前提を基礎とする、あらゆる自然科学的理論からの類推によるのである。しかし心理学については、心的過程は概念構成上の客体であるばかりでなく同時に主体であるという、特殊な事情が存在している。ところで、もしもあらゆる個別的なケースを通じて主体が一にして同一であると仮定するならば、概念構成を行う主体的過程もまたあらゆる場合に一にして同一であると仮定していいことになる。しかし、事実がそうでないということは、複雑な心的過程の本質について種々雑多な見解が存在しているということからも、きわめて鮮やかに証明される。

無意識領域内での知識の共有(原始類型の同質性)はあるが、主体を源とする心的過程の普遍性はない。

●フロム「疎外された科学」

科学が解明した答えと、実際の認識との間に隔絶がある。ー疎外されている。(本書参照p324)

科学は人間が人間を知ろうとして(幸福を求めて)発展してきた。しかし、成功したとはいえない。つまり、科学的手法だけでは、人間は幸福にはなれない。

(読書案内20)「疎外された状態とはどのような状態か」

・20世紀の民主主義における生活も、多くの点で、別の形の自由からの逃走=疎外

・社会を作ることで自然からの自由を人間は手に入れることができた。しかし、現在も人間はその社会の中で次の段階に進むことができずに、やがて「自由からの逃走」を始めてしまった。=疎外された社会

・<自然→人工物、神様→偶像、労働→機械、科学:体で感じ測る→抽象化、数量化できるあらゆる領域>という変化は、人間が具体的に関係づけることができる対象から具体的な経験の不可能な領域への移行である。

・「疎外とは、人間が自分自身を例外者として経験する経験様式を意味する」

「ユング、フロムの立場」

●ユング

「一般的態度の類型と機能の類型」

心理の捉え方:内向と外向+合理型と非合理型

* 内向と外向(本書p28参照)

(読書案内4)「外向型(外向的態度)、内向型(内向的態度)とはどのようなものか」

外向型:客体によって運命が制約されている。 内向型:主体によってより多く制約されている。

鎌田先生コメント→内向と外向はユングにとって適応の問題と関わりをもってくる。(本書p111参照)

花を見て見とれていたら外向、その花を摘んだら内向

* 合理と非合理

合理(判断型)・思考:一般的理性 非合理(知覚型)・感覚:物事に価値付けしない

・感情:好き嫌い ・直感:原始類型、万有引力の発見

(読書案内2)「ユングが一般的な態度の類型と機能の類型と呼んでいるのはどのようなものか」

一般的な態度の類型:内向的と外向的とに分けている。客体に対する関心又はリビドー運動にとって区別されるもの。内向型は客体に対して抽象的な態度をとり、外向的は逆に積極的な態度をとる。

機能の類型:自体に適応したり進むべき方向を定めたりするのに最も際立って用いられる機能。思考型、感情型、感覚型、直感型に分けている。

合理型では思考か感情のどちらか、非合理型では感覚か直感のどちらかがそれぞれ選ばれる。選ばれなかった機能は抑圧される。さらに、その上で、個人は合理型か非合理型かの選択をする。選ばれたタイプは、主要機能として働き、選ばれなかった一方は副次的機能して働く。

(読書案内8)「ユングは矛盾する機能同士にはどのような関係が見られるといっているか」

たとえば、思考と並んで感情が第二の機能として登場するなどということは、決してありえない。というわけは、感情の本質と思考の本質とははなはなだしく矛盾するからである。思考は、もしもそれが自己の原理に忠実な真正の思考であろうとするならば、細心の注意を払って感情を締め出すようにしなくてはならない。p204上

たとえば主要機能としての思考が直感を、ないしは同様に感覚を副次的機能として、これと一対になることはあっても、先にも言ったように、これが感情と結びつくことは決してない。p205下

「心理学的類型に分ける意義」

(読書案内14)「ユングは類型を分ける意義をどのように説明しているか」

党派間の争いは、相手の個人的な装備の持つ欠陥をねらうという仕方で、順外面的に行われるのが通例である。このような争いからは通常、たいした収穫は望めない。これに比べてはるかに重大な価値があると思われるのは、この対立が元来どこから生じてきたものであるにしても、これを心理的な領域へ移してみることである。このような転移を行ってみると、様々な心理的態度というものがあって、それらのいずれについても、もしこれが存在しているとすると様々な両立しがたい理論を立てざるをえないことになるが、それでもそれらはいずれも存在を主張する権利を持っているのだ、ということがじきに明らかになって来るだろう。外面的な妥協を図ることで争いを調停しようとする限り、いまだかつて原理的な事柄に熱中できたためしもないあさはかな頭脳の持ち主たちの控えめな要求を、せいぜい満足させるだけのことである。しかし私の考えでは、心理的前提条件の相違が承認された場合にだけ、真の了解が達成されるのである。 p208上L3最後からL2まで

互いの類型の相違を認識せずに社会科学の議論をしても実りがない。無用の争いが起こる。

→(読書案内12)「外向的な人間は内向的な人間に対してどのような判断をすると述べているか」

外向型人間にとっては、主観的な立場が客観的状況に優越するなどというのは、解き難い謎なのである。外向型の人間にしてみれば、内向型の人間はうぬぼれの強いエゴイストか、一人よがりの夢想家なだという推測に、どうしても到達しないわけにはいかない。 p168下

内向型人間は反抗する正当な理由を持っていない。彼らの言わんとして言えないものは、普遍妥当的な知識の沈殿物ともいうべきもの。原始類型=集合的無意識。原始類型(非合理機能の根拠)が意識されたものが心理学的類型。

(読書案内9)「心的関係(ラポルト)」とはなにか

ラポルトの本質をなしているのは何よりもまず、そこに何らかの相違は認められるにしても、ともかくある種の一致が存在している問いう感情である。様々な相違の存在を認めるということも、それが共通の認識である限りは、もちろんすでに1つのラポルトであり、一致の感情である。 p162

合理型人間と非合理型人間は互いを取り違いしている。誤解しあっている。他の類型の存在を認めることにより、他人には他の行動の根拠があるのだということが分かる。

●フロム

疎外という概念がキーワード

(例)偏差値:学習の経過ではなく、結果を数字という型にあてはめている。
←→「人間主義」:人間は物事に自分自身を関係づける(動物とは違う)という存在条件から発する。

しかし、自然を克服してしまった。社会という機構を作ってしまった。(読書案内20)

→(読書案内21)「社会の無意識に抑圧されている機能、あるいは人間の心の欲求をフロイトとユングとフロムはそれぞれどのように表現しているか。」

フロムの見解:(本書参照p285)人間の行動と仲間や自然との相互作用を、人間研究の基本的な経験の資料とみなす前提である

フロイトの見解:リビドーが、元々備わっているものだ。19世紀唯物論的。

ユングの見解:唯物論的思考を批判→原始類型。しかし原始類型は備わっている(本書参照p167)。フロイトと同じように本能的で、本来持っているものとした。