デュルケム「自殺論」、ジンメル「社会的分化論」

担当:吉良敦岐 志摩健治 橋爪尚子


デュルケム「自殺論」

★ともに自殺を禁じるプロテスタントとカトリックの二者間に自殺者の割合の乖離が存在する理由を述べよ。

★(自殺)抑止率とは何か

★子供、老人、動物、女子にはなぜ自殺が少ないのか?(自殺がないのか?)

★デュルケムは、社会が個人に優越した唯一の道徳的権威だと述べているが、それはなぜか?そしてその権威はどのようなものでなければならないとのべているか。

★下の表を埋めて下さい。

  自己本位的自殺 集団本位的自殺 アノミー的自殺
どのような自殺か      
なぜ自殺がおきるのか      
具体例      

★ケトレも統計を分析し平均的タイプを使って社会を捉えようとしたが、デュルケムは集合的タイプを持ち出し彼の方法を批判している。その相違点は何か?

★自殺と殺人が同一の源泉を持ち、一方の衰退は他方の優勢と同義であるとする主張は正しいか。

★デュルケムは自殺についてどのように考えているか?

★デュルケムは自殺をどのように回避していけばよいといっているか。


発表用レジュメ

担当:吉良敦岐 志摩健治 橋爪尚子

★ともに自殺を禁じるプロテスタントとカトリックの二者間に自殺者の割合の乖離が存在する理由を述べよ。

→カトリシズムとプロテスタンティズムの間のただ一つの本質的な相違は、後者のほうが、前者より相当広範囲の自由検討を認めているという点にある。(p96)

→宗教社会では、人々は同一の教義体系に結び付くことによってはじめて社会化されるのであり、この教義体系がより広汎でしかも強固であればあるほど、人々はよりよく社会化される。宗教的性格を帯びた、それだけにまた自由検討に反するような行動様式や思考様式が数多く存在すればするほど、いっそう神の観念は生活のすみずみまで行きわたり、それによって、個々人の意志もただ一つの同じ目的に集中するようになる。反対に、宗教団体が、個人の判断にすべてをゆだねていればいるほど、それだけ個人の生活にたいする支配が欠け、集団としての凝集性も活気も失われてくる。そこで、つ儀のよう泣ける論に達する。すなわち、プロテスタティズムのほうに自殺の多い理由は、プロテスタントの教会がカトリック教会ほど強力に統合されていないからである。(p99)

★(自殺)抑止率とは何か

「この用語がしめている数字は、ある集団の自殺率が考察中の同年齢の他の集団の自殺の何分の一くらいにあたるかを表している・・・抑止率が一以下に下がるときには、それは実際には促進率に転ずることになる」 P188下

★子供、老人、動物、女子にはなぜ自殺が少ないのか?(自殺がないのか?)

→自殺が子供には例外的であること、最高齢の老人の自殺が減少することは既に明らかにされているが、その理由は、子供においても老人においても、物理的人間がふたたびそろぞれの全体を占める傾向にあるということによる。子供はまだ社会によって型通りに形成さていないため、その中には社会がいまだ不在である。また、老人においては社会が後退しはじめる。あるいは同じことだが、老人が社会から後退していくともいえる。その結果、子供や老人は一層自己充足的存在となっている。彼らは、自分以外の何かほかの存在によって満たされたいという欲求を持たないから、それだけ、生きるために必要なものを欠く恐れもないわけである。動物に自殺の免疫がある理由も、これとまったく変わらない。(p164)

→女子がこの(自殺が少ないという)特権を享有しているのは、、その感受性が特に発達しているためではなく、むしろ未発達なままにとどまっているためである。女子は男子よりも共同生活の圏外にいることが多いので、彼女達のなかには共同生活がそれ程深く浸透していないわけで、この社会性の浸透度の低さゆえに、女子にとっては社会の必要性も少ないということである。(p165)

★デュルケムは、社会が個人に優越した唯一の道徳的権威だと述べているが、それはなぜか?そしてその権威はどのようなものでなければならないとのべているか。

 当時、「人間は物理的な人間と社会的な人間という二重の存在である」ということが一般にいわれていたみたいである(P161上参照)。そこからデュルケムは以下のように社会の定義に対して敷衍していく。「社会的人間は必ず社会の存在を前提とする。彼が表現し役立とうする社会を。ところが、社会の統合が弱まり、我々の周囲や我々の上に、もはや生き生きとした活動的な社会の姿を感ずることができなくなると、我々の内部に潜む社会的なものも、客観的根拠をすっかり失ってしまう。・・・すなわち我々の行為の目的となりうるようなものが消滅してしまうのである。ところが、この社会的人間とは、実は文明人に他ならない。社会的人間があることが、まさに彼らの生を価値あるものにしてきたのである(P161)」つまり、私たちは文明人のため既に社会的影響から逃れられない、社会的影響を否定するということは死に値するということではないだろうか。

 次に以下の部分を参照してみよう。「だから人々は尊敬し、自発的に服従しているある権力から、この法を与えられなければならないのである。そして、ただ社会だけが、ある時は直接的に、全体的に、またある時にはその諸器官の一つを媒介にして、この規制的役割を果たすことができる。(P206上)」したがって、彼は社会は「人々が自発的に尊敬し、服従している」ものとしており、したがって彼は社会が唯一の道徳的権威だと述べたのである。

 その社会的な権威についてデュルケムの見解は以下の通りである「私が、集合的秩序を各個人に課するためにはある権威が必要だといったのは、なにも暴力が秩序を確立するための唯一の手段だという意味ではない。その規制は、個人の情念を抑制することを目的とする以上、個人を支配する権力から導かれるものでなければならないが、しかし、その権力への服従が、恐怖からではなく尊敬の念からなされることが同じく必要だということである。(P209下)」それにつけ加えて「社会だけが共同の利益を最大限にはかりながら、将来各種の官吏にどれだけの手当を与えるべきかをみつもることができる」と述べているが、前回勉強したフロムの「正気の社会」を思い出してほしい。もし、社会が正気でなかったら・・・デュルケムのいっていることは少々危険性を帯びてくるだろう。P311では「歴史の発端においては、社会がすべてであり、個人は無に等しい。それゆえ最も強力な社会的感情は、個人を集合体に結びつける感情であり、集合体はそれ自身にとっての固有の目的である。」と述べているが・・・・ますます危険。まさにファシズムと紙一重ですね。                   

★下の表を埋めて下さい。

 この部分は沢山の所で参照できる。一番わかりやすいのはP261の表であろう。文章でわかりやすいのは、解説とP218のものだと思われる。ここではP218の解説をまとめておく。

  自己本位的自殺 集団本位的自殺 アノミー的自殺
どのような自殺か 人々がもはや自分の生にその存在理由をみとめることができないところから発生。 生の存在理由がそのものの外部にあるかのように感じることから始まる。 人間の活動が無規則的になり、それによって彼らが苦悩をおわされているところから生じる。
なぜ自殺がおきるのか 人間が社会から分断された状態になり、集合的エネルギーが失われるから。 集団から自殺する義務を課せられるから 一般的にはある社会が突然の危機にみまわれ、無規制状態におちいるから。
具体例 ・プロテスタント
・ラマルティーヌのラファエル
・軍隊
・カトー・ボールベール少佐
・ウェルテル
・シャトーブリアンのルネ

★ケトレも統計を分析し平均的タイプを使って社会を捉えようとしたが、デュルケムは集合的タイプを持ち出し彼の方法を批判している。その相違点は何か?

 ケトレの平均タイプと、いわゆる現在でも使われている「平均」である。つまりすべての人間を足して、人数で割ったものが「平均タイプ」ということができる(P268参照)。この「平均タイプ」に対してデュルケムはいかほどの意味があるのかと反論する。その根拠は「社会的環境というものは、もともと共通の観念、信仰、習慣、傾向などから成り立っている。だから、それらがこのように個人の中に浸透しうるためには、いわば個人から独立して存在してなければならない(P269上)」である。ここに心理学からでは分析できない集団の心理状況というものが見つけだされ、社会学が学問として発展していったのではないだろうか。

 また、デュルケムは序文の中でいかのように述べている「こうして得られた全体は単なる個々の単位の総和、すなわち寄せ集められた自殺の和ではなく、それ自体が一種独特の新しい事実を構成していることが認められる(P66下)」ここでも明らかにケトレの平均タイプを批判しており、デュルケムはこの「一種の新しい事実」を社会学の研究対象にしようというわけである。

★自殺と殺人が同一の源泉を持ち、一方の衰退は他方の優勢と同義であるとする主張は正しいか。                                         

→自殺と殺人はあるときは共存関係にあり、あるときは互いに排除しあうような関係にある。(p333)

これは自殺には種類があり、あるものは殺人と類縁関係にあるが、あるものは殺人と相容れないものであるからである。

−自己本意的自殺−

 殺人は激情という自己本意的自殺を引き起こす条件とは全く反対のものに基づく。強固な社会が有する集合的状態の強さは自己本意的自殺の減退をもたらす一方、殺人を生みやすい土壌となる。

−集団本意的自殺−

 集団本意的自殺を生むような社会では個人の生に重きをおかない。この事も殺人を生む土壌となっている。しかし、このような状況もかつての未開社会や、軍隊ではよく見られたが、現在にはあてはめにくい。

−アノミー的自殺−

 自己本意的自殺は殺人とは発生する土壌を異にするし、集団本意的自殺も現在ではそれを生むような状況は認めにくい。それでも現在殺人と自殺がともにその数を増やしているのは、アノミー的自殺が現代的な自殺の形態だからである。アノミーは怒りや疲れを生み出すが、これが本人に向けられるか、他人に向けられるかにより現象が自殺又は殺人に変化する。

当時の社会では…

大都市や高度な文化地区では殺人と自殺がともに増加の傾向にあった。しかし、一般的には殺人は自殺と反比例関係にあることが多かった。なぜならば、アノミー的自殺は産業、商業的に発展を遂げた地域にのみ見られるのにたいし、自己本意的自殺は広範に起こり得るからである。

★デュルケムは自殺についてどのように考えているか?

 自殺が厳禁される原因になったのはキリスト教の成立のようである。また、イスラム教社会、古代ギリシャでもキリスト教社会に劣らず自殺は厳禁であったようだ。

当時の社会の中には「自殺が禁止されるのは、また禁止されなければならないのは、人が自殺によって社会への義務を免れてしまうからである(P306)」という通常概念があったようだ。

 デュルケムは未開社会のように個人は集団のために存在するとまでは述べていない。そして都市国家では「個人には社会的価値が認められてきた。しかし、この価値は国家に帰順するものと考えられてきた(P307下)」ところが、現在では宗教が人間を支配しているのではなく、個人が宗教性を帯びてきたのである。したがって「人に対して加えられる侵犯は、われわれにとってすべて神の冒涜という結果を生む。ところで自殺もその一つである。・・・自殺は、我々の中にあるこの神聖な性質ー他人のそればかりではなく、自らのうちなるそれをも尊重しなければならない、そうした性質ーを侵犯するということだけでも、嫌悪を招くのである。つまり、自殺は我々の道徳のすべての基礎をなしている人格的尊重の精神を傷つけるために非難されるというわけである。(P307〜P308)」というような結論が導き出される。デュルケムがいう道徳とは、デュルケム自身が考えて行き着くものより遠く離れた、社会にまさに存在している、そして社会のバランスを崩さないことが道徳の基本なのである

★デュルケムは自殺をどのように回避していけばよいといっているか。

 デュルケムは数々の考察の結果、「私も自殺に対する現在の寛容は行きすぎていると思う。自殺は道徳に反するものであるから、さらに強く、さらに厳しく責められてしかるべきであろうし、しかもその非難は、外部的な明確なしるし、すなわち刑罰によって表現されなければなるまい(P352下)」と述べている。彼は、結局のところ自殺に対して法的処置をとることを断念したが、「われわれみずからが、自殺というものの反道徳性をほとんど感じていない(P354上)」からであった。では、道徳心を強める「教育」を推進してはどうであろうか?これもまた、役に立たないと彼は述べている。「社会が改革されないかぎり、教育の改革も行われえない(P356上)」からであろう。最終的に彼は「人々に自殺に対してより厳格にさせる唯一の方法は、あの悲観的な流れに直接働きかけて、それを正常な川底に引き戻し、そこに押し止めること、そして一般の人々の意識をその影響から免れさせ、健康を回復させることにおいてほかならない(P354下)」と結論づけた。

 彼は自殺の3つの原因のうち、集団本位的自殺は主に未開社会に残るのみと考えこれは除外した。残りの、自己本位的自殺、アノミー的自殺についての解決法として「同業組合」の再興を提案している。これは公的に承認された機関でありながら国の上に立つ権力機関であり、それでいて国家の影響に従うものとしている(P364〜P365)。この結果、個々は分断されず集団化されることによって、集団から目標が与えられ、安定した状態になるのである。

 これらの方法を採っても解決できない、夫婦のアノミーから生まれる自殺である。これに関して彼は「女子は社会の中で現在よりももっと重要な役割を、もっぱら女子だけに果たせる役割として、持つことができるかもしれない(P371)」と述べ、男女を同じ状況に置くことにより(女子を社会に参加させることにより)、この手の自殺が減少するのではないかと述べている。この後、彼は「法的な男女平等」の成立について難色を示しているが、これは彼が「法律を変えたら社会が変わる」と考えていたのではなく、「法律は社会を見て作られる」と考えていたからであろう。

「まとめ」

 デュルケム・ジンメルの社会学が、当時の科学に与えたものは、おそらく「客観性」に対する新しい認識であろう。それまでの科学は客観性というものが常に問題になっていた。その客観性とは、一人の人間が今この場で見て確認できるものでないといけないのである。したがって科学で証明されるものは、その研究者一代限りで証明され、完成するものでないといけないなかった。ところが、デュルケムは「自殺論」序文において「社会学はなんら客観的なものに到達することはできない」(P53下参照)といっている。デュルケムがこのように書いた真意は、科学の本質は客観性ではなく、『伝達可能性』『連続性』にあると考えていたからであろう。デュルケムは科学の本質を連続性に求めたところまでは良かったが、研究のデータを統計に求めたため「社会内部に連続的に存在する法則」を見つけたというよりも、現状分析に限定されるような社会学を作り上げたといえる。したがって、デュルケムの社会学は「時間的に切断された社会学」ということができる。もちろん、その切断されたものをつなぎ合わせることによって、デュルケム的な社会学からでも動的な営みは見えてくるのであるが、データの蓄積によって因果関係が見えてくるとは思えない。

 ジンメルはその点、社会学を動的な営みの中で捉えようとした。彼の打ち出した理論は「分化」の理論であり、原初的な人間社会では人間は集団に所属することによって生き、個性というものを持たなかったが、社会が分化していくにしたがって、人間はいろいろな社会圏と関わり、その相関関係において人間は個性を生み出すとしている。そして、分化を統合して個性を生み出した個人は、また別の社会圏と関わっていくため、統合された個人は分化された一つの社会圏となる。こうして常に個人と社会がフィードバックされる関係にあるため、ジンメルの社会学理論はデュルケムに比べて動的なのである。

 ジンメルは序論の要約において、形而上学的な問題には一般の科学的方法が持つ一義性は存在しないと述べている。つまり、誤りはデータの内容を一義的に解釈しようとするから問題になるのであって、いわば客観的データの内容に問題があるのではなく、判断を強調しすぎるために誤りがおきるのだと述べているのである。ここはジンメルにおいて少々解釈が進んのところではないか。しかしながら、これまでのゼミで行った答弁において、科学が持つ方法論でも一義性に到達できないことは明らかになったであろう。また、ジンメルは社会圏の交錯によって個性が生まれるということを強調するあまり「人格は、もともとはたんに無数の社会的な糸の交錯する点にすぎない。つまりそれは、たださまざまな圏と適応期から伝えられたものの結果にすぎないのである。だがそれは、種属的諸要素がその人格の中で一緒になる場合の量と組み合わせの特殊性によって、個性となるのである」(P489上)とのべている。ジンメルは確かに相関関係の社会学ではあるが、これを読むと「まず、社会ありき」ということが明確になるであろう。ここでも社会に働きかける主体と言うものが軽視されているように感じるのである。このように社会学の分野でも「主観」と「客観」の問題は大問題なのである。


講義録

担当:佐藤輝展、西沢真則

 前回は、デュルケーム・ジンメルの社会学を概観した。彼らの特徴として上げることができるのは、まず、研究の対象として、集団を扱うということだった。デュルケームの自殺論では、自殺には三つのタイプがあるということだった。それらは自己本位的自殺・集団本意的自殺・アノミー的自殺である。自己本位的自殺は、内面を向くことにより人間が社会からあまりにも離れてしまい起こる自殺である。集団本意的自殺とは、前者とは異なり、集団の結束があまりにも強いため起こる自殺である。最後にアノミー的自殺は、社会が混乱に陥ったり、集団をまとまりとした状態が崩壊したときに起こる自殺現象である。これらを見てもわかるように、いずれも自殺は社会的な行為で個人の判断によって遂行されない。  デュルケームには興味深い点がいくつかあるが、そのうちの一つとして、夫婦間のアノミー的自殺を上げることができるができる。これをめぐってデュルケームは平等な社会参加を考えているように思われた。  ジンメルに関しては、多くはいえないが、とりあえず社会学の形式について整備した人だろう。話しにあがったのは、集団が構成され、そして分化するということが上げられる。また、ある社会圏と別の社会圏が交錯するところに新しい分化が生じるということも忘れてはならない。