マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

担当:守尾慎一、任宇丹、倉辺喜之、朝山由美子


1 カトリック教徒の特徴とプロテスタント教徒の特徴を比較している箇所を文中より抜き出しなさい。

2 文中にある資本主義の精神とは

3 伝統主義とは何か

4 プロテスタンティズムによるところの職業とはなにか

5 恩恵による撰びの教説が人々に与えた影響とは

6 西洋的禁欲とは

7 禁欲的プロテスタンティズムの職業観念の帰結とは

8 プロテスタンティズム的禁欲が資本主義精神の発達を促した要因とは


発表用レジュメ

1 カトリック教徒の特徴とプロテスタント教徒の特徴を比較している箇所を文中より抜き出しなさい。

プロテスタントは支配者の立場にあるときにも被支配者の地位にあるときにも、また多数者の地位にあるときにも小数者の地位にあるときにも、別して経済的合理主義への傾向を有しており、これに反して、カトリック教徒は、前者の立場にあるときにも、常に経済的合理主義への傾向をかつて見なかったし、今日も見るを得ないのである。(p104上)

「カトリック教徒は・・・・いっそう平静である。彼らは営利への衝動が少ない結果、危険と刺激に充ちているが、場合によっては名誉と財宝を獲得するような生涯よりも、たとえ所得は一層僅少でも、できるかぎり安定した生活を尊重する。諺に『うまいものを食わないのなら寝て暮らせ』というざれ言葉がある。この場合プロテスタントがうまいものを食おうとするのに反して、カトリック教徒は寝て暮らすこを好むのである。」(P105上)

 すなわち教会と聖礼典とによる救いの完全な廃棄こそは、カトリシズムに比較して無条件に異なる点である。(p175下)

2 文中にある資本主義の精神とは

 フランクリンは、(対外的に)正直だと考えられている人は、信用を得やすく、そのことが貨幣を得る機会を拡大すると考えた。そして、自らが得た貨幣獲得(拡大)の機会を少しも無駄にしてはならないと述べている。彼のこの考えは単に「処世の技術」の領域のみに留まらず、「独自の倫理」として捉えられ、このような貨幣獲得に対する生活態度の中には、独自のエートスが含まれている。フランクリンは「正直は信用を生むから有益である」などに見られる貨幣獲得に対する生活態度を善徳であると考えた。ここでの貨幣獲得への態度は純粋な自己目的であると考えらており、幸福主義や快楽主義に対応するものではない。すなわち、「営利は人生の目的と考えられ、人間がこれによって物質的生活の要求を満たすものとは考えられていない」ということなのである。この様な営利が人生の目的となっている態度こそが資本主義の精神である。さらにフランクリンは貨幣の獲得は職業(Beruf)における有能さの証しであるとも述べている。(p113上〜p118上)

 正当な利潤を使命(すなわち職業)として組織的且つ合理的(※)に追求するという精的態度(p128上)※貨幣獲得を円滑にすすめる

3 伝統主義とは何か?

人は「生まれながらに」できるだけ多くの貨幣をえようと願うものではなくて、むしろ単純に生活する、つまり習慣としてきた生活をつづけ、それに必要なものをえることだけを願うにすぎないことなのである。(p123下〜124上)

4 プロテスタンティズムによるところの職業とは何か?

 世俗的職業の内部における義務の履行をおよそ道徳的実践のもちうる最高の内容として重要視したこと、これである。世俗的日常労働に宗教的意義を認める思想を生み、そうした意味での職業概念を最初に作り出したのである。つまり、「職業」概念の中にはあらゆる教派のプロテスタントの中心的教義が表出されているのであって、カトリックのようにキリスト教道徳戒を(命令)と(勧告)とに分かつことを否認し、また修道僧的禁欲を世俗的義務の遂行であって、これこそが神から与えられた「使命」に他ならぬ、との考えがそこに含まれている。(p150上)

 個々の標本としては今日もなお見出されるところのあの自己確信にみちた「聖徒」が育成されることになる。いま一つは、そうした自己確信を獲得するための最もすぐれた方法として、絶えまない職業労働によってのみ、宗教上の疑惑は追放され救われているとの確信が与えられる、というのである。(p188下)

補足:世俗的職業労働が、宗教的不安の解消の為の適切な手段とみなされえた。(p189下より) 

5 恩恵による撰びの教説が人々に与えた影響とは

 神の恩恵により選ばれたもののみが救われるという教説は、自分以外のだれをも頼ることができないという点で、個々人に内面的孤独化の感情をもたらした。この内面的孤立化の思想は今日もなおピュウリタニズムの歴史を持つ諸国民の国民性と制度の中に生きている。(p175〜176<要約>)

 神は自ら助ける者を助けるということを意味する。つまり、往々いわれるように、カルヴァン派の信徒は自分で自分の救いを−正確には救いの確信を、といわねばなるまい−「造り出す」のであり、しかも、それはカトリックのように個々の功績を徐々に積み上げることによってではありえず、どんな瞬間にも選ばれているか、捨てられているか、という二者択一のまえにたつ組織的な自己審査によって造り出すのである。 (p192上)

6 西洋的禁欲とは

 自然の地位を克服し、人間を非合理的な衝動の力と現世および自然への依存から引き離して計画的意志の支配に服せしめ、その行為を不断の自己審査と倫理的異議の熟慮の元におくことを目的とする合理的生活態度の組織的に完成された方法である。これら合理的な禁欲は「一時的な感情」に対して「持続的な動機」を、とくに禁欲自体によって「習得」された持続的動機を固守し主張する能力を人間に与えることである。禁欲により、往々一般に考えられているところとは異なって、意識的・覚醒的かつ明徹な生活をなしうることであり無軌道な本能的享楽を絶滅することがその当面の課題となりこれに従う人々の生活態度に秩序あらしめることをその最も重要な手段としている。(p201)

7 禁欲的プロテスタンティズムの職業観念の帰結とは

 どの教派においてもつねに宗教的な「恩恵の地位」をば、被造物の頽廃つまり、「現世」から、信徒たちを分かつ一つの身分と考え、この身分の保持は−その獲得の仕方はそれぞれの教派の教義によって異なるけれども−なんらかの魔術的=聖礼典的な手段でもなくて、「自然の」ままの人間の生活様式とは明白に異なった独自の行為をもってする証明によってみ保証されうるとした。このことから、個々人にとって、恩恵の地位あるや否やを知るために生活を方法的に審査し、その中に禁欲を浸透せしめようとする起動力が生まれてきた。ところで、この禁欲的生活様式は、すでに見たとおり、神の聖意を目標として全存在を合理的に形成するということを意味した。しかも、この禁欲はもはや(義務以上の行為)ではなく、救いの確信をえようとする者すべてに必要とされる行為であった。こうして、宗教的要求にもとづく、「自然の」ままの生活とは異なった、聖徒たちの特別の生活は−これが決定的な点なのだが−もはや世俗の内部でおこなわれてることになった。このような、来世を目指しつつ世俗の内部でおこなわれる生活態度の合理化こそが禁欲的プロテスタンティズムの職業観念の帰結だったのである。(p241)

補足:共同体からの孤立化という動きのなかにあったプロテスタンティズムにおいては協会的な儀礼的な救いの道ではなく、個人自身を見つめることにより、救いの道を得ようとした。職業とは、個人単位での救いの実践を可能にした。手段であるといえると考えられる。そして、ここに“神の聖意を目標として全存在を合理的に形成するということを”という言葉がでてくるのである。

8 プロテスタンティズム的禁欲が資本主義精神の発展を促した要因を述べてください。

 市民的企業家は形式的な正しさの制限を守り、道徳生活に欠点もなく財産の使用にあたって他人に迷惑をかけることさえしないなら、神の恩恵を十分に受け見ゆるべき形でその祝福を与えられているとの意識を持ちながら営利に従事することができまたそうするべきだったのである。このような職業としての労働義務の遂行によって神の国を求めるひたむきな努力と他ならぬ無産階級にたいして教会の規律がおのずから強要した厳格な禁欲とが、資本主義的な意味での労働の生産性をいかに強く促進せずにいられなかったかは明瞭である。(p283〜286<要約>)