ピアジェ「発生的認識論」97/5/15

担当:大木 池田


 前回の講義は、前々回のディベートの上に成り立っている。主観と客観、それぞれの問題へのアプローチのしかたがが、どのように解決を目指しているか、また我々はどのようにそれぞれを扱うべきかという問いに対する、何かしらの手がかりをこの講義に求めた。ピアジェが試みたのは理性主義的心理学と経験主義的心理学の論争に対する決着である。理性主義と経験主義という思想の大きな対立陣営に布石を投げ入り学問の新たな光明を与えたのが、構造主義の成果であり、彼の場合、心理学における構造主義の実践を行ったと言える。構造主義の主要な思想家の業績に比べると、彼の場合認識主義と構造主義の中継のような役割を演じたようである。この講義ではピアジェの基本的な思想へのアプローチに焦点を当てるにとどまる。次週以降、社会学、人類学と学んでゆき、再びピアジェについて学ぶ。その時、改めて社会科学の中での構造主義という視点から彼に歩み寄る。しかし、構造主義そのものが、西洋的思想の枠組みから逃れられていない。構造主義が、問題解決を前提として対象から何らかの要素を引きだそうとするのは、ある意味攻撃的と言わざるをえない。問題がより大きな視野を必要としているとき、我々は後に、「東洋思想」という切り口を得ようとしている。

 全員で、原典の訳者前書きを読んだ。理性主義(精神分析)は、人間は生まれたときの赤ん坊のから外界認識能力を持っていると主張する。経験主義(行動心理学)は、人間の主体は本来「白紙」であり、外界によって形成されるものであると主張する。ピアジェの主張する発生的認識論は、一言で言えば、主体と客体の相互作用による認識についてである。ゲシュタルト心理学が、理性主義と経験主義の統合を果たすものと見られたこともあったが、それは一人の人間のある特定の時点でのみ説明がなされている。つまり、空間的でしかない。それに対し、発生的認識論は、空間的かつ時間的である。一人の人間の違う年齢を取り出し、成長段階を調べる。時間の流れを輪切りにして、その平面=空間をその人がどのように認識しているかを観察するという意味で、積分的な手法である。また、要素と要素の連関を調べるという言葉に置き換えると、構造主義的といえる。

 ゼミ生を3つのグループに分けて原典の訳者前書きによるピアジェの主張(p5こういう二つの〜)を読んだ。シェマ(図式)というキーワードをどう解釈するか。シェマは過去経験を累積したもので、対象をとりこみ照らし合わせるものである。だが、どのグループも、シェマの発生以前、すなわち過去経験のない段階の赤ん坊の認識について説明することができなかった。安易に理性主義の主張を借りて、人間は生まれたときから外界を把握する先天的能力を持つという説明しかできなかった。それに対するピアジェの解答は、以下のとおりである。

 まず、乳児は自我意識を待たず、主体と客体を区別することが出来ない。乳児にとって主体と客体が未分化であるのだが身体によって無意識的に中心化されている。乳児の活動は自分自身の身体を直接客体に結び付けており、それぞれの活動(吸う、凝視する、把握する。など)がべつべつに存在しておりそれらを関連づけることが出来ない。共通の唯一の基準は自らの身体である。この初期の段階から1才から2才までの間に乳児はしだいに視点の展開が行われる。1・活動を自分の身体から脱中心化すること。2・自分の身体を他の客体の一つとしてみなすこと。3・自分を運動の起源支配者として認識しはじめている主体の共応効果のもとに客体の諸作用を結び付けること。の3つであるが、3が1、2を引き起こしている。乳児は遺伝的に吸引反射などの活動を構造として備えているのだが、これらの活動が予期できない出来事をとりこみ統合してゆくとき同化が行われる。このとき初めてシェマが構成され、このシェマに新たな対象を同化させていく。

 シェマは何も1つではない。音を出す対象を同化させるシェマ、見つめるべき対象を同化させるシェマなどである。ガラガラなどの対象を操作する際、この2つのシェマの中に同時に同化される。さらにゆくと、これらのシェマを手段として利用し、別の対象を操作しようとするのである。明らかに、目標の設定とシェマの手段化を見てとれる。手段と目標の分化、そしてネットワーク化につながる。行為にみられる順序関係や分類関係を考慮して、手段と目的を結び付けることによって、主体と客体の分化という萌芽を生み出す。主体と客体の分化は、それぞれのネットワーク化により、より鮮明になる。主体の活動を相互に結び付けるというのは、シェマの合併、分離、分類、順序づけ、対応づけなどの活用によって引き起こされる。これは、のちの論理数学的構造の基盤をなす。客体どうしのネットワーク化は対象に、空間・時間的組織、運動組織または力動組織を対象に与えることでおこる。これらのネットワークが全体的に働いて、乳児に因果的世界の認識を構築させるのである。


ピアジェ「発生的認識論」97/6/5

担当:任宇丹、松原洋平

■ 感覚運動的段階の第一段階
 乳児の段階では主体と客体は未分化であり、個々の原初的活動もネットワーク化されていない。唯一の基準が自分自身の身体であるため、それぞれの原初的活動(隔離可能な小さな全体)は自動的に身体に中心化される。

■ 感覚運動的段階の第二段階
 1〜2歳の期間には具体的行為の面で自分を活動の主体として認識しはじめ、主体と対象の分化がもたらされる。そして主体と対象とがそれぞれ構造化される。

■ 前操作的思考の第一段階
 2〜4歳の期間では主体と対象との間にある媒介物(ネットワーク)は単に現在の時点という性格をもっているにすぎない。シェマは具体的に活動するときにしか存在しない。活動が概念化されるには至っていないのである。また対象は主体の能力に左右されるものと捉えられ、自分自身に単純に同化させてしまう。この点で対象は主体に中心化されている。

■ 前操作的思考の第二段階
 5〜6歳では概念相互または概念化された活動相互の脱中心化がはじまる。ここでは「構成途上の関数」という新しい構造があらわれる。「構成途上の関数」は関数としての可逆性はなく、一定方向に向かっており、したがって必然的な保存も含んでいない。すなわちこの段階では操作を特徴づける可逆性と保存とには達していない。

■ 具体的操作の段階の第一段階
 7〜8歳においては操作という構造を獲得する。操作は閉鎖可能な全体体系であり、正と逆の変換が成り立っている。また操作は正の操作と逆の操作というはたらきで誤ちをあらかじめ修正する。具体的な行動のまえに修正が加えられる。操作は制御というものも構成している。しかしこの段階の操作はまだ対象にはたらきかけることに帰着する。操作の合成もだんだんとおこなわれていくにすぎない。

■ 具体的操作の第二段階
 9〜10歳のこの段階では部分的形態をこえて具体的操作の全般的均衡に達する。構造と構造が部分をなすより高次の構造があらわれる。その際にも全体性が確保され、その構造全体に成り立つ正と逆の変換性によって全体の構造は制御され整理される。

■ 形式的操作
 11〜12歳ごろからは形式的操作の構造が構成される。またそれにともない時間的なものから操作が解放される。形式的操作の性格はまず仮説にもとづいくことができるということである。次に「操作の操作」つまり二次的操作がきずかれる。操作のうえで操作をつくることができると現実的なものを越えることができ、組み合わせによって無限という可能性を手に入れる。