トマス・クーン『科学革命の構造』

担当:守尾慎一、倉辺喜之、西沢真則


(1)「累積作用」とは何か。
(2)「教科書」は、自然科学においては、どのような役割を果たすのか。
(3)「パラダイム」とは何か。
(4)「通常科学」の性質とは何か。
(5)「パラダイムの成功」とはどういう事態のことをいうのか。
(6)「通常科学」に、なぜルールが必要なのか。
(7)一定方向に向かった「パラダイム」の中で、なぜ「専門細分化」が起こるのか。
(8)科学的「発見」の過程をまとめよ。
(9)なぜ「専門細分化」した「通常科学」が、「パラダイム変革」に対して、抵抗を示すのかまとめよ。
(10)「革新的な理論」は、いつ出現するのか。
(11)科学者が依然受け入れていた理論を排斥する判断はどこにあるのか。
(12)科学理論と「反証例」との関係は、クーンのコンテキストでは、どのように把握されているか。(「パラダイム」分析を軸に)
(13)「通常科学」から「科学革命」へ移行する間には、どのような状況が見られるか。
(14)「パラダイム」の変化は、「科学革命」とみなされているが、それはなぜか。
(15)第9章、頁124、後半では、「私はこれまでパラダイムを科学の構成要素としてのみ論じてきた。今やそれが自然の構成要素でもある」といっているが、これはどういうことか。

(16)第10章の題は「世界観の変革としての革命」となっているが、この「世界観」により、トマス・クーンが表現したいのはどういうことか。
(17)「パラダイム変革」における研究者の「世界変革」はどのようにしておこるか。
(18)「自然科学」と「社会科学」の違いを「進歩」という言葉からどのように捉えているか。
(19)「科学の進歩」とは何か。
(20)カール・ポッパーの反証例とトマス・クーンの反証例の違いは何か。
(21)鎌田ゼミで、自然科学を取り上げる意義を考えよ。


提題;「近代批判としての自然観―トマス・クーン」 

 前回のダーウィン『人類の起源』においては、僕らの関心は専ら、ダーウィンその後の受けとめ方にあてられたのだが、このことのもつ意味の重要性を掘り起こすことで提題を始めてみたい。

 クーンの『科学革命の構造』をよめば、真正ダーウィン理論なるものがあるわけがないのだが、そうだとしても歴史的な背景を追えば、少なくともダーウィンの「進化論」が持つ意味は、あるイデオロギーによって隅に押しやられている、といえないだろうか。ここでは、そのようなイデオロギーのことをひとまずは、社会進化論、または社会ダーウィニズムとして話しを進めてみたい。

 ダーウィンの自然淘汰という考え方は、生物体を取り巻く環境にあわせて、「選択」が起こるというものである。このことを含めた進化過程に、彼が恣意的に選択が起こる(起こす)といった価値判断を下している箇所には、なかなか出会いにくいと思われる。従って、ダーウィンの功績は、キリスト教の神を中心としたかつての目的論的(※1)な固定した視点を壊した、というところに求められる。神の(人間の)秩序の元に全ての自然は成り立っているという考え方を否定したことになる。つまり、唯一普遍の絶対を否定した、と言うことが可能ではなかろうか。

 ここの所に、ダーウィンの論を受けた、受け手の認識問題があるのではないだろうか。このことをトマス・クーン流にいえば、認識の外枠、社会的な状況からの影響を受けたといってもよいと僕らは考えた。

 歴史的に言えば、1850年代のヴィクトリア朝の時代にダーウィンは、進化論を提出している。1800年代の半ばは、イギリスではまさに産業革命の進行段階にあり、世界への拡大の時代にあった(資本の拡大、産業の発展、世界植民地化、思想、宗教の植え付け拡大など)。このような世界状況の中で、ダーウィンの進化論は、この様な社会的背景を認識の外枠に持つことになり、社会進化論や社会ダーウィニズムにより、「弱いものは滅び、強いものは残る。悪い社会から、よい社会へ」という具合にイデオロギー的な受けとめられ方をされたと考えられないだろうか。このものの見方は、すでにして固定化した自己(※2)を中心にした目的論から抜け出ることができず、また元に返っていく。クーンに言わせれば、ここの所こそが、自然科学のみならず、西洋近代に見られる人間の根本的特徴ということになるのだが。

 この様に社会的ダーウィニズムは、裁きの理論なのであるが、僕らは果たして、学問上においても、生活においても、あるものが古いか新しいか、劣っているか優れているか、真か偽かという裁きを何物に対しても下すことができるのだろうか。ダーウィンはもとより、どの人間もが五里霧中のなかで、その場に遭遇していたとしても、やはり正しいのか間違っているのかというところに帰っていくのだろうか。

 クーンのパラダイム論においては、彼は一片たりとも「これが真である、これは偽である」という判定を下していない。というのも、彼がしたいのは、自然科学(自然)という切り口を使い、実際は、パラダイムの盛衰を追うことにより、自然科学者=合理的西洋近代人の(一つの)代表者の心的な根拠を考えたいからだ。クーンは、こう言う。

「創造的な生涯を通常科学の古い伝統にかけてきた人たちが、生涯をかけて抵抗するということは、科学的規準の冒涜ということではなくて、科学研究そのものの本質を示すものである。その抵抗の源は、古いパラダイムも最後には全ての問題を解決し、そのパラダイムが与える箱の中に自然を押し込めることができる、という確信である。」

 かつて、科学は、sciens「知」であり、科学者でもあり、哲学者でもあり、芸

術家でもあり、全ての現象を取り扱ってきた。例えば、ギリシアでは初期の科学は「百花繚乱」の時代であり、様々な学派が、織りなしていた。というのも、クーンによれば、パラダイムに支配されないほど、様々な事象を認め、拠りかかるパラダイムを近代ほどに持たなかったからだ。

 それではいつパラダイムに拠りかかる形で自然科学の研究は進んできたのだろうか。僕らの推測でものをいうならば、ある外部の権威、心的な認識に確信を持つような事態が生じたのは、おおよそ、はじめはイスラムのヨーロッパ侵入であり、そしてその外部世界に対する自己防御と自己確信を作り上げようとした頃に重なるのではなかろうか。つまり、自己確信に必要なのは、自分たちの理論と現実をいかにして一致させるか、にかかっているのだ。それは、自然(世界)を我が手におさめたいという欲求のことだろう(※3)。

この自然は、クーンによれば、次のように繰り返されている。

「人間が知るための世界は、どんなものでなければならないか。」

クーンは、答える。

「なお未解決にとどまっている」

★         ★

※1 目的論に囚われた考え方をどう突破していくかは、ポストモダンの議論の中でも大きな位置を占めるという意見を頂きました。

 これに関しては、今後の課題とし、サブゼミレベルを含めたところで問いとして持っておきたいと思います。

※2 社会的ダーウィニズムという固定化した累積的目的論に囚われた近代全体としてのイデオロギーと個人の認識の溝をどう埋めるのか、という質問を頂きました。

 発表の時点で出てきた議論としては、まず第一に人間として生まれでた子供時代で言えば、主観と客観を「活動」によって作り上げていく認識形成過程において、他者、他世界との関係を顧みない「活動」そのものが個人の持つ目的論的認識を促進する、というものでした(こわいことです)。第二に、産業革命によって断然的に意味をもった資本、貨幣を追求していくという目的論的性格を、人間は大人になって持ち続けます。

 上記のような議論が出ました。

※3 ここの箇所は、昨1996年春、秋学期に行われた、今はなき「社会言語学」「異文化観コミュニケーション」の授業で学んだこと、そして昨1996年にNHK人間大学で放映された「新しい科学史の見方」村上陽一郎から学んだことを基盤にしています。さらに今回の議論では、これだけではもうひとつ具体的根拠に欠けるということから、次のような話しがでました。

 ヨーロッパがかつてギリシアの時代に持っていたのは、時代順に追えば、プラトン的な自然観とアリストテレス的な自然観のようです。プラトン的な自然観は、それ自身に本性を持つもの;ピュシス;複雑形という自然観のようです。その後出てきたアリストテレスから自然は全体として捉えられるようになり、ここでは要素還元主義的な思考にまで発展してしまった一元論への準備がなされたようです。

 このギリシアのアリストテレス哲学は、僕の記憶が正しければ、ギリシアからアレクサンダーによってヘレニズム世界へ(もしかしたらインドにも大きな影響を与えているのかもしれませんが。その場合には、逆にヘレニズム世界はインドからも影響を受けているはずです。)と広まります。その後、(この間のローマ時代はどういう展開になっていたのかちょっとわかりませんが、おそらくビザンティン帝国にはギリシア的なものが維持されていたはずです)6世紀後半に生じてきたイスラムに影響を与え、それがイスラムの侵入によってヨーロッパ世界に戻ってきた(というとヨーロッパ中心ですが)わけです。

 ただ初期のキリスト教ではこのアリストテレス的な自然観はどうやら排除されていたらしく、再び帰ってきたヨーロッパでスコラ哲学者によって研究が重ねられたのは、おそらく自己世界の確信的体系を築き上げるのに、アリストテレス的自然観が都合よかったのではないのでしょうか。

 近代までの一元論を見直す際に、クーンにならいかつての自然観がいかに排除されていったかを見ることは今の自然観を考えるときには一石を投じるのではないかと思います。

 他にも翻訳の問題が出ました。

※レヴィ・ストロースとマリノフスキーを文化論のコンテキストで学んできましたが、そこにもクーンに結ばれる線を見出すことができます。

「真の実在は決してもっとも明瞭なものではない、ということであり、さらに、真実という物の本性は、真実が身を隠そうとするその配慮の中に、すでにありありと伺われる」レヴィ・ストロース『悲しき熱帯』P.405  世界の名著シリーズ71 中央公論社刊

「我々の最終の目的は、我々自身の世界の見方を豊かにし、深化させ、我々自身の性質を理解して、それを知的に、芸術的に洗練させることにある。
 他人の根本的なものの見方を、尊敬と真の理解を示しながら我々のものとし、未開人にたいしてそのような態度を失わなければ、きっと我々自身のものの見方は広くなる。おのおのの人間の生まれた環境の中の、狭苦しく閉ざされた慣習、信仰、偏見を捨てなかったならば、ソクラテスのいうような自己自身の認識に達することは不可能だろう。この上なく大事な問題に、一番いい教訓を与えてくれるのは、他人の信仰や価値を、その他人の見方から見させてくれるような心の習慣である。」マリノフスキー 『西太平洋の遠洋航海者』P.341  世界の名著シリーズ71 中央公論社刊

※4 補足として、教科書の問題と近代性を重ねてみる視点はどうだろうか、という議論が出ました。近代の教科書が大まかな形をなしてきたのは、フランス革命以降のペスタロッチなどに拠るようです。

 この教科書の問題は、クーン班の中でも、相当僕らの抱えている現実に根ざした議論が噴出しました。かつてまだ若かりし少年の頃「こうすれば受かる」「受験参考書の選び方」という一連の暗記促進シリーズにはまり、数学で言えば「○○の鉄則」とか「○ャート」、英語で言えば知性も、品性もない「構文1○0」「○00選」を開き、こうすれば解ける、これさえ覚えれば大丈夫と連関のない自己目的的な体験の確信としての暗記に修行の時間を費やしていた覚えがあることを僕は告白します。最近では塾が定着していますが、多くの塾なるところでは、これらの参考書を「絶対」といって買わせているのは、体験教育に拠りかかる学校!はもとよりなのですが・・・。せめてもの大学というところでは、誰々の本を絶対の参考書にしてそこからだけ試験問題を出すという、愚行がないこと祈っています。もはや、総合政策では、問題発見→問題解決は、解決のための検証型発見でしかないのではないのか、という疑問すら出ているのですから。ある意味では、「複雑性」の維持のための大学に身を置きたいと願っています。

※5 読書案内に載せ、発表では扱えなかった問題には、

「(20)カール・ポッパーの反証例とトマス・クーンの反証例の違いは何か。」がありました。

 ここではクーンのコンテキストから迫ってみようと思いますが、簡単に言えば、クーンの言っている反証例は、科学者が規準とする通常科学のパラダイムを壊すような「発見」に基づく、「転換」を希求する「危機的状態」に必要とされるものです。それに対して、カール・ポッパーの反証例は、同じ反証であっても自己の理論の正当化のための、同一パラダイムにとどまるための理論保証、ということになります。

 ただこれに関しては、カール・ポッパーの方をもう少し調べる必要があるのではないかと思います。その際に、クーンのパラダイム自身が、主観的であるという問題も浮き彫りにされるのではないでしょうか。多くの人間が、自分の自己矛盾もしくは自分の立場をいかに解決するかという点に労力を払ってきたのですから。

トマス・クーン『科学革命の構造』読書案内答え

(1)「累積作用」とは何か。

「もし、科学というものが、現在の教科書に集められているような事実、理論、方法の群であるなら、科学者とはある特定の一群に、成功すると否とを問わず、ある要素を加えようと努力している人間のことにすぎない。そうなれば、科学の発展とは、科学知識やテクニックの山を段々と大きく積み上げていく過程にすぎない。そして科学史とはこの知識の積み重ねをかぞえあげたり、その集積の障碍となるものをならべ立てる年代記にすぎない。そうなら、科学の発展に対して歴史家のすることはただ二つである。その一つは、誰がいかなる時点で科学の事実、法則、理論を発明、発見したかをきめることである。いま一つは、現代の科学の教科書の構成要素の集積の障碍となった誤り、迷信、俗信の山を叙述し説明することである。これまで多くの研究がこの方向にむけられ、現在も続いている。」 p2

「時代遅れの考えを神話的と呼ぶなら、その神話それらを科学と呼ぶなら、その科学は今日われわれの持っているものと全く矛盾する所信を含むに違いない。以上の呼びかたのどちらかを選ぶと、科学の発展を累積作用とみることは難しくなる。歴史的研究をおこなえば、個々の発明、発見を孤立させて捉えることは難しくなるが、同時にこれらの一つ一つの貢献が積み重なっていく累積的過程としての科学のとらえ方にも、本質的な懐疑を加える根拠を与えるのである。」p3

(2)「教科書」は、自然科学においては、どのような役割を果たすのか。

 「しかし、あいもかわらず、科学の教科書にでてくるような非歴史的で型にはまった問題に答えるために、歴史的なデータを探し選んだなら、歴史からさえもその新しい観念をつかみだすことはできないだろう。たとえば、こういう教科書のたぐいは、科学の内容がその本に書いてある通りの観測、法則、理論で見事にしめされる、というように書いてある。こういう教科書はまたたいてい、科学的方法というものは、教科書に書いてあるようなデータを集めるテクニックとそのデータに型どおりの理論的な一般化を加える論理操作をさすものだといっている。その結果、科学の本質とその展開について深遠な含蓄を持った科学の概念を得られた、ということになっているのである。」(p1)

「科学の教科書は(また、古風な科学史の本の多くも)、過去の科学者の仕事のごく限られた部分、つまり、教科書のパラダイムになっている問題や、その解答に直接役立つように見えるものだけにしか触れない。選択と歪曲によって、初期の科学者の姿は、ごく最近の科学の理論と方法における革命で科学的とみなされているようになったものと同じ、定まった一連の問題に対して、定まった一連の基準に合うように、研究にいそしんでいたように描かれる。だから、教科書やその含む歴史的伝統が、一つ一つの科学革命の後に書き直されねばならないのは不思議ではない。また、書き直されるにつれて、科学が再びきわめて累積的な姿を呈するのも不思議ではない。」(p155)

(3)「パラダイム」とは何か。

「この種の努力を続ければ、科学のどのような面がはっきりでてくるであろうか。まず最初に述べておかねばならないことは、いろんなことは、いろんな種類の科学の問題にたいして、唯一不変の結論をおしつけることができるに十分な方法論的決め手は見つからないということである。」(p4)

「しかし、観察や経験だけで、ある一つ所信の体系を決めることはできない。個人的歴史的偶然に彩られた恣意的要素が、常に一時期における一つの科学者集団の所信の形式要素となっているのである。」 p5 

「研究というものを、専門教育で与えられた既成の概念の鋳型の中に、自然を無理して詰め込む真摯なたゆまない努力として描くであろう。同時に、たとえその発生において、時にはその後の発展においても、恣意的要素があったにしろ、既成の鋳型なしで研究をすすめることができるであろうか、と疑ってみるだろう。」 p6 

「一つには、彼らの業績が、他の対立競争する科学研究活動を棄てて、それを支持しようとする特に熱心なグループを集めるほど、前例のないユニークさを持っていたからであり、いま一つにはその業績を中心として再構成された研究グループに解決すべきあらゆる種類の問題を提示してくれているからである。」 pp12−13

「当時、光学を論じる人にとって、とるべき方法や、説明せねばならぬ現象について一定した基準がなかったからである。」p16

「ところが歴史はまた、その道で遭遇する困難の理由も示してくれている。パラダイム、またはパラダイム候補のない所では、ある専門の発展に役立ち得るすべての事実は、同じように大切であるように見える。その結果、学問の発展が一定のコースに乗ったところと違って、まだ初歩的な事実を無茶苦茶に集める活動がおこなわれる。」 p19 

「パラダイムは模写できるようにするという機能を持つ。ところが、科学ではパラダイムは模写のためのものであることは稀である。むしろ慣習法による法律的決定のように、パラダイムは新しい、よりきびしい条件下で、さらに明確に詳細にするためのものである。」 p26

「問題を解くにあたってこれらの事実を使うと、パラダイムはさらに精密に、より多くの状態下でこれらの事実を決める意味があることを示すのである。」P29

(4)「通常科学」の性質とは何か。

「本書で「通常科学」という場合は、特定の科学者集団が一定期間、一定の過去の科学的業績を受け入れ、それを基礎として進行させる研究を意味している。」 p12 

「今まで述べた通常科学の研究問題のもっとも著しい特徴は、それが概念であろうと減少であろうと、全く斬新なもの生み出す作用は全然しないということである。」P39

「通常科学の目的には、新しい種類の現象を引き出すことは含まれていない。鋳型にはまらないものは、全く見落とされてしまう。科学者は普通、新しい理論を発見しようと目指しているのではなくて、ただ他人が発見したものに満足ができないのである。むしろ通常科学敵意研究では、パラダイムによってうでに与えられている現象や理論を磨きあげる方向にむかう。」 p28 

「既知の事実を測定するより正確で信頼のおける、適応範囲の広い方法を発展させた功績」「パラダイム理論から出る予測とくらべるために為されるべきものがある。」「これらの特殊な装置は、自然と理論をできるだけ一致させるために必要となった、すばらしい努力と創意を示す例である。」「パラダイムにまつわる多少の不明確さを解決し、前には注意されるにとどまっていた問題にも解答を下すようなものである。」 pp30−31

「以上あげた3つの部類の問題−事実の測定、事実と理論との調和、理論の整備で経験的、理論的両面にわたる通常科学の文献はすべて蔽われている。」p38

「いままで述べた通常科学の研究問題のもっとも著しい特徴は、それが概念であろうと現象であろうと、全く斬新なものを生み出す作用は全然しないということである。」 p39

「科学者にとってはすくなくとも通常化科学の研究で得られた結果は、パラダイムを応用する範囲と精度を増すが故にいみがあるのである。」(p40)

「つまり、出て来る結果はしばしばその詳細まで予測できるもので、それ自体興味のあるものではないが、その結果を得る方法が非常に疑問なのである。通常科学の問題を完成するとは、予期していることを新しい方法で得ることであり、それではあらゆる種類の複雑な装置上、概念上、数学上の問題を解決しなければならない。それに成功する人はパズル解きの熟練かであり、このパズルが彼をして仕事にひきつける大きな役割をしているのだ。「パズル」「パズル解き」という言葉は、これまで述べてきた所でますます浮き彫りにされてきた論旨の若干を強調するものである。パズルとは、全く普通にここで使われているような意味で、それを解くのに才能・手腕がためされる特定のカテゴリーの問題のことを指す。辞書の例には、「はめ絵パズル」「クロスワード・パズル」がでているが、これらは通常科学の問題と全く共通した性格をもっている。その一つは、今あげたばかりである。つまり、パズルの良し悪しの基準は、その結果がそれ自体興味があり、意味があるというものではない。答えが見つからないことが多いからだ。はめ絵パズルで、二つの別のパズル箱から勝手に絵片を取り出すものを考えてみよう。こういうような場合にはどんなに頭の良い人間にもとけないから、パズル解きの能力のテストに使うことはできない。だからこれは普通の意味では全然パズルではない。それ自体の価値というものはパズルの基準にはならぬが、解答が確かに存在するということは基準である。」pp40−41

(5)「パラダイムの成功」とはどういう事態のことをいうのか。

「初めから特定の未完成の分野において発見さるべき成果を約束することに多いにかかっている。通常科学とは、こういう約束が実現される過程のことである。」p27

「かくしてパラダイムはその専門家の集団を社会的に必要な問題が、パラダイムの与える概念や装置ではのべられなくて、パズルの形になおせないからである。この種の社会的に重要な問題は決して一筋縄でいけるものではない。その教訓は17世紀のベーコン主義や、現在の社会科学のあるものから、骨身に染みてわからせられている。通常科学が非常に早く進歩するようにみえる理由の一つは、能力さえあれば道を踏み外さずに問題に注意を集中できるからである。」 p42

(6)「通常科学」に、なぜルールが必要なのか。

「次に、パズルと通常科学の問題の平行関ん形のより著しい今一つの面をみて見よう。科学の問題をパズルとみなせば、パズルには解答が存在するという特性以外に、他の性格もある。それはルールである。正解の性質にもそれを得る道にも一定のルールがあるのである。」p43

「最後に、さらに高いレベル別種の立場選択がある。これなしでは人は科学者足り得ない。科学者たるものは、例えば、世界を理解しようと心がけ、その理解の精度を高め視野を広げようと常々心がけていなければならない。さらに、そう自ら処することによって、自信および自分の研究仲間の専門とする自然のある位相をきわめて詳細に吟味することになる。そしてその吟味によって、見かけ上無秩序の穴が見つかれば、これが彼にとって測定技術を精巧にし、理論を磨きあげる機会を与えることになるのである。さらにその上に、いついかなる時代においても科学者を科学者たらしめるルールがこの他にもたくさんあるにちがいない。」

「ルールはパラダイムから得られるが、パラダイムはルールがなくとも研究を導きうる。」 p47 

「標準的な解釈や、ルールへの還元に対する同意がなくとも、パラダイムが研究を導く上の妨げにはならない、」 p49 

「通常科学は、関係する科学者の集団が特定の問題と解答をすでに定説として問題なく「受け入れる限り、ルールなしで進行しうるのである。だからパラダイムやモデルが不安定に感じられる時には、ルールは常に重要になり、通常科学時代の特徴たるルールに対する無関心は消滅する。」 p54 

(7)一定方向に向かった「パラダイム」の中で、なぜ「専門細分化」が起こるのか。

「通常科学がしっかり固まったものであり、それを行う科学者の集団のまとまりが強いものであるなら、パラダイムを変えることがその中の小さい集団にだけしか影響しないというのはどういうわけか。通常科学は一枚岩的に統一された事業であって、そのパラダイムの全部あるいはその一つとさえも盛衰をともにするはずである。しかし、実はそのような科学はあり得ないのである。」 p54 

「いろいろな通常科学は、お互いに重なり合う部分はあっても全く同じひろがりをもつものではない。」P56

「彼らは自分たちの慣行を通してそれをみていたのだ。自分たちの研究の経験からして、分子とは何でなければならぬか、を知ったのである。」 p57

(8)科学的「発見」の過程をまとめよ。

 「発見は、変則性に気付くこと、つまり自然が通常科学に共通したパラダイムから生ずる予測を破ることから始まる。次にその変則性のある場所を広く探策することになる。そしてパラダイム理論を修正して、変則性も予測できるようになってこの仕事は終わる。新しい種類の事実を理論の中に含めることは、その理論の単なる修正以上の意味を持つ。その修正が出来上がるまでは――つまり科学者が自然を以前とは違った味方で見られるようになるまでは――新しい事実は、まだ科学的事実では全くないのである。」(p59) 

 「酸素は発見された」という文章は確かに間違いではないが、ものを発見することは、我々が日常的に使う、見る、という概念に近い一つの単純な行為である、という誤解を生じる。だからつい、発見が見ることや触れることのように一定の個人、一つの瞬間にはっきりと帰せられてるものと考えがちである。しかし、触れることと発見することは違うし、見ることも発見と同じではない。」(p63)

「パラダイム的なやり方や応用は、科学にとって、パラダイム的法則や理論と同じく必要であり、同じ効果を持つのである。従って、ある一期には、科学研究のための現象界を限定せざるをえなくなる。そのことを十分認めた上で、同時にX線の発見が、ある特定のある科学者集団にとてのパラダイムの変更を促し、したがって、その方法や予測も変えてしまう、ということの本質的な異議を認めよう。」(p68)

「ただ実験と試験的な理論が噛み合うようになるまでに整えられる時にのみ、発見が現われ、理論がパラダイムとなる。」(p68)

(9)なぜ「専門細分化」した「通常科学」が、「パラダイム変革」に対して、抵抗を示すのかまとめよ。

 「前もって変則性に気付くこと、観測的認識と概念的認識咎共に、徐々に同時に起こってくること。その結果、パラダイムとなっているカテゴーや研究の仕方が変更され,まわりから抵抗を受けること。」(p70)

「科学では、トランプの実験と同じく、革新的なものは、予測に反するという困難の中から、抵抗を受けながら、やっとあらわれてくる。はじは予期した当たり前のことだけが、後で変則性が認められるような事情の下でも経験される。しかし更に事情に通じるとどこかおかしいというこに気付き始め、今でもどこかおかしいかったのではないか、と考えるようになる。変則性に気付くと、初めから変則的なものが予測されるように概念のカテゴリーを適応させる努力をする期間を生じる。この点において発見は完成されたことになる。」(p71)

 「むしろ初めは抑圧するよう努めるものであるが、なぜ革新を引き起すのに有効に働くかがついに見えはじめる、という点を指摘したい。」p72)

「いかなる種類の科学の発展においても、はじめパラダイムが受け入られると、その学問の専門家達にはおなじみになっている観測や実験の大部分が、きわめてうまく説明できるものと普通みなされる。そしてさらに進んでゆくと、精巧な装置ができ、専門家仲間にしか通用しない用語や殊な技術を発展させ、ますます常識とはかけはなれた概念の精密化を要求することになる。これがパラダイムの変革にたいする大きな抵抗となっいるのである。その科学は、ますます動脈硬化してくる。」(p72)

(10)「革新的な理論」は、いつ出現するのか。

「変則性はパラダイムによって与えられた基盤に対してのみ現れてくる。」(p73)

「変則性に気付くことが、新しい種類の幻想の出現に一つの役割を演ずるとするなら、その辺促成をより深く認識することが、理論の変革への前となることは当然であろう。」(p75)

「変則性の認識は長く続き深く浸透していて、その分野は危機的状態にったと表現できる。新しい理論の出現というものは、大規模なパラダイムの破壊と、通常科学の問題やテクニックに大きな変更を必要とするものあるゆえに、普通、研究者のあいだに不安定な状態が先行するものである。その不安は、通常科学の問題が、どうも予想通りにうまくゆかないとい状態から生じるものである。既存のルールの失敗は、新しいものへの探求の序曲である。」(p76) 

「一つの理論にたいして、たくさんの解釈が繁殖したということ自体、ごくありふれた危機の兆候ある。」(p79)

「どの場合にも革新的な理論というものは、通常の問題を解く仕事がうまくゆかないことがはっきりするようになって、はじめて出現したのである。」(p84)

「つまり、どの場合でも、それが既成の科学の中では危機として認められなかった時代にも、解決への道は少なくとも部分的には予測できるものである。」(p84)

「一つのパラダイムが与える道具立てが、その設定する問題をとくうえでまだ十分役立つものである限り、これらの道具立てを安心して使うことによって、科学は最も早く進み、最深部にまで貫き通る。その理由は明らかである。物の製造と同じく、科学でも道具を変えることは浪費であり、どうしても必要になるまでは差し控えられる。危機の意義は、道具立てを変える機会がついに到来したことを示す指標を与えることにある。」(p86)

(11)科学者が以前、受け入れていた理論を排斥する判断はどこにあるのか。

「ただ科学者が以前に受け入れていた理論を排斥する判断は常に、理論を自然と比較するだけのものではない、と言いたいのである、これが中心の点である。一つのパラダイムを拒否する決断は、常に同時のものを受け入れる決断である。その決断に導く判断派、パラダイムを自然と比較することのほかに、複数のパラダイム同士を比較することも含むのである。」(p87)

(12)科学理論と「反証例」との関係は、クーンのコンテキストでは、どのように把握されているか。(「パラダイム」分析を軸に)

 「純粋に観測器具的問題は別として、通常科学がパズルとみなす問題はみな他の観点からすれば反証例にみえ、そして、危機を醸成する源と見えるのである。」(p90) 

「科学理論は一つも反証例に直面しないか、科学理論はいついかなる時にも反証例にさらされているかどちらかである。(p90)

クーンの反証例について

 「科学研究の基礎を与えるパラダイムが、その問題を完全に解決していないからこそ存在するのである。」(p91L2)そこでクーンは「他の観点からすれば問題はすべて反証例に見え」と述べたうえで、反証例は常に二つの異なったパラダイムを必然的に必要とするとした。 

(13)「通常科学」から「科学革命」へ移行する間には、どのような状況が見られるか。

「また、通常の研究のために設計、組み立てられた一片の観測機械も、測したようには働かなくて、何回も繰り返しても専門家の期待通りの結果にならず、変則性を生じることがある。こう言うような状態になると、常科学は混乱してしまう。そして専門家たちが、もはや既存の科学的伝統を覆すような不規則性を避けることができないようになったとき、ついその専門家達を新しい種類の前提、新しい科学の基礎に導くという異常な追求が始まるのである。専門家達に共通した前提をひっくり返してしまような異常な出来事を、この本では科学革命と呼んでいる。科学革命とは、通常科学の伝統に縛られた活動と相補う役割をし、伝統を断絶させるもである。」(p7)

「危機にあるパラダイムから新しいものへ移る移り行きは、新しい通常科学の伝統をもたらすものであるが、それはふるいパラダイムの整備と拡で選られる累積的な過程とははるかにへだたっている。むしろそれは新しいきほんからその分野を再建することであり、その再建とは、その分野最も基本的な理論の前提と、パラダイム的方法やその適用の多くを変えることである。その移行期間のあいだは、新旧のパラダイムで共に解ける題がかなり重なり合うものである。しかし解答の仕方にはは決定的な差異がある。移行が完了すると、その専門家集団は、その分野に関する考え方方法、目標をすっかり変えてしまう。」(p96)

「この種の努力を続ければ、科学のどのような面がはっきり出てくるであろうか。まず最初に述べておかねばならないことは、いろんな種類の科学の問題に対して、唯一不変の結論を押し付けることができるに充分な方法論的決め手は見つからないということである。」p4

(14)「パラダイム」の変化は、「科学革命」とみなされているが、それはなぜか。

「一つのパラダイムを前提とする人は、その擁護論をする場合に、新しい自然観を採用する人に対して、科学の仕事とは何であるかについて明確な論拠を出してみせる。」p106

「ここで科学革命というとき、それはただ累積的に発展するのではなくて、古いパラダイムがそれと両立しないあたらしいものによって、完全に、あるいは部分的に置き換えられる、という現象である。」(p104)

「ニュートン力学からアインシュタイン力学への移行は、外から他の対象や概念の導入を含まないものであるから、特に科学者が世界を観る概念体系を置き換えるものとしての科学革命を明確に例示している。」(p116)

(15)第9章、頁124、後半では、「私はこれまでパラダイムを科学の構成要素としてのみ論じてきた。今やそれが自然の構成要素でもある」といっているがこれはどういうことか。

「パラダイム間の論争には常にどの問題を解くのがより有意義か、という問題が含まれている。基準の選択の問題と同じく、この価値判断を含む問題は、まったく通常科学の外側にある基準によってのみ答えられるものであり、パラダイム間の論争から革命が生じるのは、この外にある基準によるからである。しかし、基準とか価値とかよりもさらに根本的な何かが問題となっているのである。」p.124

(16)第10章の題は「世界観の変革としての革命」となっているが、この「世界観」により、トマス・クーンが表現したいのはどういうことか。

「はじめのうちは、彼の知覚の道具は眼鏡なしの時と同じように機能するし、最後にはまったく方向感覚を失して危険な状態になる。しかし、その対象が彼のしい世界に適応することをことを学びはじめるや、彼の視覚は混乱期をすぎて確立する。だから物体は再び眼鏡をかける前のように見える。以前には変則的でった視界に馴れて、視界自体を変えることになる。比喩としても、また文字どおりにも、反転レンズに馴れた人間は、視野の革命的転換を行ったのである。」p.126-127

「パラダイムのようなものが、知覚自体に対する必要条件ではないかとさえ思える。人間に見えるものは、彼が見たものではなく、彼の既成の視覚的概念的経験が彼に見えるように教えるものによっている。そのような訓練がなければ、ウィリアム・ジェームスの言葉にある「百花繚乱の混乱」があるのみだ。」p.127

「彼にはどのように写ろうと彼が常に見ているのは黒のハートの5であることを、外側の権威、つまり実験者によって保証されているので、知覚像が変わっに違いないことを知る。」p.128

「ちょうど、変則トランプのように、その天体は既存のパラダイムによって与えられた(恒星か彗星かという)知覚のカテゴリーに適応できなくなったからでる。」p.130

「パラダイムで変わるものは、ただ、環境と知覚の道具の性質上、永久に定まっている観測に対して、科学者の解釈が変わるからにすぎない、と。この考え方からすれば、プリーストリーもラヴォアジェも、共に酸素を見たが、彼らは観測を違ったように解釈したのだ。アリストテレスもガリレオも共に振り子を見たが彼らの見たものの解釈で違いが生じたのだ。」p.136

(17)「パラダイム変革」における研究者の「世界変革」はどのようにしておこるか。

「科学革命中に起こりうることは、個々の安定したデータの再解釈に完全に還元できるものではない。まず最初に、データは他の解釈を許さないほど曖昧さのったくない安定したものではない振り子は落下する石ではないし、酸素は脱燃素空気ではない。従って、科学者がいろいろな対象から集めるデータは、すぐ後述べるように、それ自体湖となっているのである。さらに重要な点は、個人あるいは集団が、抑制された落下から振り子へ、あるいは脱燃素空気から酸素へ転する際の過程は、解釈に似たものではないということである。科学者が、解釈すべき安定したデータなしで、どうして解釈しなおすることができるだろうか。釈者であるよりもむしろ、新しいパラダイムを抱く科学者は、逆転レンズをつけた人のようなものである。以前と同じ一群の対象に向かい、しかも自分でそうていることを知っていながら、彼はなおかつその詳細において、」p.137

「データの解釈は、パラダイム開発事業の中心的な部分となるのである。しかし、その解釈の仕事―これが前の前のパラグラフの問題点となったのであるが―は、パラダイムを整備できるだけであって、それを訂正しない。」p.138

「このような直観は、古いパラダイムによって生じた変則的、合法則的、両方の経験に拠るものであるけれども、直観は経験の特定のものと論理的に、個々に結びつけられるものではない。むしろそれは、大部分の経験を寄せ集めて異なった束の経験に代え、その後で、古いものではなく新しいパラダイムに個々に結びつけさせるものである。」p.138-139

「科学者が実験室で行う操作や測定は、経験から「与えられた」ものではなくて、「苦労して集めた」ものである。」p.142

(18)「自然科学」と「社会科学」の違いを「進歩」という言葉からどのように捉えているか。

「特殊なのは科学者集団だけではない。」p.195

(19)「科学の進歩」とは何か。

「この本の最後に至るまで、「真理」という言葉はただフランシス・ベーコンから引用したときだけにあらわれた。そして、その言葉を使用したときも、革命に一つの道以外の全てを消去するのが専門家たちの主な仕事であった時期を除いては、科学を行うために、両立しないルールが共存することはあり得ない、とう科学者の確信を示しているだけである。この本で描いた発展の過程は、原始「から」の変化の過程であって、だんだん自然の理解が、詳細に洗練されてく経過であった。しかし、何ものか「へ」の進化の過程については語っていない。そこを不満に思う読者も多いことであろう。我々は皆、科学を、自然が前もっ設定したある目標に常に進める事業である、みなす習慣に、あまりにも馴れすぎている。しかし、何かそのような目標がある必要があろうか。科学の存在とその成を、ある時点における集団の知識の水準からの進化によって説明できないか。ある補の完全に客観的で真実の自然解釈が存在し、科学的業績の正しい尺度は、れがそのきゅきょくの目標に近づく度合いによって測れる、と考えてもよいものだろうか。「知りたいことへの進化」を「知っていることからの進化」に置きえればその過程で、多くの問題は消滅するかもしれない。」p.192

(20)カール・ポッパーの反証例とトマス・クーンの反証例の違いは何か。

「カール・R・ポッパーは、ファルシフィケーション(虚偽性の立証)、つまり、その結果が否定的であるが故に、既存の理論の排斥を必然的にもたらすようなテストの重要性を強調する。虚偽性の立証に帰せられる役割は明らかに、本書で、変則的経験、つまり危機を呼び起こして新しい理論への道を準備する経験に帰せられるものによく似ている。」p.165

「しかし、変則的経験は、虚偽性を立証されたものと同一ではない。私は後者の存在さえも疑うのである。これまで繰り返し強調してきたように、いかなる理論も、ある特定の時点において直面するあらゆるパズルを解けるものではない。また、既に得られた解答も完全なものではない。むしろ、通常科学の特徴たる多くのパズルが生じるのは、既存のデータと理論の適合が不完全だからである。適合しないことが理論を排斥する根拠であるなら、いかなる時代のいかなる理論も全て排斥さるべきである。一方、ただ重大な不適合だけが理論の排斥を正当化するものであれば、ポッパー派は、「非蓋然性」もしくは「虚偽性の度合」のある基準を設ける必要があるだろう。それを展開するためには、ポッパー派は、必ずや色々な蓋然性検証理論の主張者の前に立ちふさがったのと同じ難点に遭遇することになるだろう。」p.165

「ポッパーの変則的経験は、既存のパラダイムに対する競争者を呼び起こす故に、科学にとって重要である。しかし虚偽性の立証は、確かに起こるけれども、変則性、または虚偽性を立証する例の出現と共に、あるいはその故に、起こるものではない。むしろそれは結果として起こる別の手順である。その手順は古いパラダイムに対する新しいものの勝利にある故に検証と呼んでも差し支えないであろう。さらに、蓋然性派による諸理論の比較が中心的役割を演ずるのは、その検証と虚偽性の立証を結びつけた手順にあるのである。このような二段階定式化は、大きな真実性という利点をもっていると思うし、検証の手続きにおいて、事実と理論の一致(または不一致)の役割を解明する端緒を与えよう。ところが少なくとも歴史家にとっては、検証が事実と理論の一致を作り上げているということは、あまり意味を持たない。全ての歴史8滴に意義ある理論は、事実と一致するものであるが、ただその程度が問題なのである。個々の理論が事実と適合するかどうかの問題については厳密な答は存在しない。しかし、そのような問いは複数の理論を全体として、あるいは対として取り上げるときには可能である。」

p.166

(21)鎌田ゼミで、自然科学を取り上げる意義を考えよ。

「証明よりも説得を問題にするなら、科学的論議の本質についての問いに対しては、単一にして一様な答が存在しない、ということになる。」p.172


講義録

担当者:松原、志摩

 クーンは自己中心的目的論的な科学者を西洋近代人の代表者として考えているのではないだろうか、というテーゼを発表班は指摘した。同時にそれは目的論を対象とした分析・批判であると考えられるがクーン自身、目的論を果たして越えていたのであろうか。目的論的とは例えば、子どもがおもちゃを欲しがって、その欲求を満たすために(目的のために)、欲求を肯定するような情報を次々に結びつけていく。このとき否定するような情報は排除される。つまり、正当化の構造といえる。この目的論をどのように克服するかは現代思想の責務と言えるのではないだろうか。クーン、マルクス、フランクフルト学派、ルーマン・・・。