「現代の科学科学」

担当者:朝山、佐藤、松原


ドルトン 『科学の新体系』

ドルトンは、ニュートンたちと同様に気体が熱的な雰囲気に取り囲まれた小さな粒子の配列として構成されていると仮定する説明に到達し、この考えを拡張し、混合気体の圧力がそれと同音同体積の成分気体の圧力の和に等しいという法則(ドルトンの分圧力)を1801年に発見。彼の原子はもはやある種の漠然とした物理的、一般的性質をもった最小粒子ではなく、それぞれの元素は、それに特有な究極粒子、すなわち原子からなり、同種の原子は、同一の質量をもつという基本的仮説から出発した。そして個々の原子の質量を直接測ることはできないが、異なる種類の原子の質量の比は、化学反応を支配するいくつかの経験法則、たとえば定比例の定律や倍数比例の定律から推測することができること、そして逆に、それらの経験法則が彼の原子仮説の当然の帰結であることを示した。以前のもっと形而上学的色彩の強い原子論と違って、このような経験的根拠を持つ原子論の出現はその後の化学や、物理学の発展に計り知れないほどの大きな影響を及ぼすことになった。(朝山)


ラプラス 『確立についての哲学的試論』ラプラス(1749〜1827)

 フランスの数学者・天文学者。『惑星系論』『天体力学』『確率論』など。ラプラスの業績はラグランジェなどと共同でニュートン力学の原理を惑星のレベルまで拡大したことから始まる。それはニュートンの力学をさらに完成した体系へと導いた。すくなくともラプラスはそのように考え、例えば宇宙のはじまりにおける初期条件がすべてわかれば、そこから先のことはニュートンの理論体系を用いて予測できると考えた。しかし、すべての初期条件を把握することなど神のような存在(英知)しか可能ではない(ラプラスの魔)。いくらニュートンの理論体系が完成されていても、初期条件が整っていなければ、結局完璧な予測など神や宇宙の創造主にしかできないのである。しかしラプラスは神を必要としなかった。初期条件をすべて把握することはできないという問題をラプラスは「確率」によって補えると考えた。「第一法則(確率計算の一般法則)これらの諸法則の中の第一は確率の定義そのもので、確率はさきにみたように、好都合な場合の総数と可能なすべての場合の総数との比である」。 このような確率の概念などラプラスの考え方は後の科学の演繹的方法論などに大きな影響を与えたといえる。統計による現状の分析とそこから生み出される対策。社会調査。実験系の心理学。景気動向予報。極度に初期条件を単純にして日本の将来を悩んでみたり。ときには初期条件を複雑と置いてみたり。(松原)


ヘルムホルツ 『力の保存についての物理学的論述』ヘルムホルツ(1821〜1894)。

 ドイツの生理学者・物理学者。『生理光学』『音の感学』など。ヘルムホルツ的段階に達するまで、「力」という言葉は異なるさまざまな意味を持っていた。例えば、ニュートン力学的な「静止した二点間に生ずる力」とライプニッツ(またその論敵であったデカルト)的な「運動」という「力」、という2つの力学的な「力」の概念があったし、それに加えて「熱」や「電気」などは「力」と扱われていなかった。要約すれば、ヘルムホルツはそれらの意味を統一の理論で説明したといえる。静止している物質系を考えたとき、その静止した物質は「張力(ポテンシャル・エネルギー)をもっている。ダムの水は「ポテンシャル・エネルギー」(位置エネルギー、重力エネルギー)を持っていて、その水を落下させることで「力」(運動エネルギー)に換え、電力を得る。その電力で家庭のエアコンを動かし、温かさ(熱)を得る。そのように「力」あるいは今日の言葉でいえば「エネルギー」は、場面に応じて状態を変化させているにすぎない。このような考え方の出発点を用意したのがヘルムホルツである。彼は「ある系における運動エネルギーとポテンシャルエネルギーの和、つまりその系のエネルギーはその系に特有なひとつの定数になる」ことを証明した。

 このヘルムホルツの指摘は今日、熱力学の第一法則として次ぎのように表現される。「孤立系のエネルギーの総量は一定である」。また、熱力学の基本法則のもうひとつに第二法則がある。「孤立系のエントロピーは減少しない」。孤立系においてはエントロピーは増大する、「分散した状態になっていく」一方である。このような熱力学のエントロピーの概念は今日のエネルギー問題ではもちろん、情報論の分野などでも基本概念になっている。ヘルムホルツは、張力・運動・熱・電気といった物理学の各分野を力・エネルギーという側面で統一的に扱えるような理論を用意した。それはつまり、私たちが「エネルギー」と呼んでいる言葉の意味を作り出したのだといえるだろう。(松原)


リーマン 『幾何学の基礎をなす仮説について』リーマン(1826〜1866)

 ドイツの数学者。リーマン積分やリーマン空間、リーマン面など幾何学においてなじみが深く日常的な感覚でもわかるのがユークリッド幾何である。直角三角形の直角をはさむ辺をX・Y、斜辺をZとおいたとき、Xの2乗+Yの2乗=Zの2乗(三平方の定理)となる。そのようなユークリッド幾何があった。ユークリッド幾何はギリシャ時代から体系化されていて、その体系は5つの「公理」に還元されていた。その「公理」のひとつに「平行線の公理」がある。「直線外の一点を通って、その直線と交わらない直線(つまり平行線)を一本引くことができる」。他の4つの公理は別の公理からそれぞれ導き出すことができたが、この「平行線の公理」だけは他の公理から導き出すことができなかった。「平行線の公理」は他の公理から独立したかたちとなっていた。そこで仮に独立しているのなら、つまり「平行線の公理」を変更しても他の公理に影響がないのなら、「平行線の公理」にアレンジを加えても体系として成立するのではないだろうかと考えた。ロバチェフスキーとボリャイは「平行線の公理」を「直線外の一点を通って、その直線と交わらない直線を無数に引くことができる」とした。その結果、ユークリッド幾何(平面幾何学)とは異なる幾何学体系(双曲線幾何学)が成立したのである。非ユークリッド幾何ができてしまったのである。

 リーマンはもっとすごいやり方で、「平行線の公理」を「直線外の一点を通って、その直線と交わらない直線を一本も引けない」、さらに「線分を無限に延長できる」という公理を「線分は有限である」、「2点間に線分を一本引ける」を「何本でもひける」と変更して、また別の非ユークリッド幾何(球面幾何学)を生み出した。また、『幾何学の基礎をなす仮説について』では極小や極大での幾何学の成立や、多次元量の扱い方などを模索した。リーマンはこのような日常的感覚からかけ離れた数学(虚数などもその例をいえる)の必要性を感じとっていたといえる。こうしたリーマンの業績は19世紀のみならず、20世紀の物理学、あるいは科学の発展において重要な位置を占めているといえる。(松原)


マックスウェル 『原子・引力・エーテル』 マックスウェル(1831〜1879)

 イギリスの物理学者。『熱学』『電磁気論』など。マックスウェルの仕事もさまざまな分野に広がっている。『エンサイクロペディア・ブリタニカ』のために書かれたこの『原子・引力・エーテル』は文字どおり、「原子」「引力」「エーテル」に関する記述である。これらは当時の考え方を知る上で貴重な資料であるが、ここではマックスウェルの業績のなかでも影響がもっとも大きいと思われる「電気現象」と「磁気現象」に関する、いわゆる「マックスウェルの方程式」についてふれる。

 マックスウェルは「電気現象」と「磁気現象」を統一に扱うような枠組みを打ち出した。その枠組みにしたがって電磁気に関する方程式が次々に発見されていく。方程式を発見したのはマックスウェル自身でもないし、彼は単に「電気」と「磁気」の統一理論を記述したにすぎないが、その後の研究で細部での間違いは見つかっても理論の中心的な考えは正しいことが証明されたのである。例えば「引力」などの力が地球と太陽の間で影響しあう。そうした遠隔的な力が伝わるのであれば、両者の間には力を媒介させる連続体があるはずだと考えられた。すなわち「エーテル」である。光が波動としてやってくるのなら、音が空気を媒介に伝わるように、「エーテル」が媒介している。その後「エーテル」は否定されたけれども、それでもなおマックスウェルの電磁気論は成立したのである。そしてこの話は量子力学における「光の粒子と波動の二重性」や「場の理論」、「統一場の理論」「大統一場の理論」などの20世紀の科学思想へとつながって行く。(松原)


マッハ(1836〜1916)

 オーストリアの物理学者。哲学者。ウィーン大学を卒業後、グラーツ、プラハの数学・物理学の教授をへて、ウィーン大学の哲学の講座を担当。音響学・電磁気学・力学・光学・熱力学に関する研究と共に感覚生理や美学・心理学等の広汎な分野に興味を示した。著書としては「力学史」「熱学史」「光学史」ある。特にこの中で試みたニュートン力学の時間・空間概念の批判はアインシュタインに刺激を与えた。この種の研究を素材として、科学的説明の本質についての思惟経済の説を唱える。

 ニュートンが提唱した経験主義的な方法論に基づく科学の扱いかたに根本的な懐疑を抱き、物理学の歴史的・批判的研究を通して現状打破のための具体的手段を追求することを試みた。そこでマッハが提唱したのが「一般的方法論」である。それは特定の主張とは独立したものであり、もちろん、マッハがよく好んで使った仮説、感覚を要素とする、ということも含まれる。一般的方法論とはあくまで、ある特定の主張を判別、検討する立場を提供するものである。

 しかし、主観、客体をまっ二つにして、主客二分を前提にするのではなく、主客の境界が無いということも考えにいれるのである。ここで問題になるのは、リアリズム(意識を越えた独立の存在)のとらえかたのあやまりをリアリズムに頼らずに検知する可能性はどこにあるかということだ。マッハは感覚にあるといっている。そして、その要素としての感覚と感覚の間の規則的な結合関係を見つけるのである。ここで、注意しなくてはならないのはマッハは感覚というものをあくまで、選択可能な可能性の一つとして採用しているのであって、前提とはしていないのである。一般的方法論のいうところは実在、感覚、どちらも前提として考えるべきではないということである。(もちろん、両者を相闘わせるルールを提供することはありうる。)そして、最終的な目的とは次のことである。要素間の複雑な結合によって、自ら隠される単純で規則的な関係を以下の手段、仮定をとり除くと共に、精神、物質の対立も放棄により、要素そのものの発展を見つけだすことである。

 以上のような特定の仮説に対して批判を常におこないながら、その仮説に基づいて導きだされた結果を展開するという手続きによって、ニュートン物理学とニュートンの哲学の支配的影響の結果として失われていた科学と哲学との再統一を図った。(佐藤)


ボルツマン 『アトミスティークについて』

  『理論物理学の方法の輓近における発展について』

 ユークリッド空間中の質点、ニュートン力学に基盤をおく。彼の物理学はニュートン的力学と運動的粒子論にはまだ組み尽くされていない可能性が蔵されており、この信念の下で既存の理論の内容を可能な極限にまで展開するものであった。現代の科学思想において原始論と統計的推論が果たしている中心的役割は、このような彼の物理学ないし、思想に負うところが大きいということができる。

 彼はまたダーウィンの熱烈な支持者であり、進化の思想を思考の進化へと拡大適応する。「我々のアイディアは試行錯誤的な適応の過程の結果である。」というのが彼の生物学的理論である。

 ボルツマンは当時の公認の哲学一般に対して、それらが本質的に幼稚な理論を除去する効果のあったことは認めたが、それらが終局的心理はすでに発見されてしまったとして自らを発展させることをしない点を批判した。同様な批判は同時代の物理学者にも向けられ、特に経験を越えることなく、その意味で将来の発展の中で残されるべき現象論的物理学を作り上げたとする物理学者の指導者であるマッハたちに対して非難を浴びさせた。ボルツマンの不満と批判の根拠には、知識の仮説的な性質の認識というある意味ではマッハと共通する立場がある。ただし、ボルツマンの場合、知識の仮説性についての論理はマッハのそれと対立するばかりでなく、さらに生物学的な意味での仮説性という点がつけ加わっている点が特徴的である。(朝山)


パブロフ 『条件反射』 パブロフ(1849〜1936)

 ペテルブルグ大学でメンデレーエフ等の教えをうけ、生理学に興味を抱く。軍医アカデミーに助手として勤務し、外科技術と実験生理学的研究に優れた才能を示す。1890年アカデミーの薬理学教授となると共に、実験医学の新しい研究所の生理部門の長となり97年同教授、この間に行った消化の生理学的研究、特に胃液の分泌を制御する神経機構の解明によって1904年ノーベル賞をうける。犬の唾液の分泌量の測定による「条件反射」を研究し、行動主義心理学の理論、学習の理論に大きな影響を与えた。

 特定の過程の追求を目的にしたときに、主題を追求しながら一見副次的な反応にたえず注目することによってとらえられる統一的描像が、追求されていた主題の意味をはじめて明らかにするという生体作用固体の論理は、生物体の全一性は構造内に組み込まれており、その構造はまた長い進化の産物であるとする存在の法則的・歴史的側面を統一する課題へつながることになる。(佐藤)


メンデル 『植物の雑種に関する実験』 メンデル(1822〜84)

 アウグスティヌス教団に入り、847年聖職者となる。教団派遣の学校教師となるため1851年ウィーン大学で数学・自然科学を修め、1864年にブリュンの中学校の教師となった。数学と物理学とに興味をもち、二つの学問を結び付けて、趣味としての植物学の研究を行った。1857年から8年間修道院の庭でエンドウを栽培し、有性生殖の場合の形質の遺伝についてのメンデルの法則を発見した。(佐藤)