『現代の科学2』読書案内

発表者:池田和代、吉良敦岐、任宇丹、橋爪尚子


1)ポアンカレによると科学が到達できるものは何か?

2)ポアンカレによると数学は帰納的な学問であるのか、それとも演繹的な学問であるのか?

3)物理的連続体と数学的連続体の違いはなにか?

4)公理とは何か?そして、「公理」「定理」の違いをどう考えているか?ポアンカレ、ヒルベルトを読み総合的に答えて下さい。

5)経験から幾何学がつくれないのはなぜか?

6)ハイゼンベルクの量子論と古典論の違いはどこにあるのか?また、量子論の本質はどこにあるのか?

7)量子論は、それまでの学問、量子論以後の学問にどのような影響を与えているか?

8)ウィーナーは科学と社会の関係をどのように捉えているか?

9)ウィーナーな「象牙の塔的な態度のいくらかを保持しなければならない」と語っている。ところが、総合政策学部の理念の一つとして「象牙の塔から出て、社会に還元する」というものがある。どうしてウィナーと総合政策学部の理念はこの様に違うのか?双方の利点と欠点、そしてその思想を生み出した、社会の現状を考えてみて下さい。


発表用レジュメ

★ポアンカレ・ヒルベルト

1)ポアンカレによると科学が到達できるものは何か?

「科学が到達できるのは、素朴な独断論者の考えるような物事態ではなく、単に物と物との間の関係だけである。これらの関係以外に認識できる実在はない」(P134下)

 ここが、19世紀の科学のポイントではないでしょうか。ポアンカレは「現代の科学2」に入っているので、20世紀の科学として捉えられているのですが、一つの物体にこだわらず、関係性に着目したところは、ラプラスとまったく同じである。どうしてこのような「関係性」に着目する思想が現れてきたかというと、おそらく「神」という唯一の絶対性が揺らいだ結果であろう。19世紀の思想家である、J.S.ミルが議論の大切さを説き、唯一の絶対性を疑ったこともこれに影響しているといえよう。後に触れることになるが、このようなポアンカレの思想が、ハイゼンベルクによってプラクティカルな研究に移されることになる。

 しかし、ポアンカレの「関係だけが科学によって認識できる」という推測も、「認識」という段階(つまり「人間が認識したものは必ずしも確かではない」という段階)が揺らぐと、どこまでパラダイムを維持できるのであろうか?ポアンカレの没後にフロイトによる無意識の発見や現象学が生まれてきたところも見逃せないであろう。

2)ポアンカレによると数学は帰納的な学問であるのか、それとも演繹的な学問であるのか?

 ポアンカレは「数学は演繹的だ」という仮定から論を進めて行くが、一つのところでその考察はストップする。それは、研究者がいくら事例研究を積み重ね、絶えず疑って真理を追究しようとしても、人間はある一定の所で一つの公理を信じているからである。そして、数学はその公理を一般化しようとして進んでいくのである。それは・・・

「著者は既に知られた命題を一般化しようと意図している。数学の方法は、特殊から一般へと進むのだとすれば、どうしてこれを演繹的といえようか」(P138上)というところや、「しかし、どんな数学者に質問しても、『これは厳密な意味で証明ではなく検証である』と答えるであろう。ただ純粋に規約的な二つの定義を一つ一つ引き合わせただけで、それらが同一であることを認めたのである。何も新しいことは収得されなかったのである」(P139上)
というところを見ると分かるであろう。

 ここでポアンカレの論は「数学は帰納的な学問ではないのか」というコペルニクス的展開を見せる。これまで学習を積んできた鎌田ゼミのメンバーなら、この転換が一見簡単なようで簡単でないことは分かるであろう。ここがそれまでの科学と現代の科学とのの分かれ目だといえるであろう。

 また、ポアンカレは

「最も初等的な定理の証明ほど、教科書の中で最も不明瞭で厳密でないものはないのである」(P140上)
と述べているが、これは厳密性というものは意味がないという視点につながってくる。したがって、最初の問題に戻ると「関係だけが科学によって認識できる」ということになる。この思想は、システム論(つまり内部をブラックボックス化して、インプットとアウトプットから内部を推測する)へとつながっていくであろう。その最初の試みがハイゼンベルクの量子学ではないだろうか。

3)物理的連続体と数学的連続体の違いはなにか?
★物理的連続体

 人間の感覚、経験によるもの。これによると、A=B B=C A<C、という関係も成り立つのである。

★数学的連続体

 物理的連続体の矛盾を取り除くために生まれてきたもの。したがって、それは人間の感覚や経験を越えたものであって、純粋に精神の創造である。これはA=B B=C A<Cのような矛盾を防ぐために、精神によって創造されたものである。

4)公理とは何か?そして、「公理」「定理」の違いをどう考えているか?ポアンカレ、ヒルベルトを読み総合的に答えて下さい。

 ここはポアンカレ・ヒルベルト双方の中で大量に引用できるが、ヒルベルトの中から一番分かりやすいところを引用しておく。

「多くの学問には基本命題が存在する。これらの基本命題は最初の出発点として学問領域の公理とみなすことができる。こうしてここの学問領域の進歩的発展はもっぱら、すでにあげた概念体系を論理的に仕上げることになる。」(P196上)

 ここでの多くの学問の基礎命題とは「質量保存の法則」のような誰もが疑っていない定理である。これがヒルベルトが考えるところの公理であろう。この公理がパラダイムを形作る。そのことは・・・

「しかしながら、この「証明」を批判的に検討すれば、それらは、それ自体では「証明」ではなく、実はより深みにある諸命題へ還元できることを示したにすぎないことがわかる。今度は、この命題を証明すべき定理としないで、新しい公理とするのである。」(P196下)
 を読んでも分かる。したがって、一つの公理が通用している間が一つのパラダイムであって、その中で「通常科学」は行われる。その公理が崩れるとパラダイムシフトするのである。

 また、ポアンカレの中にもパラダイムを指摘しているようなところがある。

「すべてをはめ込もうとする枠組みは、我々が作った物である。しかしわれわれはそれを勝手に作ったのではなく、いわばあつらえれ作った物だから、本質を損なわず事実をそこにはめ込むことができる」(P135上)
 ここで指摘されている「枠組み」とは、具体的にいうと数学、幾何学、そして空間というものであろう。例えば人間はもう既に「空間の枠組み」というものを持っていて、それがユークリッド幾何学である。ところがこの「枠組み」が揺らぐ、つまりパラダイムが揺らいでくる時に、非ユークリッド幾何学のようなものが生まれ、あらたなパラダイムを形成していくのであろう。

 上の引用の中で一つだけ問題になったのは 「あつらえる」という言葉の使い方である。これはいったい何にあつらえるのであろうか?これは前後を読んでも分からない。科学に真理性などにあつらえるのであろうか・・・このあたりは大きな疑問が残っている。

5)経験から幾何学がつくれないのはなぜか?

 経験では不連続体しか扱うことができず、不連続体を精神の力で強引に連続体にするのが数学・幾何学である。数学・幾何学は連続体を扱う学問であって、したがって人間個人の経験から数学・幾何学つくれないのである。それは経験的に1と2という数字は理解できても、1と2の間は分析できないのと同じである。

★ポアンカレ補足★

<<偶然論>>
 「さいころを振る場合でも、振り方によって1が出たり2が出たりする。1が出るか2が出るか、こちらの手加減の仕方できまるとしても、それを自分でコントロールできるわけではない。1を出すか2をだすかの原因の方の差は、とても区別ができぬくらい小さい。そういう場合には、1が出るのも2が出るのも偶然だと思う。しかし、そうであればこそ確率論といわれる数学が成り立つのだと言う議論を、彼は詳しくやっている」(P22下〜P23上)

 以前までの科学なら、絶えず一つの真理を追い続けるため、確率という考え方は生まれてこないはず。それまでの科学者なら、その「確率」というものを「因果律」に変換していくことこそ、科学の役割だと考えていたのではないだろうか。ポアンカレの考え方も、基本的にはそれまでの科学者の考えを踏襲したものであるが、「因果律」というものに変換することに対してそんなに固執はしていないように思われる。

★ハイゼンベルク

6)ハイゼンベルクの量子論と古典論の違いはどこにあるのか?また、量子論の本質はどこにあるのか?

 「量子論ではある定まった状態、例えばIS-状態について、電子の位置の確率関数だけをのべうるにすぎない、という点に、ボルンやヨルダンと共に、古典論に対立する、量子論を特色づけるその統計的性格を、認めることができよう

 ・・・・
明らかに『古典論においても』、原子の位相を知らない限り電子のある程度定まった位置の確率だけしかのべえない。古典力学と量子学の間の違いは、むしろ、古典的には前述の諸実験を通じて常に確立した位相が考えられうる、というところにある。しかし現実にはそれは不可能である。位相を決定する為の実験はすべて原子を壊すかもしくは(その状態を)変えてしまうからである。原子のある定まった定常「状態」において、原理的に不確定な位相こそが、周知の式
 Et-tE=h/2πi 又は Jw-wJ=h/2πi
ところである。」(P332下)

 ここのところは同じような思想がポアンカレの中にも見いだすことができる。
「これによってある現象が初めて生じた諸条件を再現すれば、その現象の反復を期待できるのである。すべての条件が同時に再現されるならば、この原理は安心して適用できるのだが、必ずいくつかの条件は満たされないから、こういうことは決して起こりえない。」(P136上)

 この二つを読んでも分かることだが、ハイゼンベルク・ポアンカレの共通点は「すべての条件を再現することは不可能である」という考え方である。すべての条件を再現できないのであれば、電子の位置と速さの値の確率だけを計算しようするか(ハイゼンベルクの場合)、偶然として確率を計算する(ポアンカレの場合)しかないのである。

 このところを読んで思い出されるのは、レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」の中の一説であろう。

「社会も個人も、全体を再構成してみることも可能だと思われる理想的な総目録のなかから、いくつかの組み合わせを選ぶにすぎない。・・・それらすべての一覧表を作ることによって、ちょうど元素の場合と同じように、一種の周期律表を描くことが可能になるかもしれない。その表のなかでは、いっさいの実在のあるいは単に可能性として存在する習俗が、さまざまな系列にまとめられて姿を現すことになるだろう。そして、もはやわれわれは、社会が実際に採用している習俗を、その周期律表によって確かめれさえすればよいことになるであろう。(P461下〜462上)」。

 この部分は古典論、つまり原子の位相をすべて知れば、すべてが分かるという考え方が以前まで幅を利かせていたという現れである。もちろん、レヴィ=ストロースはいわゆる「原子の周期表」がすべて解明することができると考えているはずもなく、その原子周期表も変化し続けるというように考えていたのではないだろうか。もしそうなら、それこそ「関係性」という言葉が大切になってくるであろう。

7)量子論は、それまでの学問、量子論以後の学問にどのような影響を与えているか?

 量子学が現代の科学に与えた影響は・・・

「しかしながら、因果律の決定論的な定式、『現在を精確に知れば、未来を算出できる』というのは、(仮定判断における)後件ではなくて、前提が謝っているのである。われわれはその現在をそのあらゆる規定要素について語ることは『不可能』なのである。それゆえ知覚することはすべて、多様な可能性のうちからの一つの選択であり、未来の可能性の一つの制限である。」(P354上)

 というところに十分に現れている。一番大切なところは最後の文章で、知覚するということは・・・

 1、多様な可能性からの選択
 2、多様な未来への一つの制限

であるのであろう。この辺は、ルーマン社会システム論と繋がっているのではないか?

★ウィーナー

8)ウィーナーは科学と社会の関係をどのように捉えているか?

 「私から見ると、社会における科学の役割は何かという問題は、個人の生活における感覚的経験と反省との役割は何かという問題と密接な関連を持っているように見える。この役割は、根本的には、ホメオスタシスを保つこと、すなわち個体の周囲の世界との間に、ある種のダイナミックな平衡を維持することのように思われる。」(P461下〜P462上)

 「それは一種のダイナミックな平衡、常に変化してゆく環境のもとでのわれわれの人間として、および人類としての生存の維持を好都合にしてくれるような関係である」(P464下)

 では、「なぜホメオスタシスを保たなければならないのか」という問題が生まれるであろう。これに対して、ウィナーは・・・

「我々の生きていく目的は、もしそれが追っても結局は無駄で挫折に終わるにすぎないものではないとすれば、個人の生存の維持という目的を越えたものでなければならない。おそらく我々は、仁留の生存の維持という目的をあげて、それを補足することができよう。」(P462下〜P463上)

「生命の目的は何かという問には明確な答えはない。なんらの答えがある限り、それはやって行くうちに分かってくるものであり、われわれはそれを経験することによって解いてゆく(人間は自分自身を環境に対してある活動的かつ能動的に機能している関係に維持しようとしてゆく)。」(P464上)と答えている。

9)ウィーナーな「象牙の塔的な態度のいくらかを保持しなければならない」と語っている。ところが、総合政策学部の理念の一つとして「象牙の塔から出て、社会に還元する」というものがある。どうしてウィナーと総合政策学部の理念はこの様に違うのか?双方の利点と欠点、そしてその思想を生み出した、社会の現状を考えてみて下さい。


★ノイマン

1.計算機と生きた生物、それぞれ対応・比較されている機関、機能は?

p415上段;人エオートマンは中枢神経にいくらか似ている。あるいは少なくとも中枢神経のある部分にはいくらか似ている。人エオートマンは、もちろん中枢神経よりもはるかに簡単である◎すなわち、ずっと小さい。このことは重大な意味を持っている。しかしながら、大脳に比べて小さいこれらの人エイオートマンの立場から、生物体とその組織の間題を解析し、この「井のなかの蛙」的眺望から中枢神経オートマンを比較することは興味がある。

2.生きた生物と人工オートマンの差とは?

p430;素子の大きさの比率
p447;複雑さという概念

3.オートマンを構成する要素のリストを短くすることができるのは何故か?

p452;このようなリスト、整列させること、すなわち、いここで必要とするメカニズムの多様性に富んだ構成をもれなく十分包括的に、かつこの種の考え方に必要な公理的厳密さを十分にもった「機械部分」のカタログを書くことは、比較的容易であろう。リストは非常に長いものである必要はない。もちろん、リストを任意に長くしたり、任意に短くすることはできる。他の基本部分を組み合わせることによって達成できる事柄を基本部分としてリストは長くすることができるであろう。また、特性や関数の重複度をおのおのの基本部分に付与することによって、リストを短くすることができる一要するにリストは単一のユニットの一部からなるように作ることができる。だから、必要だとされた基本部分の数にかんあする報告では、どの一つの基本部分をとってみても、あまり複雑なことは期待できないが、どの基本部分も明らかに別々の作用を遂行するようには作られていないであろう。この意味で、ほぼ一ダースの基本部分があれば十分であることを示すことができる。

4.自己増殖で「複雑さ」が増加することさえあり得るのは何故か?

p456;前述の方法を少し変化させると、自分自身を再生し、その上同にほかのものを作ることのできるオートマンを、われわれは作ることができるエこのようなオートマンは特殊な場合には多分、あるいはそうでないかもしれないが、典型的な遺伝子の作用、すなわち、自己増殖プラス生産、すなわち、ある特定の酵素の産出、または産出の刺激を行うであろう1。実際に、オートマンDと、他の任意のオヒトマンFを記述する命令ID.FでIDを置き換えれば、である。その内部のAに挿入されたID.FをもったオートマンDをEFと記述することにする。オートマンEFはあきらかにすでにのべた諸性質を持っている。このEFはEF白身を再生し、さらにFを再生するであろう。オートマンEFのID.FのうちF部分で起こるこようなEFの「変異」は致命的なものではありえないことに注意しよう。もしもその変異が、FをF’で置き換えるならば、それはEFを欧に置き換えることである。すなわち「変異種」はまだ白己増殖できるが、しかし野の副産物は変している一FではなくF’である。もちろんこれは典型的な非致命的変異種である。


講義録

担当:朝山 生島

 前回の19世紀の科学論に引き続いて、20世紀の科学を扱った。主に科学者の反証可能性に対する認識、科学とその外との関係をどう保つかということからうまれてくる科学者の責任問題、人間機械論の発生ということに焦点が当てられ、ハイゼンベルグ、ウィーナー、ポアンカレ、ヒルベルト、ノイマンの学説を検証した。発表班からは量子論の以後の学問に与えた影響、ウィーナーの「象牙の塔を保つ」という態度は総合政策学部の理念とどう違うのかという問題提起がなされた。その後論点は大学で研究する学生と社会との関係をどのように考えるのかという事に移り、「象牙の塔から出て、社会に還元する」ことを考えるべきだといった活発な意見が出された。