アダム・スミス『国富論』 、J.S.ミル『自由論』
ベンサム『道徳及び立法の諸原理序説』

担当:朝山、生島、佐藤、志摩、任


★アダム・スミス

1)分業について簡単に述べてください。

2)利己的本能がいかに人間関係の基本的要因であるかを述べている箇所をあげてください。

3)資本は何によって増加されるか?

4)社会の利益を促進するものは何か?

5)重商主義とはどういった考え方か?

6)自然的自由制度のもとでの主権者の義務は?

7)社会全体の一般利益のために支出されると考えられているものは何か?

★ベンサム

1)功利性とはどんなことを指し、またその原理とはどんなものか

2)功利主義の原理に反するものとしてどんなものを挙げているか 

3)ベンサムは功利性をどのようにして計ると言っているか

4)政府は社会の幸福のためにどのように関わるか

5)人間の行為に影響を与えやすい動機はどのように分類されるべきだと言っているか 

★J.S.ミル

1)ミルが「自由論」において、“誰かの行動の自由に正当に干渉し得る唯一の目的”としているものは何であるか。

2)意見の自由と発表の自由が、人類の精神的幸福にとって必要である根拠とは何か?

3)「自由論」3章中のミルの主張には、ベンサムをはじめとする功利主義とは必ずしも一致しない部分がある。それはいずれの箇所であるか。 

4)国家における世論の優位の確立はどのような働きをするか?

5)社会全体の活動力のあまりに大きな部分を政府にまかすことなしに、集権化された権力と知性とからできるかぎり多くの利益を獲得するための、念頭におれるべき理想とはどのようなものか?


発表用レジュメ

Wealth of nations(アダムスミスの経済思想)

★「利己心」=「自愛心」

スミスはその機能の適性さのうちに市民社会における新しい徳性成立の根拠を求めようとした。

 利己的本能と利他的本能は全能の神が人間創造のとき、人間の幸福のために与えたもの。これらを発揮することによって人間は最も幸福になり、またそれが神の意図でもある。→神の「見えざる手」

人間の利己的本性に根ざす活動
→ 節約 勤勉 敏活 慎慮

個人の健康、財産、及び社会的地位と名誉のように、この世における人々の慰楽と幸福とが主としてかかっていると思われるものに対する配慮 

 利己的本能が社会公共の福祉に通じるのは、市民社会が完全に自由であって、自由競争が100%行われるような状況でなければならない。また、利己心が新しい徳性を生みだし、「私悪」がそのまま「公益」になるのは、「社会の中層ならびに下層階級」にのみあてはまる。

重商主義の時代・・・富とは金銀であり、財宝であった。

          金銀の獲得 + 貨幣の蓄積
          貿易差額によってのみもたらされるもの
          輸入を制限し、輸出を奨励する経済政策  

重商主義批判 →「事物自然の成り行き」に反する

 スミスは、「主権者側が、国防、司法、公共的施設の維持という義務を遂行し、重商主義的統制が廃棄されたら、「自然的自由制度」がおのずからできあがってくる。そうなれば、各人は正義の法を侵さない限りは、完全に自由に自分がやりたいようにして自分の利益を追求し、自分の勤労と資本をもってほかの誰とでも、他のどの階級とでも、競争することができる。」と述べている。

<<国富論というもの>> 

「どうすれば一国の富を増大することができるか」
富の要因:労働の「熟練」「技巧」「判断」
↓  
分業(職業分化)
分業社会=交換

★交換性向・・・人と人との協力
★利己心・・・人と人とを対立させて分離させる競争
       これらの矛盾した人間の社会的行為が市民社会の法則を作り出す 

★労働:苦労、骨折り
 分業によって支えられている労働はすべてのものの価値の根源でもあり、その尺度でもある。

「分業にもとづく生産 + 競争的市場」

自分の利益を追求した競争はみんなを幸せにするという「公共の善」をもたらす。しかもそれは自然に実現する。



「見えざる手」

 政府は余計な介入をしてはならない。市場を「自由放任」の状態にしておかねばならない。(自然にまかせる)


「経済的自由主義」

 世間では「悪」と思われている「私益追求」が実は公共の善に一致する

(P.S)
富・・物質的な財だが唯一の価値というわけではない。富の創造によって好ましくない結果をもたらすことがある。分業はその可能性を持つ。決まりきった作業に従事する労働者はいろいろなことに頭を使わなくなり、ばかになってしまう。国家は下層階級の教育から何の利益を収められないにしてもほっといてはいけない。それが犯罪、暴動、道徳的荒廃など、社会的汚染の発生源となる可能性があるからだ。

→貧困救済の必要性

<<スミスが言いたかったこと>>

 人間として生き生きとしていたければ、常に成長しようとする世界がなければならない。そのためには、「自己の生活状態を改善しようとする各個人の常住不断の努力」が必要。国家はそれを妨げる介入をしてはならないし、個人は自立しなければならない。

<<Question>>

・スミスの「他人に害を与えない限りは完全に自由に自分がやりたいようにして自分の利益を追求できる」という考え方についてあなたはどう思いますか?(見えざる手は有効か?)

<<私達が考えたこと>>

1 )自分の利益を突き通そうとすれば他人が自由でなくなる状況がうまれ るのではないだろうか。(結局、誰か(何か)が犠牲になるのでは?)

2)人間がある程度同じ正義の法を持っていなければ、この状況は成り立た ないのではないか。(考え方の食い違い、見えざる手の解釈の誤解が環 境破壊など現在起こっている様々な問題が浮上してきたのではないだろうか)

3)「利己的本能」が働けば、自然と「利他的本能」も働くというけれど、スミスが考える利他的本能の中に自然(資源)、次世代の人々の権利は含まれていたのか。

4)私的利益追求に走ると目先の利益のことしか考えられなくなるのではないか?( たいていの人間は利他的本能よりも利己的本能が強く働くので、他人や遠い将来のことも考えなければいけないと分かっていて も、今生きることが精一杯で、結局自分や目先の利益のことしか考えられないのでは・・。)

5)スミスの考え方は(極端にいえば)経済システムの構造の大変革が必要なところには通じるかもしれないが、先進国のようなcarrying capacityの限界に近づいき、持続ある発展を望むところにも見えざる手は有効か?(大量生産、大量消費に対する疑念)

6)「見えざる手」は演繹的な原理ではなく、警告機能か?

By Yumiko Asayama


●ベンサム 「道徳及び立法の諸原理序説」

(文責:生島)

●ベンサムが「道徳及び立法の諸原理序説」で述べようとしたこと

 功利性の原理を基礎に置き、人間を内から律するものとしての道徳や外から律するものとしての立法、行政の体制を形成する。

●功利性の原理 (the principle of utiliy)

功利性=善、快楽、幸福を生みだし、害悪、不幸を防止するような性質

功利性があれば行為の是認、なければ否認する

 個人レベルでも社会レベルでも同じように考えられる

社会における功利性を持った行為
=各個人の快楽の合計から各個人苦痛の合計を引いて、快楽が残った場合

●行政や法律の役割

 政府の仕事は刑罰と報償によって社会の幸福を促進することすべての法律の目的は社会の幸福の総計を増大させ、害悪を除去すること

 しかし、すべての刑罰はそれ自体としては害悪であり、より害悪を除去するかぎりにおいて承認されうる

●ベンサムから読みとれる「自由」

 個人主義- 行為を決める際の出発点を個人の善悪においている。善悪はただ神などから与えられるものではなく個人の行為の中で自分達で判断できる。

 しかし、社会の幸福はすべてを足した総計の中から計られ、政府によって社会にとっての功利が計られるから個人の選択がすべてを決定するわけではない。


●ミルの“自由”の重要性を根拠づける多様性の意義

 ミルには、慣習に従う固定化された状態は良くない、という主張があります。なぜなら、その状態は画一化された社会を産み出すからです。画一化された社会では、何らかの事態に対する反応があらかじめ決まったマニュアルによって行われます。マニュアルは長年の年月を経て、その社会の平均的な状況にもっとも良く適応するように作り上げられた、同じ状況が続く限り最も効率的な対応のしくみです。そのため、その社会に属する大多数の人々はマニュアルをただ、覚えているだけで、なぜ、マニュアルがそうなっているか、ということには関心をもっていません。環境が急変しないかぎり、それで、充分だからです。そのため、なにか予測していない事態が起こった場合、その社会の人々はしばらくは何の反応をすることもできません。あまりにマニュアルにたより過ぎていたために適切な状況判断能力を失ってしまっていたからです。予測していない事態があまりに急で大規模な場合、マニュアル慣れした人々ばかりの画一社会では、その社会のしくみ、長年の年月によって洗練された仕組みを、新たな環境をふまえた上で修正することが出来ずに、崩壊させてしまい、原始的な粗野な仕組みに戻してしまいます。栄華を極めた大文明が、比較的原始的な社会の仕組みしかもたない民族に滅ぼされたりするのは以上のような事態が起こっているためです。画一化された慣習に従う固定化された社会とは洗練はされているが、柔軟性のないひ弱な社会のことなのです。

<読書案内2参照>

 では、いったいこのような画一化はなぜ、起こるのか? それは少数意見を無視する大多数の意見、主張を絶対的なものとして、人々それぞれの“快”を同じようにはかれ、人類に普遍的によい制度やライフスタイルがあると考え、最大多数の幸福を求める単純な功利主義的な国家における世論の優位の確立によってです。

<読書案内4参照>

 画一化された社会を避けるためにはどうすれば良いのか?それは多様性の尊重です。環境がそれぞれ異なる人それぞれに、より良いものは異なるとする立場です。

 多様性は意見の衝突を産みます。そして、淘汰が起こります。その淘汰の過程における各自の個人の自発性こそが貴重なのです。

<読書案内3参照> ベンサムとはまた異なったミルのいう功利主義と関連があります。

 この活力を産み出す意見の衝突は、人、それぞれの環境がことなり、しかも、変化するものであることを考慮すれば、その人々、時々の最適なものは異なるのだから、意見の衝突が完全に収束されることは、ありえないのです。しかし、それにもかかわらず、現実には、意見の衝突が収まりつつあるような状態が、どこの時代、国にもよく見られます。これは、なぜか、それは何かしら、一つのある意見がその社会を構成する人々の大多数に支持、あるいは偏見のような形で信じられ、絶対のものとされ、それ以外の意見は抑えこまれている状態が発生しているためです。そのような、意見の衝突が治まりつつある経過こそ、その社会が活力を失い、ひ弱になる経過です。

 だから、ある社会で、意見の淘汰の過程で、ある意見が教条化され、衝突が収まりつつある時は、その絶対化されようとしている、ある意見、がどれだけ正しいように思えたとしても、意見の衝突を起こしやすくするために、社会の大部分の人々に信じられている意見に、疑念を感じた人が、真っ向から反論を発表できるよう、意見の自由、言論の自由が尊重されなければならないのです。

<読書案内2参照>

●自由が制限される場合

 ある人の行為のどの部分かが、他人の利益に有害な影響を与えるやいなや、社会はこれを裁く権利をもっています。これによって全体の福祉が増進されるか、しないか、という問題が議論の対象になります。しかし、成功のための手段として、詐欺、裏切り、暴力のような、それを許せば一般の利益に反するような手段が用いられたときを除いて、なんらかの競争試験などで、他人の損失、他人の失望落胆から利益を得ることは妨げるものでは、ありません。

<読書案内1参照>とp324

●ミルの自由観について考えたこと

・ミルの特徴は、民主主義化された社会においての多数者の専制による画一化の危険性を唱えた所。

・慣習に従う固定化された状態は良くない、という主張はスミスと共通のもの。スミスとミル、共通の問題意識あるのでは?

・画一化された慣習に従う固定化された社会、洗練はされているが、柔軟性のないひ弱な社会←その当時では世界でもっとも民主主義的な憲法を持っていたドイツが、ナチスによってファシズム化したのも例として適当でしょう。

・他人に迷惑を与える場合は法律によって規制されるべきで、どこまでの行為が他人に迷惑をかけることになるのか定義があってはじめて法律の適応範囲が決められるわけですが、その加減が込み入ってるんですね。あいまいなのではないでしょうか?

・多様性の尊重です。環境がそれぞれ異なる人それぞれに、より良いものは異なるとする立場です。(←それぞれの人間の環境に応じてそれぞれに良いもの(ライフスタイルなど)が導くことができるある一定の公式を作れたら、それは、単一の真理といえるか?)

・多様性は意見の衝突を産むのです。そして、淘汰(ダーウィンの影響があるのでは?)


●アダム・スミス ベンサム ミル のまとめ

文責:生島

 「自由」というものを通してアダム・スミス、ベンサム、ミルを見てきた中で、この三人には共通する点があるだろう。それはまず、個人が自分の能力や判断に従って行動することを強調している点である。神や階級、当時与えられていた仕組みの中で安住するのではなく、自発的に行動することを認め、経済、政治の仕組みも自発性を認めるような体制にするべきだと考えていたということである。さらに共通しているのは、そのように個人を重視していながら、スミスでいう「正義の法」や「見えざる手」やベンサム、ミルのいう「功利性」ということで個人の裁量にも限界があることを示している点である。個人の裁量が認められるのもあくまで周りを侵さない範囲でのことであり、三人の文章の中からは何が他人にとって認められないのかと言ったような明確な線引きは読みとれなかったものの、際限があるという認識はあったのではないだろうか。

 つまり彼らにとって「自由」というのは個人の裁量の際限を含んだ概念だったのではないだろうか。もしくは「自由」ということをすべての基礎となる根本概念としたのではなく、社会の「拘束」とのバランスの中で強調したに過ぎないと言えるのではないだろうか。(能力主義と天子への服従を同時に述べた墨子の考え方とも共通している?)

 しかし彼らが際限を意識していたにも関わらず、何故この後でマルクスなどによって「社会主義」という概念が提出されなければならなかったのか、そしてフロムのような「自由からの逃走」が指摘されなければならなったのかということを考えると彼らの「自由」の際限の認識は必ずしも受け継がれたわけではないのではないだろうか。

提題案:

・アダム・スミスの「見えざる手」は現在通用するのかどうか。どんな理由で通用し、また通用しないのか。

・現在我々が考える「自由」と彼らの考える「自由」は共通しているかどうか。どんな点で共通し、どんな点でずれがあるのか。