マルクス・エンゲルス『資本論』発表用レジュメ

発表者:吉良、西沢、松原、守尾


1)商品には使用的価値と交換的価値が内在す

「商品の物理的特製というのは、要するに、それが商品を有用ならしめ、したがって使用価値鱈しめる限りで問題になるにすぎないのである。だが、他方では、まさに商品の使用価値からの抽象こそが、商品の交換関係をはっきりと特徴づけるのだ。」P100

 商品の使用価値を考慮の外におくとするなら、商品に残っているのは交換価値だけであり、労働生産物という側面だけである。これらのものの生産に人間の労働力が支出され、人間労働が堆積されているということだけでしかない。これらのものはそれらに共通なこういう社会的実体の結晶として、価値、つまり商品価値となるのである。

●使用価値を計る尺度は「労働の量(つまり労働時間)」である。だから、同じ大きさの労働量が含まれている、あるいは同じ労働時間で製造されうる商品は、同じ大きさの価値を持つ。
●商品の価値を大きさは、その商品に実現される労働の量に正比例し、労働の生産力に反比例する。(P103)

2)相対的価値形態と等価的価値形態

★相対的価値形態・・・異なるものの大きさは、同じ単位の表現としてはじめて、同じ名前の、それゆえ通約しうる大きさなのである。その位置商品の価値性質が、他の商品に対するそれ自身の関係を通して現れてくるのである。たとえば、上着が価値物としてリンネルに等置されることによって、上着に潜んでいる労働は、リンネルに潜んでいる労働に等置される。人間の労働は、価値を形成するが、しかし価値ではない。それは凝結した状態で、体現された形態で価値となるのだ。社会的なものも含んでいる。

★等価的価値形態・・・撤退が重量尺度としては棒砂糖に対して重さしか代表しないように、わが価値表現でも上着体は、リンネルに対して価値しか代表しない。

3)マルクスの自然観

 労働は、まず第一に、人間と自然とのあいだの一過程、すなわち人間が自然とのその物質代謝を彼自身の行為によって媒介し、規制し、管理する一過程である。人間は自然素材そのものに一つの自然力として相対する。彼は、自然素材を自分自身の生活のために使用しえる形態で取得するために、自分の身体に属している自然諸力、腕や足、頭や手を運動させる。人間は、この運動によって、自分の外部の自然に働きかけて、それを変化させるとともに、同時に自分自身の自然を変化させる。(P217下)

 彼は自然的なものの形態変化を生じさせるだけではない。同時に、彼は自然的なもののうちに、彼の目的「「彼が知っており、彼の行動の仕方を法則として規定し、彼が自分の意志をそれに従属させなければならない彼の目的「「を実現する。そして、この従属は決して一時的な行為ではない。労働の全期間にわたって、労働する諸期間の緊張のほかに、合目的的な意志が必要とされ、それは注意力として現われ、しかもこの意志は、労働がそれ自身の内容と遂行の仕方とによって労働者を魅了することが少なければ少ないほど、したがって労働者が労働を自分自身の肉体的および精神的諸力の働きとして楽しむことが少なければ少ないほど、ますます多く必要となる。(P218上)

 大地は、彼の本源的な食料倉庫であるのと同様に、彼の労働諸手段の本源的な武器庫である。それはたとえば、彼に投げたり、こすったり、重しにしたり、切ったりなどするための石を供給する。(P219上)

4)アダム・スミスとの比較

 マルクスの特有の思想としては労働価値説があげられるが、これはマルクス以前の学者であるアダム・スミスによっても唱えられていたことである。それでは、マルクスは従来の経済学者にどのように批判を加えているのであろうか。

 まず、重商主義に関しては物心崇拝者という批判を加えている。つまり、重商主義は「商品の価値は何であるのか」というところまで考察に入れず、富とは金銀であり、財宝であるという視点を持っていたからである。次に、アダム・スミスについて批判であるが、商品の生産に支出される労働の量による価値の規定と、労働の価値(質と量)による商品価値の規定を混同している(使用価値を視野に入れていない)という点が挙げられている。

 アダムスミスの経済学は上から見おろした視点の経済学であって、絶対王政を支えるものであった。なぜなら、それは、労働者というものが見えてこないからである。また、マルクスは世界を「物質」で捉えようとしたのに対して、アダムスミスは「すべての情報を知った行政治家」という思考で捉えようとしたではないか。

5)資本家と労働者の分離はあるのか?

 商品には使用価値と交換価値があるということは、もうすでに述べたことであるが、商品を交換する場合、使用価値に関しては交換当事者双方が利益を得ることができるが、交換価値についてはどちらも得をすることはできない。したがって、流通からは新たな価値が生まれてくることはない。

 ではどこから剰余価値が生まれてくるのだろうか?もし交換から、価値が生まれてこないとするなら・・・

  材料費(10トン):10万円
                → 製品価格(10トン):15万円
  労働費(6日間):5万円

 ところが工場には必ず、資本家がいる。剰余価値の存在と資本家の存在は切って話せない存在である。ここで、資本家が製品の増産を考えて、生産ライン2倍に早めたとしよう。すると・・・

  材料費(20トン):20万円
                → 製品価格(20トン):30万円
  労働費(6日間):5万円

となる。ここで注目すべき点は、生産ラインを早めたのであるから、労働者の労働時間は依然6日間のままなのである。すると、他の場所(材料費、製品価格)は以前の二倍になっているのに、労働者に支払われる賃金は変わらない。資本家はこの、本来労働者に払われるべき5万円を剰余価値として自分のポケットに入れていることになる。これが剰余価値なのである。

 したがって、剰余価値を吸い上げている資本家がいなければ、それだけ製品は安くなり、労働のペースも下げることができ、また労働者に支払われる賃金も大きくなるのである。マルクスが、いわゆる共産主義を唱えたのはここに意味がある。したがって以下のような記述も生まれてくるのである。

「先の貨幣所有者は資本家として先に立ち、労働力所有者は彼の労働者としてその後についていく。前者は、意味ありげにほくそえみながら、仕事一途に。後者は、まるで自分の皮を売ってしまってもう革になめされるよりほかには何の望みもない人のように、おずおずといやいやながら。」(P216下)

「したがって、私は正常な長さの労働日を要求する」(P255下)

「こうして、資本主義的生産の歴史においては、労働日の標準化は、労働日の諸制限をめぐる闘争「「総資本家すなわち資本家階級と、全体労働者すなわち労働者階級とのあいだの一闘争「「として現われる。」(P256下)

 これに関する問題点は二つあげられる。

1)マルクスは労働者すべてが、理性的にこの不合理な資本家の立場に気づき共産主義革命を起こすと考えていた。そして、ロシアでは確かに共産主義革命がおきた。ところが、その革命は各自が理性的に資本家の不必要性に気づいて生み出されたものではなく、いわば一部の幹部の扇動ではなかったのか。したがって、後々「民衆は操作可能である、操作しなければならない」というようになっていたのではなかろうか?

2)商品論においてマルクスは、すべてのものを商品と見なして平等に扱おうとしたはずである。なのに、資本家と労働者を想定し、片一方を徹底的な悪人と見なしたのは問題ではないだろうか?

5)データをすべて知ることができるのか?

 マルクスは労働日の中で、剰余労働と必要労働という概念を出した。その二つの概念についての説明は・・・。

<<必要労働>>

 しかし、労働日のうち労働者が労働力の日価値たとえば三シリングを生産する部分においては、彼は、ただ資本家によってすでに支払われた(28a)労働力の価値の等価物を生産するだけなのだから、したがって新たに創造された価値によって前貸可変資本価値を補填するだけなのだから、価値のこの生産は単なる再生産として現われる。したがって私は、労働日のうち、この再生産が行なわれる部分を必要労働時間と名づけ、この時間中に支出される労働を必要労働と名づける。(P250上〜下)

<<剰余労働>>

 労働者が必要労働の限界を超えて苦役する労働過程の第二の期間は、たしかに労働者に労働を費やさせる、すなわち労働力を支出させるのであるが、しかし彼のためには何らの価値も形成しない。それは、無から何かを創り出すという魅力をいっぱいたたえながら資本家を魅惑する剰余価値を形成する。私は、労働日のこの部分を剰余労働時間と名づけ、この期間中に支出される労働を剰余労働(surplus labour)と名づける。(P250下)

となる。ここで問題が出てくるのだが、私たちは正確に「必要労働時間」を知りえることができるのであろうか。たとえば、あるケースを目撃したマルクスが「あの労働は必要労働時間を上回っているな」といったところで、それはマルクスが決めた「必要労働時間」である。つまり、「必要労働時間」という概念を提出する限り、「必要労働時間」は誰かが決めざるを得ないわけである。確かに、マルクスは商品論によって、すべてのものを平等に見るという視点を手に入れることができた。ところが、人々は主体性を持ってそれぞれの視点を持たざるを得ないのである。

 このことに関しては、ベンサムにおいても同じ欠陥が見えた。

「功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を、増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、・・・すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する。」(P82下)

 ここでも「『利益』というのは、誰にとっての利益なんだ」という問題が残るであろう。人それぞれによって「利益」の基準は違うはずである。

 ベンサムの功利主義における「利益」も、マルクスにおける「必要労働時間」も、それを決めるのは結局は個人である。そして、時には個人がそれらを統御し、人々をマインドコントロールする事が可能である。例えば、ベンサムの功利主義に立脚した経済システムは、ナチスによって限界が見えた。つまり、人の感じる「利益」や「快楽」はマインドコントロールによって、一人の人間(ヒトラー)が左右することができるのである。同じような問題は共産主義圏でも起こっている。マルクス以後の、レーニン、スターリンなどの政治を見ても、一部の官僚組織が労働者の意志が繁栄されていない「必要労働時間」を設定し、労働者を酷使されたのではないだろうか。北朝鮮などの現状を見ても、マルクスの唱えた共産主義が、官僚が国民を統御し、時には官僚が国民の情報を検閲しているではないか。マルクスは商品論の中で、すべてのもの(リンネル、金、貨幣、労働力としての人間、良心、名誉)を等しく商品としてあつかったはずである。そこには、国民を統御する官僚組織はないし、官僚が情報を検閲する権利もなく、ましてや自分の息子に国家主席を継がせるという思想もない。