ニーチェ『ツァラトゥストラ』・カフカ『変身』

担当:朝山、大木、吉良、佐藤、松原


カフカ 『変身』

0. 朝を起きて、あなたは昨日と変わらない自分でしたか。

ニーチェ 『ツァラトゥストラ』

1.鎌田ゼミではこれまで19世紀の思想家を何人か取り上げてきましたが、それらの思想家とニーチェをあなたはどのように比較して考えましたか。

2.「精神の三様の変化」はいくつかの読解ができると考えられますが、ヨーロッパの歴史的背景から読み解くと三様の変化はそれぞれどのような歴史が描かれているのでしょうか。

3.「超人」とはなんですか。「神」とはどのように違うのですか。また、「没落」とはどのような意味ですか。

4.どうすればツァラトゥストラのような超人になれるのでしょうか。また「三様の変化」をひとりの人間の精神的発達として考えると「超人」はどのような位置に置かれるのでしょうか。

5.発表班は永劫回帰という思想の中に無限性というものを感じました。ところ超人は絶対的な存在と考えられます。この矛盾はどうして生まれるのでしょうか。


「19世紀後期から世界大戦にかけての混迷」

 暗黒の時代というと、一般的には中世を指すことが多い。中世において、人々は神の倫理による絶対的な支配下にあるがゆえに、古代のような活発な議論が存在しなかったと考えられているからである。さて、「次に暗黒な時代はどこだ」と聞かれたなら、私は「19世紀後期から世界大戦までの時代」と答えるであろう。この時代は、中世とは逆の展開で、人間が神の倫理から決定的に放たれた時代である。神という集団のシンボルが失われ、中心性が崩壊した結果、人間が個人として遊離してしまった。人々は心棒を抜かれたような状態になり、人々の心の中には何かしらの閉塞感というものが存在した。

 また、そもそも西洋中心の価値観が限界に達し、西洋自体が内部崩壊寸前であったということも一つの要因としてあげられるであろう。後に、トインビーが論じることになるが、ヨーロッパ文明は一見世界を征服したかに見えたのだが、征服したのは物質文明だけであって、精神的な原理まで支配することはなかった。それというのも、西洋の文明自体がそもそも「力の支配」で乗り切ってきたからである。そして、力の原理に基づいた思想は絶えず外部を必要とし、人間の内部を考察することは少なかった。そうして、西洋内部自体が空洞化していったのである。

 そのような人々の心理状況とは裏腹に、この時期、学問の方は閉塞期ではなかった。神学の崩壊の結果、大体系を作り、その体系に合わないものを虚偽として排除していく形式の学問が転換期を迎え、新たな学問の試みがなされていたからである。また、当時の人間が抱えている閉塞感をいかにして打破していくかについて活発な議論も展開されていた。フロイト、デュルケム、ウェーバー、マルクス、そしてニーチェ・・・。それぞれの学者が、それぞれの方法でこの混迷の時期を乗り越えようとした。それは、各思想家の本に激しいメッセージ性を感じることからもわかるであろう。さて、それらの思想家を強引にまとめてみると、三つのカテゴリーに分けることができるであろう。

1)【二つのものの相互浸透性】
 個人は集団によって支えられているという視点、もしくは個人は集団の中でどのように個性を出すかという視点

 →デュルケム・ウェーバー(社会学)、ユング(原始類型)、レヴィ=ストロース(構造主義)

2)【二つのものの一致】
 二つの矛盾するものが一致していくという視点

 →マルクス・毛沢東(弁証法的世界観)

3)【そもそも一つしかない】
 人が個人として存在する力を得なければならないという視点

 →ニーチェ(実存主義か?)

 私たちは、もう既に1の視点と2の視点を勉強した(まだまだという人もいるだろうけど)。そこで、ニーチェが考え出した「閉塞状況打破」のメッセージに視点を向けてみることになる。

 この問題を扱うことは、過去の歴史を考えることであろうか。もっと言うなら、19世紀後期から世界大戦にかけて人々が抱えていた不安感は、第二次世界大戦を終了と共に解消したのであろうか。私は現代であるからこそこの問題を考える必要があると思う。19世紀後半から世界大戦を貫いた「集団と個人」の問題は、現在我々が抱えている諸問題と同じものであり、人々はまだまだ「集団と個人」の狭間をさまよっている。ならば、現代に生きる私たちは、これらの三つの方法を再考する余地があるであろう。そして、ニーチェの「ツァラトゥストラ」を読解する必要性があるのである。

「一例:ニーチェとマルクスの違い」

 有徳者はどうして「徳」について語るのであろうか?ツァラトゥストラから引用すると、

「ああ、かれらが口から『徳』という言葉が漏れるとき、その響きは何と不快なことであろう。そして、かれらが『私は正しい』というとき、それはいつもまるで『私は復讐をした』といっているように聞こえる。彼らは彼らの徳によって彼らの敵の目玉をえぐり取ろうとしている。彼らがおのれを高めるには、ただ他者を低くしようためである」(P164)

ということになる。つまり、有徳者は自分自身が徳という絶対性を定め、それに従って善悪を決め、さらに人を裁こうとする。この態度は、結局のところ人を攻撃し、復讐をするためである。有徳者は「自分が正しい」ということによって、相対的に「相手は完全に間違っている」といっているのであろう。

 ニーチェはこの様な自分と遊離して存在する「絶対的な徳」というものを否定する。自分の徳、つまり自分の善悪の基準は自分で創造すべきものであり、他人の作った徳を吟味せず享受するのは間違いだというのである。ニーチェによると、「神」が存在しないのと同様に、「絶対的な徳」というものは存在しない。ただ自分自身が創造する徳というものが存在するのみである。したがって、人間は徳を創造する超人的な存在にならねばならないのであり、「人間は乗り越えられるべき何ものか」なのである。

 ここに、マルクスとニーチェの大きな違いを見ることができる。『資本論』の中の「労働日」の段、また毛沢東の『実践論』などを思い出してほしい。マルクスや毛沢東は、ブルジョアジーの不当性を暴くことによって、相対的にプロレタリアの正当性を説き、「この構図を打破するためには『闘争』『実践』しかない」という。マルクスが生み出した「当時の混迷状況乗り越え方」は、前もって二つのものを想定していると言えよう(プロレタリアとブルジョアージとかね)。そして、一方が他方に働きかけを加えることによって、世界が一本化されるという。ニーチェの議論は、プロレタリアVSブルジョアジー、正当性VS不当性、という二元論とはまた別のところにある。彼の議論は「じゃあ、プロレタリア、ブルジョアジーと分けているもの、正当、不当と判断しているものは何なんだ」という問いかけから始まる。存在するものは一つ、つまりそれらを判断している個人だけである。

 ニーチェの理論の中でも、取りあえず、自分以外の個人は存在する。しかしそれは「自分を高めるための敵(もしくは人、動物)」と定義される。そして、敵に対しては憎しみと同時に感謝の念をもって接しなければならない。マルクスに想定される別の個人(集団)は、「打破するべき対象としての敵」であり、敵を憎むことはあっても感謝することはないであろう。また、自己を高めるために、他が存在すると考えることもないであろう。これは、ニーチェの関心が「自己を高める」ことにあるのに対して、マルクスの関心が「良い社会を構築する」というところにあるからであろう。

 ニーチェもマルクスも当時の社会に疑問をもっていたと思う。しかし、二人が提示した解決法はまったく違ったものだといえるであろう。それは

ニーチェ

孤独(没落)

自己超越

本質的に人間は平等ではない

マルクス

プロレタリアの結集

階級闘争

すべてが商品として平等

であったからである。マルクス思想は、労働者が搾取されているという混迷の時代に生み出された理論である。いわば現状打破の為の理論であった(マルクスを弁護すると、彼自身はそれだけを考えていたわけではないが、時代という制約もあり、そのように語らざるを得なかった)。そう考えてみると、ニーチェの提唱した「超人思想」は、つい最近まで主流だった「弁証法的世界観」へのオルタナティブになるのではないか?そして、新たなる時代構築への架け橋になるのではないか?

「三様の変化について〜ニーチェの自由観」

●展開
1)ラクダ…砂漠に行く →砂漠は孤独である

2)獅 子…砂漠を支配しようとする(世界に働きかける)
3) 龍 …最後の支配者。「われは欲す」では動かず、「汝なすべし」で動く。
 →自分の行動を自分で決めることができ、自分の価値を創造することは出来ない。
4)小 児…善悪の区別がないため、思った通りに行動する。自由な創造の第一歩。

●コメント

 この段落は、ツァラトゥストラ自身の発達心理と捉えることができると同時に、ヨーロッパ全体の歴史として捉えることも可能である。ここでは、後者の方で議論を積めてみたい。この「三様の変化」のポイントは龍から小児になるところだ。龍のウロコは「千年にわたった諸々の価値が輝いている」。つまり、龍は歴史的に培われてきた善悪の道徳を知っており、他人に命令されずに、それに併せて動くことができるということである。この龍のレベルは、カントのいう「心の内なる道徳律に従って生きる(自分の行動が世界の道徳になるように行動する)」というレベルを想定しているのではないだろうか?カントの場合は「自分の道徳」と「世界の道徳」が等しいものなのかどうなのか、常に考え続けなければならない。抽象的な言葉を使うと「主観」(=自分の行動)と「客観」(=世界の道徳)という対立構図が既に存在し、「主観」を「客観」に合わそうと努力してきた。

 ところが、その「世界の道徳」「客観」というものはいったい何なのであろうか?ニーチェの問いかけはそこから始まっている。ヨーロッパの歴史というと、キリスト教の神学と切り放すことは不可能のであるため、ヨーロッパの道徳はキリスト教神学と切り放すことはできない。そう考えてみると、カントのいう「世界の道徳」「客観」は、結局のところ、キリスト教の歴史を背負っているといえる。ニーチェはこれらを打破するべく、「神は死んだ」と発言し、価値の創造者である「超人」を想定したのである。超人は新しい道徳や価値基準を作ろうとするため、カントの想定するような「世界の道徳」(=培われてきた過去の道徳、習慣)などには捕らわれないのである。ニーチェの世界に存在するものは、「価値を創造していく個人」だけであり、その個人は「過去の歴史」や「今おかれている人間関係」などから開放された存在だけである。

 では、すべての人が価値を創造する超人になることができるのであろうか。これは「ツァラトゥストラ自身は超人なのか」という問題と重なってくるが、前述したように「ツァラトゥストラ自身は、超人を目指しているが、超人ではない」。ましてや、一般の民衆が超人になることは不可能なのである。こうして考えてみると自分で「価値を創造する」ことに耐えうる人はいるのであろうか。夏課題を少々読んだ人なら同感してくれる人もいると思うが、ルーマンとハーバーマスはこのことを論じていたような気がする。

・ルーマン:複雑性の高い政治システムでは、拘束力のある諸決定を質問なしに、いやほとんど動機もなしに受け入れる必要がある

・ハーバーマス:個人の潜在力を高く見積もっており、したがって個人を甘やかさない。

「個人に自己、そして自己を含む社会を制御する力があるのかどうか」についての論争はこれからも続くであろう。

「超人思想から永劫回帰思想へ」

1)永劫回帰への序章

 まず、ツァラトゥストラがはじめて永劫回帰について語り始めるところから引用したい。

「この門は二つの顔をもっている。二つの道がここで出会っている。どちらの道も、まだ誰一人その果てまでいったものはない。

 この後ろへの道、それは永劫へと続いている。それから前をさして伸びている道ーそれは別の永劫に通じている。

 この二つの門は相いれない。互いに角つきあいをしている。だが、この門で、両者が行き会っている。この門の名は「瞬間」である。

 ところで、この二つの道をさらに先へーどこまでも先へ、そこまでも遠く進むものがあるとして、侏儒よ、この二つの道が永遠に相いれないものであると、お前は信ずるか」(P242)『幻影と謎』

 ここでニーチェが想定しているものは、「個人には未来にも過去にも無限の可能性がある」ということであろう。人間は瞬間にしか存在しないのだから、その瞬間に人間が超人であることによって、未来を自由に選び取ることができ(=創造する)、過去も自由に改変することができるのである。さて、未来を自由に選び取ることができるということについては納得いくと思うが、過去についてはどうであろうか?

「人間における過ぎ去ったことを救済し、いっさいの『かつてそうであった』を創り変えて、ついに意志をして『しかし、かつてそうであったのは私がそれを欲したのだ。またこれからもそうであることを、私は欲するだろうー』というに至らしめることを教えたのだ」(P293〜P294)『幻影と謎』

というところを参照していただければ納得いくであろう。

2)永劫回帰思想の発生

 ここまでが、時間の流れに関して「超人思想」が与えたインパクトである。しかし、ニーチェは更に一歩この問題に対して踏み込んだ。

「この瞬間という門から、一つの長い永劫の道が後ろに向かって走っている。すなわち、我々のうしろには一つ永劫があるのだ。すべて歩むことのできるものは、すでにこの道を歩んだことがあるのでないだろか。すべて起こりうることは、既に一度起こったことがあるのではないか、なされたことがあるのではない、この道を通りすぎたことがあるのではないか。」(P243)『幻影と謎』

ここからわかることは、「すべてのものは常に存在してきたから、私という存在もそのひとつの現れにしかすぎない。そして、私を作ったものは、たとえ私の命が失おうと、存在し続けるであろう」という考え方である。

3)システムとしての永劫回帰

 また、ニーチェが「超人思想」の次に「永劫回帰」思想を語らなければならなかった背景には、以下のようなことがあるのではないだろうか。引用してみると・・・

「だが、私が絡み込まれていた諸々の原因の網目はー再び私を創り出すだろう。私自身が永劫の回帰の中の諸々の原因の一つなのである」(P322下)

 これを見ると、ニーチェの「超人思想」が単なる独我論にすぎないという指摘は間違いになるであろう。ニーチェは「超人思想」を展開することによって、ただ単に「歴史に縛られるな」「宗教に縛られるな」「存在するのは自分だけだ」と言っただけではないと思われる。いってみれば、「超人思想」はニーチェの思想のスタートラインに立つための前提であろう。ニーチェは安易な人間関係を否定するが、それは向上心のない人間関係や妄信的な人間関係に対してであり、すべての人間関係を否定し「個人であれ」といっているのではない。それぞれの人間が超人のような心理(創造していこうという心理)を獲得したとき、新たな人間関係を築く可能性があるのではないだろうか?その意味では、永劫回帰思想は、時間的な共同性を表しているものと考えても良いのではないだろうか。

4)いわゆる輪廻思想との違い〜永劫回帰を語ること

 このニーチェの想定している「永劫回帰思想」が、俗にいわれいている「輪廻思想」とは違うということを特筆しておきたい。インドなどに見られる「輪廻思想」は、「バラモンは死んでもバラモンに生まれ変わる。バイシャは生まれ変わってもバイシャ」というように、人間の力を乗り越えたところで輪廻が行われていると言えよう。したがって、「輪廻思想」を享受している現在のヒンズー教徒の中には、ある種の諦めの感が存在している。いってみれば、この手の「輪廻思想」を説く人は、背面世界論者、決定論者になりやすいのである。ところが、ニーチェはこのような背面世界論者、決定論者に対して批判を加えてきた。ニーチェが想定している「永劫回帰」の中では、人はただその流れに身を任せているのではなく、人間それぞれが超人となる努力を積まなければならないのである。

 ツァラトゥストラは、侏儒が「あらゆる心理は曲線である。時も円環をなしている」といったことに対して、怒りをあらわにしている(『幻影と謎』参照)。また、ツァラトゥストラの蛇と鷲が「一瞬一瞬に存在は始まる。それぞれの『こころ』を中心として『かなた』の球は回っている。中心は至る所にある。永遠の歩む道は曲線である」と語ったときにも、彼の蛇と鷲に対して「手回し風琴」といっている(『快癒しつつあるもの』参照)。侏儒も、ツァラトゥストラの動物達もいっていることは当たっているのである。ところが、そのことを安易にしゃべることは、背面世界論者、決定論者になりかねないのである。

 第二部までのツァラトゥストラは「永劫回帰についてしゃべることは、背面世界論者、決定論者を増やす可能性がある。しかし、しゃべらなくてはいけない」という葛藤の中で生きていた。したがって、第二部の終わりで、あれほどまでにツァラトゥストラが永劫回帰について語ることを恐れたのではないだろうか?しかし、彼は自ら永劫回帰について語ることを選んだ。『幻影と謎』の中で、侏儒に対して永劫回帰の可能性を語ったあと、ツァラトゥストラは「喉に蛇がかみついた牧人(口から蛇が入って喉にかみついている状態)」に出会っている。

「そしてまことにそこに見いだしたのは、いまだかつて私が見たことのないものだった。一人の若い牧人、それがのたうち、あえぎ、痙攣し、顔をひきつらせているのを、私は見た。その口からは黒い蛇が重たげにたれている。
 これほどの嘔気と蒼白の恐怖とが一つの顔に現れているのを、私はかつて見たことがなかった。かれはおそらく眠っていたのだろう。そこへ蛇が来て、彼の喉にはい込みーしっかりとそこにかみついたのだ。
 わたしの手はその蛇をつかんで引いたーまた引いた。ー無駄だった。私の手は蛇を喉から引きずり出すことができなかった。と、わたしのなかから絶叫がほとばしった。『噛め、噛め。蛇の頭を噛み切れ。噛め!』ーそう私の中からほとばしる絶叫があった。私の恐怖、憎しみ、嘔気、憐憫、私の善心、悪心の一切が、一つの絶叫となって、私の中からほとばしった

(中略)

ーだが、その時牧人は、私の絶叫のとおりに噛んだ。遠くへ彼は蛇の頭を吐いた。ーそしてすくっと立ち上がった。
 それはもはや牧人ではなかった。人間ではなかった、ー一人の変容したもの、光に包まれたものであった。そしてかれは高らかに笑った。いままで地上のどんな人間も笑ったことがないほど高らかに」(P245〜246)

 この牧人は一体誰なのだろうか。私はこの牧人こそ、第二部までのツァラトゥストラだと考えている。永劫回帰について語ることができなかったツァラトゥストラ。そして、彼の喉には蛇が「それ以上語るな」といわんがばかりに、ツァラトゥストラの喉にかみついている・・・。手で引っ張っても抜けない理由は、これまでツァラトゥストラを読み続けてきた読者ならわかるであろう。超人への道は、他人によって開かれているのではなく、自分自身の地からによって切り開かなければならない。そう、「自分の力によって蛇の頭を噛みきらなければならない」のである。自らの力で蛇の頭を噛みきったツァラトゥストラは、もはや人間ではない。超人とは言えないまでも、一つの段階を乗り越えた人間ということができるであろう。そして、彼は多くの人たちに永劫回帰を語り始めたのである。


主観的なニーチェ用語集

●没落

 あきらめて敗北してしまうのではなく、自分をより高く生かそうとする積極的な行為。なお、その際、自分自身の安定、安泰をもとめるものではなく、没落のために、精神的にも、肉体的にも滅んだとしても、よしとする。
 ツァラトゥストラの行動でいえば、山から降り、人間の間に降りていくことにあたる。ツァラトゥストラは山上の孤独の中での言語化されていない創造によって充実した状態から、人間の間で、言葉を発する状態に移る過程がそれである。
 これは、「ラクダ」と「小児」で説明することもできるのではないか。山上では「小児」として言葉にしないため流動的なものとしてあった創造物を、下界で言葉として発したため固定化してしまい、自らの価値判断に縛られる身となる「ラクダ」へと、あへて成ったといえる。

●力への意志

 客観的真理ではなく、主観的に善、悪を認識、評価しようとすることである。そうすることによって、一切の存在者を観念にして、自らに服従させようとする。力への意志は、生の必然的な在り方として、自らを克服していく時の根本とされる。

●舞踏

 重さの霊と呼ばれる、物理的には重力、慣性など、精神的には物欲、野心などの人を束縛し人間の自由な行動を妨げるものを脱しようとする行い。舞踏とは軽快の具現化である。笑いとも通ずる。本来、生とは変わり易いとする立場から必要なものとされ、舞踏により必然性、あるいは因果の法則から、脱せるとされる。

●同情

 隣人愛のことである。それは偽善であり、最もこの世界で害悪を及ぼすもの。
 同情は、他者を弱者とみなして恥じさせることで、あつかましく、恥ずべきこと。される側のプライドを傷つけ、心の内に、感謝ではなく復讐の念を抱かせる。同情する側も、身を滅ぼすこととなる、同情は理知も感情も誤らさせ、自由な創造行為を忘れてしまうからである。これによって神は人間の創造の指針とするにふさわしくなくなり神の神たるゆえんを失い、死んだとされる。これは、超人を目指すのに必要とされる遠方にいる者への大いなる愛と対立するもので、避けるべきものとされるが、人間の世界では同情したくなるようなことが多く、愛は同情に結びつき易いとされる。