『近代の芸術論』

担当:西沢


共同・共働・共産・共生としての芸術

―近代批判としての芸術論『芸術の原理』コリングウッドより―

 この一年を通して、様々な形で、様々な人間が為してきた近代批判を見てきた。僕らの根本のところには、(とりあえず、だましだましにでも)「人と自然の共生」を共通項、共通口!として考えてきた。それらの作業の幕開けは、仮説検証型科学への批判であっただろうし、その中には、心理学、社会学、文化人類学、客観科学批判、そして、人類の共同生活をあつかった(計量ではない)経済学などがあったわけだ。ぼくの知る限りでは、どの思想にも共通して解釈できた問題は、神という超越者を中心にして世界を作り上げようとする目的論的世界観をどう越えていくか、と同時にその目的論的世界観が引き起こした、個人主義と共同とのバランスの崩壊をどう引き受けるかにあったと思われる。たとえ、その目的論的世界観がそのような崩壊を意図していなかったとしても・・・。

 近代の芸術論は、まさに、そのような近代批判としての芸術論であって、同時に、共同性の問題を再び掘り起こすものである。ありがたいことに、コリングウッドの思想に触れて、長年(特にこの関西学院大学総合政策学部、というところに入学してから)、胸につっかえていた悩みが少しは、軽くなった思いがした。そのことは後の記述を待ちたいが、特に、<能動的>問題発見→<能動的>企画力→<一面的>問題解決という、ある一面の総合政策の危険性を、近代批判のところでほぐしていく、ナーバスな問題を取り扱う(ナーバスになりがちな)ぼくらを励ましてくれる。対抗策としてではなく、敵としてではなく、コリングウッドの励ましは、良い響き、良い「医薬」、良き予言者、そして詩人としての芸術活動=共働活動=共同活動を僕らの中に促してくれている。

 さて、本発表においては言及しておきたいのは、以下の通りの分割が不可能なのだが、話を進める上では、

(1)技術と芸術の関係について→近代批判;作る行為(プラクシス)に対しての反駁(2)「環境」をどうとらえるか→近代批判→(3)
(3)芸術家と鑑賞者との関わり→近代批判、共同性の問題

という方向を持ちたい。

(1)技術と芸術の関係について;なにをもって芸術を呼ぶのか。なぜ技術への偏向が近代性をうむのか。

(1)「「芸術」という言葉に含まれる意味の内で、真の芸術から区別されるべき第一のものは、技術と呼ぶところのものを指している。これは古代ラテン語でいうアルスのことであり、ギリシア語でいうテクネーのことであって、あらかじめ構想された結果を、意識的に統御され方向付けられた行為によって造り出す力を意味している。」p.263

「(1)技術は常に手段と目的との区別を含んでいて、両者は互いに区別され、しかも互いにかかわり合っているものとして明瞭に思い浮かべられる。・・・ものに関わる行為、すなわち道具を操り、機械に向かい、燃料を燃やす行為をいうのに使われる。(英語の「手段means」は「中間mean」という言葉から来ているから)〔この言葉の文字どおりの意味が暗示しているように〕これらの行為は目的に達するために通過され、横切られるものであり、目的が達せられると後に置き去りにされるものである。このことは手段の観念を、ときどきそれと混同されやすいほかの二つの観念、すなわち部分、及び素材の観念から弁別するのに役立つであろう。部分は全体にとって不可欠であり、また部分は全体との関係において自らを決定され、さらにそれは全体が存在し始める前に単独に存在し得るものであって、その意味に置いて、部分の全体にたいする関係は手段の目的に対する関係に似ている。けれども、部分は全体が存在するとき自らもまた存在するに対して、手段は目的が存在するときにはすでに存在することをやめてしまっているのである。」p.263

「(2)技術はまた、計画と実地との間の区別を含んでいる。獲られるべき結果はあらかじめ構想され、それに到達する前に考え尽くされている。技術かはものを作る前に、自分がなにを作りたいかを知っている。」p.264

「靴屋も大工もあるいは職工も、彼が本当にめざしているのは彼の顧客の中に一定の心の状態を作ること、すなわちこれらの要求が満たされたという状態を作り出すことである。・・・それらはすべて、人間を一定の望ましい条件へともたらすための方法である。

 この同じ表現は詩人の技術についても当てはまる。詩人は一種の熟達した生産者であり、彼は顧客のために生産する。そして彼の技巧の効果は、顧客の中にあらかじめ望ましい状態と考えられた一定の心の状態をもたらすことである。」p.267

 このような技術的芸術に対しては、コリングウッドは次の具体例を出して反駁する。

「アリストテレスは技術の階層の概念から、階層のすべての系列がそこに向かって収斂する最高技術という概念を抽出した。この収斂の結果、すべての技術の産む様々の「善きもの」は、何らかの仕方で最高技術の仕事を準備するような役割を演じるのであって、従ってこの最高技術の産物は「最高の善」と呼ばれうるのであった。(目的論的な発想)・・・ワーグナーが自分を最高に偉大な芸術家だと考えたのは、彼が音楽を書くばかりではなく言葉をも書き、舞台芸術をデザインし、さらに自分自身のプロデューサーとして働いたからであった。しかし、これはまさに、自動車を作り出すような体系というものとは正反対の考えである。体系が階層的な性格を持つのは、様々な部分がすべて違った企業によって作られ、各企業はそれぞれ一つの業種に専門化されているという事実のおかげなのである。」p.274

(2)正しい理論か、誤った理論か、に切り分けてしまう理論、そこから読みとる客観科学の特徴

第六章 本来の芸術(1)―表現として

第一節 新しい問題

「間違った哲学理論というものは、まず最初には無知ではなくて知識の上に基礎をおいているものである。それを作り上げる人物は主題を部分的に理解することからはじめ、次に理解したことを一種の先入観と一致させるべくねじ曲げることによって歪曲することへ進むのである。大多数の知識人の気に入ってきた理論というものは、例外無く取り扱う主題に対する高度の洞察を示しており、その洞察が蒙る歪曲も常に一貫した、体系的なものになっている。従ってそれは多くの真実を表しているのであるが、しかしそれを正しい命題と誤った命題に切り分けることはできない。その理論に含まれるすべての命題が歪められているのであって、もしそのそこに潜む真実を誤謬から区別するべきだとすると、そのためには特別の分析の方法を用いなければならない。この分析の方法とは、歪曲の要因として働いた先入観を取りのけることであり、歪曲を引き起こした思考の方を再構成し、歪曲をただすようにそれを再適用し、こうしてその理論を発見し承服した人々が本当になにを言おうとしていたかを見つけだすことである。その理論がより広範に、より理知的な人々によって受け入れられていればいるほど、この分析の結果がその先の研究の出発点として有用なものとなる見込みも大きいのである。」p.301

(3)しかし、問題として残るのは、なぜこのような切り取る技術、理論がまずいのか、ということに対する考えである。また、現実に物体としてであれ、文章であれ、音であれ、表現をするという想像行為は、この技術の抱えている問題をどう解決しているか、または、どのようにコリングウッドが見ていくか、ということは残されている。まずは、そのことを彼は、「総合的活動」と呼ぶ。

第七節 第二部への移行

「想像による体験、あるいは活動を自ら創造することによって、我々は感情を表現する。そして、これが、我々の芸術と呼ぶものである。・・・「創造」とは、性格の上で技術的でない産出活動を指しているものである。・・・想像の名で呼ばれるものが想像する人間の私的なものだ、ということを含意してはいない。「経験、あるいは活動」は感覚的なものではなく、またいかなる意味でも感覚に専門化されたものではなくて、自己の全体が巻き込まれる一種の総合的活動である。」p.343

「芸術経験を産み出す活動は意識の活動である。」p.380

「美的体験、もしくは芸術活動は、人の感情を表現する経験である。そして、感情を表現するものは全体的想像体験であり、等しく言語とも芸術とも呼ばれる活動である。」p.382

(2)「環境」をどうとらえるか;「環境」は文字どおり、切り取ってくるという意味で、内と外を作るためにあるのだろうか?ここでの論はそのまま自然をどうとらえるか、という今までの議論に結びついていくように思われる。

 芸術において共同性の問題をいう限りは、芸術家と鑑賞者とが同じ共同性の上に立っていることを認めなくてはならない。では、どうやって認めるか。コリングウッドは、相手の中にある心の状態をつくる、技術説の破綻を指摘した。このことともつながってくる。

「芸術は知識である。詳しくいえば、個体についての知識である。そうだからといって、芸術は決して純粋に「テオリア的」な活動ではない。テオリア的だとすれば「プラクシス的」な活動からはっきり区別されるはずであるが、芸術そうではない。観照(テオリア)の活動と行為(プラクシス)の活動を分けることにある種の価値があるとすれば、その場合、我々が関わっているのは自分と環境との関係である。活動が自分自身の内部のものであって、自分の中にはある変化を産み出すが環境には何の変化も産み出さないとき、我々はその活動を観照(テオリア)的と呼ぶことができる。これに対して、一つの活動が環境の中に破片かを産み出すが自分の内部には何の変化も産み出さないとき、我々はその活動を行為(プラクシス)的と呼ぶことができる・・・すなわち、我々自身が自分と環境との区別に気付かないか、気付いていてもそれに関わりを持たないケースである。」p.399

「個体についての知識がすなわち芸術だったわけであるが、その個体とは、個々別々の状況、気がついてみれば我々がその中にいる状況に他ならない。我々がその状況を意識するのはひたすら自分の状況としてであり、我々が自分自身を意識するのはひたすらその状況の中に含まれたものとしてである。ほかの人々もまたその中に含まれているかもしれないけれども、彼らが我々の意識に姿を現すのは、我々自身と同じく、ただその状況の因子としてだけであって、その状況の外側に自分の生活を持っている生身の人間としてではない。

 芸術的意識〔つまり、意識そのもの〕は自分と世界とを区別しないのであるから、ここでは世界と自分にとって今ここで経験されているもののことにすぎず、自分とはそのものが今ここで経験されているという事実を指すにすぎないわけであり、従って、芸術的意識に独特な活動はまさしく観照(テオリア)的でもなければ行為(プラクシス)的でもない、ということになる。というのも、一人の人間が観照(テオリア)の活動をしているか行為(プラクシス)の活動をしているかを本当にいおうとすれば、その人間が自分のことをそんな風に活動しつつあるものとして考えているのでなければならないからである。外から眺めているものの眼には、芸術家は観照(テオリア)の活動と行為(プラクシス)の活動の両方をやっているように移る。ところが芸術家自身の眼には、自分の活動が観照(テオリア)的でもなければ行為(プラクシス)的でないように映るのである。それというのが、どちらかの仕方で活動しているということになれば、そこには活動の仕方についての区別といったものが暗に前提されていることになるけれども、そんな区別は芸術家としての彼は少しもたてていないからである。美学理論家としての我々にできることといえば、彼の活動の中に観照(テオリア)的と呼ばねばならないような特色と、それとはまた別の、行為(プラクシス)的と呼ばねばならないような特色とを認知すること、そしてそれと同時に、彼にとってそんな区別はまだ生じていないことを認識すること、この二つに尽きている。

 観照(テオリア)という面からすると、芸術家というのは自分自身を知るにいたった人間、自分の感情を知るにいたった人間のことである。ところがこれはまた、彼が自分の世界を知るということである。・・・言い換えれば、この場合の光景や音響は言語なのであって、その言語を用いて当の感情が自分のことを彼の意識に対して述べていることになる。彼の世界は彼の言語である。彼に対していうことを言語は彼に関していっている。世界についての彼の想像によるヴィジョンは彼の自己意識である。

 しかし、こんな風に自分を知ることは、自分を作るということなのである。最初、彼は単なる心の動き、たんに心的な経験ないし印象の持ち主にすぎない。彼が自分を知るにいたる活動は自分の印象を観念に変換する活動であり、従って自分自身を単なる心の動きから意識に変換する活動である。」p.399-401

「我々自身が知るということは、およそ単なる心的レベルの経験を越えて展開する、すべての生活の基礎である。・・・嘘をつかない意識が知性に与えるのは、そのうえにものをたてるためのしっかりした基礎を与える。」p.393

「しかし、正直な人間になろうか不正直な人間になろうか、どちらにしよう、という問題は、道義の上での解決を私に鋭く迫ってくる。」p.399

3)コリングウッドによる芸術家と鑑賞者のコミュニケーションの問題提起

「美的経験それ自体は、我々の想定によれば、どちらの場合も純粋に内面的な経験であって、それが生じるのは、完全にその経験を楽しんでいる人間の心の中である。しかし、この内面的な経験は、外的もしくは物質的なものに対して二重の関係にたっていると想像される。1)芸術家にあっては、内面的経験は外在化、ないし変換されて一つの知覚対象になりうる。ただし、そうならねばならない本質的理由というものは存在しない。2)鑑賞者にあっては、経過は逆になる。すなわち、最初にくるのが外的経験であり、これが変換されて例の内面的経験になるが、この内面的経験だけが美的である。しかし、内面と外面との間の関係が1)においては不定で偶然的なのに、2)では不可欠になっている。どうしてそうなりうるのか?物質的で知覚可能な「芸術作品」が、芸術家の場合には美的経験にとって必ずしも必要でないのに、鑑賞者の場合には美的経験にとって必要となる。なぜそうならざるを得ないのか?いかなる点でも一方の助けになり得ないものが、どうしてなにかの点で他方の助けになりうるのか?とりわけ重大なことだが、芸術家においてはこの種の外的な事物と全く無関係に成立している美的体験が、鑑賞者においてはその種の事物に依存しており、かつその種の事物の観照(テオリア)から得られているとすれば、それはいかにして両方の場合を通じて同じ種類の美的経験であり得るのか?いかにしてそこにコミュニケーションが成立しうるのであろうか?」p.413

第五節 共働者としての鑑賞者

「自分が表現しようとした感情が自分独特のものではなく、鑑賞者と共通のものであり、自分の達成した当の感情表現が〔もし本当に達成しているとすれば〕鑑賞者にたいしても、自分にとって有効なのと同じくらい有効なのだ、・・・いいかえれば、彼が芸術労働を引き受けているのは、自分のプライヴェートな利益のための個人的努力としてではなく、自分の属している共同体の利益のための公共労働としてだからである。」p.428

第六節 個人主義の美学

「個人主義というものは、人間をあたかも神のように考える。すなわち、人間とは円満具足の創造者であって、その唯一の死語というのは自ら存在すること、そして、適当な作品があれば何でもいいからそのなかへ自分の本性を表してゆくことだ、と考えるわけである。・・・そうではなくて、彼らがそうしたものになるのは、それらの言語が通用している社会に生きていることによるのである。ほかの語り手たちと同じで、芸術家たちも理解してくれるものに向かって語りかける。

 美的活動とは語る活動である。言葉が言葉であるためには、語られるとともに聴かれなければならない。人が自分に向かって語り、自分自身の聞き手になるということもむろんあり得るけれども、彼が自分に向かって話す内容は、原理的には彼と言語をともにするものすべてに向かってはなされることができいる。一個の有限存在として、人間が自分を人格として自覚するためには、自分がほかの人々とかかわり合っていることを知らねばならず、そのかかわり合っているほかの人々を、同時に人格として認めねばならない。・・・聴かれているという経験は、語り手の心の中に進行する経験である。それが現実に姿を現すためには、眼には何らかの聞き手が必要であり、従ってその活動が一種の共働活動であるとしても、このことに代わりはない。相思相愛は一つの共働活動である。p.430-431

第十五章 結び

「共同体のスポークスマンとして、芸術家の吐き出さねばならないのは共同体の人人の秘密である。彼らが芸術家を必要とするのはなぜか。それは、共同体が全体として自分の心を知ることはあり得ないからである。自分の心を知らないが故に、共同体というものは、いかなる無知が死を意味するかという一点について誤る。この無知からくる禍に対して、詩人は予言者のくせに何の救済策も示さない。というのも、彼はすでにそれを与えているからである。始祖のものがすなわち救済策である。芸術とは共同体の医薬、それももっとも重い心の病、かの意識の腐敗堕落のための医薬なのである。」p.422