フロイト『精神分析学入門』  
 
『フロイト』世界の名著・中央公論社
 
担当者:江西千歩、関戸岳彦


 第一部【しくじり行為】

(1)精神分析を学ぶ途上の困難をもたらす精神分析療法上のある手段について言及されている箇所を指摘してください。

 「ところで、さきほど 〜 くるわけです。」p.72下〜p.75下

   江西の解答:精神分析を学ぶのを難しくする療法。 解答 p.72-75  +p78-
   ・心理療法で言葉を用いること(従来の医学になかった)
    従来の医学:身体的なものを信じて心的なものを軽視。
   ・治療の際、第三者の介入(傍聴)を許さないこと 
    患者は第三者に対し、分析に必要なことはいわない。
     p.78初「精神分析に対してみなさんが感じる・・・」
  
(2)フロイトの精神分析は既存の心理学群とは異なり「力動心理学」と呼ばれています。
さてそれはなぜでしょう。それを説明する適切な箇所を第一部の中から抜き出して下さい。

      p.78上「たしかに〜」→p.80下「〜断言したいのです。」
     p.126上「私どもは現象を〜えないのです。」
      p.118下「これが精神分析の〜」p.119上「〜位置づけなのです。」
    p.136上左「心的活動の場は〜出るかにかかっているのです。」

   解答:「力動心理学」という名詞を出したことがこの問題に取り組む上でのそもそもの困難をひきおこした原因であります。「力動心理学」はp.79の左下注(1)にただ一度だけ現れます。ともかくフロイトの核心は注(1)にあるように、行動をもっぱら心的現象の結果そのものとしてとらえ、記述してゆく心理学の流れ(=記述心理学:この場合、心的現象→行動のプロセスは問われないし、心的現象の生成プロセスも問われない。)に対して、行動の基底あるいは背後に、ある種の心理的な構造、人格あるいは-たがいに
働き合う心的な力(異なる心的要素同士の葛藤の存在)-を仮定する心理学(=力動心理学:
心的現象→行動のプロセスばかりでなく、原因としての心的現象の生成プロセスの理解に力
点を置く)へと変貌させ、心理学をより複雑でダイナミック(=力動的)なものへと仕立て
上げたことにあると言えるのではないでしょうか。
    
 「世間に好まれない精神分析の第一の主張は、心的過程はそれ自体としては
無意識的であり、意識的過程は心的活動の一つの作用面であり、部分であるにすぎない、と
いうことです。」p.79下
       
  この言葉からもフロイトが「心」というものを<意識>と<無意識>の二つの領域に分類し、<意識>→<行動>という単純な図式しか提示できない既存心理学のことを批判していることが読みとれます。

 「無意識なるものが存在するとすれば、どんな筋道をたどってそれが否定されるようになったか、そしてこれを否定したことによって、どんな利益が生じたか・・・私は無意識的な心的過程が存在するという仮定を立てることによって、世界の学問にとり、まったく新しい方向づけがなされるようになったのだと断言したいのです。」p.80下
  
  う〜む。この発言は無視できません。提題・の出題意図はこの発言の解読への意思といってもよいでしょう。とくにこの発言の前半部はこれからの鎌田ゼミにとって基本となるアプローチの仕方を示してくれているように思います。
   
  さらにフロイトは言います。

 「私どもは現象をただ記述したり分類したりしようとしているのではありません。現象を心の中のいろいろな勢力の角逐のしるしとしてとらえること、すなわちときには協力し、ときには対抗しながら、ある目的を目指して働いているもろもろの意向の表現としてみることを望んでいます。私どもは心的現象の<ダイナミックな把握>を求めているのです。私どものこのようなダイナミックな考え方によれば、意識にとらえられた現象は、ただたんに仮定されたにすぎない意向にくらべると、影がうすくならざるをえないのです。」p.126上

フロイトは<ただたんに仮定されたにすぎない意向(=無意識)>の存在を謙虚に受けとめながらも、<意識にとらえられた現象>のことを氷山の一角だということをほのめかしています。のちに続く夢の解釈やしくじり行為の解釈もフロイトの<心的現象のダイナミックな把握>という思考のフレームワークによって支えられているのです。

 「これが精神分析の最初の成果です。このように二つの意図のあいだに干渉が起こること、そしてこうした干渉の結果、しくじり行為という現象が生じるという可能性に
ついては、心理学はこれまですこしも気づいてはいませんでした。・・・・したがって、私どもの言い回しとしては、『その現象は意味深いものだ』、『その現象には意味があるのだ』という形式で表現するほうが目的にかなっています。意味ということばで考えられているのは、意義、意図、意向および心的連関の系列のなかにおける位置づけなのです。」p.118下〜p.119上

 「心的活動の場はたがいに対立する意向の戦場であり闘技場である、ある
いはそうしたダイナミックな言い方でない表現をすれば、矛盾するもの、対立するものから成るものだという事実をすみやかに考慮することが大切です。ある特定の意向の存在が証明されたからといって、それに対立する意向の存在を排除することにはなりません。二つのものが共存する余地はあるのです。結果がどうなるかは、対立する二つの意向がたがいにどういう関係にあるのか、一方の意向からどのような作用が出、他方の意向からはどのような作用が出るかにかかっているのです。」p.136
 

(3)フロイトの精神分析における「性欲動の暗躍」の受容にたいする嫌悪を人々に喚起させるものをフロイトはなにだと考えているか?様々な答えがあるでしょうが、あなたが一番適切だと思うものを2文字で答えて下さい。

 A.『文化』 p.79上左「その一つは 〜 困難なものだからです。」
       p.80上左「私の経験する〜」→ p.81下 「〜精神分析に押そうとしています。」
       p.106下「みなさんが〜残念です。」
 
   江西の解答:性欲動の暗躍←人々の嫌悪    解答 p.79下-80
   世間に好まれない精神分析
   ・無意識(∋意識)=心的なもの:恣意的でない、理性で済ませられない
    ↓↑密接な関係(考えてみてください。)
   ・性的な欲動の興奮→病気の原因
    人間精神最高の文化的芸術的〜大きな貢献
 

(4)フロイトがしくじり行為を考察するうえでのポイントを述べている箇所を抜き出してください。

    p.92上右「私どもは言い間違いが生じてくる〜すぎないように思われます。」
  p.97上「しくじり行為を考察〜申しました。」p.99下「これらの実例から〜説明できる。」
  p.101上「しくじり行為はけっして〜生じたものなのです。」
  p.120上「私どもがしくじり行為に関して〜二点が問題になります。」
  p.120下「言いまちがえて反対〜表現なのです。」p.124下左「私どもは、いまや、しくじ
  り行為を〜知ったわけです。」
 
 関戸の解答:言い間違えの結果起こったことは、もともとそう思っているもうひとりの自分(ホンネ?)がいて、また、それは場合によってはそれ自身の独自の意味をあらわすこともある、ある内容と意味とを表現するものとして理解されてもよい。ただ自分が意識していたものとは別の行為に取って代わったにすぎない。しくじり行為(2つの意向間の葛藤)は偶然のものではなく、(ホンネとタテマエの)相互の影響(2つの意図の干渉)の結果として生じたものである。(しくじり行為はその意味と意図とを認めることのできる「心的行為」である。←p118)
  


 第二部【夢】

(5)フロイトは小児の夢の研究によって眠りにおける夢の役割・機能をどう結論づけたのでしょう?(もしくは、フロイトは小児の夢の研究によって夢と熟睡の関係をどのように捉えたのでしょう?)

       p.193上「ここから、私どもは・・・ありません。」

   関戸の解答:フロイトは夢の機能を解明したとして次のように述べている。
    「心的な刺激に対する反応としての夢には、この刺激を処理するという価値があるはずですから、刺激はかたずけられ、眠りが続けられる。」
     「夢は眠りの妨害者ではなく、眠りの守護神であり、眠りの妨害のかたずけ役である。」
    「私達がある程度まで熟睡できるのは、むしろ夢のおかげである。」
 

(6)次の図式を完成させてください。

  A.「しくじり行為の発生」:  <妨害される意向> →干渉← <妨害する意向>    
     「夢の発生」   :   <眠ろうとする意向>   →関係← <解消を求める願望>

      p.194「(7)夢のこの性格〜放棄されています。」

  関戸の解答:しくじり行為と夢の発生が同じ図式に合致することに注目した。
 

7)夢の解釈のときの<抵抗>は<夢の検閲>の対象化にすぎないとフロイトは言います。
 では、どのような意向がどのような意向によって夢の検閲を加えられるとフロイトはしているでしょう。

   p.207下「検閲する側の意向とは、夢をみた人の目覚めているときの判断によって承認される意向であり、夢を見た人がたしかにそうだ、と感じる意向であります。」
   p.208上「検閲の対象となる意向は徹頭徹尾、非難に値する性質のものであり、倫理的、美的、社会的な見地からは下品なものであり、人があえて考えようとはしないもの
、あるいは嫌悪の念をもって出なければ考えられないようなものであるとだけはいえます。な
かでも検閲を受け、夢のなかで歪んだ表現をとっている願望は、放縦で無思慮な利己主義の表
明なのです。」

  江西の解答:出題意図:フロイト曰「夢を理解するため、人間生活を理解するための根本的問題」
  抵抗:p.179「(自由連想のときに)思い付きを素直に受け取れず、その思い付きを吟味・選択したくなる」「取るに足らない、ばかげている、ここには
         関係ない、人に話したくない(というようなこと)」
   検閲:p.206上「資料の脱漏、変容、編成替え」「夢の歪みの首謀者」
      p.207上 夢を解釈するときに抵抗となって行く手を遮るもの、それを(私共は)
           「夢の検閲」として夢の働きの中に持ち込む(ことによって解釈)
 

(8)フロイトがこの本を著述中の時代背景である<第一次世界大戦>について精神分析的観点から言及している箇所を抜き出してください。

      p.212下左「さて、目を個人から〜」p.213下右「〜見つけることができるでしょう。」

  解答:「精神分析入門」が著されたのが1917年。巻末の年表を見ればわかるように、第一次世界大戦の真っ最中。ロシアではロシア革命が起こっています。後年フロイトはナチスによって文筆活動を妨害されることになることを考えてもフロイトの知的活動に影響を与えた<時代状況としての戦争>には目を向けぬわけにはいきません。さて、上記の該当個所を見てみるとフロイトが大戦の状況を人間の野蛮・残忍・虚偽といった醜い側面の現れと見ていることが分かります。けっして平和ぼけのヒューマニスト的な立場にはたっていません。フロイトは戦争の責任は野心家や誘惑者だけのものではなく<人間の中に厳然と存在する心の一部>の暴走だとしているのです。
 
   「みなさんは悪を人間の心的素質からなくすために勝負をいどむだけの勇気がおありですか。」

  かっこいいですねえ。どう思います、みなさん?(*.*) さて、彼の戦争に対する思想的働きかけは次のように展開されるのです。「みなさんは、私が戦争を一面的に判断している、といって非難なさるでしょう。戦争は人間のもっとも美しく崇高な面、すなわち英雄的な勇気、自己犠牲、その社会的連帯感をもおおいに発揮させるとおっしゃるでしょう。たしかにそうです。しかし、精神分析は一方を主張するために他方を否定するといって、不当な非難を精神分析に対して浴びせる人々と同じ誤りを、みなさんはどうぞおかさないでください。人間の天性のなかにある高貴な性向を拒絶しようなどと思う意図は、私どもにはございませんし、またその価値を過小に評価したこともありません。反対に、私はみなさんに、検閲を受けたよこしまな夢の願望を示すだけでなく、それらの夢の願望を抑制し、見分けがたいものとする検閲があることを指摘しているのです。人間のなかにある悪について、おおいに力を入れて長々とお話しているわけは、他の人たちが悪の存在を否定するために、人間の心的生活はよくなるどころか、かえって不可解なものになるばかりだからです。そこで、もしもわれわれがこうした一面的な倫理的評価を捨ててかかれば、人間の本性のなかにある悪と善との関係に関して、もっと正当な公式をきっと見つけることができるでしょう。」<上記該当場所後半部>

   この話を吉良君や鎌田先生が好きな「ナイフを持つ子供たち」の話に置き換えて考えてみることもできます。フロイトは戦争を引き合いに出すことによって、一面的な倫理評価への嫌疑を投げかけています。人間の心の中にある悪は文化によって否定されたり、オブラートに包まれたり、装飾をほどこされたりして隠匿・意味の転化が平然と行われているというのです。少年犯罪現象への解決策として教育・モラルの徹底や少年法の若年齢化が盛んに叫ばれています。フロイト流にみればこういった問題解決への態度はどのように映るのでしょうか?
 

(9)象徴と性はなぜ親近性を持つのだとフロイトは言っているのでしょうか?

     p.233下右「この点に関して〜」p.234上左「〜しれないのです。」
     p.224下左「私はつぎのように〜ちがいありません。」
   p.234下右「精神分析的研究〜生じてきます。」

  解答:個人的に夢の象徴性に関しては「フロイト君、やりすぎじゃないの?」と言いたくなりましたが、フロイトが精神分析学以外の学問分野から理論的根拠を並べ連ねるのでなんだかそれもありかなと思うようになってしまいました。まず夢の象徴性をどっから理論づけたか
と言いますと、象徴の源泉は・・
    「それは、いろいろな源泉から知るのです。すなわち童話や神話から、冗談やウィットから、民族学、すなわち民族の風習、慣習、諺および歌などに関する学問から、詩語や一般俗語から知るのです、と。これらのなかには、いたるところに同じ様な象徴的表現がみいだされています。そして、大部分の箇所では、とくにそれ以上指示されてなくてもその象徴性がわかるのです。これらの源泉を一つ一つ追究して行くと、私どもは夢の象徴性に対応するものを数多く見いだし、その結果、自分の解釈に自信を持つようになるに違いありません。」p.224下   「精神分析的研究では、その研究が非常に価値のある解明を期待される他の多くの精神科学、すなわち言語学、神話学、民族学、民族心理学および宗教学との関係が生じてきます。」p.234下

  というような学際的アプローチでフロイトは説得を試みます。私自身、象徴を意識せざるをえないようなことが先日高平でアキイエ合宿に参加したときに起こりました。高売布神社で行われる<千本づき>という行事についてです。これは発表の時に話します。

  さて、性と象徴の親近性についてですが、フロイトはH・スペルバーという言語学者から大きなヒントを受けたようです。スペルバーによると、

  「最初の音声は伝達の役目をし、性愛の相手を呼び寄せるためであった。語根は原始人の労働の作業にともなって発達した。これらの労働作業は共同作業であったので、リズミカルに言語的表明を反復しながらおこなわれた。性的な関心はこうしているあいだに労働の上に移しかえられたのである。原始人は労働を性的活動の等価物として、また代理物として取り扱うことによって、いわば労働を受け入れやすいものにしたのである。共同の労働をしているときに発せられることばは、こうして二つの意味をもつようになった。すなわち性的な動作を言い表すと同時に、これと同じものとされた労働の活動を言い表したのである。時とともに、その語は性的な意味から切り放されて、労働に固定されるようになった。幾世代かすぎると、まだそのときには性的意味をもっていた新語についても同じようなことが起こり、他の新しい種類の労働に転用されるようになっていった。このようにしてかなりの語根がつくられたが、いずれも性的なものに由来するもので、徐々にその性的な意味を他のものにゆずっていったものである。」   p.233下〜p.234上

  これはまさに言語学的<昇華>ですね!スペルバーの研究成果をうけてフロイトはこう話します。

  「(上記の記述のあとに)ここに大略を記した彼の説が的をいているものとすれば、たしかに夢の象徴性を理解する可能性がひらけてきます。すなわち太古の事情を示すものをまだたぶんに保っている夢の中に、性的なものをあらわす象徴がなぜこんなに驚くほどたくさんあるのか、なぜ一般に武器や道具が男性的なものをあらわし、原料や加工されたものが女性的なものをあらわすのかということがわかってくるでしょう。象徴関係は古代に単語が同一だったことの遺物といってもよいのです。かつて性器と同じことばで呼ばれたものが、いまや夢のなかで性器の象徴として現れているのかもしれないのです。」p.234上

  知的な言語を操り、芸術を創造する文化的生物であるはずの人間が、性的原始人のなごりをひきずっている・・否、性的願望は人間の本質であるとでもフロイトは言いたいのでしょうか。生活のために性交成就のツールとしての言葉が次第に労働生産目的のツールへもと色合いを増してゆく。しかし今もなお、みんなの中にヤフー*は存在するのです!!

      *スフィスト作ガリバー旅行記(1726発表)の中に出てくる醜い欲望にまみれた原始人。ガリバーは華美な服装や習慣に包まれた当時のイギリス上流階層の人々の心中にヤフーと同じものを見る。WWW検索サーバー「Yahoo」は皮肉にもこのヤフーから命名された。
                                                                      

(10)<夢の歪み>の形式を4つ述べ、それぞれの内容を説明してください。

    p.247下左「一般に夢を筋の通った〜ものなのです。」
   p.236上左「夢の諸要素と〜言語表現」
   p.216下左「先に私が〜」→p.217上右「象徴的関係なのです。」
   p.185上「いまこそ、前から〜」→p.186下「〜十分なのです。」
   p.182〜は参考。

  江西の解答:第11講『夢の働き』より<夢の歪み>
        ・凝縮p.237上中 顕在夢は潜在夢より内容がとぼしい
                  ↑一種の省略を加えられた潜在夢の翻訳
           p.248上中 検閲の結果ではないが、検閲は得をする
        ・置き換えp.239検閲による。ほのめかし。象徴。
        ・造形的表現p.241思想を視覚的に変換する
        ・夢全体に施す二次的加工p.247末 夢の一時的な成果を組み合わせて全体〜

   【フロイトの斬新さ】夢の複雑さ・多様さを巧みに分類、夢の働きとして見出した
             夢という形のないものを顕微鏡でみる=科学的手法で分析
 

(11)フロイトは「エディプス・コンプレックス」をどのような心的態度だとしているのでしょう?

     p.273上「両親と子供〜さえ示すものです。」p.274下「私が考えているのは〜多いのです。」

  関戸の解答:子供とその親とのあいだにみられる特異な親近感情、または愛情的な関係、およびそれをめぐるもう一方の親との競争的、敵対的な感情関係。(このエディプス・コンプレックスが神話やギリシアの戯曲、ハムレットなどの文芸作品に取り上げられている事実に注目したい。)
 

(12)フロイトは小児の性をどのように捉えているのでしょうか?

    p.276下右「これまでの〜」→p.277下右「〜できるのです」
   p.278下「児童心理学〜」→p.279上「〜確認されたわけです。」
   p.384上「ところで、〜」→p.386上「〜弾劾されることにもなるのです。」

  解答:フロイトは小児の性の研究から成人の性行動の倒錯性や夢の幼稚性の源泉を発見します。フロイトにとっては小児の性の研究は<リビドー>の存在の確信を得るものでもあったのです。さて彼の研究の大きな柱となった小児の性をフロイトはどのように捉えていたのでしょうか?

  「これまでの研究によって、小児の心的生活・・・私どもはいまや、禁断の夢の願望に関連するもう一つの部分、すなわち法外な性的欲望の部分の由来も、同じ様な仕方で解明されるであろうという期待をもつことができるでしょう。私どもは小児の性生活の発達について研究しようという意欲を感じます。そのとき、まずいくつかの根拠によって、小児に性生活があることを否定し、性愛は思春期に性器が成熟するときになってはじめて起きてくるとする考えは、支持できない誤った考えだということを知るのです。ほんとうは、小児ははじめから内容の豊かな性生活をもっているのですが、それはのちの正常とみなされるような性生活とは多くの点で異なります。私どもが成人の生活のなかで「性的倒錯」と呼ぶものは、正常のものとはつぎの点でちがっています。すなわち、第一には種の限界[人間と動物とのあいだの深淵]を無視していること、第二には嫌悪感の限界を越えていること、第三には近親相姦の限界[省略]を踏み越えていること、第四には同性愛をなんとも思わないこと、第五には性器の役割を他の器官や身体部位に置き換えていることなどです。これらの制限は実は最初から存在するものではなく、幼時の発達と教育の過程からおもむろに形成されてくるものです。幼時はこのような制限にはとらわれていません。また、幼時は人間と動物とのあいだの深い深淵をまだ知りません。人間は動物とはちがうのだとする自負心は、後年になってからはじめて育ってくるものなのです。幼時は、はじめは排泄物に対しても嫌悪の念をいだきません。それは教育の影響によっておもむろに修得するものなのです。幼時はその最初の性的な欲望と好奇心とを、自分にもっとも身近で、他の理由からもっとも愛する人たち、すなわち両親、兄弟姉妹、世話をしてくれる人に向けるのです。そして最後に、幼児では、これはのちになって愛情関係の頂点に達したときにまた発現してくるものなのですが、性器の部分だけから快感を期待するのではなく、他のさまざまの身体部位にも同一の敏感さがあって、同様な快感を媒介することができ、したがって性器の役割を果たしうるということが明らかになります。つまり小児は、「多形倒錯」的のものと呼ぶことができるのです。」p.276下〜p.277下

  ここでポイントとなる箇所は、小児の性は<多形倒錯的>ということと、性生活の制限は<教育>によって行われるということだと思います。
   
  夢の幼稚性と小児の性の<多形倒錯性>の関係については、このように述べています。

 「児童心理学〜すなわち、忘却された小児期の体験は夢に現れやすいことを知っただけではなく、また小児の心的生活はそのすべての特質、エゴイズム、近親相姦的な愛の選択などとともに夢のなかに、従って無意識のなかで存在しつづけているということもわかりましたし、さらに夢は毎夜、私どもをこの幼稚型の段階につれもどすのであることも知ったのです。このようにして<心的生活における無意識のものとは幼稚型のものにほかならぬ>ことが確認されたわけです。」p.278下〜p.279上

    そしてフロイトは同性愛、フェティシズム、サディズム、マゾヒズム、ヒステリー性のノイローゼ症状などは幼児性欲の局大化現象にほかならないとしました。小児の性の<多形倒錯性>がその論拠です。

   「そこで・・・あらゆる倒錯の傾向は小児時代に根をおろしているということ、小児は倒錯的傾向になるあらゆる素質をもっており、彼らの未成熟であるのに応じた範囲内で、その素質を行為にあらわすことなどです。簡単にいいますと、倒錯的性愛は個々の欲動に分解された幼児性欲が拡大されたものにほかならない、ということがわかったのです。」p.384     さらに小児の性のみだらな<多形倒錯性>が節度ある<性器を介した生殖>へと収斂されてゆく過程で大きな役割を果たす教育についてはこう述べられています。「みなさんは性愛と生殖とをとりちがえるという誤りをおかし、性愛、性的倒錯およびノイローゼを理解する道を、みずからさえぎっておられるのです。この誤りは、しかし、偏向性をもったものです。注目すべきことですが、その根源は、みなさん自身がかつては小児であり、小児として教育の感化を強くうけたということにあります。すなわち社会は、性の欲動が生殖の激しい衝動として突如として現れてくると、それを束縛し、制約し、社会の命令と同一のものである個人の意思に服従させることを、自己のもっとも重大な教育上の任務としてとりあげざるをえないのです。」p.385上

    「社会は、小児が知的に成熟してある段階に達するまで、性の欲動の十分な発達をひきのばしておくことに関心をもちます。というのは、性の欲動が完全に発現してしまえば、教育の可能性もまた実際的には終わりをつげるからです。もしそうしなければ、この欲動はあらゆる堤防を決壊し、辛苦してうちたてられた文化を押し流してしまうでしょう。欲動に束縛を加えるという課題は、けっしてたやすいものではありません。あるときは束縛しようとして大失敗したり、またあるときは束縛に成功しすぎたりします。人間社会を動かす動機は、究極的には経済的なものです。社会はその成員を働かさずに維持してゆくのに十分な食物をもちませんので、その成員の数を制限し、そのエネルギーを性的な活動から労働へとふりかえなければなりません。太古から現代までつづく永遠の生活難があるゆえんです。」p.385           提題・にリンクするでしょう?
 

(13)フロイトは夢の客観的解釈に対する疑問視に対してどのように反論しているでしょう?

     p.308上「(4)〜」→ p.309上「〜混同があるのです。」

  江西の解答:客観的解釈の正当化 p.308-p.309「(4)〜混同があるのです。」
  p.309中「私共は夢をみる人に<何について>夢を見させるかという点では影響を与えることはできますが、 <何を>夢見るかまでは影響を与えることはできません。(この段落)」


 第三部【ノイローゼ総論】

(14)当時の精神医学は、強迫ノイローゼの諸問題にどんな態度で接していたのでしょうか。
   また、それに対する精神分析学者たちの反論はどのようなものであったでしょう?

   p.331上「おそらくみなさんは〜「変質者」だと主張しているのです。」
   p.331下「しかし、彼らは他の〜」→p.332上「〜見事な逃げ口上です。」
   p.331下「しかし、これはあまり満足〜」→p.332上「〜幾度かこれに成功しています。」

  江西の解答:強迫ノイローゼに対する態度  p.331-332
          ↑p.328下左   強迫(観念)、疑惑をもつ
        精神医学  :強迫症状に命名、「変質者」とする、例外「優秀性変質」とする
        精神分析学者の反論:・「(性格と症状の)矛盾」研究の必要あり
                  ・公共社会のために意義のある〜変質であろう。
                  ・〜永久的に取り除くことができる
 

(15)無意識的な心理過程とノイローゼの症状の関係を述べ、ノイローゼ治療への糸口はどこにあるかを答えて下さい。

  p.351下左「しかし、これがすべてではありません。〜」
  →p.352上右「〜せざるをえないのです。」=無意識的な心理過程とノイローゼの症状の関係。
  p.352上右「みなさんはここに一挙にして〜」
  →p.353上右「〜効果をあげるのです。」=ノイローゼ治療への糸口。

  関戸の解答:フロイトは無意識的な心理過程とノイローゼの症状の関係として次のような命題を掲げている。「症状はその無意識的な前提条件が意識されたときに消失する。」と。つまり、症状が無意識的過程から発生するものである限り、いったんそれが意識されるとその症状は消えてしまうのである。(そのことが無意識であることを意識することによって、それは無意識ではなくなる。ソクラテスの「無知の知」に似ているかも。)また、ノイローゼ治療への糸口として、無意識的なものを意識的なものに変えることによってその症状に対する効果をあらわし、この変換を成し遂げ得る限りにおいてのみ効果をあげるとしている。症状の意味を内封していた無意識的な過程を患者に意識させるということ。
 

(16)精神分析学によって既存の人間観が大きな衝撃を受けたことを科学革命の歴史の展開のなかでフロイトが物語っている箇所を抜き出して下さい。

  p.357下左「このように心的生活における無意識的なもの〜」
  →p.358下右「〜それについてはまもなくお話しすることになるでしょう。」
  p.466下「私どものつくった〜そのことをなしとげたのです。」

  解答:科学革命の流れの中の精神分析学の位置づけを把握するための問題です。それではまずはじめにフロイト自身が強調している精神分析学の学問へ与えるインパクトを抜き出します。

  「私どものつくった精神分析学説の体系は実際、一つの上部構造であって、いつかその下に器質的な土台がすえられなければならないのですが、私どもはその土台をまだ知ってはいないのです。精神分析の学問としての特徴は、それが取り扱う素材にあるのではなく、それが使用する技法にあるのです。精神分析学はノイローゼ論に適用できると同様に、文化史、宗教学および神話学にも、その本質を傷つけることなく適用することができます。精神分析学は心的生活における無意識の発見ということ以外には何物をも意図していませんし、まさにまた、そのことをなしとげたのです。」p.466下 

  フロイトはノイローゼがたんに器質的原因から生じるものではなく心的要素間葛藤からも発現するという新しい見方を提示したかっただけで、一方的に身体要因説を喝破しようというわけではありませんでした。むしろ、<心的現象は異なる勢力の角逐のしるし>という力動心理学のフレームワークこそ核心だといっています。つづいて科学革命の流れの中での精神分析学が書かれて在る箇所を抜き出します。

  「人類は時の流れのなかで、科学のために二度その素朴な自惚れに大きな侮辱を受けねばなりませんでした。最初は、宇宙の中心が地球ではなく、地球はほとんど想像することのできないほど大きな宇宙系のほんの一小部分であることを人類が知ったときです。・・・二度目は、生物学の研究が人類の自称する想像における特権を無に帰し、人類は動物界から進化したものであり、その動物的本性は消しがたいことを教えたときです。この価値の逆転は、現代においてダーウィンやウォレスやその先人たちの影響のものと、同時代の人々のきわめて激しい抵抗を受けながら成就されたものです。ところが、人間の誇大癖は、三度目の、そしてもっとも手痛い侮辱を、今日の心理学的研究によってあたえられることになります。自我は自分自身の家の主人などではけっしてありえないし、自分の心情生活のなかで無意識に起こっていることについても、依然としてごく乏しい情報しかあたえられていない、ということを、この心理学的研究は証明してみせようとしているのです。人間の反省をうながすこの警告もまた、私ども精神分析家が最初に、しかも唯一の警告者として提起したものではありません。しかし、この警告をもっとも強力に主張し、一人一人の胸に身近にひびくような経験材料によって裏書きすることは、私どもにあたえられた使命であるように思われます。このためにこそ、私どもの学問に対して総反撃が起こり、いっさいのアカデミックな丁重さはかなぐり捨てられ、公平な論理からはまったくはずれた反対論が起こったのです。」p.357末〜p.358

   フロイトがダーウィンから多大な影響を受けたことは明らかです。ダーウィンの進化論から<人間の動物的本性は消しがたい>と読みとったその考えはフロイトの理論に一貫した影響を与えています。それにしてもフロイトが人の心の中の無意識をあぶりだそうとすることによるメリットとはいったいなんなのでしょうか?
  

(17)「愛」という言葉についてフロイトはどのように述べているでしょうか?

  p.404下「潜伏期以前の小児期における〜知らせないようにしているのです。」
 

  関戸の解答:フロイトが愛という言葉を使うのは、性的な欲求の心的側面を前景にだし、その根底にある身体的または「官能的」な欲動の要求を抑制したり、あるいはほんのわずかの間忘れようとしたりするときであると述べている。
 

(18)フロイトによると個人が人間共同体の一員となる資格はなんでしょうか?トーテミズムに関連づけて答えて下さい。

  p.410下「しかし、これよりさらに重大な〜」→p.411下「〜二大犯罪なのです。」
  p.413上「ところで、思春期には非常に強い感情的な〜当然のことです。」

  解答:この問題は問(2)と関連する問題です。ただ個人と人間共同体との関係がどのように位置づけられているとフロイトが考えていたかをもう一度<トーテミズム>というキーワードを材料に探ってみようという意図から出題しました。個人・人間共同体・文化の関係は鎌田ゼミを一貫して流れるテーマだと考えたからです。

  <解答例>人類最初の社会的・宗教的制度であるトーテミズムは<母との近親相姦>と<父殺し>を二大犯罪として厳しく禁じています。息子が母を犯し、父を殺してしまうという話は<エディプスの神話>として広く伝えられていますが、不思議にもエディプスはこのトーテミズムの二大犯罪を犯してしまうのです。近親相姦の禁止はフロイトによる小児の性の<多形倒錯>の矯正原理からしたらごくあたりまえの要請でもし近親相姦が容認されるような社会であるならば小児の頃のままの無尽蔵かつ過自由な性的欲動を解放したままの個人を受け入れざるをえなくなり生活のための組織的活動の遂行や相互協力の推進は困難なものとなり、社会の枠組みが失われる危険性があります。母親とセックスするために父親を殺したり、より多くの女性とセックスするために友人を殺しまくるような人間が社会に存在している様子を想像してみて下さい。トーテミズムというものは法律、戒律果ては文化を構成する脊髄のようなもので人間の集団生活を継続する必要上不可欠なものなのです。フロイトは言っています。「文化は生活の必要に迫られて欲動の満足を犠牲にしてつくりだされたものである。文化の大部分は、人間共同体のなかに新しくはいってくる個人が全体のためにその欲望充足をくりかえし犠牲にすることによって、たえず新しくつくりだされるものなのだ。」と。故に個人が人間共同体の一員となりその人間共同体と生活を継続しようと望むのならば、トーテミズムのような基本戒律を守ることはもちろんのこと、アメリカの握手や日本の礼のような日常的な挨拶文化をも守ることが人間共同体の一員となる資格なのです。しかし、近親相姦が天皇家やファラオ、インカの王族らの支配者階級には容認されていたというのは不思議なことです。さらに神話の世界では神々には近親相姦はためらうことなく許されているということを発見できます。それでも近親相姦は一般の人民には許されることのない行為でした。近親相姦は支配者達だけの<特権>という位置づけを持っていたのです。庶民には許されない<特権>をもつ彼らは意図的に庶民から近親相姦の権利を奪い、自らの独占物としたのかもしれません。許されないものを持てる<権力>こそ人民を支配しピラミッド型社会を司るための資格だったのです。とはいうものの大多数の庶民は近親相姦を致すことができません。大部分の個人が人間共同体の一員となるためには小児時代の願望を捨てなければならないのです。 
 

(19)フロイトは人の不安感情の源泉を何だと言っているでしょう?

  p.474上「不安の感情の場合、〜と私どもはもうしたいのです。」

  解答:人間の不安の感情の源泉・原型が、赤ん坊が母胎から離れる<出産行為>から生じるというフロイトの説には納得させられるものがありました。そしたら出産後すぐに保育器に入れられてしまう未熟児のみなさんにはものすごい不安体験があるのでしょうね。成人になってらその不安感情をぬぐい去ることはできるのでしょうか?きっとなんらかの影響が残るのでしょうね。この問題はおまけ問題です。



<提題> 

●「フロイト以後の人間観において『無意識』領域や『リビドー配備』までをも考慮して人間を捉えた結果、その人間関係はフロイト以前とどのように改変されたのか?もしくは改変されなかったのか?」

●「フロイトの文化定義は空間的および時間的に普遍性をもつものなのだろうか?」

●「実生活においては厳しい規制を受けるエディプスコンプレックスがなぜ、どのように文学や芸術の手に委ねられ、自由に表現されるようになったのだろう?」       

●「夢に対する科学界の軽蔑が起こっていたのはなぜだろう?」p.145


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