担当者:上野山晃弘、鈴木裕一、高島香織
『原典による心理学入門』 第七章
パヴロフ 『大脳半球の働きについての講義』
ワトソン 『行動主義の心理学』
ケーラー 『ゲシュタルト心理学入門』
☆3人はそれぞれ「精神」というものに対してどのように考えていますか?またそのように考えるにいたった背景にはどのような理由がありますか。
パブロフ、ワトソン、ケーラーはそれぞれ生理学的アプローチ、行動主義的アプローチ、ゲシュタルト心理学というタイプの異なる心理学のアプローチをとっていますが、それぞれの理論がどのような人間観、自然観を前提としているのかを考察してみたいと思います。
パブロフ:
475 「つねに客観的な研究のみをおしすすめ、主観的なものはすべて完全に排除したのである。・・・自然科学者は本質とか窮極的な原因とかに関連した問題を無視し、つねに客観的な事実とその対比に基礎を置いてあらゆるすばらしい成功をおさめている。・・・自然科学者にとってはすべては確固たる永遠の真理を獲得する方法と機会のうちにある。この自然科学者にとって義務ともいうべき見地からすれば、自然科学の原理として霊魂は不必要であるばかりでなく、大胆な、深い分析を無益に制限しその仕事に害をあたえさえするのである」
481 「消化腺の活動を詳しく研究しながら、私は、消化腺のいわゆる精神的興奮を扱わなければならなかった。私の共同研究者の一人と、この事実を一層深く分析しようとして、最初はよくやるようにつまり心理学的に、動物がこのさい、考えたり感じたりすることができるという立場をもとにした。ところがある時、研究室ではめずらしい事件にぶつかってしまった。わたしは、共同研究者と意見の一致をみることがなかった。われわれ二人とも自分の意見をかえなかったし、確実な他の実験をやって、相手を納得させることも不可能だった。その結果私は、対象の心理学的な取り扱いに断固として反対するようになった。私は、対象を純客観的に外側から研究しようと思い立った。すなわち、ある瞬間に、動物にどんな刺激が加わったかを正確に観察しさらに、動物が運動というかたちか、または(わたしの場合のように)分泌というかたちをとってこの刺激に応答する、ということに注目して研究しよう、と思いついた」
ワトソン:
514 「行動主義は、これとは逆に、人間の心理学の主題は、人間の行動だ、と主張する。行動主義は、意識というものは、明確な概念でも、有益な概念でもない、と主張する。常に実験家として訓練されている行動主義者は、さらに、意識というものがある、という信仰は、迷信と魔術のあの大昔に生まれたものだ、と主張する」
518 「1912年に、客観的心理学者、つまり行動主義者は、自分たちはもはやヴントの公式で研究するのに甘んじることはできない、という結論に到達した。彼らは、ヴントの研究室が設立されてから、30年も心理学が不毛だったのは、いわゆるドイツの内観心理学が間違った仮定の上に立っているという−宗教的な心身問題を含んでいる心理学は、決して実証可能な結論に到達できないという−決定的な証拠だ、と感じた。・・・・・・心理学の主題と方法を各研究者について同一にする最初の努力として、行動主義者はすべての中世的な概念を追い払って、彼らなりに、心理学の課題を公式で表わしはじめた。彼らは、感覚、知覚、心像、欲望、目標、思考、および情動のようなあらゆる術語を、主観的に定義されているという理由で、彼らの学問上のことばから振るい落としてしまった」
ケーラー:
「精神」ということばは直接は表わされていませんが、上の二人の捉え方と比べてみると、以下の個所を見れば、彼が人間の精神、あるいは意識についてどのように考えていたかを伺うことができると思います。
566 「当時、若い科学というものは、その分野におけるもっとも単純な諸事実をまず最初に取り上げるべきであると一般に信じられていた。それらが知られたのちはじめて、科学者はより複雑な事態に漸次目をむけ、すでに知られた単純な要素の結合としていかにそれら複雑な事態が理解されるかの発見を試みることができると考えられていた。初期のゲシュタルト心理学者の研究したような知覚の素材にこれをあてはめると、その方式は特に次のように表わされる。知覚を研究するさいには、まず何よりも、知覚やたとえば視野を成立させている単純な局所的事実を調べ、それらの真に単純な性質をぼかしてしまうようなすべての二次的構成成分や邪魔のものは、これを無視するかあるいは取り除くかすべきである、と。
初期のゲシュタルト心理学者はこの方式を無視した。・・・なぜなら彼らの興味が、それら「単純要素」すなわちいわゆる局所感覚にはなかったからである。彼らが言うには、第一に、われわれは知覚的場面を公平に調べ、目立った印象をわれわれに与えるような事実がそれらの場面に見出されはしないかと試み、そしてこのやり方を進めることにより、多くの現象にあてはまる一般的な規則を次第に発見していくことができるかどうかをみるべきである。明らかにこのプログラムでは、局所的単純要素とか感覚とかはまったく登場しない」
ケーラーにおいては、従来の科学において無視されてきたきたものこそ、諸要素間における相互作用(歪み、歪んだ知覚)を生み出し、人間の知覚において単に局所的な諸要素の総和では計ることのできない作用を生み出すものとして注目される。それに対して、「知覚的な観察事実は独立な局所的事実であるべきだ」と考える科学者は、それを単なる錯覚、あるいは判断の誤りであるとみなして無視するのであるが、ケーラーにとってはそれは単に「言い逃れ」でしかない。
≪「科学主義」に対するそれぞれの立場について考察しましょう≫
☆自然科学的概念を用いてきた生理学が、心理学の領域を取り扱うことに対して、パヴロフはどのように考えているか?
509 「さて生理学者が中枢神経系の最高の限界に近づいていくと、その活動の性質は急にはげしくかわる。外部現象もそれにたいする動物の反応との結びつきにももはや注意を集中せず、事実をうけとるかわりに、じぶんの主観的状態によって動物の内部状態を推量しはじめる。これまでは、生理学者は共通の自然科学的概念をもちいてきた。だがいまや、かれの従来の概念とは何の関係もない、かれには縁もゆかりもない概念、つまり心理学の概念にむかう。かんたんにいえば、かれは連続の世界から非連続の世界に足をふみいれたのである。・・・自然科学は、無意識的に、知らず知らずの内に、次のような一般に行われているやり方にしたがってしまった。それはわれわれが自分で感じ、、またみとめる内部の原因を動物の行動に適用し、動物の類似の活動を、人間と比較して考えるやりかたである。
したがって、この点で生理学者は、確乎たる自然科学的な態度をすてさったわけである。・・・・・そして生理学者は、動物の内界を推量するという有難味の少ない課題をとりあげたのである。
474 「生物の客観的研究は、原始的な生物の向性の学説にはじまったが、動物体の最高の表現としての、いわゆる高等動物における精神現象に到達したときにもやはり同じでありうるし、またそうでなければならない。」
(→p509へ)
☆行動主義がとっている手続きとはどのようなものであるか?
536 われわれは、観察から事実を集める。時々われわれは、一群の事実を選び、それについてある一般的な結論を引き出す。2,3年してよりよい方法で新しい実験データが集められた時には、これらの試論的な一般的結論は修正されねばならない。どの化学の分野も−多かれ少なかれ、流動状態にある。実験的方法、この方法によって事実を集めること、これらの事実が、ときに一つの理論、あるいは一つの仮説に統一され、試論になること、こういったことは科学における手続きである。この基準から判断すると、行動主義は真の自然科学ということができる。
☆要素還元論的な科学的手法を、ケーラーはどのように捉えているか?
575 「・・・・エビングハウスは次のような驚くべき意見を述べた。−『心理学的事実が心理学的原子の単なる集合体でしかないのかどうか、わたしにはよく分からない。しかし科学者としてわれわれは、これがあたかも真実であるかのように考えて研究を進めていかねばならない』なんと悲しいことばではないか。これは、われわれの探求する事実の性質よりも科学的手続きの独断的要請の方が重要であると、われわれに告げているように思われる。その結果、こうした事実を、それら「科学的要請」と抵触するものとして無視することになるであろう」
彼がゲシュタルト心理学の立場から探求する事実の性質とは、要素還元論的な、あるいは原子論的な手続きでは捉えることのできない種類のものであり、あくまで人間のもつ知覚能力に注目することによって心理学的な人間像を捉えようとしました。
パブロフについて:
☆「客観的研究の道を進むことによってのみ、われわれはしだいに地上の生命にそなわっているあらゆる方向への、無限の適応を完全に分析することができるようになるのである」(p474)と考えたのはなぜでしょうか。
484 反射はこの絶えざる適応の、あるいはたえざる平衡の要素なのである。
→ 503 新しい反射の形成は一定の生理的条件の下では確実かつ容易なものであるから、このときわれわれが犬の内的状態に注意を払っていないと考えて心配する根拠は全然ない。
→ 484 多数の反射、これら法則的に機械のように行われる生体の多数の反応、また同時に、あたえられた神経系がもつ生まれながらに備わった、生来の反射、あたえられた神経系の体制によってすでに規定されている反射。
(反射は法則的なものである。)
(生命の活動=反射だから、)
483 生命の活動はすべて、法則的でなければならぬ。
☆彼は心理学と生理学との関係をどのように考えていますか?
拾い読み 476〜478
パブロフは、大脳半球のはたらきの研究において、生理学者が手をこまねいている原因を、
476 「からだの他の器官の活動や、また中枢神経系の他の部分の活動を考察する見地から、大脳半球の営む活動が研究されていない、ということである。大脳半球の活動は、・・・とくに精神活動と名づけられた。このために生理学者の立場は、きわめて特殊で困難なものとなった。一面では、半球の活動の研究は、生体の他の部分と同じように生理学者の仕事のようであり、他面では、これは特別の科学―心理学の対象である、ということになる。いったい生理学者はどうしたらよいのか。」
477 「ごくさいきんになっても、一般に心理学を自然科学とみなすことができるかどうかについて、議論があったほどだ。・・・心理学者自身でさえも、自らの科学を正確な科学とみなしていない。・・・心理学が、まだ正確な科学の段階にたっしていないことはあきらかではないか。」
478 「自然科学の発展を考慮すれば、大脳半球の生理学に手を貸すべきなのは心理学ではなくて、逆に、動物の大脳半球の生理学的研究が、人間の主観的世界を厳密に科学的に分析する基礎とならねばならない」
478 「生理学者たちは事実上、しばしば反射という理念をつかってきたが、・・・このようにして反射の理念は、実験上完全に正しいものとみとめられ、ほとんど大脳半球近くの中枢神経系まで応用された。基本的な歩行運動反射もその一つの要素となるような、いっそう複雑な生体の行為―いまのところ、心理学の用語で怒り、恐怖、遊戯などとよばれている行為は、やがて大脳半球のすぐ下にある脳の部分の、単純な反射的活動に帰せられるだろう。」
☆条件反射が形成される条件とは何か?
505 「与えられた条件反射を形成する第一の基本的条件−それは、以前に無関係であった要因が、一定の無条件反射を引き起こす無条件要因と時間的に一致して作用することである。
第二の重要な条件は次のとおりである。条件反射の形成に当たって、今まで無関係であった要因は無条件刺激の適用に若干先立たなければならない。」
ワトソンについて:
☆行動主義と生理学の違いは?
526 生理学は、動物の諸部分の働きーたとえば、消化系、循環系、神経系、排泄系、神経、および筋肉反応の力学―に特別関心を持っている。これに対して、行動主義はこれらの諸部分の働きのすべてにはげしい関心をもっているとはいえ、真に関心があるのは、個体としての動物が、朝から晩まで、また晩から朝まで、していることである
両方とも自然科学として、客観的をもとめていて、どこが違うのかが気になるところですが、ワトソンはこのように解答していました。→パブロフとの比較
☆ワトソンは行動主義によって何を求めていたか?
527 行動主義者の関心は、人間の行うことに向けられているが、彼の関心は思弁家の感心以上である。行動主義者は、物理学者が自然現象を支配し、操作するように、人間の行動を支配したい。人間の活動を予言し、支配することは、行動主義心理学の仕事である。これを行うためには、実験的方法で、科学的なデータを集めなければならない。そのときはじめて、訓練された行動主義者は、この刺激を与えれば、どういう反応が起こるかを予言できるし、またその反応を告げれば、どういう状況、あるいは刺激がその反応を引き起こしたかを当てることができる。
ここの文で、欲求をとてもストレートに表現していたので解答としました。そのほかにも
p.517 の意識に対する批判。p.514 の魔術にたいする批判。また p.518 で、「意識のようなものがあり、またそれは内観によって分析できる、という大前提の結果、個々の心理学者の数と同数の分析があることになる。そこには、実験的に心理学上の問題に取り組んで、それを解決する手段もないし、多数の方法を標準化する手段もない。」といっている部分も関連します。
両方とも自然科学として、客観的をもとめていて、どこが違うのかが気になるところですが、ワトソンはこのように解答していました。→パブロフとの比較
ケーラーについて:
☆最初のゲシュタルト心理学者であるウェルトハイマーは、「仮現運動」についてどのような見解を示していますか?
ウェルトハイマーは仮現運動(驚き盤運動)において生じる運動(=影の出現と消失がすばやく繰り返されると、一つの影がスクリーンの上を横切って往ったり来たりして動くように見える)がなぜ起こるのか、どのような条件において起こるのかということについて研究しました(もちろん他の科学者はそれを単なる錯覚だとみなして調べようとはしませんでした)。
570 「もし仮現運動が知覚の上で現実的なものならば、局所刺激がある時間条件で異なる場所に生じるとき、それに応ずる視覚過程は決して独立な局所的事実ではなく、それらの過程が互いに作用を及ぼし会うということ、したがって、それらが独立な局所的事実でなければならないという伝統的な公理は捨て去られねばならないことが、明らかに証明されるであろう」
↑
570 「ここにいるわれわれのほとんどは、映画館で上映されるフィルムに出てくる事物が、フィルムの個々の写真が実際にスクリーン上に映されるとき、けっして動いているのではないということを知っている。一つの写真がすばやく次の写真と替り、その交代の間はスクリーン上に光は投影されない。結果として映画は、多数の静止した異なる写真の物理的継起よりなる。したがって、われわれの見る動きはすべて仮現運動あるいは驚き盤運動である。観衆に、現にスクリーン上では実際運動など少しも生じていず、自分たちが見ていると思っているのは2,3分の間に起こる何千回もの誤った判断の結果にすぎないのだということを信じさせるのは容易ではない」
☆ゲシュタルト心理学が用いる科学的手続きを裏付けるような方法論にはどのようなものがありますか?
ゲシュタルト心理学が探求する事実は、従来の科学によって「科学的要請」と抵触するものとしてあるときは無視され、あるときはミステリ、あるいは宗教的な信仰だと呼ばれたわけだが、すぐれた物理学者でもあるケーラーは、当時最も先進的な物理学の領域においてとられるようになった手続きに注目する。
588 「マクスウェルの説明によると、ファラディの方法とは、まず与えられた「全体」からはじめ、そののち初めて分析によって部分に到達する方法に似ているのに対し、通常の手続きは部分から始め、総合によって全体を構成するという原理に基づいている。マクスウェル自身は、与えられた全体から始めて部分へと進んでいくファラディのやり方の方を好むと明言した。・・・「われわれは宇宙の部分から出来上がっているものとみなすのに慣れているし、数学者も普通、単一の要素を考えることからはじめ、次いで他の要素との関係を考慮するといった具合である。これがもっとも自然な方法だと一般的に信じられてきた。しかし単一の要素を考えることは抽象化の過程を必要とする。われわれの知覚はすべて拡がりをもつ実体に関連しているので、ある瞬間のわれわれの意識の中に生ずるすべてという観念は、おそらく、どのような個々の事物の観察とも同様、根源的であろう」
マックス・プランクの非可逆過程の概念
589 「物理学では、物理過程の説明に接近しようとしてその過程を要素に分割するのがわれわれの習慣になっている。われわれはすべての複雑な過程を単純な要素過程の結合とみなす・・・・・これはすなわち、われわれの目前にある全体をその部分の総和として考えるということである。しかしこの手続きは、全体を分割してもその全体の性質に何ら影響を及ぼさないということを前提としている。・・・・ところでわれわれが非可逆過程をこのやり方で扱うと、非可逆性は簡単に失われてしまう。そうした過程は、部分を調べれば一つの全体のすべての特性に接近することが可能であるとする仮定では理解できない。・・・・私には、精神生活のほとんどすべての問題をわれわれが考える時にも、同じ難問にぶつかるように思われる」
エディントン
「研究の一つの典型によると、そこに何が含まれているかを知るために空間の微小部分を次々に調べ、それから世界の完全な目録とみなされるようなものを作り上げていくということが行われる。しかしこのやり方では、微小部分に存しない全体的特徴を見失ってしまうことになる