『大乗仏典』世界の名著・中央公論社

発表者:大頭、関戸、高島、山田  



 ○発表の流れ

 存在の分析(『具舎論』第一章・第二章)著者:ヴァスバンドゥ(世親)、アビダルマ哲学(上座部系統)
   ↓
 明らかなことば(中論月称釈) 著者:ナーガールジュナ(龍樹)、中観学派
   ↓
 二十詩編の唯識論(唯識二十論) 著者:ヴァスバンドゥ(世親)、唯識学派
 


★解説よりの参考資料

<仏教の根本的教理>

 縁起=「これあればかれあり、これ生ずればかれ生ず。これなければかれなし、これ滅すればかれ滅す」すべての存在は自分が自立して存在するものではなく、必ず他に縁り、他を縁とし、他との相対性において存在する。そこには、絶対的存在・絶対者がないことが含意されている。あらゆるものが縁起であることは、あらゆるものが条件づけられていて自由のないこと、不自由なることであり、それが苦である所以であり、無常であり無我である理由である。」
   *縁起(相互依存、相対性)→(因果性)

p.24  四聖諦:苦諦=世界は苦に満ち人生はすべて苦の経験である。
          集諦=その苦には原因がある、すなわち煩悩がそれである。
          滅諦=この苦の原因が絶滅された境地がある、それが涅槃の真理。
            道諦=その絶滅に導くところの道があり、それが八正道であり、中道である。

    三法印:諸行無常=すべてのものは移り変わる。
      諸法無我=あらゆるものに我という実体はない。
         涅槃寂静=涅槃は最高のやすらぎ
          (一切皆苦=すべては苦である)

 <小乗>
 
  p.29 上座部系統>有部=説一切有部の略称。あらゆる存在、すなわち諸法は、過去・現在・未来にわたって実在するという実在論の立場。>経量部=三世実有を否定。過去と未来は無であり、現在のみが有である。実在論的。部派=有の哲学

 <大乗>

小乗が仏陀の言葉を経典や律典という形で保存しようとし、経典の解釈を固定させ、戒律の条文を一定不変なものにしようと試みたのに反して、大乗は条文や文字の当面の意味よりも、その裏に隠れた仏陀の心意を知ろうとしより自由な解釈を与えようとした。小乗は出家にこだわるが大乗は在家でも悟りを開くことができるという。例えば、菩薩(悟りを求める衆生)と言った場合、小乗においては悟りを開く前(幾多の前生を含んで)のゴータマ・ブッダをさすことににかぎられたが、大乗ではゴータマに限定せず、悟りを求める求道者として一般化された。したがってある意味では、あらゆる衆生が菩薩である。彼らはすべて、やがては悟りを開き成仏すべきものであるから。大乗=空の哲学。ex.「色即是空、空即是色」(般若経)


『存在の分析(『具舎論』第一章・第二章)』 
 *具舎論とヴァスバンドゥについてはp.31「存在の分析」p.25「縁起と法」に解説が書かれてある。

1、煩悩あるダルマと煩悩なきダルマの違いを説明してください。
 
答え: 倶舎論:ヴァスバンドゥの著。アビダルマ哲学の特徴である諸法(ダルマ)の分類、分析と、その間の因果論を説く。仏教について何かを考えるとき、その概念や術語は、ほとんどすべてこの書で取り扱われ、かつ基本的な定義と解釈とがあたえられているため、仏教の基本的なテキストの一つとなった。

331 ダルマ:それ自身の特質を保持するもの
332 ダルマを正しく吟味弁別すること以外に、煩悩をしずめるためのすぐれた方法はない。
    ダルマを正しく吟味弁別するためにアビダルマが説かれる。
332〜
 ダルマには、煩悩あるダルマと煩悩なきダルマとがある。
 ・因果関係の上にある(有為)のが、煩悩あるダルマ。ただし涅槃に至るべき道を除く。
 ・煩悩なきは、涅槃に至るべき道と、因果関係をはなれている(無為)三種とである。
    三種:@空間:さまたげなきこと。物はその中に自由に場を占める。
       A洞察力による煩悩の絶滅:4つの聖なる真理(苦集滅道諦)を弁別判断する力(=洞察力)によって、煩悩あるダルマの拘束をはなれること。
       B洞察力によらない煩悩の絶滅: ダルマの生起を絶対に妨げる。それは縁が欠如することによって得られる。
344 ものを因果関係の上にあるようにつくりなすから、この煩悩的なダルマの群は、因果的存在といわれる。

 「煩悩あるダルマ」は因果関係の上にある。縁起(あるものに縁ってあるものが起こる)というように、そこでは、存在は、必ず他に縁り、他を縁とし、他との相対性において存在する。つまり、原因−結果、東−西、有−無、といったように、相対的な関わりをもってでしか、あるものを認識できないことを指摘している。それではあらゆるものが条件付けられており、自由のない、不自由である。執着などの苦はここから生まれる。「煩悩なきダルマ」は、上に見られるように、煩悩あるダルマ、つまり因果関係、相対性、縁(という認識方法)を乗り越え、自由でなることである。

2、一体どの点が小乗仏教から大乗仏教への転換をもたらした考えなのでしょうか?
 
答え:基本的にはアビダルマ=煩悩なきダルマである。しかし、煩悩あるダルマも二次的にはアビダルマといえる。「知恵のともしび」では前者を「最高の真実」と後者を「世間的真理」とのべている。煩悩あるダルマは因果関係の上にあるダルマである。表象の世界で人間が認識できるものすべてといってもよい。ヴァスバンドゥは小乗有部の出身だったゆえ、当初は有のダルマ、因果関係の上にあるダルマの存在を知り尽くすことにこだわった。それは、p.344下段の世尊の言葉「わたくしは、たとえ一つのダルマでも、それがよく知られず、知り尽くされずにあるかぎりは、苦がなくなったとは言わない。」を有のダルマを吟味分別しようとした根拠としてあげている。現象界における「認識」への信頼が多少なりとも垣間みられるこの時代のヴァスバンドゥは、スコラ哲学の祖アリストテレスが現象界におけるあらゆる存在の有性を仮にも想定し、その機能や性質の違いを吟味分別していった態度と似通っている。しかし、ヴァスバンドゥはそもそも小乗有部派の得意どころであったダルマの分別を根本的に疑う態度に転向する。それが、アビダルマの哲学が含有する小乗→大乗へぁw)フ邸w)・uシ回点である、「因果関係の存在しないダルマ」への志向である。(アビダルマは究極の真実であるダルマ-涅槃-に、あるいは、個々のダルマの特質に対向<アビムカ>し、それを観察するから、アビダルマと言われている。p.331)
 上述したように、因果関係の上にあるダルマは絶えず煩悩のつきまとう「有為の世界」のものである。ヴァスバンドゥ以前のアビダルマ哲学においては、この有為の世界のダルマを実在するものとすることにこだわるにとどまった。しかし、ヴァスバンドゥは「煩悩あるダルマ(すなわち、相対、因果、有為のダルマ)」の認識が高まった上で「煩悩なきダルマ(そこでは、有部派の立場である、あらゆる存在、すなわち諸法は、過去・現在・未来にわたって実在するという実在論の立場からの脱却の意志が見られる。)」へ至るという考えをさらに「無為のダルマ」の比重を高めるような理論を打ち立てる。それはp.332に見られる煩悩なきダルマの説明「煩悩なきは涅槃に至るべき道と、因果関係をはなれている三種とである。」のうちの「洞察力によらない煩悩の絶滅」という表現にその真意が見られる。「洞察力による煩悩の絶滅」は「煩悩あるダルマ」を弁別判断しそれら無数の煩悩ダルマを発見し、絶滅対象をクリアーにしてから止滅させるというすでにある「煩悩あるダルマ」の現在における実在性を前提とした”やり方”である。その半面「洞察力によらない煩悩の絶滅 w)ユぁw)・uヘ「煩悩あるダルマ」の現在における実在性をコントロールできるのである。視覚や聴覚によってえられた対象→心のはたらきの対象という経路を経る対象は、「人の心が、視覚器官を通じてある一つの色形に注がれているときには、その色形と同時に現在に生起してきた他の色形や、音や、かおりや、味や、感触は、その人の心のはたらきの対象とならないで、過去へ去ってしまう」ごとく。同じく対象となるダルマ(色形や音など)に対応する心のはたらき(その色を見る働き、その音を聞く働き)は対象となるダルマが現在に生起しないかぎり、現在に生起してくることもできず、永遠に未来にとどまる。それが過去のダルマと未来のダルマとの「縁」を絶つやり方であり、「洞察力によらない絶滅」である。さらにヴァスバンドゥは「煩悩あるダルマ」は”こわれる”とい言い方をし、認識の対象となるダルマもそれを認識するダルマも一定不変に現在に実在することはないと述べる。(縁を欠いたダルマの非生起)そこから彼は、空の哲学への親近性を深めるのであり、認識からのアプローチとして「世界は表象である」と表明するに至るのである。


『明らかなことば(中論月称釈)』 

 *ナーガールジュナと「明らかなことば」については、p.44「ナーガールジュナと『中論』」
  p.52「明らかなことば」に解説がある。

1、「自性」とはなんですか?
  
答え:★自性とは実に、変作されることのないもの、また、他のものに相対的でないものである。

 自性とは、「自己の存在」である。すなわち、なんらかの「わがものとされる体」があるものに所属してあるならば、それがそのあるものの自性であると世間では述べられている。
 あるものが何物かに依存しているならば、これもまた、その依存されたもののわがものである。
 変作されるものと、他に相対的なものとは、自性ではない。

 ◇自性とは?
 (1)(過去・現在・未来の)三時にわたって生来の体として火であることから逸脱せず、すなわち変作されることのないもの。
 (2)以前にはなくてのちに生成するということのないもの
 (3)水にとっての熱さや、彼岸と此岸や、長短などのように相対的であるのとはちがって、因と縁とに相対しないもの。

2、中観論と虚無論の違いを述べて下さい。

答え:p320存在するものを否定するという点では両者は等しいとしても真実を理解するしかたが違う。
 

・世間的慣行(真理)の立場 (概念的知識、有分別智)
  「因果性、相対性、原因→結果」
  虚無論者・・因果関係を否定することに固執しゅる。→非道徳
  中観論者・・因果関係を、実在はしないが、仮に存在すると考えて、それを否定したりはしないし、不善の道にも入らない。

・世間的真理とは  p326参
「一義でなく、多義でなく、断絶(を説く)のでなく、恒常(を説く)のでない。これが世の指導者である諸仏の甘露のような教えである。」
 この世界では、ある原因が滅してしまってもその結果は生じるから、(因果の)流れは存続する。原因は滅してもその結果は滅しないという点からいって、(結果は原因にたいして)他者ではない。また結果があるときにはその原因はすでに滅してしまっているし、原因が8すでに)存在しないときにもその結果は存在する。だから、(両者は)同一ではないから、ものは恒常的なのでもない。
 ものは(原因より)起こる、だから断絶していない。ものは死滅する、だから恒常ではない。

・最高の真実の立場 (概念的思惟を越えた直観知、無分別智)
 

虚無論者・・存在を対照化するのと同じように無存在を対象化するというしかたで、すべてのものを否 定する。破戒の汚れに自らまみれ、苦を静めることができない。
中観論者・・まだ悟っていないときにも、物質的存在その他のものも空であると悟る。これらの物質的存在はありはしないと理解して、思惟がやんでしまう。「最高の真実からみれば、物質その他の対象は存在しない、という知識も真実ではない。知識であるから。たとえば、存在するという知識のように。」 
 「ない」という意識も起こらない。 存在をただ否認するだけであって、無存在を(積極的に)肯定することもしない。存在、無存在という意識を越えている。一切皆空。

・・最高の真実とは  p324参
  本来言葉で表現されるべきものではないのだが、初心者を正しくはげますために、概念的な十分な考慮にもとづいて、それを決定してここに説こう。「他の者をとおして知られず、寂静で、多様な言語によって論じられることなく、思惟を離れて、種種性を越える。これが真実の形である。」
 「他のものをとおして知られず」・・・教えはないから自分で直観し、ひとりで自覚しなければならないもの。
 「寂静」・・・ものは本体をかいているから。人はもののそれ自体や特殊な性質を対象としていろいろに思惟するが、(最高の真実は)その対象とはならないから。
 「多様な言語によって論じられることなく」・・・言語表現を特徴とする多様性が死滅するからそういわれるのである。
 「思惟(分別)をはなれて」・・・素象されることもないから、それはこうである、という形で判断されることもないということ。

 「種種性を越える」・・・事物の本性(法性)は(空性として)みな等しいから、その意味がまちまちに別れることはないということ。

 「真実の本姓はことばの付託を完全に超越している。」
 「このような真実は説明することのできないものである。」

・無我の解脱
  p311〜313

・「完全な知恵」・・身体、感覚、表象、意欲、認識など、自己でないものでもないということを知ること(p316)。あるいは、すべてうつりかわるものは、自我と自己の所有を欠いているのである(p328)。
 

3、p.286下「ことばがあるかぎり、あらゆるものは無であり、一切は有でない」を説明してください。

答え:まず、なぜ「ことばがあるかぎり」という譲歩があるのかを説明する。中観派によれば「言葉」とは自性を持たないものであり、もし自性があるとするならばそれは空性であり無自性であり無存在である。故にあらゆるもの=自性が無いものを言い表すとすれば、言葉=無自性なものを使って言い表すしかないため必然的に「あらゆるものは無であり、一切は有ではない」と言わざるをえないのである。言葉という無自性に束縛されているわれわれには説明しようにも説明しきれない真理を無理矢理に言った結果このような難解な言い方になったのである。ここで、「一切は有でない」に含まれる絶対否定を説明したい。絶対否定とは、あるものを否定した場合に含意される半面の肯定を否定してしまうことである。たとえば、「高島嫌い」といった場合に、「でもあかりは好き」といった肯定を積極的に含む言い方がある。絶対否定はこの肯定を徹底的に放棄した言い方である。「一切は有ではない。」といった場合、その半面の肯定「一切は無である。」ということは徹底的に放棄されている。ここが非常に難解なところである。なぜなら一方で「あらゆるものは無であり・・」と述べているからである。中観派は「無」にも「有」にも執着しない「中正」をその居所とする。だが「中正」にも執着しないのである。

★あるといい、ないという、この両者は極端の論である。浄といい、不浄という、これも極端の論である。それゆえ賢者は、これらの二つの極端論を捨て、さらに「中正」さえも自分の基底とすることがない。あるといい、ないといって、このように議論をたたかわし、浄といい、不浄といって、また争う。争論にとりつかれているかぎり、苦がしずめられることはない。争論のないことを得て、苦は滅せられる。
 (「三昧王経」)


『二十詩編の唯識論(唯識二十論)』 
*唯識二十論とヴァスバンドゥについてはp.55「大乗哲学の完成」とp.59「二十詩編の唯識論」に解説がある。

1、フロイトの「無意識」の考え方に似通っていると思われる箇所を抜き出して下さい。

答え:  p432〜434 餓鬼の話
 前世において行った行為の結果、地獄に堕ちた人々は、地獄の住人を見るようになる。これは人々の心が捉えている表象にすぎないにも関わらず、人々が見たくないと思っても、見てしまうものである。これは、人間の心に、自身ではコントロールできない部分が存在すると言うことをしさしているのではなかろうか?
 これは、究極的には因果の世界における恣意的な行動は、すべからく苦につながるという思想を説く以前に、因果の法則は人間に操作できるものではないということを言っている、つまり、世の中は、自分自身さえも、人間には支配できないと言ってるのではなかろうか?
 そして、操作の概念を不可能なものとして否定した後で、操作を追いかけることの無益さを説くというロジックを駆使していると、考えた。

2、著者「世親」は、原子の実在性について述べることによって、どのような事を主張していますか?

答え:世親は、原子について、まず原子の「複数のもの」について誤りを指摘した後に、「単一のもの」について誤りを指摘する。そして、最終的には、認識の対象が原子によって構成されているのであれば、原子そのものが実在性を否定されるのだから、対象は実在性をもたず、表象のみにすぎないという。
 
3、世界が表象であるとすれば、なぜ蜃気楼の建物は効力を持たず(建物として使用できず)、本当(便宜上この言葉を使用した)の建物は実際に使用できるのだろうか?
 
答え:1で示したことだが、人間は因果律の中にいるので、自ら取捨選択してみたいものだけ見られると言う存在ではない。このことから、この世界では、人間は、本当の建物を、実際に効力があるように感じることができるのであり、蜃気楼の建物に効力を感じることができない。


<<提題>> 

●「原典による心理学入門」の吟味分別を通してまがりなりにも把握した西洋的思想の根底を貫く考え方と、「大乗仏教」の根底を貫く考え方の違いと共通点を探してみましょう。

●「大乗仏教」の思想は、実は私たち現代日本の若者にまで浸透しているのではないでしょうか?思いつくままに大乗仏教の影響があると思われる事例を挙げて下さい。

●老子の「道」と中観論の考え方の共通点と違いを考えてみましょう。否定的語法or肯定的語法?等。
 


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