『コーラン』世界の名著・中央公論社

担当:井上・上野山・大木・大頭


1 人間と神との関係を読んで考えてください。

112章「神髄の章」
87章「至高なるお方の章」
56章「出来事の章」

神は唯一絶対の存在であり、あらゆるものを創造し統括する存在であるわけだが、それに対し人間は、現世での享楽におぼれ、すぐに思い上がったりうぬぼれたりする存在である(96章「凝血の章」・102章「持ち物自慢の章」)。そのような人間に対してマホメットは神の教え(神の道)を示そうとする。彼は決して人間の支配者ではなく一人の警告者としてそうするのである。

81章「これこそ万人のための教訓に他ならない。正道を歩みたいと望むもののためのものだ。だが万有の主なる神のみ心にかなわなければ、おまえたちには何も望むこともできないのだ」

112章「生まず、生まれず、一人として並ぶものはない」
神は唯一永遠なるものである。神はすべての本質を含んだ無限の存在であり、イエスのような「神の子」というものは存在しない。イエスは本質ではなく、役割を与えられた有限な存在である。イエスには形があり、神には形が無い。神をコピーすることは不可能であり、また、神に何かを併置することも許されない。

有限な存在である人間が無限な存在である神を思い浮かべると言うことは、人間の思い上がりにつながる危険性もあるわけだが、そのようなうぬぼれを神は許さない。神が「慈悲深く慈愛あつ」くおられるのは、神を畏れ、おのれを浄めようとするものに対してだけである。

  
2.現世と来世との関係を述べてください

 1・天国、ゲヘナの様子 (P487出来事の章11から55)
 2・復活の日の様子   (P423集団の章24、P437説明の章39,40)
 3・ふりわけの基準  (P519階段の章19,27、P507騙し合いの章16)
   復活の日のふりわけのための現世の存在  
      (P507騙し合いの章9、P492鉄の章20,21)
 
 ・マホメットはなぜ現世に対置して来世を想定したか
 
 コーランでは一見現世をとても軽く扱っているようにみえる。しかし、イスラム教が戒律の宗教として知られるように、生活全般にわたっての実に細かい規律が定められている。

 現世でいかによい共同体をつくるかが一番の大事。そのためのロジックとしての来世。

 現世というのは共同体の中での生活であり、来世というのはこの現世での行いにたいする報酬。

 来世の価値とは、まず単純によい天国への執着心、酷いゲヘナへのおそれによる、現世での行いへの強制力

 マホメットの求める現世での正しい行いは、自己の欲望をおさえ、神をおそれ、他人につくすこと。一方来世はまさに人間、特に当時のアラブ人の欲望の結集である。これは人間の執着自体を断ち切ることを大事と考え、それによって個人を「苦」から救おうとする仏教とは大きく違うところ。欲望そのものの否定はしていない。むしろイスラム教にとって来世への執着は必要だったのではないか。「死」をなんだかわからないものとしておいておく、もしくは「無」だとしてしまうと人間の心には不安がうまれる。この不安は苦しみにつながると同時にどうせ「死」が「終結」なら何をしてもよいという個人の利益への暴走につながりかねない。これは社会にとってよくない。来世を天国かゲヘナとして規定することは、個人を安心して生きていけるようにしてやるために必要であったと同時に、絶対的な神という存在が人々を天国かゲヘナに振り分けるという強制力によって、より良い共同体を保つという役割を担っている。
 

3、神は何故コーランを人間に授けたか?

 第76章、運命の章。
 1)によれば、現世は、来世への振り分けのためにあるという。そして、コーランは人間を来世に生きやすくさせるために、神が慈悲で人間に授けてくださったものらしい。乱暴な言い方をすれば、よい来世へいくために現世ではどのように生きればいいかを示したガイドラインである。空、太陽、大地、作物、動物など人間のすむ世界。そして、人間自身も、神が作ったものである。つまり、人間の大半はつねに神の恩恵を肌で感じ取れるにも関わらず、その恩恵にきずかず、消費(浪費)するだけの生活を送っている。本当は、この時点で、人間の大半を地獄に送ってもいいのだが、神は慈悲深きお方なので、コーランという人間に分かる「言葉」をもちいてコーランを下した。
 
 一方で、コーランには、なぜそのようなガイドラインを設けるにいたったかというところも記されてある。
 

4.どうしたら楽園にいけるでしょう。

92、夜の章参照。現世で神を信じ、正しい行いをしている者がいける。マホメットは来世と説くことで何を言いたかったのだろう。この問題は、ディスカッションをした後の話題に譲りたい。
 

5.堤題:コーランを読んで矛盾と感じた点があれば、挙げてください。なければ結構です。

(行いの目的化)コーランを全く、形通りに読むと来世へいくための教科書である。コーランで、現世での欲望や執着を断ち切り、そうすれば、来世での神の報酬は約束されていると説くが、今度は、来世に執着することになってしまう。人々は来世を目的に生きて行くことになる。しかし、見方を変えると、行いをさせるための意図が見えるような気がしてくる。むしろ現世での行いに重点が置かれていたのではないだろうか。

(矛盾)人間はこのように来世を目的化して生きていくことになるだろう。来世に執着することはむしろマホメットの意図したところかもしれない。来世というのは、死という最大の複雑性に対する宗教的答えのひとつである。この最大の複雑性は人間の最大の恐怖であり、イスラム教およびユダヤ教、キリスト教は不安を伴った想像力を断ち切り、代わりに来世という思考ストッパーを与え、不安を伴った想像力は神への畏れへとシフトされるのである。来世の働きは、思考、想像の有限性を与えるものだったのかもしれない。

(無限)人間の想像力は際限がない。インドでは神は人の心の中にあるという。合掌をする挨拶の仕方は、相手の心の中に宿る神に対して礼をするのだそうだ。イスラム教と比較してみると、神は心の中にいるという記述は見当たらない。神は外側の世界におわすのだ。神は外の世界すべてをお造りになったお方である。人間にとって対置する関係にあるようだ。

(名前をつける)名前をつけることは、対象を認識しているひいては分かっているということを示すことになる。名前を呼ぶことで、相手の人間は気を向ける。心を奪われることになる。人間はこの作用のことを知っている。言葉の働きのことである。この働きを人間以外の対象にも向けることは、甚だおかしいことである。モノが人間に心を奪われることなどありえないからである。人間以外のモノ、すなわち環境世界全体のこと、神がお造りたもうた世界そのものである。神が知っていて人間の知らない世界=見えないモノの総体との関わりはどのように捉えられていたであろうか。このことは、後の問題のマホメットの人間観と照らし合わせて考えていきたい。
 

6.なぜ編纂にあたって、成立順を逆転する結果になったのでしょう。

コーランが普通に前から読む書物なら、読む人を意識してこういう構成になったのだと思われる。マホメットは天使からその時々に応じて啓示を受けていたという。とすると、彼の言うことに皆が賛同するようになり、信者が増えてくるにしたがって、よりその時の状況を反映した啓示を受けたことと思われる。初めてコーランを読む人にとって、共感を得るようなことが書かれている方が、読みやすかったと考える。また、後になるほど、彼は政策者としての側面が強調されるようになったと思う。そうなると、生活の規律に関する記述が増えることになり、その事に関する記述も前の方に置かれるようになったのだろう。
 

7.初期に成立したテキストと、後期に成立したテキストとの間に、(長さと文体の変化以外に)どのような内容的な違いが見られるでしょう。また、その変化の理由を推定して下さい。

 初期に成立してテキスト群は、後期に成立したテキスト群よりも、「なぜ」とか「考えたことはなかったのか」などといった語法が多い。一方、後期に成立したテキストは、原因結果の語法が多様されている。
 前者は、聞き手に頭を使って考えさせるために、一人あるいは小数とはなすときに使われるのが妥当な語法であり、後者は、多数に対してはなすときに使うのが妥当である。これは、モハメット自身の立場が、一介の預言者から、イスラム教団の旗頭へと変化したためと考えられる。 
 それ以外にも、「なぜ」を考え、神の存在を考えることは、世界を、また世界にあまたある問題をとららえようとする動きであり、初期のテキスト群からは、マホメットが抱いた問題意識が読み取ることができる。 
 

8.堤題:初期に成立したテキスト群を中心に、イスラム教を生み出すことになった根本経験(人間観)を再構成してください。

マホメットは孤児であり、社会的弱者であったのに、救われた。(93、朝の章)感謝の対象が、神であった。神に感謝するということで何を言いたかったのだろう。神は助けてくれるということで、個人的経験を(共同体的言葉に)昇華しているように思える。個人的経験は、単なる語り話に終わってしまう。神の神秘性と、社会システムを当置したかったのでは。単なる個人の正しい行いというのは、社会的効力を為さない(社会的ジレンマ)。個人的行いの見えないものへの集約(個人的行いは目に見える。社会は目に見えない)。社会という言葉は使わない(社会は見せない?)。


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