J.S.ミル  『自由論』・『功利主義論』

担当者:江西・小山・鈴木


 提題
・ミルの功利主義には暴力的なところがある。それがうかがえる部分を探し考えてみよう

 プレゼン方針
・ミル独特の論理的手法を読みといてみると?(ミル班のテーマ)
・ベンサムをどのように受けた功利主義か、というより、ミル自体の功利主義を読み解き、当時の環境全てから影響を受けた彼のものとして発表したい。

 「自由論」:序論に焦点をあてて
一、習慣とはどのようなものか。(自由にどのような影響を与えるか。)
二、人間の行為の規則はどのようにある(べき)か?
三、中国、ヨーロッパをミルはどうみるか?
四、「進歩」はどのようなもの?
五、ミルが「道徳的悪」または「不道徳」とみなしたのはどんなこと?
六、(親子関係における)家庭に対する責任は?
七、理想的な政府のあり方とは?
(以下2問、p.215 5、6行目の文を参考にした包括的問題)
八、社会が個人にかけられる権力の性質とは?
九、自由論の中で、その権力の限界はどうとらえられているか?

 「功利主義論」
@なぜ、ミルは功利主義を改めて主張しようとしたのか?(p.466参考)
A快楽の種類の分類についてミルはどのように言及しているか?(快楽の質の差にふれてください)
B幸福と功利との関係は?幸福とは・・・?
C功利説によると、宗教はどのようなものか?(478、9)
D人が道徳律を守る動機と、その功利主義への影響は?(488、9)
E「正義」を(「不正」との対比を踏まえて)定義すると?
F正義の観念の2つの前提とは?(516)
G正義と便宜の相違は?(523)
 

****************功利主義論発表文******************

発表:功利主義論

<ポイント>

《功利とは、あらゆる道徳の根本原理》いくつかの平行する原理のおおもと。
一つにまとまらず意見が一致しない説に共通し、欠かせない根源要素。 @

行為は、まず目的や概念があってこそ。

私達のもつ道徳能力は、具体的な価値(善悪の決定)を定められない(限界)
判定基準を設けるのみ。あとはその都度確かめる。(検問、裁判) @

人々が共通して認める事。一般法則が必要。善悪の判定は原理からひきだそう。
人々に共通して欠ける事。前提となる先天的原理は解明しない。諸原理をまとめない。

道徳的信念が確固不動にみえるのは、主として意識されないある基準(功利原理)
が暗黙のうちに作用している為(463)→その基準を共に導きだし、認めよう!
                      ミルの立場
人間の心情は幸福に影響をもたらす(同)
 

功利説(究極目的)の特別な《証明》方法。理性能力の認知できる範囲。
 →健康・快楽が善であることをどのように証明するか。
哲学上の諸問題においては。理性能力。(時間をかけない)直観と(時間をかけて)
考察による。《証明》と同じ。(464)

理性で判断する前に、合理的根拠によって、功利主義の公式を正確に理解すべし。
  しかし。
功利主義は不完全な観念(過小/過大評価?)を抱かれ、その誤解を解き、意味を改めて明確にしたい
(→そして第二章へ)     @

<功利主義>
エピクロス派の流れ。ベンサムも。

功利は、「快楽」以下でも以上でもなく、「快楽」そのもの。
功利を道徳的行為の基礎と認めれば、行為は幸福を増す程度に比例して正しい。
    幸福(快楽、苦痛の不在)←→不幸(苦痛、快楽の喪失)  B
行為    <正>           <誤>

(目的として、左側が、望ましい唯一のもの、という人生観に基づく)

《人間の快楽は高貴だ》   A
468 エピクロス派への非難に対して。反エピクロス派の(ブタだという)非難は、
人間の快楽をブタと同程度しか味わえないものと感じているという点で、レベルが低い。

畜生の快楽ではどうにも人間の幸福の概念を満足させない    B
人間は動物的欲情を越える高い能力をもつ

[エピクロス派の欠点。功利原理から結論体系を引き出す際に。キリスト教的要素とストア派(対立)的要素必要だった、が知性、道徳的心情などの快楽に、単なる感覚の快楽より高い価値を与えた](尊重度:精神的快楽>肉体的快楽)
 (根拠)
∵内的本性より、外的利点(永続性、安全性、低費用性etc)で精神的な快楽の優越

A
《快楽の質の差:利己的性質》質の良い、すなわち、望ましく価値のある快楽がある
両方の快楽を経験した人が、ほぼ全部道徳的義務感と関係なく決然と選ぶ方がより望ましい

《両方を知っている人》は、自分のもっている高級な能力を使うような生活態度を選びとる
 快楽:人間>下等動物・畜生 
    自己に不満足な教育ある人>自己に満足の無学者
高級な能力を持った人が幸福になるには、劣等者より多くのものがいるし、おそらくは苦悩により敏感であり、またより多くの点で苦悩を受けやすいだろう。それでもその人は下劣な存在に身を落としたくない、とためらうだろう。    A参考

《なぜか?》なんとでも説明できる (470)
人間は誰でもなんらかの形で尊厳の感覚をもっていて、高級な能力と比例している。
否定するものを欲求の対象外。幸福の本質的部分をなす。

感受性の低いもの:幸福感を十分満足させる事ができる    B
  不完全さを意識しないのは、善を感じる能力が全然ない
豊かな天分をもつもの:自己の求めうる幸福がこの世では不完全なものでしかないが
(高級)       不完全な状態を忍ぶができる

満足したブタ<不満足な人間    前者は、片側からしか問題を見られない       
満足した馬鹿<不満足なソクラテス 後者は、両側における問題を知っている
 

《判断:両方をよく知っている人達が快楽(快感/苦痛)の質を判断》
経験者の感情と判断→高級なものは種類の点で好ましい

⇔以上は、
功利の基準を認めるのに必要だが不可欠ではない 《非利己的、利他的》
                             この辺、B?
∵その基準は、行為者自身の最大幸福ではなく、幸福の総計の最大量だから。
  高貴な人は、自分を幸福にするかどうか、というより、他人の幸福を増し
  世間一般がはかり知れぬ恩恵を受けている(例/原爆発明者と狂気の戦争)
功利主義は、高貴な性格を広く社会全体に開発したときはじめて目的を達成する。

噤噤噤噤噤噤噤噤噤噤噤噤噤噤噤噤噤噤

《最大幸福の原理》         B
究極目的は、量・質ともにできるだけ苦痛を逃れ、享受が豊かな生存
功利主義者の意見:質や量の判定基準は、人間活動の目的なのだから、必然的に道徳基準であるべき
道徳基準の定義:人間行為のためのきまり教訓→生存が全ての生物に保障される

[反対論:幸福は、達成できないから、人間生活・行為の合理的な目標とならない
 お前は、幸福たりえる何の権利をもつか?]
答:おまえは存在について、何の権利をもっていたか?
[反論者:人間は幸福なしにやっていけると高貴な人間は感じ、自制という教訓を
 学んだからこそ、高貴になれた] →B

⇔人間がどんな幸福も持てないものならば、幸福の達成は道徳の目的ではありえないし、
 どんな合理的行為の目的にもなりえない。(論拠が十分なら問題の根本をつく)B

が《功利は幸福の追求だけでなく、不幸の防止や緩和》も含んでいる(功利説弁護)
前者だけが幻想なので、後者が実現されるべき範囲はひろがり、必要が切実に人類は人生は生きるにふさわしいと考えている
[ノヴァーリスの考えた、一斉自殺で現世の苦難から逃避することがなければ]
 

《災害との抗争(問題の焦点)》災害を免れることは幸運。なくせない現状。
※人間は社会的存在だから、仏教/老子のように、脱社会をミルは考えない
 人類の英知、科学の進歩を信じる(476)

《英知・科学による不確実性/人生エントロピーの減少》
窮乏(含:苦悩)は、やがて社会の英知が個人の良識及び先見に支えられて完全に絶滅させると予測。病気も教養によって改善さる。当時の心身災害は英知・科学が解決する。すると生命を脅かすものが無くなっていくだけでなく、人に幸せを与える人々を奪う機会も減る(母親など、ミルは妻のことを言う?)

運命の転変、ままならぬ浮き世への失望などは、主に無分別や統語を誤った
欲望の結果か、不完全な(改善すべき)社会制度の結果
 つまり
人間の苦悩の主な根源は全て人間の配慮と努力によって大部分克服できる

−現代へ−
医療・福祉はずいぶん進歩してきたが、次々と新たな問題が噴出している
無くなるどころか
・医療の発達によって、確かに途上国などで死亡率はダウンしているが、今度は人口や食糧の問題として、世界中を悩ませている
・脳死の人を延命できるようになって、脳死は人の死かどうか、という新たな倫理問題が発現した。
∴結果としては克服できたとは言えない。これから、克服されるのか???
 浮き世への失望は現在なくなったか?
 

476《幸福なしでやっていく》→《自己犠牲》:一時の我慢だ、やがては・・・
苦悩は克服できる。∵苦悩の主根源(運命の転変、ままならぬ浮き世への失望)は、無分別や統御を誤った欲望の結果か、悪い不完全な社会制度の結果。それは改善できるもの。人間の配慮と努力で、大部分は克服できる。
 その間の、英知と慈愛をもつ人々の努力(意志と知識が不足しない安定した社会)は、潰えていくとしても、どんな小さなものでも、努力[闘い]それ自体を高貴なたのしみとする(公に尽す)
⇔勝手気ままな振る舞い(私)に走らない
 人は幸福なしにやっていける。実際ほとんどの人が非自発的にそうしている。(=そうせざるを得ない)
:英雄や殉教者はある価値の為に、自発的に自ら幸福を捨てる生活《ある目的の為の自己犠牲》
:ある価値、ある目的とは?(自己目的ではない)→幸福よりも高い徳?
 英雄や殉教者は、他人に同じような犠牲を免れさせると信じたから、犠牲になったのでは?
 幸福(個人的な人生享受)放棄が世界中の幸福総量を増加するのに役立つならばよい
 

《世の中の不完全な状態と犠牲の関係》477
・誰かが自分の幸福を全部犠牲にして他人の幸福に最大の貢献ができるのは、世の中の仕組が
 非常に不完全な状態である場合に限られよう。
・その場合、いつでも犠牲を払う覚悟をもつことが人間にとって最高の徳だとミルは認める
・その場合、意識的に「幸福なしでやろう」と努力する事は、人間の力で達成できる幸福を実現してゆく上で最善の見通しを与える。この意識は、最悪の宿命や悪運から人間を精神的に解き放つ。自由にしてくれる。こう感じるようになれば、人生の諸悪について思い悩まなくなる。
 例)ローマ帝国最悪の時のストア派の哲人。平静のうちに手近な満足の源泉を開発し、その終わりにも、いつまで続くかを思い煩うのもなくなる。 [予測という抵抗力]
[幸せを想定するから得られないで→七転八倒 想定しない→七転び八起き→希望・幸せ]
 それは文明の問題点。未開だ、野蛮だ、と侵略をしていったイギリス人
 

[ここで、自由論との関係]

[今我々が生きている世界の中の最も野蛮でない部分においてさえ]
・未開な人々は「自由とは何か自分の幸せとは何か」ということを考えるに達してないから、
彼らはミルの考える自由の域からはずされていたし、彼ら自身「自由」を追求しようという
意識がないという前提でミルは話しているのだろう。(ミルの考える「自由」は必要ない?)
功利主義の方では「幸福」なしにやっていくことは文明にも可能
野蛮は「幸福」なしにやっていくものである(江西)
・「野蛮」とは例えば人間でも賢い人間ではなく 馬鹿な人間、知識のない人間
未開な人々とは誰の事か?(「専制を認める」という話:小山)                     
・たしかさ
活力について関心をもつかぎり  代議政治論にも文明、真実、特定の枠を決める
全意見(反対意見をも含む)を知った上でないと自分の意識を
「自らの・・・」354以降
「自由」行政におんぶしている状態では達成されないのかもしれない(小山)

人間の精神においては一面的である事がつねに通則であり多面的である事は例外だった
 
 

《身近なところで功利をめざす》
× 義務という動機から -  功利主義に対する誤解      480
× 功利主義が世界全体という広範な一般性を念頭におくことを人々に要求している
〇 よい行為の大部分が、世界の利益の為でなく世界の善の内容を構成する諸個人の
  利益の為に行われる
 ・高徳な人でも、自分に関係ある人々のほかは考えなくてよい。

 ・幸福倍増というのが功利主義による徳の目的  →  しかし、
だれもが広い範囲に及ぶ幸福倍増能力を持つような場合、言い換えれば社会全体の利益の増進者である場合は滅多にない。こういう例外的な場合だけ公共の(広い)功利を考えなければならないのであって、これ以外は全て私的な功利、ごく少数の人々の利益や幸福を考えておけば十分である
[少数/弱小派の及ぼす影響はささいなもので、無視できると思っている]

[江西:ミルにないもの    ( 水の集合→酒にならない )
 公共のものが増えれば→ただ乗り増える、個人レベルで利己と利他の不一致
 個人ではたいした事でなくても→全体で見ると共倒れする可能性もあるではないか
 (支配者レベルだけでなく、民間レベルでも同じ危険性=フランス革命以後)
   ̄ ̄ ̄↑自分の行為が社会全体に影響→広い対象に関心をはらう
 小山:前提を考えてみてくれ
 ミルには知識人の力がすべてだと思っている節があるかどうか。考えてみよう]

→全員× ∵行為する人によっては害が一般におよぶことを知らない
 その状態は、知性があるとは言えないから
 

《広い見方をもつ》:全体主義にならない、限定の限度・人為性の限界を知る? 481

「功利主義者は徳のほかにも望ましいものや望ましい資質があることをよく知っておりそれらの価値を十分認めている。功利主義は又正しい行為が徳性を示すとは限らず、非難さるべき行為がしばしば賞賛に値する資質から出てくることをしっている。個別にこういう事情がわかれば、功利主義者はもちろん行為の評価を変えはしないが、行為者の評価は変えるだろう。」

「とはいうもののやはり、長い目で見たときに善い性格をいちばん善い行為しかないと考えており、悪い行為を生みやすい精神的素質を善と認めるようなことは断乎として拒絶する為に、多くの人に評判がよくないが、正邪の区別をまじめに考えようとするからにはこの不評を受け入れるべきだろう。(しかしびくびくする必要はない)」

「(この反対論の意味)行為の善悪を専ら功利主義的基準から見ていて、それ以外の愛すべく敬すべき人間をつくる性格上の美点をあまり重視していない・・・道徳的感情は開発したものの、共感能力も芸術的感覚も伸ばさなかった功利主義者はこの過ちを犯している。(他の道徳論者も同じ)」
 

《究極的強制力》道徳の原理である「功利」の強制力はどこからやってくるのか?
        すなわち義務、拘束力は?        487-

・2種の強制力
[外的強制力:よく思われたい、嫌われることを恐れる、共感、愛情《社会的・一般》
[内的強制力:義務に反した時に感じる、強弱さまざまな苦痛 《内発的》
 利害を離れ、純粋な義務観念が生じて「良心」のもととなる
 主観的な感情]→究極的な強制力は?
・すべての道徳基準の強制力の場合と同じで、功利主義でも「良心」から生まれる
・理屈抜きで直観的に義務的拘束力をもつ道徳の原理があるとすれば思いやりの感情]
・道徳的義務の根拠は心の外にある


戻る