デュルケム『自殺論〜社会学的研究』

『デュルケム・ジンメル』世界の名著・中央公論社

担当者:関戸、上野山


 



◆百科全書派についてデュルケムはどう批判しているでしょう?

53「社会学は、いまだになお建設の段階と哲学的総合の段階をこえていない。社会的領域のある限られた部分に光をあてることにつとめるよりも、好んでありとあらゆる問題にかんする絢爛たる一般論を展開し、なにひとつ問題をはっきり限定して扱おうとしないのだ。このような方法は、いわば、あらゆる種類の主題に照明を投げかけることによって、たしかに多少は世人の好奇心を満たすことができるかもしれないが、なんら客観的なものに到達することはできない」

 百科全書的社会学はあまりに包括的であるために、人間の社会生活を構成するさまざまの分野(法、経済、宗教、道徳、言語、芸術、イデオロギーなど)に対する既存の諸科学の存在理由を消し去ってしまうという結果であったためか、当時の学界の中ではもはや通用しなくなっていたようだ。そのような状況の中で社会学を再建するためにデュルケムがとった方法は、既存の諸科学の存在理由を殺すこと無く、それらの全領域を相互関連的に扱い、新しい視点から編成し直すというものだった。その根底には、社会生活のさまざまな領域は、相互に切り離しがたく関連し、それぞれ全体としての社会に対して一定の「機能」を営んでいる、という認識があったわけだが、このような認識は自殺論の中で社会を構成する個人は孤立したバラバラのものではなく、社会もまた単なる個人の状態の総和ではない、といったところにも反映されているのではないだろうか。

66「こうして得られた全体は、単なる個々の単位の総和、すなわち寄せ集められた自殺の和ではなく、それ自体が一種独特の新しい事実を構成していることが認められる。それは、統一性と個性をもち、それゆえ固有の性格をそなえている。さらにいえば、その性格はすぐれて社会的なものなのだ」


◆デュルケムによる社会学的方法の基本的原則を述べて下さい。

「社会学者は、社会的事実にかんする形而上学的思弁に甘んじないで、はっきりとその輪郭をえがくことができ、いわば指でさししめされ、その境界がどこからどこまでであるかをいうことができ、そこに確実に帰属するような事実群を、その研究対象としなければならない。また、歴史学、民族誌、統計学などの補助的な分野を丹念に参照しなければならない。これらがなくては社会学は無力なのである。」『自殺論』P.54下

マ問題は達成された科学的事実と素材の関係性の有無であり、選択されるべき素材の限定である。素材と素材の関係性から科学的事実を積み立てる上での素材の捨象の問題であり、演繹が先か帰納が先かという問題であろう。

モデュルケムはそれは決定的なことではないと言う。

「もしも、社会学者が、そのような研究方法にしたがうならば、たとえ彼の事実の収集が十分でなく、そのやり方があまりに狭く限られた物であっても、ともかく将来にも受け継がれる有益な研究を達成したことになるであろう。というのは、なんらかの客観的基礎をもっている発想は、その創始者の個性に密接に結びついていることはないからである。それは、なにかしら個性をこえたものをもっているので、他の人々もふたたびそれをとりあげて追究することができる。つまり、伝達が可能だということなのだ。こうして、科学的研究においてある一定の連続性が保証されるようになるが、この連続性こそ、科学の進歩をうながす条件にほかならない。」『自殺論』P.55上

Q.現象を分類し個々の分類物を"有るもの"とし、その関係性を見ることで満足していこうとするデュルケムの社会学的方法は本当に"客観的基礎"をもっているのだろうか?それとも単なる方法論上の制約であろうか?

「私の実践している社会学的方法は一に帰して、社会的事実はものと同じように、いいかえれば、個人の外部にある実在と同じように研究されなければならないという基本的原則の上に立てられている。」

 ここに、デュルケムの方法論の大原則があらわれている。社会的事実(ex.家族、軍隊、宗教社会など)をとりあえず<もの>として目に見える形でとりあげそれの個人への影響力・関係性を吟味していくという方法論上の前提である。我々がまず問うべきことはこのデュルケムのやり方の大前提であろう。

「社会学は、他の諸科学の領域には属さない一つの実在を認識しなければならない。ただし、そのさい、個人の意識のほかに実在的なものがなにもないとすれば、社会学は、それに固有の研究素材を欠くことになるから、存在しなくなる。・・・社会が存在しなければ、社会学も存立できないということ、また存在するものが個人だけならば、社会は存在しないということを人は理解しない。なお、こうした考え方は、社会学の顔がいつも漠然とした一般論の方向を向いていることと浅からぬ因縁がある。社会生活の具体的形態にただ仮の存在しかみとめないとき、それらを表現しようとつとめてもどうなるであろう。」『自殺論』p.56下〜p.57下

 デュルケムは個人の意識のほかに実在的なものがなにもないとする心理学に対して異議を唱える。心理学に対するデュルケムの考え方は次にまかせる。以下、デュルケムの研究態度の大前提を表していると思われる点を抜き書きしておく。

「個人は個人をこえた一つの道徳的実在、すなわち集合的実在によって支配されている・・」『自殺論』p.57下

「かりに個人がこの力(社会から個人への影響力)を生み出す結合に一つの要素として参加するとしても、この力が形成されていくにつれて、それは個人の上に拘束をおよぼすようになる。・・・社会学は、心理学者や生物学者が取り扱っている実在におとらない明確な確固とした実在を、対象としているからである。」『自殺論』p.58上

モ「統計にかんするこうした説が(自己本位主義的社会の集合的な力が個人に影響を与え自殺者を増やしているという説、社会的事実)人間のあらゆる種類の自由を必ずしも拒否するものでないことを注意しておきたい。むしろそれどころか、この説は、自由意志の問題を、人々が、個人を社会現象の源泉とみなすときよりも、なおいっそう完全なかたちで留保しているのである。実際、集合的な諸現象の法則性がどんな原因にもとづいているにせよ、その原因は、それが存在するところではその結果を生まないわけにはいかない。さもなければ、これらの結果は、たとえ斉一性を呈しているときでも、気まぐれに変化してしまうからである。したがって、もしもその原因が個人に内在しているものであれば、それは、当の原因を内蔵している個人を必ず規定することになる。・・・統計的データのこの恒常性が、個人にとって外在的なある力に由来している場合には事情が違う。なぜなら、この外在的な力は、ある特定の個人を規定するというものではないからである。それは、一定数のある種の行為を要求しこそすれ、きまっただれそれの行為を要求するということはない。ある者はこの力に抵抗をするので、この力がその他の者で満足をするということはありうる。けっきょく、私の考え方は、物理的、化学的、生物学的、心理的な力に、社会的な力をつけ加えるという結果となるにすぎない。この社会的な力は、右のそれぞれとまったく同様に、外側から個人にはたらきかける。だから、それらの力が人間の自由を排するものでない以上、社会的な力がそれらと異なると考える理由もないわけである。」『自殺論』p.297下

「・・・しかし、その論法でいくと、生物のなかにも、無機物のうちに存在している以外はなにも存在しないといわなければならない。なぜなら、細胞はもっぱら生命のない原子だけからなりたっているのだから。これと同じことで、なるほどたしかに、社会のなかにも、個人の力をのぞいてはほかに活動的な力は含まれていない。ただし、個人は、たがいに結合することによって、一種の新しい、それゆえ固有の思惟と感覚の様式をもった心理的存在をつくりあげる。たしかに、社会的事実を生じさせるもとになる基本的な特性は、個々人の精神のなかに胚胎している。しかし、それらが個々人の結合のなかで変容を受けるとき、はじめてそこから社会的事実が出現してくるからである。個々人の結合もまた、独特の結果を生み出す動因なのだ。」『自殺論』 p.279
他に、p.285


◆デュルケムは心理学的研究についてどう言及しているでしょう?

p73・・・事実、個人に関係したいろいろな条件のうちには、自殺総数と人口の比に影響を及ぼすほどの一般性を持たない条件が確かに多い。それらは、恐らくはだれそれという孤立した個人を自殺に追いやることはできようが、社会全体にわたっていくぶんとも大きな自殺傾向を生じさせることはできないだろう。それらは、何ら特定の社会組織の状態に結びついていない。と同時に、何ら社会的な反作用を及ぼすものでもない。したがって、それらは、心理学者の関心を引きこそすれ、社会学者の関心をひくものではない。
 
 社会学者が研究するのは、個々ばらばらに個人の上にではなく、集団の上に影響を及ぼしうるような諸原因なのだ。説明しなければならないこの現象(自殺)は、極めて一般的な非社会的原因に起因するか、そうでなければ、まさに社会的な原因に起因するかのどちらかである。そこでまず、非社会的原因のもたらす影響がどのようなものであるかをたずね、それが無に等しいか、若しくはごく限られた影響でしかないことを明らかにする。


◆社会的人間は物理的人間とどう異なるのでしょう?

161「人間は二重の存在」
「社会的人間は必ず社会の存在を前提とする。彼が表現し、役立とうとする社会を。ところが、社会の統合が弱まり、我々の周囲や我々の上に、もはや生き生きとした活動的な社会の姿を感ずることができなくなると、我々の内部に潜む社会的なものも客観的根拠をすっかり失ってしまう。・・・ところがこの社会的人間とは、じつは文明人にほかならない。社会的人間であることがまさに彼らの生を価値あるものにしていたのである」

160「それらすべての超肉体的な生活(芸術、道徳、宗教など)を目覚めさせ、発展させてきたのは、宇宙的環境(気候など自然的な環境)の刺激ではなく、社会的環境による刺激である。他者に対する共感や連帯感を我々に目覚めさせたのは社会のはたらきにほかならない。人間を意のままに型どり、人間の行為を支配するあの宗教的・政治的・道徳的信念をわれわれのなかに植えつけたのも、社会なのだ」

 したがって、社会の統合が弱まったとき、社会的人間はもはや「目的」をもった生活を営むことができず、社会的人間としての生活に対応するものを社会の中に見出すことができない。つまり<高度な生活>によって慣らされた彼らは物理的人間としての生活の中には彼らの努力をひきつけるような対象を見出すことができないのである。


◆デュルケムは教育についてどのように述べているでしょう?

 この時代において、自殺という病弊の根源にまで迫る最も効果的な方法として教育がしばしば挙げられていた。それは、「教育が人々の性格に働きかけることを可能にし、それが人々の性格をより雄々しいものに形作り、自殺の意志に屈しないようにする(p354)」と考えられていたからである。

 しかしデュルケームはそれに対し、こう述べている。「しかしながら、これは、教育にもともとありもしない能力を期待することである。教育とは、社会を移す像であり、またその反映にすぎない。教育は、社会を模倣し、それを縮図的に再現しているのであって、社会を創造するものではない。(p355)」と。つまり、教育はその時代の社会を反映しているものであり、その社会はそれを構成している人々の状態を映しているから、教育は人々と共に健全になることもできるし、腐敗もする。したがって、教育それ自体は自ら変化することができないということである。このように彼は、人々を自殺に対してより厳格にさせる方法としての教育にはほとんど期待していなかったのである。


◆自己本位的自殺、集団本位的自殺、アノミー的自殺の三者を比較説明してください。その際に個人と社会の関係性を注視して読みとって下さい。

[自己本位的自殺]
宗教社会:そこでは「人々は同一の教義体系に結びつくことによって初めて社会化され」(P99)る存在であり、個人の判断に委ねられているほど個人に対する支配も集団としての凝集力も失われてしまう。そのような伝統的な信仰の動揺から自由検討の必要性が生じ、人々はその自由な追求それ自体の持っている魅力と喜びと同時に苦痛をも受け入れる。

102「自由検討への志向が目覚めれば、それと歩を合わせて知識欲も目覚めてこざるを得ない。実際知識というものは、自由な反省がその目的を達するために用いる唯一の手段である。不合理な信仰や儀礼がその権威を失ったとき、それに代わるものを求めようとすれば、啓かれた意識−科学は、その最も高度な形態に他ならない−に訴えなければならない。・・・一般的にいって、人間は、もっぱら伝統のくびきから解放されるのに応じて、知識を獲得したいと望むようになる。・・・蒙昧な慣習がもはや新しい必要に応じ得なくなると、その時から、人々は、理性の光を求めるようになる。宗教がその支配権を失ったときに、しかもその時に限って、知識の最初の綜合的な形態である哲学が登場してくる理由は、まさにここにある」

156「社会の統合が弱まると、それに応じて、個人も社会生活から引き離されざるを得ないし、個人に特有の目的がもっぱら共同の目的に対して優越せざるを得なくなり、要するに、個人の個性が集合体の個性以上のものとならざるを得ない。・・・そこで社会的自我に逆らい、それを犠牲にして個人的自我が過度の主張されるようなこの状態を、自己本位主義と呼んでよければ、常軌を逸した個人化から生じるこの特殊なタイプの自殺は自己本位的自殺と呼ぶことができよう」

 このように社会の統合が弱まり、個人がもはや社会の中に引き止められるような理由が無くなったとき、個人は「自分自身の運命の支配者」となる。そしてそのような個人主義に基づいた生に対して個人が何らかの存在理由を認めることができないとき、自己本位的自殺は起こるのである。なぜなら個人というものは「あまりにとるにたらぬ存在」であり、「自分以外に志向すべき対象を持たない場合には、われわれの努力も結局は無に帰してしまうに違いない、という観念から逃れられなくなる」からである。しかしデュルケムは「人はみずからの生の外部に存在理由をもたない限り生きることができない」と考えているわけではない。

[集団本位的自殺]

 自己本位自殺において過度に個人化が進めば自殺が起こるということを述べたが、それに対して個人化が十分でなく、あまりに強く社会の中に統合されている場合もと同じく自殺が引き起こされるということに注目し、まず未開社会を取り上げる。そこでは「当人が自ら自殺をする権利を持っているからではなく、それどころか、自殺をする義務が課せられている」(P168)のであり、あまりに生に執着している者は世間から尊敬の目で見られることはなく、社会から排除されてしまう。このような社会は限られた成員からなっており、個人間に異質性が生じることに対しては常に集団の監視の目が光っている。

171「前者(自己本位的自殺)は過度の個人化から生じるものであったが、それにひきかえ、後者(集団本位的自殺)あまりにも未発達な個人化から生じる。すなわち一方は一部分あるいは全体的に解体にひんした社会が、個人をそこから逸脱するに任せているために起こる。他方は、社会が個人をあまりにも強くその従属下においているところから起こる」

 それから仏教やヒンドゥー教徒の自殺を取り上げ、集団本位主義においては個人はその外部にある実在を信じ、それを求めようとするという特徴があると述べる。

176「自己本位主義者の悲哀は、彼がこの世に個人以外何ら現実的なものを認めないところから生まれるが、常軌を逸した集団本位主義者の悲哀は、反対に、個人にまったく実在性が欠けていると感ずるところから生まれてくる。一方は、確実に把握することのできる目標を何一つ認めることができず、自己を存在理由のない無用の者と感じて生を放棄する。ところが他方は、一つの目標を所有してはいるが、しかしそれが生の外部に置かれてあり、以来、生はその目標にとって障壁であると感じられるので生を放棄する」

前者における憂鬱は「いやしがたい疲労と陰鬱は意気阻喪」からなり活動力は完全に衰弱する。
それに対して後者における憂鬱は希望に満ち、すさまじいエネルギーを持った行為として現れる。

軍人の自殺:共同生活や共同の精神に支えられている軍隊においては自殺傾向が一般市民よりも低くなるだろうと予想されるが事実はその逆である。それに対してデュルケムは軍隊における「自己犠牲や没個人制への傾向」があまりに強すぎるからこそ、ほんの些細な理由(叱責、不当な処罰、名誉に関わる問題など)によって自殺へとはしってしまうのだと述べ、このような軍人資質もまた集団本位的自殺の典型的な例であるとする。

[アノミー的自殺]

 人間の欲望というものは際限のないものであるから、それを暴力ではなく、人々から尊敬の念を持たれた権威によって抑制される必要があり、そのような状態が安定した社会であるわけだが、社会が混乱に陥り、急激な変化を伴う場合、社会は個人に対する規制を行うことができなくなり、個人の欲望が暴走してしまう。

211「人々はもはや、何が可能であって何が可能でないか、何が正しくて何が正しくないか、何が正当な要求や希望で、何が過大な要求や希望であるかをわきまえない。だから、いきおい、人は何に対しても、見境なく欲望を向けるようになる」

 こうした無規制状態の下で過度に肥大した個人の欲望が暴走し、それが満たされないためにおこる激情が自分に向けられたときに起こる自殺がアノミー的と呼ばれる。

 自己本位的自殺では、社会が十分な規制を与えることができないために個人は(アノミー的状態)同じように社会から切り離されるわけだが、彼の欲望は暴走することはない。なぜなら彼の情念はもはや活気を失い、またあまりに自分に執着しているため、外部の世界に興味を覚えることはないからである。

368「アノミーは、社会のある部分において、集合的な力、すなわち社会生活を規制すべく構成された手段の欠如が起こることによって生まれる。したがって、それは、自己本位的潮流の発するあの同じ社会の解体現象に一部分由来している。ただし、この同じ原因はやはり、それが投射される点の違いによって、すなわち活動的・実践的機能の上に作用するか、あるいは表象的機能の上に作用するかの違いによって、異なった結果を生む。それは、前者から熱狂や憤怒を呼び起こすが、後者からは当惑や狼狽を引き起こす」

 アノミー的状況は社会の急激な変化の際にだけ起こるものではなく、とくに19世紀以降、産業上のあらゆる規制が取り外されることによって繁栄を極めることになった商工業界においてアノミー的状態が慢性的に生じている、とデュルケムは指摘する。

214「産業は、それに優越したある目的のための手段であるとはみなされず、かえって個人および社会の至上の目的となってしまった。こうして産業によってあおりたてられた欲望は、それを規制してきたあらゆる権威から身を解き放つこととなった。この物質的満足礼讃は、いわば欲望を神聖化し、欲望を人間のあらゆる法よりも上位におくようなものである」

 産業の発展と市場の拡大が、欲望の解放それ自体を目的とするような状況を肯定し、人々はますます拍車をかけられる。216「無限なものを目指す情念は、無規則的な意識の中でしか生まれないにもかかわらず、常に卓絶した道徳性の印として説明される」本来的にモラリストであり道徳哲学者であったといわれるデュルケムがそのような状況をどのように捉えていたかということは容易に想像できる。アノミー的自殺を取り上げたのもそうした思いがあったからであろう。


◆宗教など集合表象と社会環境の関係は?

 汎神論が自殺をひき起こす、と考えるわけにはいかない。人間の行為をみちびくのは抽象的な観念ではありえないし、純粋に形而上学的な概念をもてあそぶだけでは歴史の発展を説明することはできないだろう。民族においても、個人におけると同じく、表象というものは、すでに形成されている実在を表現することをもっぱらの役目としている。表象が実在をつくりだすのではなく、反対に実在から表象が生まれる。そして、いったん生まれた表象が実在を変化させることができるにしても、それはごくかぎられた範囲の変化でしかない。宗教思想は社会的環境をつくるどころか、まさに社会的環境の所産であり、ひとたびそれが形成されたのち、たとえその形成の原因になったもの(社会的環境)に反作用をおよぼすことがあっても、その反作用はさほど強力なものとはなりえないであろう。それゆえ、汎神論が多少とも極端な個人の否定からなっているとすれば、このような宗教が成立しうるのは、実際に個人が無に等しいと見なされている社会、言い換えれば、個人が全面的に集団の中に埋没している社会の内部においてでしかない。というのは、人間は自分の生きている小さな社会に型どってしか世界を表象することができないからである。宗教的汎神論は、従って社会の汎神論的組織の一つの結果であり、いわば、一つの反映に過ぎない。結局、汎神論と結びついていたるところに現れているこの特殊な自殺は、社会の汎神論的組織に起因していることになる。

→注[1]私は個人と同様、社会にも、実体的精神の存在をみとめない。→263ー297→「人間の反省的意識の達する顧慮というものは、往々にしてたんに表面的なものにすぎない」注(1)自殺をする個々人が、その動機であるとみずから思いこんでいる理由や主観的感情は、往々にして自殺の根本的な原因ではないということ。263→「社会現象はものchoseであり、ものと同じように扱われなければならない」いっさいの先入観念を排して、社会現象をあたかも客観的実在物のように観察しなければならない、という認識の客観性への要請。


◆アノミー自殺との関連でデュルケムは社会と個人の関係をどのように位置づけているか?
   
204「人間の感性は、それを規制している一切の外部的な力をとりさってしまえば、それ自体では、なにものも埋めることのできない底無しの深淵である。そうであるとすれば、外部から抑制するものがない限りわれわれの感性そのものはおよそ苦悩の源泉でしかありえない」

205「だからそうならないためには、なによりもまずこれらの情念(パツシオン)に限界が画されなければならない」

206「だから人々は、尊敬し、自発的に服従しているある権威から、この法を与えられなければならないのである。そして、ただ社会だけが、あるときは直接的、全体的に、またあるときにはその諸器官の一つを媒介にして、この規制的役割を果たすことができる。なぜなら社会は個人に優越した唯一の道徳的な権威であり、個人はその優越性を認めているからである。社会は、法律を布告し情念にこえてはならない限界を示す上で、必要にして唯一の権威である」

207「この圧力のもとでは、各個人は、自分の生活領域の内にあって、自分自身の欲望のおよびうる限界点をそれとなく感じとり、それ以上の欲望を抱かないものである。少なくとも、個人が規律を尊重し、集合的権威に対して従順であるならば、いいかえれば正常な道徳的構造をそなえているならば、それ以上のものを要求すべきではないと感じるにちがいない。このようにして、情念に一つの目標と限界が画されるのだ」

209「その規制は、個人の情念を抑制することを目的とする以上、個人を支配する権力から導かれるものでなければならないが、しかし、その権力への服従が、恐怖からではなく尊敬の念からなされることが同じく必要だということである」

このような社会と個人との安定した平衡関係(恒常性)が崩れたとき、つまり伝統的な諸規制がその効力を失ったときは個人の情念に対してより強い規律が必要となるわけだが、アノミー状態においてはもはや社会はそのような機能を果たすことはできなくなる。

貧困について:
貧困が自殺を抑止する効果をもつのは「結局所有しているものが貧しければ貧しいほど、それだけ人は、自分の欲求の範囲を際限もなく広げようとはしない」し、「無力さは、人々に節度を守るようにさせ、また節度を守ることになれさせる」(P212)からであるとして、貧困がもともと、欲望が際限なく暴走してしまうのを抑制する効果を持っているとしている。それに対して豊かな状況の中では、自分がなんでも手に入れられるという「幻想」をいだき、だからこそ「あらゆる制限をますます耐え難く」感じるようになってしまう。そのような豊かさを起因として生じる道徳的な危険性を見逃してはならないと指摘している。


◆ケトレの個人の平均タイプとデュルケムの社会の集合タイプの違いを明らかにしてください。

【ケトレの個人の平均タイプ】ある社会現象が同一期間に驚くべき規則性をもってくりかえし生起するという事実についての理論。それぞれの社会には、ある一定のタイプというものが存在し、大部分の個人は多少とも正確にそれを再現していて、少数のものだけが撹乱的原因の影響を受けて、そこから逸脱する傾向にあるという理論。
(ex.フランス人の身体的・精神的特徴の全体<平均値>はイタリア人やドイツ人とは異なる。)
任意の社会に生活する個人的タイプの算術平均を求めると、ほぼ正確にその社会のタイプが得られるという。

モ「この説(ケトレの個人の平均タイプ)は、いかにも単純明快におもわれる。だが、まずそれは、なぜ平均タイプが大多数の個人において実現されるかという問題を説明しえた場合にのみ、はじめて一つの説明として通用する。」『自殺論』p.268下

モ「平均人なるものの普遍性をいかに説明してみたところで、この考え方は、どのみち社会的自殺率のしめす規則性に説明を与えることはできまい。そもそもこのタイプのなかに含まれうるただ一つの特徴は、じつは大部分の人々にみとめられる特徴にすぎない。・・・つまり平均人は自殺をしないのである。」『自殺論』p.269下

モ「要するに、ケトレの理論は、まちがった考察の上にきずかれている。彼は恒常性は、人間活動のもっとも一般的な表現のなかにしかみとめられない、ということを既定のごとく考えているのであろう。ところが、それは、社会のひろがりのなかにおける、孤立した少数の点にしか起こらない散在的な表現のなかにも、同じ程度において現れる。」『自殺論』p.270

モ「ケトレは、かってに一般の人々にある程度の自殺傾向があることを仮定し、この傾向の強度を、例外的な少数の者だけにはみられても、とうてい平均人にはみられないような特徴を手がかりにして推定し、ようやくその算定にこぎつけたにすぎない。」『自殺論』p.271

モ「したがって、平均人の理論は、右の問題を解決してくれない。だからわれわれは、問題をもう一度とらえなおし、それが提起されたとおりによくみてみよう。自殺者はあちこちに分散していて、その数はきわめてかぎられている。それぞれの自殺者は、別々にその行為を実行しているわけで、他の者もそれなりに同じ行為を実行していることを知らない。にもかかわらず、社会に変化がないかぎり、自殺者の数は一定している。それゆえ、それらすべての個人的行為は、たとえたがいに無関係であるようにみえても、実際には、たしかに諸個人を支配している同じ一つの原因あるいは原因群によって引き起こされた結果でなければならない。」『自殺論』p.272
「だから、一つの社会の集合的タイプと、社会を構成している個人の平均タイプを混同することは--それは往々にして行われがちであるが--根本的な誤りである。平均人のもっている倫理性は、まことに陳腐なものにすぎない。もっとも本質的な倫理的格率だけがいくらか強く彼の中に刻みつけられてはいるが、そこでは、それらは、集合的タイプ、すなわち、社会全体においてみとめられるあの厳格さや権威というものからまだほど遠いものがある。まさしくケトレの犯した右の混同は、道徳の起源はどこにあるのかという問題をわけがわからなくしてしまう。なぜなら、個人はいっぱんにきわめて凡俗なものであるから、(ケトレのいうように)かりに道徳が個々人の気質の平均のあらわれにすぎなかったならば、この点で個々人を超越している道徳がどのようにして形成されたのか、不可解となるからである。」『自殺論』p.288

「一方では、統計的データの規則性が、個人にとって外在的な集合的傾向が存在することを意味している。他方では、多くの重要な事例について、直接にその外在性を確かめることができる。そのうえ、個人的状態と社会的状態のあいだの異質性をみとめた者すべてにとっては、この外在性はすこしも不可思議なものではない。実際、社会的状態はそもそも外部からしかわれわれ個人にやってくることはできない。なぜなら、それは、われわれの個人的な傾向に由来するのではなく、われわれにとって外部的な要素からなりたっているのであり、われわれ自身とは異なった別のものを表現しているからである。」『自殺論』p.289

「その力(集合体のはたらき)がとくに強力なときには、それを活動させる状況がひんぱんにおとずれさえすれば、それは、個人の素質の上にかなり強い刻印を押すことができるし、またその素質に、ある程度の活動的な状態を引き起こさせることもできる。そして、この状態はいったん形成されると、本能的な自発性をもってはたらくようになる。もっとも基本的な道徳的観念については、このようなことが起こっているのである。しかし、大部分の社会的潮流は、あまりに微弱であったり、あるいは(われわれと)あまりに断続的な接触しかなかったりするために、われわれのなかに深く根をおろすことができず、その作用は表面的なものとなる。したがって、それらの潮流あ、ほとんどすべて外部的なものにとどまる。こういうわけで、集合的タイプのなにか一つの要素を測定する方法は、個人意識のなかにそれの占めている量を測ったり、またすべての測定の平均を求めたりすることにあるのではない。むしろ、それらの総計を求めなければならないであろう。なおそれでも、この算定の方法でいくと、結果は実際よりいかにも低く出てきてしまう。というのは、その方法によって得られるものは、個人化されることによってすべてが希薄化されてしまった弱い社会的感情にすぎないからである。」『自殺論』p.290

「一、個々人が結合してつくりあげた集団は、ひとりひとりの個人とは異なった別種の実在である。
 二、集合的状態は、個人たるかぎりでの個人に影響を与えるにさきだって、また個人のなかに新たなかたちで純粋に内的な存在として形成されるのにさきだって、まずそれを生んだ集団のなかに存在している。」
 『自殺論』p.291


◆デュルケムにとって病理現象とはなにでしょう?

「文化の発達した諸民族における自殺の現状は、正常なものとみなされるべきであろうか、異常なものとみなされるべきであろうか。じつは採用される解決方法のいかんによっては、自殺を抑止するために改革が必要であり、またそれが可能であるとおもわれるかもしれないし、あるいは反対に、自殺はよくないことだといいながらも、それをありのままに承認したほうがよいかもしれない。」『自殺論』p.340下

「実際、道徳に反することはすべて異常であるとみなすことに、われわれは慣れきっている。だから、すでに明らかにしたように、自殺が道徳意識をそこなうものである以上、それを社会病理学に属する一現象と考えないわけにはいかないだろう。しかし、私は、まぎれもない反道徳性の形態、すなわち犯罪でさえ、必ずしも病理現象に分類されるべきではないことを他の著書(『社会学的方法の基準』第三章)のなかであきらかにした。」p.340下

「病という言葉は、ただの空語であるか、あるいはなにか避けることのできるものをさししめす言葉である。もちろん、避けることのできるものがことごとく病的なものだというわけではないが、病的なものは、少なくともたいていの人にとって避けることのできるものである。もしも、言葉におけると同様に、観念においても、あらゆる区別を執拗に追求しようとするならば、ある種の存在の構造のなかに必然的に含まれているような状態なり性格なりを、病的とよぶことはできない。他方、その必然性の存在を認識するためには、経験的に決定されうるとともに、他人によっても確認される客観的な目印によるほかはない。それが普遍性というものなのだ。いつでも、どこでも、二つの事実がいささかの例外もなく一緒に結びついて生起するときには、両者が分離されうるとする方法はすべて、この事実と相容れない。それは、一方がつねに他方の原因であるからではない。たとえそれらのあいだの関係は間接的であってもよい。その場合でも、その関係はやはり存在するし、しかも必然的なものなのである。
 さて、形態は異なっていても、あらゆる社会には多かれ少なかれ犯罪が起こっている。その道徳が日々蹂躙されていないような国民は存在しない。それゆえ、犯罪は必然的なものであって、存在しないわけにはいかないし、われわれの知る限り、社会組織をかたちづくる根本的条件は、当然のこととして犯罪を含んでいるといわなければならない。したがって、犯罪は正常なものである。」『自殺論』p.341

マデュルケムは病理現象というものをそもそも空語として捉えていたようである。それは、本質的には避けられない事象を本来ならば避けられうるとする「完全な」人間像に拠って立つ人々を非科学的立場として一蹴した結果であった。デュルケムは、「避けがたい不完全性は病ではない」とした。デュルケムは統計的作業の結果、あらゆる社会において必然的な現象である自殺や犯罪を病的なもの(避けられうるもの)として定義づけることを拒み、「必然的なものは、それ自体のなかになんらかの完全なものをもっていないはずはない。生命の欠くべからざる条件をなしているものは、その生命が無益なものでないかぎりは、必ず有益である。」という神学者達とは異なった、常態の認識に徹する完全観を打ち出した。最終的にデュルケムは自殺や犯罪がなければ、法律や道徳の十分な発達もありえなかったという意味において犯罪の有益性を認めたのである。* 相対性の上に安定するという社会観


◆デュルケムはなぜ自殺抑止のための「同業組合」という社会組織を設定したのか?

 デュルケームによれば、自殺の病理的増加をその根源にさかのぼって治癒しうる方法は、もろもろの信仰集団の連帯性を強めることでもなく、国家とか政府のような政治集団によるものでもない。むしろ「同種類の全ての労働者、あるいは同じ職能の全ての仲間が結び付いて形成する職業集団ないしは同業組合」の再建と近代化、そして公共化にある。それによって、社会全体を構成する諸集団の中に、より多くの秩序とより強力な連帯性をつくりだすことができる。そしてこのことによって初めて、「自己本意的自殺」の増大も「アノミー的自殺」の増大も防ぐことができる、と彼は主張している。 

 「(同業組合は、)同じ労働に従事している個人によって構成されているし、彼らの利害は連帯し、一体化してさえいるので、社会的な観念や感情を育む上でこれほどうってつけの地盤はない。出自、教養、職業などにおける同一性のため、職業活動は共同生活にとってこのうえなく豊富な素材をなしている。その上、同業組合は、過去において自治と組合員に対する権威を極端なまでに熱望する一個の集合的人格であり得たことを自ら証明してしているので、それが組合員に対して一個の道徳的環境となることができたことは疑いをいれない。十分に組織された社会においては、私的利益に対して、社会的利益は常に尊重されるべき性格と優位性を備えている。」(p362〜363)

「職業集団は、他のあらゆる手段にもまして次の3つの利点を備えている。すなわち、常時存在していること、どこにでも存在していること、そしてその影響は生活の大部分の面にわたっていること」すなわち「絶えず個人と接触を保っている」(p363) 

「同業組合は、個人を取り囲み、精神的孤立状態から個人を引き出すに足るだけの十分なものを備えている。他の集団が現在問題の多いものであるだけに、それは、この不可欠な役目を果たすことのできる唯一の集団である。」(p363〜p364)

 同業組合が以上のような影響力を発揮するための条件として、まず、それが法的に承認されていても、国家の関知しないような私的集団に留まらずに、一定の、公的生活によって承認された機関になることが大切で、また、それが、個々人の特殊な利益の多様な結びつきを代弁するばかりでなく、ある社会的な役割を果たすこともできるように構成されているということが重要であると述べている。そして、それは国家に内在しないが、国家の影響に従う、もっと多様な規制作用を発揮することのできる一群の集合的な力を形成する機能を持つという。同業組合は、現実と十分に密着し、十分に直接的、恒常的な接触があるので、現実のあらゆる微妙な性格をよく把握しており、しかもそれは、十分な自律性をもっていて、現実の多様性を尊重しうるはずだからであるという。
 
 ラディカルな個人主義や個人と国家の直接的結び付きを強調するルソー的観念に基づく精神によって、フランス革命の際に結社や集会が禁止された。このことに対してデュルケームはこれを批判し、個々の多様性が増すにつれて、政府の機関はあらゆる方向に分岐を伸ばそうとするが、そのため、国家の活動は常に画一的で硬直的となり、限りなく多様な個々の事情に従うことも、それに順応することもできなくなる。それゆえに彼は個人と国家の間に存在する2次的な機関としての同業者組合の必要性を説いているのである。そして、それぞれの同業組合と国家が恒常的に関係を持つことにより、個々人の意志を着実に統合していくことができ、自らの道徳を再組織化することができる。つまり、同業組合は成員達より優位にある存在であって、彼らに必要な犠牲や譲歩を要求したり、規律を課したりすることのできるあらゆる必要な権威であり、それによって、新しい形式の道徳的規律が確立されるのである。


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