ジンメル『社会的分化論』 

『デュルケム・ジンメル』世界の名著・中央公論社

担当者:井上・大頭・高島・西澤


[問題1]理論と実践の関係はどのレベルにも見られるとジンメルは言っていますが、それは何故でしょう?ここでいわれている理論と実践の関係を答えてから、考えて下さい。(第一章より p.385) 

「我々がもし、理論的認識において、純観念的な内容自体に留意せずに、その内容の実現過程、したがってその認識の心理的動機、方法経路、体系目的などに留意する場合には、認識そのものもまた人間の実践の一領域となり、それ自身が理論的認識の対象となるからである。」p.385

♪ある人が、ある理論を考えたとき、どうしても考えるという実践を行わざるを得ない。さらに、なぜそのようなことが起こるのかと考えれば、やはり考えるという実践がともなってしまう。 これは、常に理論と実践との関係性は同時に、コインの裏表のように存在するということを示している。この「関係性」というキーワードは、社会的分化論全体を流れる、ジンメルの問題意識でといえる。 


[問題2]ジンメルは、社会学にとって立場を確定することが、特に必要である(p.386)といっていますが、その際に注意するべきことは何でしょう?また、何故注意しなければならないのでしょう?(p.385〜386)

「心の本質を本質を決定した上でなければ、精神現象を科学的に認識することは不可能である、と考えた過去の心理学の誤りに再び陥りたくなければ、ここではただ、だいたいの範囲の限界を知るということで満足すべきである。対象の本質を完全に理解することは、その科学が完成した後にこそ期待すべきであって、それの完成以前に期待すべきではない。科学を論理的、体系的に構成していく際には、もちろん基本的な概念の定義が第一に重視されなければならないが、ただそのように最も単純なもの、最も明瞭なものから構成していくのは、完成された科学の場合だけである。一つの科学をこれから新たにつくり上げようとする場合には、我々は直接に与えられている諸問題―それは常に、もっと複雑なものではあるが、研究が進むにつれてだんだんいくつかの要素に分解されていく―から出発しなければならないのである。思考の最も単純な結果は、最も単純な思考の結果ではない。」p.386

♪ジンメルは、まず本質を決定しなければという自然科学を批判した。 さらに社会は個人の合計ではないとして、個々のデータを集めてゆけば、最終的に真理(本質)に行き着くという、データ主義からも自然科学を批判し、問題の対象の複雑性から一義的な法則を批判した。 つまり、社会学という新たな学問を作るといいつつも、過去からすでにある自然科学の方法に再び逆戻りすることのないように注意しているのである。(大頭)


<提題>

 ジンメルは、過去からあった科学主義にたいして、2つの方向から批判しているように思える。一つは、自然科学の方法論への批判。もう一つは、科学主義そのものにたいする批判である。

(1)方法論への批判 これについては、すでに読書案内の2で述べたとおりなのだが、自然科学の方法では、科学が目指す絶対に客観的な真理にはたどり着けなとしている。

(2)科学主義そのものへの批判 これは、もしも科学主義で真理が見つかった場合に、どのような不都合が生じるかという問題と置き換えてもよい。

 科学主義の考え方として、白黒をはっきりさせるというものがある。つまり、科学主義においては、「ある、ない」「よい、わるい」といことが、はっきりと分かれるため、科学主義の方法論において結論づけられたことは、絶対的なことということになる。 そういう方向で、真理が発見された場合。人間の真理、つまり人間はこういうものである、ということが発見されるわけだから、人間は、たとえ、そうして発見された真理がどのようなものであろうが、それに従わなければならない。つまり、それはとりもなおさず、人間が機械化するということである。人間の機械化は、個人という概念を崩壊させると同時に社会という概念も崩壊させる。 そして、ジンメルはこういった批判を行うのみでなく、社会科学の方法という、自然科学の方法を克服するような方法論を提示することによって、ジンメルはどのようなことがいいたかったのだろか?


[問題3]未分化な社会における「平等」と分化した社会における「平等」の内容の違いを「個人」の立場との関係から述べて下さい。(第三章より p.424、p.436参照)

「全体的平等という観念は、個性の本質と価値を強く意識すること、すなわち、各個人が現在のままの組み立てでは二度と現れない独特な特性を持った個体であるという事実を強く意識することによってますます促進される。」p.436

♪未分化な社会における「平等」と分化した社会における「平等」の内容の違いを、「個人」の立場との関係から述べてください。 未分化な社会においては平等とは全面的な規制によって行動全般を集団内において同じものにすることで達成されていた。(p.423 初期の同業組合の例)  一方、分化した社会においては全体的平等の形は変化する。個性の本質と価値を強く意識することが平等の概念なのである。つまりすべての人間は個性を持ち得るという立場、形式の平等が重視され、個性の中身、特性は同一化されない。行動ではなく形式の平等といえる。個人は永遠の絶対的な性質を平等に持っているという点で全体的な平等が達成されるのである。個性の発達と全体の平等性は両立する。分化のすすんだ社会と個人の関係の中で、双方の役割は変化していくが常にバランスを保っていることの一つの例になると思う。 この関係を学校教育においてみてみると、

「教育は、一方では精神的な水準の大きな差異を取り除こうとし、他方ではある種の平等を作り出すことによって、かえって各個人に対して、以前には禁止されていた彼の個人的才能の行使ができるようにするのである。」p.436 (井上)


[問題4]個人の行動に比べて、統一的な集団の行動がより目標を達成しやすいのは何故でしょう。(第四章より p.468〜)

「公的精神の目的は個人のそれよりずっと原初的で単純であるという前提のもとで容易に説明される。多数の人間が一致できる点は、前述のように、一般に、彼らのなかのもっとも低いものの水準に相当するものでなければならない。それは、個人的生存の一次的な基礎であり、それをこえることができるのは、より高度に発達したもの、よりこまかく分化したものにほかならない。ここから、われわれは、社会的目的の意欲と達成の確実性を理解するのである。」p.469 ♪社会的水準について ある集団、社会、が統一して動くときは、その社会的水準が、社会の中で一番低い人たちに合わせられなくてはならない。社会が統一して動くというのは、例えば、制度、宗教を作るということに相当する。低いというのは、生存に関する問題で、一時的な欲求のレベルで目標は達成しやすい。みんな共通している部分で、分化している人も、していない人も、全ての人に共通している部分まで下げなければ、社会が統一されない。

「分化が進むにつれてはじめてますます多くの中間項目的論的連鎖の中に挿入されるようになる。」p.470


[問題5]社会主義が目指す「平等」とはどんなものか、また、どのように実現されるのでしょう。(第四章より p.481〜484)

「ねに、各個人が本質的に共通のものをもち、他の個人と共通しているということの最大の保証であるまた、反対に、個人の共通性が最大値に達し、全般的に社会化が起こるとすれば、社会的所有物はそれゆえ個人的所有物に比例して最大値になる。(社会的水準の2つの側面:内的所有物と外的所有物)」p.481(高島)


[問題6]社会圏の交錯とはどういったものか。(第五章より p.489など) 分化(speciation)は、種化、差異化、個別化をもたらし、個人性を顕著にする働きをもつ。ということは、この分化という事態は、共同性を崩壊させる原因になる。この点に関して、ジンメルは分化と社会圏の交錯の関係をどう捉えているか。というオプション問題を考えていただければ幸いです。(ヒント;プラトンのイデア論 第五章より p.488)

「個人が所属する諸集団は、いわば、新しく加わるそれぞれの集団によっていっそう精密に又いっそう明瞭に規定されていくような一つの座標系をつくりあげる。一つの集団に所属すると、個性にとってはそれだけ広い活動領域が与えられることになる。他方それが多くなればなるほど、ますます他の人間が同じ様な集団の組み合わせを見せると言うことはなくなる。つまり、これらの多くの圏がもう一度同じ一つの点で交差するなどということは、見られなくなるのである。具体的事物は、それの一つの属性によって一つの一般的概念のもとに入れられるときには、我々の認識にとってその個性を失うが、さらにそれが別の諸属性によって他の諸概念のもとに入れられるにつれて、それだけその個性を取り戻す。それ故、あらゆる物は、プラトン流にいえば、それが所有する様々な性質と同じ数の理念を分かち合って持ち、それによってその個性は規定を受けるのである。これとまさしく同様な関係が、人格とそれが所属する諸圏との間に存在する。」p.488

♪社会圏の交錯;ある集団と他の集団との相互作用;複雑性について 

 自然的な存在である未分化な原共同体が、分化することにより、集団の範囲が意識されるとともに、人間は個人化の方向へ向かう。ジンメルの問題意識は、そのような分化の枠組みは、単に個人化のみをもたらすのか、というところにまずはあると思う。

 ジンメルによれば、分化された集団、共同性が意識されるということ、及び、個人の個別化が意識されるという一見すると矛盾するような二項は、実は、矛盾相反しない。というのも、両者は、社会圏の交錯というネットワーク化に基づいているからだ。そのネットワーク化の運動は、主観と客観の関係に帰着することができる。個人が主観的に、対象(ここでは自分が属す共同体)を客観的に見ることができ、集団から自分を自覚的に意識し、人格として受け取る。ある集団の中に属しているある特徴(文化的な要素)を意識的に(分化の性質に基づいて)受け取ることが客観的に自分の主観性を総合するということである。もしこのネットワークの糸を紡ぎ出す営みが、ニューロンの末端としての個人にあるとすれば、様々な社会圏にわたって営む個人によって、又言い換えれば、より複雑な個と共同性の相互作用により、システムが維持されると考えられる。

 システムの持つ複雑性の縮減(分化)と維持といった観点からすれば、個人の側において分化が起こるということは、個人の中の複雑性が縮減していく、ということに相当する、ところが、ネットワークを結んでいくことが可能であるから、それは複雑性の維持も同時に意味している。 


[問題7]人格の孤立化はどのように緩和されるか。合理的目的というキーワードを用い、説明してください。(第五章より p.492)

「進歩した分化は、我々が全人格を持って所属する社会圏をますます拡大し、だがそのために、個人をますます自立化させて、緊密な結合を持つ圏による多くの支持と利点とを彼から奪う。その場合、同じ目的に対して関心を持ち有っている人間が、幾人でも一緒になれるような圏や協同体がつくりだされることによって、初期の状態の狭い枠との絶縁から生ずるあの人格の孤立化は緩和されるのである。」p.492 

♪分化、個別化が進むにつれて、個々人が個々人のバラバラの諸個性を押しだそうとする。そのことによって、「自由と拘束」の軋轢に悩むことになる。そのために、政治的な権力や近代に見られる人権、利益関心の主張といった、個人主義的な恣意性を操作的に行使することにより、共同性の崩壊がおこる。この個人的な恣意性を何とかして支えようとしたのが、「個人的な属性」にたより、一点からの統括的なシステムを造り上げた、法、国家などの様々な近代諸制度ではないだろうか。ジンメルによれば、

「人格の異質的な諸要素を一つの統一的な圏の中に押し込むかわりに、同質的なものが異質的な諸圏から出てきて結合し合うという可能性を与える場合に、より等しく配分されるのである」p.494

と述べられている。 

 「自由と拘束」の軋轢に悩む近代個人が同質性を様々な思想、実践において貫いていこうとするのに対して、ジンメルのこの考え方は、異質なものと同質的なものをクロスボーダーさせて考えているという点に、近代を越えようとした意味を見いだすことができるのではなかろうか。(西澤)
 

♪♪第五章の問題に付随して♪♪

<1>個人の自由とはなにか 自由に行動しているつもりが道徳や社会的な規範に自ら縛られているとはどういうことなのか 人間は一人では生きられないということと、絶対的な個性は持ちえないということ。 集団に所属することによる安心感。そこでやっと発揮できること。自由と規範

<2>共同体(世界社会)と個人が矛盾しないということ 個性の発達と社会的関心の対象圏の拡大は同時に起こる(p.423)。 相対性があってはじめて自分を認識できる。共同体や他人の存在を意識することで自分の存在に気付く。メーヌ・ド・ビランの言っていた、意志して行動した時に抵抗にあうことで自分を認識するというはなしとつながるのではないか。ジンメルにおいてそれは、未分化な社会で同類のものに埋もれている状態から分化と相成って個人の自我が意識される過程において、個人が所属する共同体、他人との違いを意識することで自我が促進されると述べられている。共同体と社会の関係は裏表であり、どちらかだけを強調することは危険を伴う。たとえば共同体を強調することは全体主義を導くものであり、個人を重視し過ぎると共同体の破壊が起こってしまい、それは結局個人の崩壊でもある(一章)。「孤立しすぎない個性」(p.430)→家族、小集団の、自由と共同性(社会倫理)双方への貢献

<3>集団の拡大と個性の発達の流れにおける小集団の存在意義とはなにか 広い集団(非常に大きな文化共同社会、対個人)は狭い集団と比べて個人に要求することも配慮することも少ない(p.431)。そこでの個人は行動の規範を受け取る場所を持たず、また自分の存在意義に不安を持つ。そこでジンメルが提示するのが多数の小集団に所属することによる社会交錯の意義である。個人は小集団に属することで個別化を促進され。同時に社会的な行動の規範を与えられ、社会倫理を達成することができる。この小社会の典型的な例が家族である。

<4>社会はダイナミック(動的)なものである。 
「社会とは作用しあった集合体の結果である。」p.387

複雑な相互関係の中で生まれてくるもので、実体として固定されるものではない。つまり常に関係性の中で移り変わっているものではないか。また、ある集団の構成員も、その政治は意識してもそれもひとつの要素でしかないところの社会というものには意識は払わない。意識して作り出すものではなくて、人間が意識してするところの行動も、様々な要素との関係の中ではっきりと規定された因果関係以上のものとして出てくる。たとえば罪はその典型的な例である。 
 複雑性の存在により、因果の確実性が否定されている。

 また、ジンメルのみる社会は初期の状態から現在の状態まで、常に新たな文化へ導く要素を持ち移り変わっていきながらもその中ではバランスが保たれていて絶対的な破滅が起こるものではない。実体はないけれどいつも存在して流れているものとして社会を捉えているのではないか。ジンメルの言葉で言うと社会はある状態からある状態へ、状態が変化するのだということ。つまりそこで見えているある問題というのはその状態の中の一面でしかないのである。現時点での問題とかに触れていないということも問題とその生まれる基との関係を固定化してしまう危険性を考えてのことかもしれない。つまり、ここからこの問題が生まれるといってしまうことは様々な要素の幾つかを切り捨ててしまうことになるからではないか。デュルケームはそこのところをどのように解決しているのか。先の段落で述べたこととも関係して、ある社会の中で出てきた問題というのはその社会では問題であるが、流れの中でみれば社会が移り変わっていく原動力としてあるだけでまた新たなバランスを生むのである。

 社会学の立場とも関係してくるのだが、今在るやり方である本質とか法則を打ち出してしまうことはできない(成り立ったように見えるだけ)うえに固定化してしまうことである(p.385)。本質を定めることは、一面的になってしまい、ある要素を切り捨てることである(一章)。

 ジンメルは宗教をある時期の社会の例としてだしてきているが、長い目で見ると社会は意識されないうちに常に動いているある状態であるのに対して宗教は動きがないわけではないが人々が固執し、実際と離れて形骸化してしまい得るものである。もしくは宗教は政策の様なものでそれを含めて社会を作り出す要素でしかないのか。現在の宗教がらみの確執などは、ある時期共同体に最も適したものであった政策に今でも固執しているようなものなのだろうか。(井上)


[問題8]時間的前後関係と同時的並存関係とが、厳密にいえば時間的前後関係と一緒になるのは何故でしょう。(第六章より p.531〜532)

「われわれは、とにかく、ここでもけっきょくは原理上の差異よりも程度上の差異が問題なのだということに留意しなければならない。意義が狭いと、与えられたそれぞれの瞬間においてその内容は一つまたはごく少数の観念だけにかぎられることになるため、さまざまな内的、外的な活動が発展がいわば同時的に並存しているといっても、それは厳密にいえばやはり一つの時間的前後関係をなしている。我々が、ある一定の時期を統一あるものとして境界づけ、その中に生起するものを同時的に生起するものとして特徴づけることは、けっきょく、まったく恣意的なことである。われわれは、ある期間内におけるいくつかの発展内容の出現の間にわずかながら存在する時間の差を無視し、それらを同時的なものとみなしているが、この無視される時間の大きさには、何ら客観的限界はないのである。さきにのべた教育の場合でも、相当多くの教科書が並存的に学習されるが、これにしても厳密にいえば、同時的並存関係ではなくて時間的に前後をなして行われているのであり、ただそれが、我々が狭い意味で時間的前後関係と呼んでいる場合よりも、もっと短い時間的間隔をさしているということだけのことである。したがって、並存にはただ次の二つの特殊な意味があるだけとなる。まず第一は、内容の交互的継起である。すなわち、二つの発展系列のうち一方が一歩進めば、他方も一歩進み、こうしてけっきょくまたもとの関係にもどるというような場合に、この二つの発展系列を同時的なものと呼ぶわけである。つまり、それらは、その諸部分がその時間内のさまざまな時点を占めるとしても、全体としては同じ時間内に包含されているのである。さて第二は、時間的に前後して行われた活動によって獲得された諸能力のよび諸性向は、事実上並存しているのであり、それゆえ、どの能力および性向も刺激によって任意に呼び起こされうる、という意味においてである。つまり、獲得の時間的前後関係および行使の時間的前後関係と並んで、潜在的諸力の同時的並存関係が存在するのである。」p.531〜532

 ♪時間的前後関係と、同時的併存関係との差異は、原理上の差異ではなく、程度上の差異であるということ。(p.531〜532)。たとえば、「あなたが小学校の時に習ったことは?」と聞かれれば、われわれは国語、算数、理科、社会などというふうに、あたかも同時的に習ったかのようにいうが、実際は、国語の時間、算数の時間という風な時間的前後関係が存在したはずである。 つまり、どのくらい細かい時間の単位でみるかによって、これらの名称は変わっていくものであり、どの程度の時間を統一あるものとして見なし、特徴づけるかということなのである。つまり、まったく恣意的なものということができる。


[問題9]集団の分化と、個人の分化はなぜ対立するのでしょう?(第六章より p.526〜)

「これまでに得られた諸結果を概観してみると、それらを通して一つの根本的矛盾が存在しているように見える。私はそれを概括するというよりむしろ、もっと端的に述べてみようと思う。すなわち、社会集団の分化と個人の分化は明らかに正反対をなす、ということである。 社会集団の分化は、個人ができるだけ一面的になること、彼がある単一の仕事に没頭し、彼の衝動、能力、関心のすべてがこの一つの階調に合わせられることを意味する。これにたいして、個人の分化は、まさに一面性の廃棄を意味する。それは、混合している意志と思考の諸能力を分離し、それらの各能力をそれぞれ独立した属性に発展させる。」p.526〜527

♪集団の分化が進展すると、集団をなす個々人のあいだに差異が生じ、その差異がどんどん大きくなる。逆に、個人の分化は、個人の中に多くの選択肢を生み出すことになり、ある特技や一つのことに打ち込むということを難しくさせる。 集団の分化によれば、集団を構成する個人が、単調に他の個人とは異なった特技に打ち込むことによって、社会全体が効率よく機能する。しかし、同時に個人の内部の分化が進むと、個人は単純に一つのことに打ち込むということをしなくなるから、社会は効率よく動かなくなる。 

 ここで、ジンメルは単純に集団の分化と、個人の分化が対立するということがいいたいのではないと考えられる。むしろ、集団の分化と個人の分化は、同時に存在し、常にその緊張関係を持つ、あるいは、あるバランスを有するということがいいたのではないだろうか。(大頭)


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