マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

『ウェーバー』世界の名著・中央公論社

担当:朝山・上野山・江西・佐藤


ACT1
p242〜禁欲と資本主義精神より

近代資本主義のいやそれのみでなく近代文化の本質的構成要素の一つたる職業理念の上に立った合理的生活態度はキリスト教的禁欲の精神から生まれ出たものである。(p288)
 労働は禁欲の手段でもあり、神の定めたもうた生活一般の自己目的である。労働意欲の欠如は恩恵の地位の喪失の微候なのである。(p251)

地上において人々は自分の恩恵の地位を確認するために排斥すべきもの
明白に啓示された神の意志によればその栄光を増すために役立つものは怠惰や享楽ではなくて、行為のみである。したがって時間の浪費が中でも第一の原理的に最も重い罪なのである。(P245)
 スポーツはただ合理的な目的、つまり肉体の活動力に必要な休養の為に役立つものでなければならなかった。そうでなく衝動のままにこだわりなく生活を楽しむ為の手段としてのスポーツは彼らに好ましくないものであり、単なる享楽の手段とされたり、いやしくも競技上の名誉心とか競争に対する粗野な本能や非合理な欲望を起こさせた場合にはもちろん端的に排斥さるべきものであった。・・職業労働や信仰を忘れさせるような衝動的な快楽はそのまま合理的禁欲の敵とされたのであった。(P267)

こうして禁欲的プロテスタント達は一方でひたすらに営利活動をしつつ、他方で徹底的に消費を抑制することとなった。 そうなると当然彼らの手に多くの富が残るようになる。消費的使用を禁止されたこの富は専ら生産的利用に供せられた。このような形で拡大再生産の過程が始まり、近代資本主義の出発点が形成されたのである。

 プロテスタンティズムの世俗内的禁欲はこだわりのない所有の享楽に全力をあげて反対し消費、ことに奢侈的消費を圧殺した。その反面この禁欲は心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の生涯から解き放ち、利潤の追求を合法化するのみでなく、これを直接神の意志に沿うものと考えることによってその桎梏を破砕してしまった。(275)
 消費の圧殺とこうした営利の解放とを結び付けてみるならば、その外面的結果は禁欲的節約強制による資本形成がそれである。利得したものの消費使用を阻止することはまさしくそれの投下資本としての生産的利用を促さずにはいなかった。(276)

プロテスタンティズム的禁欲が資本主義精神の発展を促した要因
 市民的企業家は形式的な正しさの制限を守り、道徳生活に欠点もなく財産の使用にあたって他人に迷惑をかけることさえしないなら、神の恩恵を十分に受け見ゆるべき形でその祝福を与えられているとの意識を持ちながら営利に従事することができまたそうするべきだったのである。このような職業としての労働義務の遂行によって神の国を求めるひたむきな努力と他ならぬ無産階級にたいして教会の規律がおのずから強要した厳格な禁欲とが、資本主義的な意味での労働の生産性をいかに強く促進せずにいられなかったかは明瞭である。(p283〜286)

 しかし、成熟した資本主義社会では、営利活動は宗教的、倫理的な意味を取り去られている為に、純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果スポーツの性格(競技上での名誉心、相手を破りたいという感情)をおびるにいたることさえまれではない。

「富の増加したところではそれに比例して宗教の実質が減少していると思う。それゆえ事物の本性にしたがってまことの宗教の信仰復興を長い間継続させるような方法は私には分からない。なぜというに宗教は必然的に勤労と節約を生むほかはなくこの2つは富をもたらすほかはない。しかし富が増すとともに、高慢、激情、そしてあらゆる形での現世への愛着へも増してくる。・・人々が勤勉であり、質素であるのを妨げるべきではない。我々はすべてのキリスト者にできる限り利得するとともにできる限り節約すること、すなわち結果において富裕になることを勧めなければならない。」(281 ウェスリーの言葉より)
 
ベンジャミンフランクリンの言葉
フランクリンは、(対外的に)正直だと考えられている人は、信用を得やすく、そのことが貨幣を得る機会を拡大すると考えた。そして、自らが得た貨幣獲得(拡大)の機会を少しも無駄にしてはならないと述べている。彼のこの考えは単に「処世の技術」の領域のみに留まらず、「独自の倫理」として捉えられ、このような貨幣獲得に対する生活態度の中には、独自のエートスが含まれている。フランクリンは「正直は信用を生むから有益である」などに見られる貨幣獲得に対する生活態度を善徳であると考えた。ここでの貨幣獲得への態度は純粋な自己目的であると考えらており、幸福主義や快楽主義に対応するものではない。すなわち、「営利は人生の目的と考えられ、人間がこれによって物質的生活の要求を満たすものとは考えられていない」ということなのである。この様な営利が人生の目的となっている態度こそが資本主義の精神である。さらにフランクリンは貨幣の獲得は職業(Beruf)における有能さの証しであるとも述べている。(p113上〜p118上)
 
→ 禁欲的プロテスタンティズムの文化的意義の限界


ACT2
プロテスタンティズムの神観念
(140) 141〜180〜208、

0.ウェーバーの証明(164)

1.職業義務はどのように生まれたか?

・「職業」観念の非合理的要素(141)
 職業労働への献身(宗教的、非合理性)と資本主義を担った「職業」思想
 
参考)宗教観念の非合理性(197)
 
・職業義務の観念

 語義と思想(149、150)
 職業≫Beruf≪ 神から与えられた使命という観念が含まれる(141)
 プロテスタントの神観念からうまれ、変化していく歴史
 職業義務が重視されたわけ

2.カトリックからプロテスタントへ 

・キリスト教的禁欲の変遷

 プロテスタント「魔術からの解放」(198)

 西洋的禁欲(201)−積極的な禁欲

  禁欲の類似性(199、202)
 ◎合理化−「救い」を得る為現世の生活が地上に神の栄光を増すという観点に
      よってひたすら支配され、徹底的に合理化されることに
     −こうした合理化は改革派の敬虔感情に独自の禁欲的な性格を与えた

3.プロテスタント(ピューリタニズム)

・ルター派とカルヴァン派(157、161、169)−カルヴィニズムの特徴
 −伝統主義を排せなかったルター

・宗教的貴族主義(204)

・プロテスタンティズム的な禁欲とその影響(166、201)
 ルターの禁欲
 カルヴァンの禁欲

・「隣人愛」の変化(180下、181、150)
 ルター的、カルヴァン的隣人愛と共同体概念の変化
 二重の神(172、174)−新約(恩恵と慈愛)と旧約(専制君主的)

・神に対する不安と内面的孤立化(172〜5)
 不安をもたらす予定説−神のみが知っている

 ◎予定説(195、6)
 選びの教説
 救いの確信(185、192)
  −カルヴァンははじめ、選ばれた結果は人にはわからぬ(堅忍)としたが
   彼の後継者たちは救われていることを知りうる必要があった
  −自ら救いの確信を「造り出す」 cf ゲーテ「行為によって自己を知る」
 行為による救いの主張(195)
 
・プロテスタンティズム
 神の為(共同性)から自己目的へ


ACT3
<< 社会学的方法 >>
キーワード:理念型、合理性
参考)P74,110,112,118,197,205,292など

ウェーバーにとって合理性というものは単に効率性、有効性といった一面的なものではなく、そのような立場から見れば非合理に見えるような個人の衝動や恣意判断といったものが如何にある特定の文化的価値に向かって昇華していくか、というところに注目することによってそれら諸要素の間の関係性を見つめようとする。つまり合理性という概念を一義的なものとして捉えるのではなく、その背後に存在する多様性を考えた上で、一見矛盾しているように思える複雑な要素間の関係を解きほぐそうとするのである。

その方法として彼は、地域的あるいは時代的に異なっていながら反復して見られる特性を個々の事例の中から抽出し、それをもとに「理念型」を作り上げる。それは一種の虚構であり、現実には起こり得ないものであるが、そのようにして整合的に作られたモデルをもとにすることによって仮説や理論の構成に方向性を与え、現実の現象に対して発見的な役割を果たすものとして用いることができる。こうして得られた法則性を基に社会的な現象を因果的に説明しようとするのであるが、そうした法則性は自然科学における(たとえば万有引力のような)永久不変のものでは決してないし、「因果的に」というのも単に一方向からのものではなく、背後に地域性や時代状況も含めた相互関連的なものとして捉えられる。したがって、たとえばプロテスタンティズムの合理主義から近代文化における「特徴的なもの」の全部を導き出そうとはしないし、理念型を用いる際にも、ともすれば理念型を用いて分析することから生じ得る危険性を十分認識した上でそれを用いる。→P197注

認識が主体の能動的な作用を持つものであると考えるならば、その主体の立場からの一面的な認識がもたらす暴力性をウェーバーは見逃さず、現象のもつ複雑性を安易に排除しようとはしない。しかし現実には、人々は近代的な合理性がもたらす一側面でしかない形式を受け入れ、それによって本来の「救い」に対する不安を埋めるため、という目的を見失ってしまう。そしてもはや形式化してしまってはいるが、個人にとってはそこから逃れられないほど強固な力を持った外枠の中で、人々は苦しめば苦しむほどますます一面性に頼ろうとする。このような近代資本主義における自己疎外の状況下で如何にして個人の自由を回復するかということがウェーバーの問題意識であった。


ACT4
「理念型」と関連
価値判断排除の原則について

・本文での具体例と思われるもの  p.112

・抜き出しによる説明(解説p.77より)
 自然科学は、原則として、現実の事象にふくまれている文化的意義や価値志向をいっさい捨象して、これと無関係にその事象を分析し解明する。これに反して、文化科学は、現実の事象にふくまれている価値志向を保存しつつ、したがってなんらかの文化価値に関係づけて、その事象を捉えようとする。この意味で、自然科学と区別された文化科学の方法的特質は「価値関係的」と呼ばれた。

・追加説明
 理念型をつくる際、価値志向をとりいれそれを目的として作るが、決して分析に際して主観的に何等かの立場から判断してはならない。つねに価値志向どうしを相対的に扱わなければならない。そのような客観的な立場に立つことによってはじめて、一見なんのつながりの無いように見える社会事象どうしにも繋がりが発見できるのである。
 例えば、もし、功利主義者とプロテスタントの禁欲主義者がそれぞれの主観的な立場に立って互いを分析しあったとしても、ウェーバーのような結論を得ることはできないだろう。ウェーバーのように、功利主義、プロテスタントの禁欲主義それぞれの文化事象に価値志向を認めつつも、どちらの立場にも属することなく、それぞれの価値志向を理念型の目的として設定して、合理、非合理の判断によって分析してこそ有効な分析ができるのだ。
 

唯物論と唯心論のどちらでもない行為遡及の立場

・本文での参照箇所 p.291

・抜き出しによる説明(p.71より)
 行為遡及の立場では、(一)もろもろの領域にあらわれる社会集団、社会制度、文化的構造物の分析を重視しつつ、しかも(二)一面でこれらのものに生命を与え、他面では同時にこれらのものの拘束下にある個々人の社会的行為とその背後にある意識にまで遡って、この行為や意識のレベルにあらわれる特質や動向を探求し、そして(三)この行為や意識が示す特質の深みからひるがえって、右の社会集団、社会制度、文化的構造物の特質を分析し、それらの、いわば人間的意味を理解することが、めざされている。したがって、行為遡及の立場に立つかぎり、その研究対象の中には、社会的行為とその連関ばかりではなく、いっさいの社会的文化的構成体がふくまれることになる。さらに、この立場にとっては、(四)行為や意識のレベルの背景としてこれに影響を与えている人々の所属階層、歴史的事件、時代の趨勢などの特質をも、考慮に入れることができる。



 


戻る