ジャン・ピアジェ 『発生的認識論』   

滝沢武久訳・白水社・文庫クセジュ

担当:万仲、吉良  協力者:松原


【訳者まえがき by 滝沢武久】

●ピアジェが子供の認識の発達(発生)を心理学的に研究した意図を滝沢はこう書いている。(p.3,4)
 モ認識の問題を哲学的にではなく科学的に解決する、即ち認識の何が客観性を持つのか問うこと。

 ☆哲学の方法:思弁の結果としてそれが引き出されたという点で主観的である。
  モ学者間の一致は少ない

☆科学の方法:科学はかぎられた領域の現象を研究する。科学は対象を、観察可能なかぎられた実在に求め観察と資料収集→結論→実験的検証→反論というプロセスを幾度と踏むことにより主観的因子の介入をできるだけ少なくしようとつとめる。モ学者間の一致は可能となる

◎ここで、気にかかることは滝沢が、『科学のプロセス(観察と資料収集→結論→実験的検証→反論)は哲学的思弁という主観的要素を排除している』というようなことを書いていることである。研究演習でも幾度となく指摘されているように、科学は<観察と資料収集>といった場合にそれらに影響を与える主観的な初期理論を打ち立てる。たとえばデュルケムが、「研究の手順を逆にしてみればよいのだ。自殺のいろいろなタイプは、実際には、それを規定している原因そのものの多様性に応じた数だけしか存在しない。(『自殺論』p.84)」と考え、自殺の形態の原因となる<もの(shore)としての社会>を見いだしていったように。この点では自然科学と社会科学の方法論の間に差異はないと考える。両者がことなる点は、自然科学が客体(外にあるもの)を実在するものとして主体の観察によって客体の実在に接近できるとし、客体を認識する主体のフィルター(内にあるもの)に対して無反省な態度であるのに対し、社会科学は人間学という立場を取るために客体間の相互作用を見つめる以前に、主体のフィルターの構造にまで目を向ける。

●ピアジェが認識の発達を生物学的視点からもみていこうとした理由
 モ<個人の認識の発達>と<社会における認識の歴史的発展>をそれぞれ生物学における個体発生と系統発生になぞらえた。個体発生も系統発生も同様の道筋をたどることに注目した。

●認識論におけるもっとも根本的な問題は、認識主体と認識対象との関係の問題である

@理性主義:認識主体の役割を重視する。人間には、外界を把握する能力がそなわっている。すなわち、人間の理性は、その先天的な構造によって、<学習なしにも>、ある仕方で、実在に接近できるとみなす。

モウェーバーは近代的な合理性がもたらした一側面でしかない形式的認識の暴力性に対して警鐘をならしていた。
 
A経験主義:認識対象の役割を強調する。対象はそれ自体として存在するので、主体は対象の複製をつくり出しているにすぎない。主体により認識された対象は、ちょうど鏡に映った像のように、主体の感覚を通して、発見されたものにとどまる。人は本来、「白紙」なのであって、その白紙の上に対象の印象が刻み込まれるだけ。経験主義は、主体に対してきわめて受け身的な役割しかみとめていない。

モ「どこから心は理知的推理と知識のすべての材料をわがものにするか。これに対して、私は一語で経験からと答える。この経験に私たちのいっさいの知識は根底をもち、この経験から一切の知識は究極的に由来する。外的可感的事物について行われる観察にせよ、私たちがみずから知覚し内省する心の内的作用について行われる観察にせよ、私たちの観察こそ、私たちの知性へ思考の全材料を供給するものである。この二つが認識の源泉で、私たちのもつ観念あるいは[本性上]自然にもつことのできる観念はすべてこの源泉から生ずるのである。」
『原典による心理学入門 - ロック「人間知性論」』p.281
この言葉から観察可能なものしか相手にしないデータ主義、行動主義心理学へと繋がる。
       
Bピアジェ:主体と対象の<相互作用>を強調することによって総合を試みる。子供のおかれた環境や経験は、明らかに、子供の発達に影響を及ぼしている。しかし、子供は白紙で認識活動をおこなうのではなく、ある種の精神構造の性格により、意味を異にしている。四歳児の対象は、七歳児の対象とちがうし、十四歳児の対象とも同じではない。主体が発達すると、その認識対象も異なってくるし、また同じ対象に対しても深い見方を獲得するにいたるから。このように認識の発達過程では、主体と対象とがたえず相互に作用し合いつつ、実在の周辺部から中心部へと認識が深まっていく。

モ相互作用については、デュルケムもピアジェとよく似たようなことを言っている。    「たしかに、社会的事実を生じさせるもとになる基本的な特性は、個々人の精神のなかに胚胎している。しかし、それらが個々人の結合のなかで変容をうけるとき、はじめてそこから社会的事実が生じてくる。・・・個々人の結合もまた、独特の結果を生み出す動因なのだ。ところで、この結合は、それ自身新しいなにものかである。諸個人の意識がたがいにそれぞれ孤立していることをやめて集合し、結合するときには、この世界には変化したなにものかが生じる。従って当然、その変化がまた別の変化を生み、その新たなものがまた別の新たなものを生み、その構成要素のなかに含まれていなかったような独特の性格をそなえた現象が現れてくる。」  『自殺論』p.279


【序論】

●すべての認識は新しい仕上げという一面を含んでいる。形式面では、その新しいものが仕上げられるやいなや 必然性を伴い、現実面では、それ(新しい仕上げがあること)が客観性を獲得する唯一のものである。 科学思想史の分野では、視点の変化の問題や、「範例」における「革命」の問題(クーン)さえも、必然的に課せられている。

モ伝統的認識論は、認識の高次の状態、いいかえれば、認識のある種の終結しか、認識していない。発生的認識 論は、もっとも基本的な認識形態からはじまって、さまざまな種類の認識の根本を明らかにしようと試み、科 学思想までを含めたそれ以降の水準における発展をたどる。(個体発生と系統発生)心理学としての発生的認 識論は認識論からの「副産物」にすぎない。

●発生的認識論の本意は、認識のたえざる構成の別の局面と発生とを対立させることでなく、反対に、絶対的なはじまりがけっして存在してはいないということを示す。科学の最も現実的な状態での新しい理論の構成を含めてすべてが発生的といわねばならない。発生をさかのぼる必要性を確認することは、絶対的に語られる最初の段階としてみなされる特定の段階に、特権を認めるということではない。逆に無限の構成の存在を思い出すことであり、その理由とメカニズムとを理解するためには、その可能な「最大限の」段階を認識しなければならない。

モ限りなく0に近い点は考えるが、0は考えない態度

●実証主義的ではない自然主義的な発生的認識論:観念論的でなく、主体の活動を明らかにしており、そして、客体を一つの限界として(したがって、わたくしたちとは無関係に存在するものとして、しかし決して完全に到達されないものとして)みなしながらも、同様に客体にも依拠している。そして、とくに、認識の中にたえざる構成をみる。


【第一章 認識の形成(精神発達)冒頭】

●既知の認識論の共通な公準は、一人の主体があらゆる水準に存在しているのを前提とすることだ。

●認識は、主体と客体との中間に生じる相互作用、したがって、同時に両方に属している相互作用から生じるのだ。しかし、それは、はっきりとした形のもの同士の相互交渉によるのではなく、完全に未分化であることによるのである。

●主体、客体、相互作用の道具はひとくくりで媒体とあらわされる。(そもそも一定の方向性を持たないもの)認識の最初の問題は、媒体をつくることの問題である。媒体は、自分自身の身体との接触の領域から出発して外部からと内部からの二つの相補的な方向に、しだいに前進しつつはいりこむ。主体と客体とが密接に結びついて完成されるのは、媒体がこの二つの方向にしだいに構成されていくことに依存している。
 
●初期の相互作用の道具は、知覚ではなく活動そのものである。知覚は、本質的な役割を演じるが、部分的には活動全体に依存している。


【読書案内解答】

ピアジェは、「認識は、主体と客体との中間に生じる相互作用、したがって、同時に両方に属している相互作用から生じるのだ。しかし、それは、はっきりとした形のもの同士の相互交渉によるのではなく、完全に未分化であることによるのである。」p.19

と述べている。ピアジェはなぜ認識の発生を研究し、このような理論を提出したのだろうか?理由を推測してください。

(答え)ピアジェ以前の認識論ははじめに固定的、特権的な主客があるという前提のもとに論じられていた。経験論にせよ、先験論にせよ、客体が先か主体が先かというような二元論的な発想に陥っており、このような学問態度が、イギリスにては植民地主義、ドイツにおいてはヒトラーの台頭を引き起こす原因になったといっても過言ではない。そのような悲劇的な分断状況のもとでピアジェは、完成された近代市民の認識の終結のみを論じる既存の認識論を放棄する。そして、一人前の近代市民とは認められていない「子供」の認識を研究することによって主客分化はそもそもなされてはいなかったのだと喝破するのである。ピアジェが「相互作用」を重んじるのも「発生」にこだわるのも単に心理学上の解明をはかったわけではなく、<すべてには絶対的なはじまりが存在せず同時に絶対的なおわりも存在しない>ことを示そうという意図に基づいたことであると考える。

 ここで思いを馳せるべきは、大乗仏典で学んだ「色即是空空即是色」の言葉であろう。<すべての存在は自分が自立して存在するものではなく、必ず他に縁り、他を縁とし、他との相対性において存在し、そこには絶対的存在・絶対者はいない>という考えのもとに、あらゆる存在の自性を存在間の関係性を見つめることによって棄却した大乗仏教はピアジェの考えと共通したものを持つ。さらに序文の最終段落に見られる、

  「観念論的ではなく、主体の活動を明らかにしており、そして、客体を一つの限界として(したがって、わたくしたちとは無関係に存在するものとして、しかし決して完全に到達されないものとして)みなしながらも、同様に、客体にも依拠している。そして、特に、認識の中に耐えざる構成を見るのである。」

 という一文に<ことばがあるかぎり、あらゆるものは無であり、一切は有でない>という龍樹の言葉のエッセンスが含まれていると私は思う。ピアジェが形式操作の危険性に対してこのような形で警鐘をならしているのは注目すべきだろう。「たしかに、科学は、ずいぶん以前から数学的演繹と実験との間のおどろくべき一致を示してきた。しかし、この形式化の技術および実験技術の水準よりもはるかに低い水準で、計算もほとんどできないような、まだ非常に質的な知能が、その抽象の試みと観察の少しばかり秩序立った努力との間で、類似した対応に達しているのが確かめられることは、おどろくばかりだ。とくにこの一致が、未分化な混同状態-ここから主体の操作と対象の因果性とが、しだいに引き出されてくるのだが-から出発して、たがいに相関しあった長期にわたる二系列の新しい構成-あらかじめ決定されている構成ではなく-だということを確かめることは、教えられるところが多いのである。」                    


「第二章:有機的前提条件(認識の生物発生)」

 まず、ピアジェは認識の問題を超越的なものには訴えかけない。この段階でピアジェはカントと一線を引いているのである。ピアジェとカントとの違いは二つあげられる。

1)時間概念
 カントの認識論は近代市民として発達しきった大人の認識論である。共時的な時間で考えると、認識の問題はアプリオリな直感に頼らざるを得ない。しかし、人間は時間的にも発達する。つまり、認識は主体客体未分化の状態から徐々に発生するとも考えることができるのではないか?

2)構造主義 → P143参照
 カントは一つの形式を必然的な形式と考えすぎていた。しかし、20世紀の科学がぶつかった壁は、すべてのものを一つの形式に押し込むことはできないということであった。具体的には、非ユークリッド幾何学の発見(→ポアンカレ参照)、未開の発見(→レヴィ=ストロース参照)である。そうすると、私たちが見ている対象は一つの対象であって、世界はまた別に想定しなければならないことになる。この辺のところは、ルーマンの世界観も参照してみたいものです。
 
 さて、認識の問題が超越的なものではないとなると、ピアジェは「発生的」な認識を想定することとになる。発生的な認識は以下の三つの解釈しか持ち得ない。

1)ラマルク的経験説…主客の矛盾しているのに一致するのは、「環境」からの拘束によってあたえられている外生的情報から生じる

2)生得説…遺伝という源泉に帰する。先天説と遺伝学の折衷

3)自動調節…論理数学的認識によって達した内在的必然性を、精神発達により以前の生物学的メカニズムにも結びついたものだと見なす。しかし、人間は高等生物なので遺伝の力よりも、「自己調節」の力が大きい
 
 

●『ラマルク的経験説』 →ラマルク、行動主義者、論理実証主義者
1)ラマルク※1への批判
・彼(ラマルク)によれば、獲得の本質的なものは、生物がその習慣を変えながら、外部の環境の刻印をうけ入れるような仕方にもとづいていたのだった。(P75)
 →つまり、外発性によるものが強い
 →ラマルクに欠けていたものは、突然変異と組み換えとに関する内生的な能力、自己調整機能である。
 →・・・言葉の真の意味での相互が存在するということ、つまり、環境の変化により生じた緊張や不均衡の結果、生物が新しい均衡に達する独自の解決を、組み合わせによりつくり出したのだということ 意味している。(P75〜76)

 つまり、ラマルクは認識を獲得していくものと考えていた。そして、認識の発生がすべて外部にあるものだと解釈され、経験主義に発達していったのである。

2)行動主義への批判
・刺激がある反応を引き起こすためには、主体およびその組織体は、その反応提供することができなければならない。・・・最初に刺激があるのではなくて、刺激への感受性がある。(P76)
 →だから、S→R ではなく S・R
・もし、ラマルクの仮説を受け入れるのなら、すべての反応は刺激の単純な複製ということになる。
・だから、獲得の基本的過程が、外部的所与の登録という経験論的仕方で言いあらわされた学習なのである。

 つまり、行動主義は「刺激を感じる力がどこにあるのか」という問いかけに答えてくれはしない。そして、すべてが刺激に還元できるのなら創発性はどこに見られるのだろうか?
 たとえば、ペガサスは馬と鳥の合成である。だから、人間が新たなものを創造しても、そこに何ら新しいものを見いだすことはできない、という経験主義者もいる。しかし、馬と鳥との合成であるペガサスに、何かしらの神秘的な感覚が創発してくるのは、疑うことのできない事実なのである。

※1ラマルク…進化論の提唱者。彼がいる限り、ダーウィンは「進化論の確立
者」という位置づけになる。世界の名著『ダーウィン』P58〜59あたりに詳しい
 

『生得説』 →K.ローレンツ、カント
1)ローレンツへの批判
 ローレンツは馬のヒヅメや魚のヒレが遺伝的なプログラムで構成されていくことを証明した。これらの遺伝的プログラムは、認識構造が発達していく前に存在するものである。そして、遺伝は種ごとに違うわけだから(まさか人間において魚の形質が遺伝することはないでしょう)、それが認識構造を獲得していくときに前提条件になる。これが「生得的作業仮説」なのである。・わたくしの説明のよれば、認識構造は、必然性をもつにいたるものではあるけれども、それは最初からそうなのではなく、その発達の終極においてそうなるものなのだ。しかも、認識構造は、あらかじめプログラムを含んではいない。
(P80)
→事実、表現型について、現代的概念は、この後成の系を、胚形成以来、遺伝的因子と環境影響との間の不可分な相互作用の所産として、わたくしたちに示している。そのため、生得的なものと獲得されたものとの間に、固定的な境界線をひくことは不可能だ。(P80〜81)

2)本能から知性へ
 さて、前項で認識構造が相互作用によって作られることが証明された。しかし、それでは「本能というものがどう解釈されるのか」、という問題が残る。つまり、「食欲・性欲・睡眠欲などの本能もまた、相互作用によって生まれるのか」という問題である。ピアジェは本能の問題について、
・本能の構造は、生得的であるという点で固定しており、表現型の構成に応じて変化しうるようなものではない。(P83)
と述べている。人間の認識構造には三つの層がある。
 1)一般的共応
 2)遺伝的プログラム(本能)
 3)個体の調節(自動調節)
本能から知性へ移行するときに、消失したり弱まったりするのは、もっぱら第二の層、つまり内容の遺伝的プログラムなのだ。いわゆる高等生物である人間は知性が発達し第二の層が弱まっているのである。したがって、人間の認識を生得的な本能に変換することはできないといえる。

『自己調整』 →ピアジェ したがって、ピアジェが提唱するのは自己調整ということになる。自己調整とは、生得的なものと経験的なものの関係性から生まれてくるもの(=シェマ)を重視して、シェマから創発されるものを想定しているのである。だから、認識は主客の分化がなされていない子どもの段階から、徐々に発生していくこととなる。以下に、ピアジェの自己調整がよく分かるところを参照しておく。

●この解決ーほかの二つの解放に固有な困難さについては、これ以上述べないこととするーを立証する第一の積極的理由は、ゲノムからはじまって行動にいたるまでの生活体のはたらきのあらゆる層に調整系が見出され、したがってそれが、生きた組織化というもっとも一般的な性格にもとづくようにみえるという点である。(P87)

●第二に、自己調整にもとづく説明がとくに実り多いのは、構造を構成するはたらきが問題となっているのであって、既製の構造が問題となっているのではないという点だ。(P88)

●さらにさかのぼって分析をつづけていくと、行動面でのこれらの構成の出発点は、言語ではなくて、これらの根は、感覚運動的段階(注1)で、活動の一般的共応(順序、分類、対応など)の中にみられることが明白であるようにみれる。しかし、これらの共応が絶対的なはじまりをなしているのではなくて、神経の共応を前提としていることは明らかだ。(P90)

(注1)感覚的運動段階とは主客が未分化の段階である。そして、赤ん坊は遺伝的なものや再生的同化(同じ動作をもう一度おこなう)によって行動している。「発生的認識論」P25参照。


「第三章 古典的認識論の諸問題への復帰」

 一般的に日本ではピアジェを「児童心理学者」と見る傾向がある。しかし、そう考えられるのは彼にとっても不本意なことであろう。それはこの章の冒頭3行を読んでもよく分かる。ピアジェが認識の発生を強調するのは、一般的認識論の問題に取り組みたいからである。したがって、ピアジェにおける児童心理は単なる土台に過ぎず、本当の研究成果は以下の論理学・数学・物理学などの認識にみるべきではないだろうか?
 

『論理学の認識論』
A)形式化その手続きそのものと「自然的」思考の手続きとの関係は何であろうか
?
 人間の認識は発達するに従って、形式化と自然的思考の二つの方向へ向かう。
1)自然的思考…以前からある種のつながりを思考の新しい面に投影するというなかば幾何学的な意味での「反省」→直観的
2)形式化…それらのつながりをその新しい面で再構成せざるをえない再組織かという知性論的意味での「反省」
 反省的抽象の中でも形式化はしだいに大きくなる自由を持っている。形式化は反省的抽象の延長であると同時に、反省的抽象が支配する特殊かと一般化とのよって組み合わせの自由と豊かさを獲得するのである。

B)論理学とは何についての形式化なのだろうか?
 数学の歴史において形式化された理論は、もともと直観的なものであり、そこから形式的なものに向かったのである。ところが、論理学では公理化された体系が、どんな仕方で、絶対的なはじまりを含んでいるのかを、うまく見とることはできない。この問題の解決法は二つある。

●解決法1…論理学が、「任意の対象についての物理学」という意味で、対象認
識の公理化だと仮定すること。
→物理的対象は、時間の中に置かれ、たえず変化する
→だから、物理的対象の論理について語るとき、変化する物質的対象は問題ではなく、任意の対象に対して為される活動が、まさに問題となるのである。
→主体の側から研究しようとすると、公理は純粋形式から、分析的特性や同語反復的特性を取り出すにとどまる。
→だから、活動のシェマの共応の論理が必要。
 つまり、対象を認識しようとしても、その対象は代わり続ける。だから。純粋な意味のでの対象は存在しない。だから、ピアジェは論理学における認識も相互作用であると主張しているのである。

●解決策2…ドグマへの批判の正当性
 認識は分析判断と総合判断に分けることができる。そして、分析的的なものと総合的なものの間には、中間的なものも存在する。だから、一般的に、総合的な認識が抽象化され分析的な認識になると考えがちである。
 総合的なもの → 中間的なもの → 分析的なもの
 しかし、はじめから物理的経験(対象から引き出された抽象=総合)と論理数学的経験(反省的抽象=分析)を分離することができるのではないだろうか。こう考えることによって、認識は一方向の発達だけではなく、重層構造を持っていることが分かる。

 論理学があるものの形式化だとしても、対象すべての形式化ではないのである。形式化に使われるロジックの正当性自体が、歴史の過程でも、発生の過程でも変化するのである。そして、人間は新しい問題を解くとき彼の操作をつかって「なす」ことができるものについて、構造を再構成しようとしている。だから、一部分だけを形式化しているのである。

C)なぜ形式化がゲーデル(注1)が示した意味で、限界にぶつかるのだろうか?
 どんなに強い形式構造の構成でも、それに先立つ構造のあとをたどることしかできないし、その構造の最下部は最も弱い構造なのである。だから、構造の体系は、その最も弱い基盤の上に立てられた静的ピラミッドのようなものではなくて、高さにおいて無限にひろがっていくラセン状階段のようなものなのである。

●形式の概念と内容の概念とは、本質的に相対的なものであり、したがって、形式はまたは形式的構造は、完全な自立性を獲得することができないであろう。(P100)
 つまり、完全な客観は存在しない。存在するのは、形式の概念と内容の概念の相互作用なのである。この相互作用、そしてラセン状階段全体が、ピアジェのいう構造であり、またシェマと言うものではないだろうか?

●とするならば、形式は必然的に限られたものでありつづけるということ、つまり、形式はいっそう広い形式の中に統合されていることなしにはそれは固有の強固さを確保することができないということがわかる。というのは、形式の存在そのものが、構成全体に従属し続けるからだ。(P101)
以上のようになり、形式的な存在そのものが構成全体(=相互作用)に従属することになるのである。

●要するに、以上のいくつかの考察は、次ことを十分に示している。すなわち、論理学の認識論の主要問題の論議は(明らかに精神発達と何のかかわりもないような、定理の論証における論理学者の技術そのものから、注意深く区別するとき、)発生的考察に分け前をあたえることによって、価値を失うどころか、時には価値を増すこともありうるのである。(P102)

(注1) ゲーデル…不完全性定理で有名。不完全性定理とは「形式化された数学には、そのうちに自然数論が含まれているならば、証明することも、その否定を証明することも共にできない命題が必ず存在する」ということ。つまり、「一つの公理系の中で、その公理系の正しさを証明することは不可能である」ということなのである。ゲーデルは不完全定理によって数学理論における形式化の限界を指摘したが、物理学でも不確定性定理という限界にぶつかった(→ハイゼンベルク参照)。20世紀の前半はそのような時代だったのである。
 

『数学の認識論』
A)なぜ数学は、比較的貧弱な、少数の概念や公理から出発しながら限りなく実り豊かなのであろうか。
 基本的に数学の業績によってたえずつくり出される新しいことがらは、発見でもなく、発明でもない。なぜなら、仮に二つの数x,yが設定されたとしても、その二つ数から生み出されるものは、その二つの数によって定義されているからである。
 しかし、数学には無限に操作を導入する可能性を秘めており、その可能性に置いて数学上の発見が存在する。だから、数学全体は、構造の構成という用語であらわされうるし、こういう構成は無限に開かれたままになっているのである。

●そして、こういう「存在」についておこなう操作が、次には理論の対象となるといったぐあいに、より強い構造によって、交互に構造化したり構造化されたりする構造にまでいたるのだ。だから、すべてが段階に応じて、一つの「存在」になりうるし、したがって、すべてが一(のc)ですでに示した形式と内容の相対性に属するのである。(P105〜106)

B)なぜ数学は、無理的なものの起源ともなっているような構成的な性格をもっているにもかかわらず、必然的なやり方を身に引き受け、したがってつねに厳密であるつづけるのだろうか?
 前項によると、人間は操作に操作を重ねることによって、数学を実り豊かなものにしていくことになる。しかし、数学が実り豊かになり、多様になるにしたがって、人間の理性を越える存在となっていくのである。だから人間は「無理的な」操作を導入することになる。そしてこの「無理的な」操作は、数学が多様になるに従って増える一方なのである。
 すると、数学の多様性と厳密性の間に反比例が生まれることとなる、つまり、多様性を尊ぶなら厳密性は程々になるし、厳密性を尊ぶなら多様性は程々になるのである(この辺、ハイゼンベルクの不確定制定利を引用したい)。認識が発生し、それから以後、多様性と厳密性が平行して進んでいくというところが数学のおもしろさでもあるのである。
 しかし、この問題に対しても、ピアジェは「本質的に多様性と厳密性は矛盾しない」という。まず、ピアジェはクールノを引用し、証明には二つのケースがあることを指摘しする。

1)論理的な証明…論理的証明:結論は既に前提の中に含まれている。
2)証明すべき結果の「理由」を提供する証明…証明すべき結果の理由を提供する証明:結論へと導く一種の合成法則を引き出す。構成性と厳密性を調和させる。

つまり、同じ数学の証明をするにしても、反省的抽象を伴う2番の証明は、多様性と厳密性を調和させるというのである。

●要するに、構造の多様化が、実り豊かさを証明するとするなら、その構造の内的な合成法則や外的な合成法則は、構造の自己制御から生じる閉鎖性という事実だけで、構造の必然性を保証しているのである。(P109)
 つまり構造の多様化と実り豊かさは、構造が閉鎖しているという事実だけで十分なのである。構造が閉鎖しているといっても、もちろん構造間の相互浸透性はありますし、構造は多重的なものである。だから、閉鎖した構造が複数あると考えるとピアジェの思想が見えこない。そして、構造が一つの構造として閉鎖的であれ、その構造化によってレベル分けすることた必要である。
・弱く構造化されている類:ある部分の性質から他の部分の性質へと移行することのできる合成法則が存在しないような類
・強く構造化されている類:うまく調整された変換を含む類弱い構造とは「十分にネットワーク化されていない構造」と考えるとわかりやすい。つまり、ものはものとして存在するのだが、形式操作をするためのネットワークが張られていないということである。

C)なぜ数学は、まったく演繹的な性格をもっているのに、経験とか物理的現実とかに一致するのだろうか?
 数学と実在の関係を見てみると、数学的演繹により発見され、その後実在が確認されることが多々ある。
→すなわち、基礎的構造が、活動の一般的共応から生じ、その共応が身体的共応から生じるとしても、すでにのべたように、その源に達するためには、有機的・生物物理的共応にまでさかのぼらなければならない。だから、主体の捜査と対象の構造との結びつきは、演繹と外的経験との出会いによって確認されうる前に、生物内部そのものに求められなければならない。(P111)
 ところで、この引用の中にある有機的・生物物理的共応の段階にさかのぼる、つまり発生の段階までさかのぼるまでには以下の構造を通り抜けなければならない。
有機的・生物物理的共応 → 再構成の系列、反省的抽象の系列 → 精神の形式操作
論理数学的構造の特徴は、この下位構造(有機的・生物物理的共応)を統合しつつ越えていくことにあるのである。はじめの不完全性は、初期の狭い形式に基づいているのである。

●主体が推論の同時に経験を可能にするようになるとき、演繹だけに向かう数学と経験の詳細な所与との間の相互関係は何から成り立つのかということを、理解する問題がのこっている。(P112)
 それでは、論理数学的経験と具体的な経験の相互関係はいったいどうなっているのだろうか?まずは、論理数学的経験がどのようにして獲得されるのかを押さえる。
<<論理数学的経験のよみとり>>
・対象の中に導入された特性にのみ基づいている
→内面化された活動が、シンボル的、演繹的に行われる
・基礎形態→多様な操作構造:この一致が保証されている
・だからどんな物理的経験も、それらの構造に矛盾することはありえない、なぜなら、対象の特性ではなく、活動ないし操作の特性に基づいているからである。
 そして、実験物理学、経験的な理論物理学(具体的な経験)と純粋に演繹的な方法で再構成する数学的物理学の折衷は、発生の場面で見ることができるのである。
 

『物理学の認識論』
1)作用、反作用
 物理学には作用、反作用という言葉がある。もともと作用という言葉は自分自身の作用(活動)から生まれるため、主観的な概念である。しかし、作用は対象そのもの(客観)にも付与されるのである。このように、対象に作用を付与するという考え方は、脱中心化が始まって初めてから生まれてくる考え方なのである。だから、前操作的思考の第一段階までの幼児には反作用という考え方はないのである。
●そこにこそ、発生と科学的思考そのものの発展との間での、非常に一時的な次元における新しい一致が存在するからである。(P120)

2)因果性と合法性
 因果性…観察不能、ただ演繹されるにすぎない、構造を引き出す、対象が存在することを要求
 合法性…観察可能、現象面に止まっている
 合法性は観察可能であるが、登録されるためには、すでに操作を必要とする。
つまり、完全に客観的な合法性というものはない。絶えず、客観に対して主観のフィルターがかかっていることになるのである。
●純粋に観察可能なものは、たとえ移動とか状態の変化とかだけから成るものであっても、これを読みとるときから、すでに多様な関係によって構造化されている。(P122)
→一言でいえば、物理学的事実は、それが確認されるとき以来、論理数学的枠組の仲介によってのみ接近できる。(P122)
 因果性は合法性とはまったくの別物である。因果性は常に論理数学的操作と対象の作用との間に相互作用を含んでいる。法則を説明するということは、ほかのものから出発して、確実なものを演繹し、一つの構造を引き出すことなのである。また、因果性をつかむためにモデルが導入されるが、モデルは主体が構造の変換によって、錯綜した関係や法則の中で自己を見出すことができる限りにおいて、そしてその構造的変換が事物の中で生じる客観的・現実的変換に対して実際的かつ物質的に対応するかぎりにおいてのみ、その役割を果たすことができるのである。

3)客観性とは?
●客観性とは、何よりもまず一つの過程であって、状態なのではない。そしてそれは、無限の近似による困難な獲得を示してすらいる(P126)
 このことが成立するには二つの条件がある。
1)脱中心化
 脱中心化は、次々と生まれる操作構造に主体を共応させることにおいてのみ獲得される。
2)近似による再構成
 しかし、対象(操作構造)は主体の活動を通さなければ認識されない。だからこの点に一つの限界があるのである。
 だから、客観性とはネットワークの中でしか存在し得ないのである。客観的構造は発見される前に既に存在しているといえる。ただ、主体との間にネットワークが構築されない限り、再構成されない限り、客観的構造として認められないのである。ネットワークを張ると言うことは、実在内への論理数学的構造を挿入することである。そして、発見されたときには、すでに主観のフィルターがかかっている。だから、主体も客体もネットワークによって支えられているのである。(この辺の所はルーマンと似ている。以前、松原君がプレゼン準備のためにメールをくれましたが、松原君もこの辺に気づかれたのでしょう)

      ─────脱中心化────→
主体                    客体
      ←──近似による再構成───
 

『構成主義と新しいものの創造』

1)世界とは?
 この章のAは、『物理学の認識』の中の、「3)客観性とは」と絡めて考える
と理解しやすい。従って説明は省く。
●物理学が未完成だとしても、私たちの宇宙そのものは、一層未完成なのだ
→こういう分野では、可能性は、いったん実現されたものをさかのぼることによってのみ、確かな仕方で認識されるのだし、この実現は、環境という偶発的な状況との必然的な相互作用を含んでいる。(P133)
→新しいことがらは、新しいと同時に必然的であると考えている認識とはことなり、新しいものとして認識されることはいっそう容易である。
→組み合わせの予定について語るのは、あまり意味のないことだ。
→そして能動的に探求されるある種の接近以前には、知られてもいなかったし演繹することさえできなかった対象によって、その組み合わせは私たちを豊かにするのである。(P134)
 

2)数学者の発明とは?
●そこで、問題は次のようになる。数学者が一連の新しい可能性を開く発明をおこなうとき、
1)それは次々の世代の研究者の人間的・時間的仕事にもとづく主体的ないし歴史的・発生的な一つの挿話にすぎないのだろうか?
2)それとも、以前のものの中に含まれない可能性という区別された集合に、一定水準での可能性全体を結びつける現実が、問題となっているのだろうか?(P136)
 つまり数学者の研究が、歴史的な一段階に過ぎないものなのか、それとも、可能性全体に結びつけるものなのか、ということである。明確には答えていないが、もちろんピアジェは後者の方を想定している。一連の可能性は、階梯化された層によって、構造に対応する。そして、ある層から他の層へのそれぞれの移行が、新しい可能性を開いている。
 

3)還元主義への警告

 ピアジェの業績は認識を経験論でもなく、生得論でもなく、発生的な相互作用に見たことにある。これまでの近代科学の手法に対して、強力なアンチテーゼとなるであろう。なぜなら、主体と客体の間に一方事の還元はないからである。たとえば、異なる水準での二つの構造の間には、一方向への還元は存在せず、相互の同化が存在するのである。以下には、ピアジェの還元主義への警告が明確に現れている箇所を引証しておく。

●もし、還元主義の仮説が基礎づけられたなら、その仮説は、さきほど喚起した意味でのあらゆる構成主義を排除することとなるのは明らかだ。低次のものを高次のものへ従属させるばあい(生気論など)も、同様だ。両方のばあいとも、すべての「新しい」構造は、一方ではより単純なものの中で、他方では複雑なものの中で、あらかじめつくられたものとして考察しなければならないだろう。新しいということは、あらかじめ存在するつながりがうまく顕在化するにいたったということにすぎないからだ。反対に、還元主義への反発は、構成主義に訴えざるを得なくなる。(P145)

●一言でいうと、新しい構造の構成には、潜在的力が構成要素であるような一般的過程を特徴づけているように見える。その潜在的力を、接近方法に帰することはできないのである。現実の科学の分野での因果的還元主義の失敗から、形式化の限界についておよび論理構造と高次の構造との関係についての演繹的還元主義の失敗にいたるまで、いたるところに、前成を含む統合的演繹の理想の破産を人々は目撃している。これはだんだんと明白になっていく構成主義のためである。(P146〜147)
 


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