『科学革命の構造』

トマス・クーン著 中山茂訳 みすず書房

担当者:上野山・江西・鈴木・西澤


▼1 変則性について/革新はいかにして生まれるか   

●上野山
P59「発見と発明の間、つまり事実と理論の間の違いは、きわめて人為的なものである。・・発見は、変則性に気付くこと、つまり自然が通常科学に共通したパラダイムから生ずる予測を破ることから始まる。次にその変則性のある場所を広く探策することになる。そしてパラダイム理論を修正して、変則性も予測できるようになってこの仕事は終わる。新しい種類の事実を理論の中に含めることは、その理論の単なる修正以上の意味を持つ。その修正が出来上がるまでは――つまり科学者が自然を以前とは違った見方で見られるようになるまでは――新しい事実は、まだ科学的事実では全くないのである」

◆ どのようにして変則性に気づくのか。 *トランプカードの例(p70)

p70「観測的認識と概念的認識とがともに、徐々に同時に起こってくること」

◆ はじめは既存のパラダイムのもとで習得された見方では見落としていた現象が、何回も繰り返して観測を行っていくうちに、そこに何かがあると気づかせるような事態が生じる。そのとき科学者はそれに対して試験的な仮説を立てるわけであるが、その理論が繰り返される実験を通して信頼のおけるものとなった時に、科学者集団にとって新しい理論として受け入れ、それが革新への道を開くことになる。

p62「新しい種類の現象を発見するということは、きわめて複雑な事象であって、あるものが存在することと、それが何であるかということと、その両方の認識が含まれるからである」
 

●江西
P71「科学では・・・革新的なものは、予測に反するという困難の中から抵抗を受けながら、やっとあらわれてくる」P72「変則性に気が付くと、初めから変則的なものが予測されるように、概念のカテゴリーを適応させる努力をする期間が生じる。・・・その過程を認識すれば、通常科学は、それ自体革新に導くものではなく、むしろ始めは抑圧するよう努めるものであるが、なぜ革新を引き起こすのに有効に働くかがついに見えはじめる」 

※抵抗、抑圧・・・フロイトの精神分析学的概念と同様の意味でもちいられている?フロイト「精神分析学入門」によれば、個人が、無意識的願望を、夢や現実において昇華し、もとの願望を意識の中でもとに戻さないでいることを「抵抗」、そして、その願望を無意識に抑えつける主体の行動を「抑圧」と呼ぶ。(『精神分析学入門』世界の名著 P206-207,359- )

P73「変則性はパラダイムによって与えられた基盤に対してのみ現れてくる。そのパラダイムがより正確で、より徹底したものであればあるほど、変則性をより敏感に示すことになり、そしてそこからパラダイムの変更に導くのである・・・既成のパラダイムはそう簡単に降参することはないことが保証されているから、科学者達はちょっとのことで動揺することはないし、(いざ)パラダイムの変更に導く変則性が一度生じれば、既存知識の核心にまで及ぶ」

◆ ある科学のパラダイムにおいて、科学者集団が特定の思考方法をもって一致させようとするものであるが故に、変則性(法則に絶対的にあてはまらない事実、例外)は必ずあるが、はじめは誰にも意識されない。ここでいう変則性は、既存のパラダイムにあてはめることが可能で、実質そのパラダイムの変革までに至らないものである。


▼2 通常科学はどのようなときに危機に陥るのだろうか。
    (危機とは何か。変則性との違いは。危機から何が起こるのか。)

P75「変則性に気付くことが新しい種類の現象の出現に一つの役割を演ずるとするなら、その変則性をより深く認識することが、理論の変革への前提となることは当然であろう」

P76「変則性の認識は長く続き深く浸透していて、その分野は危機的状態にあったと表現できる。新しい理論の出現というものは、大規模なパラダイムの破壊と、通常科学の問題やテクニックに大きな変更を必要とするものであるゆえに、普通、研究者の間に不安定な状態が先行するものである」

P86-87「危機の意義は、道具立てを変える機会がついに到来したことを示す指標を与えることにある」

P90「危機はいろいろなパラダイムの変種を誘発することによって、通常科学のパズルのルールを緩め、最後には新しいパラダイムの出現の道を拓く」

◆ 通常科学が安定している時、パラダイムがその骨組みをつくり、科学の発展という建築物が建ちはじめる。だが、微震や余震が続いて、あちこちで建物が壊れはじめると、全ての建物の骨組みの組み立て方を変える向きになる。パラダイムの危機とは、直接的に科学者達が、強固だったパラダイムを手放していくきっかけを造るものとして、クーンは注目している。


▼3 通常科学とは何か。(できれば「パズル」にも言及してください)

◆ 出題意図:「通常科学」概念は、クーンの社会科学的分析でよく使われる基本概念

P12「本書で「通常科学」という場合は、特定の科学者集団が一定期間、一定の過去の科学的業績を受け入れ、それを基礎として進行させる研究を意味している。」

P41「パラダイムが受け入れられれば、その問題には解があるとみなしてよいのだ。科学集団が科学的だと認め、取り組むことを進めるような問題は、ほぼこのような問題に限られている。」

P46-47「この一連の概念、理論、装置、方法論で織りなされた強い立場の選択が存在するからこそ、通常科学とパズル解きを類比できるのである」「通常科学の道は、かなりはっきりとつけられているが、必ずしもルールによって完全に決められている必要はない」


▼4 異常科学とは何か  

●上野山
P87「理論に合わないことを、科学哲学用語で反証例というが、彼らはそれを反証とみなしたがらない」

なぜなら、彼らが通常科学において行うことは、「パラダイムによってすでに与えられている現象や理論を磨き上げる」(p6)ことであって、もしその「鋳型」に当てはめることができない現象が起こっても、・それをなんとか既存のパラダイムのもとで解こうとするか、・将来解き得るものとしてそのときはそのまま放置される、からである。

 そして・においてさまざまな解答が生まれることになる。なぜなら既存のパラダイム内で考え得るあらゆる方法を用いて、その変則性に対して答えを与えようとするからである。そのとき、彼らの間で、その前提となるパラダイムについての解釈はもはや一致を見なくなる。

P91「通常科学は常に理論と事実をできるだけ一致させるようにつとめるものであり、そのやり方は、確認するか虚偽性を立証するか、問いう方法でテストされるものだとみなされている。ところがその目的とするのは、問題を解くことであって、その問題が存在するためにはパラダイムが正しいことが前提とされねばならない」

●江西
P94「変則性が単なる通常科学上の問題以上に見えるようになった時に、危機から更に通常科学へと移行が始まる」

P96「危機にあるパラダイムから新しいものへ移る移り行きは・・・古いパラダイムの整備と拡張で得られる累積的な過程とははるかに隔たっている・・・その移行期間の間は、新旧のパラダイムでともに解ける問題がかなり重なりあうものである。しかし解答の仕方には決定的な差異がある。」

◆ 異常科学を分析するのは、歴史家にとって冒険のようである。クーンの分析によれば、異常科学のときは、通常科学のパズルをいじるだけでなく、いろいろな可能性を徹底的に模索して「やみくもの研究」が行われる。そこでは、科学的なものとされない傾向にある哲学的分析も行われる。そのとき、既存のパラダイムの強固さは飲み込まれやすい形にほぐれていく。(くコ:彡)P98-101


▼5 パラダイムとは何か

●鈴木
社会科学的にみたパラダイム。

「これはグループの共有する立場の採用の一部」(p.213)

「見本例(exemplars)」(p.213)

「すべての分野にわたって概観すれば、科学というものはその構成分子の間に密接な結合のない、がたがたした構造をしているのである。」(p.55)

「専門分化されてくると、量子力学の基本原理に関わる物理学者はごく僅かになってしまう。〜量子力学が彼らに意味するものは、各自の選んだ学課目、読んだ教科書、研究する学術雑誌によってちがう。だから量子力学の法則が変わることは、あらゆるグループの人にとって革命的であっても、量子力学のパラダイム適用に現れる変化は、ごく特殊な小グループにとってのみ革命的となる。」(p.57)

「いかなる種類の科学の発展においても、はじめパラダイムが受け入れられると、その学問の専門家たちにはおなじみになっている観測や実験の大部分が、きわめてうまく説明できるものと普通みなされる。そしてさらに進んでゆくと、精巧な装置ができ、専門家仲間にしか通用しない用語や特殊な技術を発展させ、ますます常識とかけはなれた概念の精密化を要求することになる。」(p.72)

「パラダイムがより正確で、より徹底したものであればあるほど、変則性をより敏感に示すことになり、そしてそこからパラダイム変更に導くのである。」(p.73)

●上野山
<認識論とパラダイム>

p146「網膜上の映像や特定の研究室の操作の結果についての問題は、常に妥当で、時には非常に実り豊かなものであるが、すでに知覚的に概念的に何らかの方法で分割された世界を前提とする」

◆ 科学者が世界を観る見方というのは、パラダイムから導かれた概念や法則を習得する過程で、ある程度規定されたものとなる。そのパラダイムを共有する科学者集団の下において、パラダイムが対象とする世界について通常研究を行う場合には彼の視点は有効に働く。なぜなら彼が受け取るのは、すでに規定された世界についてのデータであるから、彼はそれを用いて実験操作や測定に集中することができるのである。
 

●江西
定義:序論からP12「一つには、彼らの業績が、他の対立競争する科学研究活動を棄てて、それを支持しようとする特に熱心なグループを集めるほど、前例のないユニークさを持っていたからであり、今一つにはその業績を中心として再構成された研究グループに解決すべきあらゆる種類の問題を提示してくれているからである。これらの2つの性格をもつ業績を、私は以下では『パラダイム』と呼ぶことにする」

◆ パラダイムをみる方法※。・心理学的見地P74「(パラダイム変革の原因になる)発見にまつわる変革は、建設的であると同時に破壊的でもあった」

◆ クーンいわく、破壊と建設のパラダイム変革の源泉は、発見だけでなく「自然」と同一であるはずの研究方法によって、予定された答が返ってこない場合(「難点」※)にも認められる。

※よく出てくる表現:自然観が導き出せるのではないか?P93「パラダイムと自然を一致させようとすればどこか難点があるものである」P34「理論と自然界の接触点に現れる大きな難点を取り除く」

◆ 前者は通常科学における科学者集団のぶつかる困難(変則性、危機参照)、後者は科学者集団の目的を示すと思われる

比較:エロスとタナトス「エロスの目的は次第に大きくなってゆく統一体を作り出し、これを維持・継続すること、すなわち結合であり、ほかの本能の目的は、反対に結合を解消し、事物を破壊するにある」原典による心理学入門 P547

・認識論的見地P132「パラダイム変革に伴う科学的知覚の転換のほかの多くの例に、すでにわれわれは出会っていることを直ちに気付くであろう」

◆ 知覚のゲシュタルトの切り換えについては、P125〜「第10章 世界観の変革としての革命」に記述が詳しい


▼6 
P47「だから本書のはじめで、通常科学の伝統の中では、ルール、過程、見解が統一されているというよりも、共通したパラダイムを持つ、と私はした。ルールはパラダイムから得られるが、パラダイムはルールがなくとも研究を導き得る」のはなぜか?

(「しっかりしたルールの体系がないのなら、特定の通常科学の伝統に科学者を結びつけるものはいったい何であろうか。」p.50)

 パズルときと通常科学の関係からわかるのは、答えが最初から予想され、一つに定まっているという目的論的な発想をなおも通常科学世界がもっているということを指摘したものであった。ここでルールと通常科学の関係が取りざたされる。つまり、その関係は、ルールがあれば、パラダイムは生まれるかという問題である。クーンが引用しているヴィットゲンシュタインの議論によれば、パズルときに用いる言語体系が重要であり、それと比べれば、ルールはそれほどの重要性は帯びてこない。以下

「 ・・・(しかし)ヴィットゲンシュタインは、我々が言語を用いるやり方やそれを当てはめる世界を与えれば、そのような一連の特性は必要がないと結論した。「多数」のゲームとか椅子とか木の葉に共通した「いくつかの」属性を論じることが、その言葉の使い方を学ぶ上に役に立つことがあるけれども、その部類の全てに、しかもその全てだけに同時に当てはまる一組の特性というものは存在しない。むしろこれまで観察されたことのない活動に直面して、「いま」見ていることが、これまで「ゲーム」という名前で呼ぶ慣わしであった多数の活動とのあいだに密接な「家族的類似性」を認めるから、ゲームという言葉を使うのである。要するに、ヴィットゲンシュタインにとって多数のゲームとか椅子とか木の葉は、自然の家族であり、それぞれ多少の食い違いはあろうが似たもの同士を構成する。このような類似性が存在するからこそ、それぞれ対応する対象や活動をうまく同定できるのだ。ただ我々の名づけた家族が互いに重なり、まただんだん融合する場合にのみ―つまり「自然の」家族が存在しないときにのみ― 、同定や命名の成功が、我々の用いる部類の名前のおのおのに対応した一連の共通の性格があることの証拠を与えるのであろう。」p.51

 パラダイムの分析によれば、パラダイムには共通の属性があるととってしまう。しかし一つの言語体系の中でで複数の対象及び現象に属性ができたとしても、複数にわたる異言語体系からは、共通の属性を抽出することはできない(シニフィアンとシニフィエ:表現されたものと表現内容の差異)。そうではなくて、科学活動そのものが自己中心化するときに用いる活動に結びつけた現象界のネットワーク(家族的類似性をもった自然の家族)は名前を与えられることにあり、そのことによって、扱える(同定)できるときに起こる。同時に、人間は自然を切り取り、人間中心の中で自然を人工ペットのごとく扱うことができる。勿論、ここには、人間による人間の教育による側面も大きな寄与を果たしていると思われる。<意味づけの方向からのクーン解釈>

参考「・・・刺激を感覚に変換する神経作用の中に込められているものは、次のような性質を持つ。それは教育を通して獲得される。それは、歴史の上でのそのグループの周辺に立ち現れた競争者よりも、より有効にテストされ、見いだされたものである。そして、最後に、それより一層の教育を通じて、また、環境との不適合の発見を通して、変化を受けるものである。・・・我々は、知っているとは何か、ということに直接関与できないし、この知識を表現するルールや一般化にも関係できない。知ることは何であるかを示すルールは、刺激とは関係するが、感覚には関係しない。そして、刺激は洗練された理論を通してのみ、我々の知り得るものである。その洗練された理論がないのだから、刺激から感覚に至るルートの上に置かれた知識は、言葉で表現されない暗黙のものにとどまる。」p.223-224

「通常科学の遂行は、対象や状況を類似性のセットにグループづける見本例から獲得される能力に基づいている。」p.230


▼7 P104「なぜパラダイムの変化が革命と呼ばれるのか」

●上野山
◆ 新しいパラダイムがそれまでのものとはまったく異なった現象(たとえば原子内現象が挙げられるが)を扱うのであれば、既存のパラダイムに対して破壊的な影響を及ぼすことはなく、科学の発展は累積的な様相を見せることになる。 しかし、既存のパラダイムが扱う領域と重なり合う部分をもつパラダイムが受け入れられると、それまで慣行となっていた研究方法や解答基準が一から再構成されることになり、それまでのパラダイムに完全にとってかわることになるからである。

P117「パラダイムは自然に対してだけでなく、それを生み出した既成の科学に対置されるからである。パラダイムはある一定期間成熟した科学者集団が採用する方法、問題領域、解答の基準の源泉となっている。その結果、新しいパラダイムを受け入れることは、それに対応する科学の再定義を伴うことが多い。若干の古い問題は別の科学に追いやられるか、まったく「非科学的」と焼印を押されることにもなる。また、今まで存在しなかった、あるいはつまらないとみなされていた問題が、新しいパラダイムの本に脚光を浴び、科学上の仕事の原型となる。そして問題が代わるに連れて、本当の科学的解答と単なる形而上的思弁や言葉の遊戯、数学遊戯を区別する基準も変わることが多い。科学革命から生じる通常科学の伝統は、今までのものと両立しないだけでなく同一の基準で測れないことも多い」

●江西
P8「新説は、これまでの通常科学の慣例を支配する規則に変更をもたらすからである。」

◆ 革命についてP110「既存の理論が自然界と矛盾する点を解決するために、新理論を提起すれば、新理論が成功するためには、どこか今までのものでは得られない点を予測しなければならない。」P111「1世紀前なら、革命の必然性の論議をこの点でとどめることもできたであろう。しかし今では、そういうわけにいかない。・・・その現在流行の解釈というのは、受け入れられるべき理論の範囲と意味を制限して、同じ自然現象の若干を予測する上で、後に現れる理論と矛盾しないようにするものである」


▼8  P158「革命が目立たない」のはなぜか。11章

◆ 教科書は現在の通常科学の伝統の基礎を示すことによって、現在のパラダイムが扱う問題領域についての情報を系統的に与えることを目的とするので、科学革命が起こるごとにそれまでとはまったく異なった観点から書き直されることになる。したがってそれを受け取る側にとっては、科学が累積的に発展してきたように見えることとなり、パラダイムの交代によって実際に生じた転換についての情報を得ることはない。

P158「しかし、科学の著述の一般的な非歴史的空気や、時には上に論じたような意図的な誤てる再構成と結びつく時、次のような強い印象を与えることになる。つまり、科学は一連の個人的発明や発見によって現状にまで達せたのであり、それら個々の発明や発見を寄せ集めると、近代的な専門的知識の体系を構成する、というものである。科学の仕事のはじめから、科学者達は今日の専門的知識の体系を構成する、というものである。科学の仕事のはじめから、科学者達は今日のパラダイムの中に表現される特定の目標に向かって歩み続けてきた、という意味合いが教科書の表現に込められている」


▼9 ポッパーの虚偽性の立証と通常科学の蓋然的検証は、クーンによれば、結果としては同じ作業をしていることになっているという。ではなぜ同じなのか。

◆ 蓋然性理論は、ある科学理論に対して考え得るあらゆるテストの構成を作り上げるわけであるが、「しかし、そういう構成がいかにして得られるかは予見しがたい」(P164)。なぜならそのとき用いられる中立的観測言語が「科学者が見るものを媒介する網膜上の映像にあわせて作った」(P142)ものであるなら、考え得るテストというものは、それを構成する科学者の経験(あるいは解釈)に左右されざるをえないだろうし、だからこそクーンは「中立的観測言語を導入して機能させるようにする試みは、今や私には絶望的にみえる」と言うのだろう。

  したがって、「科学的、経験的に中立の言語や概念の体系は存在しないなら、それに代わるテストや理論の構成の提案は、何らかのパラダイムに基づく伝統の中から生じるもの」(P164)となる。つまり他の理論と比較する際においても同一のパラダイムにとどまった視点から解釈することとなり、またそれを省みることはない、ということになる。

◆ 虚偽性の立証:その結果が否定的であるが故に、既存の理論の排斥を必然的にもたらすようなテスト

P165「しかし、変則的経験は、虚偽性を立証されたものと同一ではない。私は後者の存在さえも疑うのである。これまで繰り返し強調してきたように、いかなる理論も、ある特定の時点において直面するあらゆるパズルを解けるものではない。また、既に得られた解答も完全なものではない。むしろ、通常科学の特徴たる多くのパズルが生じるのは、既存のデータと理論の適合が不完全だからである」

→その不完全性をパズルと見るか、あるいは反証例と見るかはパラダイムによって異なる。

P87「理論に合わないことを、科学哲学用語で反証例というが、彼らはそれを反証とみなしたがらない」 

P90「パズルと反証例の間に、はっきりした区別があるわけではない。むしろ危機はいろいろなパラダイムの変種を誘発することによって、通常科学のパズルのルールをゆるめ、最後には新しいパラダイム出現の道を開くのである」

◆つまりどちらも自らの枠の中で事実と理論の一致を目指すわけであるが、その検証を行うための視点は同一パラダイム内にとどまるため、前提を問うための問いもまた、その前提によって規定されたものとなる。したがってP166「全ての歴史的に意義ある理論は、事実と一致するものであるが、ただその程度が問題なのである」ということになり、P166「2つの現実的に対立する理論のどちらが事実によりよく適合するか、ということには大きな意味がある」ということになる。
 

※※P164「一つの蓋然性理論は、ある科学理論を同じ一連の観測データの適合すると考えられる他の理論と比較すべきだ、とする。また、与えられた科学理論が合格すべきであると考えられるあらゆるテストの構成を創造して、作り上げよと主張するものもある」

P164「検証は、自然淘汰のようなものである。それは特定の歴史的状態の中で、現実のいろいろな可能性の間からもっとも有望なものをつまみ出す」

「カール・R・ポッパーは、ファルシフィケーション(虚偽性の立証)、つまり、その結果が否定的であるが故に、既存の理論の排斥を必然的にもたらすようなテストの重要性を強調する。虚偽性の立証に帰せられる役割は明らかに、本書で、変則的経験、つまり危機を呼び起こして新しい理論への道を準備する経験に帰せられるものによく似ている。」p.165

「しかし、変則的経験は、虚偽性を立証されたものと同一ではない。私は後者の存在さえも疑うのである。これまで繰り返し強調してきたように、いかなる理論も、ある特定の時点において直面するあらゆるパズルを解けるものではない。また、既に得られた解答も完全なものではない。むしろ、通常科学の特徴たる多くのパズルが生じるのは、既存のデータと理論の適合が不完全だからである。適合しないことが理論を排斥する根拠であるなら、いかなる時代のいかなる理論も全て排斥さるべきである。一方、ただ重大な不適合だけが理論の排斥を正当化するものであれば、ポッパー派は、「非蓋然性」もしくは「虚偽性の度合」のある基準を設ける必要があるだろう。それを展開するためには、ポッパー派は、必ずや色々な蓋然性検証理論の主張者の前に立ちふさがったのと同じ難点に遭遇することになるだろう。」p.165


▼考えてねの問題▲ 
P1 「このような書物の目的とするところは、押しつけ的であり、『先生』的であるのはやむをえない。」とあるが、ではどうあるべきなのか。

◆ まず、「押しつけ的であり、『先生』的である」とは、「ちょうど一国の文化像を観光用パンフレットや会話のテキストから描こうとするようなもの」とある。では、「押しつけ的であり、『先生』的である」のはなぜであろうか。 これは、科学者の教育に、理論などを重要視するのではなく、練習問題に応用して理解するという性格がある。

「科学者は決して概念や法則や理論を抽象的なものとして、それ自身として学ぶものでないことは、すでに明らかである。」(p.52)「しかし、科学の学生は、理論を教師や教科書の権威において受け入れるのであって、証拠があるからではない。」(p.91)「もし科学者がそのような抽象化を学んだとしても、研究の成功は主として自らの能力によって示される。」(p.53)

◆ これは、自然科学の理論が後から、恣意的につくられるものだからである。#恣意的とは、#「たとえかなり無理をしても、その科学者集団の仮定を護ろうとする#志向」(p.6)や、「理論を自然と直接対比して、その誤りを立証すると#いうふうな、方法論の公式に従うような例は全くありえない」(p.87)

「むしろ、理論は今までの科学の伝統を革命的に再構成するために、事実を伴って、発生するものである。事実を媒介とする科学者と自然との間の関係は、革命の前後では同じものではない。」(p.159)「個人的、歴史的偶然にいろどられた恣意的要素が、常に一時期における一つの科学者集団の所信の形成要素となっている」(p.5)

だから、教科書は押しつけ的になる。

「教科書は、学生に現在の科学界にわかっていることを速く知らせることを目的とするものなるがゆえに、現在の通常科学のいろいろな実験、概念、法則、理論をできるだけ分離して逐条的に扱う。」(p.158)(逐条:箇条・条文を1つ1つ順を追って進むこと。)「学生が知りたいことは、すべてもっと簡潔に、厳密に、系統的に、多数の教科書の中で要約されているのだ」(p.187)

しかし、クーンは、科学は累積的な発展をしないと言っており、

「科学者の訓練は、新しいアプローチを編み出す人間を作るようにはできていない。」(p.187)「しかしそれは、科学の仕事の本質について、学生や素人を誤らせる誤謬(ごびゅう)の歴史の型にやはりはまっている。」(p.160)「教科書は通常科学を永続化させる教育上の武器である」「誤魔化す」(p.154)

と言っていることから、押しつけ的であるべきではないと考えているであろう。


▼考えてねの問題▲ 
専門科学者間の溝と科学の進歩に内在するメカニズムの本質的な関係とは?

◆ クーンは進歩の意味を2つに分けて考えている。一つは通常科学における進歩。つまり研究者がそれぞれ専門的な研究を行うことにより、それまでの理論をより洗練化させる、という意味での進歩(「パズルを発見し、解くより良い道具」P237)。

◆ もう一つは、既存のパラダイムではうまく解くことのできない問題を解決することができるようになると同時に、既存のパラダイムがもっていた問題解決能力の大部分を保持するような革新的進歩を意味する。

◆ 通常科学ではパラダイムからひきだされる理論をより洗練させるための研究が行われるわけだが、各分野があまりにも専門化することによって、専門科学者間の溝が生ずることになる。しかしその際各専門分野で行われる研究は1つ目の意味の進歩を引き起こす。

◆ パラダイムの移行時に科学者はより自然に適合する理論を選択することになり、これが2つ目の意味における進歩を引き起こす。そのとき基準となるのは次の5点である。(p236)

1 予測の精度(理論の精確さ)2 定量的予測の精度3 専門的な問題と日常的な事象との間の均衡(理論の整合性)4 解けた問題の数4 理論の単純性5 広範さ、他の理論との両立性


▼考えてねの問題▲ 科学の本質とは何か。

●上野山
◆ クーンの歴史的な視点は相対主義的であると非難される。 なぜなら彼は科学を、目的論的に「〜へ進化」するものとはしていないからである。したがって、彼はなにか絶対的に正しい理論がある、ということはない。 しかし、通常科学において、科学者は絶対的な確信をもって研究を行う。その確信とは、自然を一つの箱の中に押し込むことができる、ということである。

したがって、p185「科学者は、自分の専門以外の人がどう考えようと気にする必要はないし、だから、俗事を気にせず一つ一つ問題をどしどし片づけてゆくことができる」

このような姿勢が既存のパラダイムを可能な限り洗練させることとなるのである。

●江西
−自然科学者達の世界観−

P2「近年に至って一部の科学史家は、『累積による発展』という科学観に基づいてやっていけないことにだんだん気が付いた」 P3「歴史的研究を行えば、個々の発明、発見を孤立させて捉えることは難しくなるが、同時にこれらの一つ一つの貢献が積み重なっていく累積的過程としての科学の捉え方にも本質的な懐疑を加える根拠を与える」

◆ 理論を追求してきた自然科学者達にとって、自分の則るパラダイムは、限定した意味ではあるが共同性が高いといえる。(科学の発展に大きく寄与する発見・発明というものは、個別に分けては考えられない。科学史の年表を見れば、一見、あらゆる発見・発明が関連をもち、連続しているようである。だが、その連続性は、ある特定の時期だけ、科学者達に通用する前提的な考え方を維持し、彼らに確固とした共通の基盤をなす。)

P72「いかなる種類の科学の発展においても、はじめパラダイムが受け入られると、その学問の専門家達にはおなじみになっている観測や実験の大部分が、きわめてうまく説明できるものと普通みなされる。そしてさらに進んでゆくと・・・ますます常識とはかけはなれた概念の精密化を要求することになる。このように専門化が進んでくると、一方では科学者の視野を非常に制約することになり、これがパラダイムの変革にたいする大きな抵抗となっているのである。その科学は、ますます動脈硬化してくる」

P185「科学者は、彼の持つ価値観と信念を共有する研究者仲間の為にのみ仕事をしているのであるから、彼にとって一つのはっきりした、自明な評価の基準があるのである」

◆ 自然科学者といわれる人々は、伝統的に狭い世界の中で、実践の為の技術革新を請け負う。彼らが責任を負う世界は、大学・学会・研究所など、限られた領域においてのみである。それだけ狭い世界に住む彼らの手によるのに、テクノロジーはなぜ高度に発達するのだろうか。多世界の人と同様、彼らは個人的ないしは研究組織に関する利潤追求をするが、社会一般の利益とは相反しても、何も失う物はなく、社会に無関心になって不思議はない。テクノロジーは、一見社会の合理性向上の為にはたらいているようでいて、実は相互の利害がたまたま一致しているだけなのかもしれない。


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