『現代の科学T・U』

担当者:高島・大木・吉良


マッハ『認識と誤謬』  

◎われわれが満足するためには、経験的所与以上のものであることを必要としない。(p.394下)

 この言葉の論拠を読書案内解答より探ってみると・・・、

「他人の挙動を観察するに際して、実際上の必要性と並んで、私には抗しがたい、したがって私の意図とも違う強い『類推』の働きによって、私の肉体に関連しているのと同様に記憶、希望、恐怖、衝動、欲求、意志が、やはり他の人間や動物の体に結びついていると考えざるを得なくなる。」p.383下

 マッハは、すべてにとって空間に直接的に存在するものの総体を<身体的なもの>とし、ある一人の人間には直接的な所与であるが他のすべてにとっては類推のみにより演繹されるものを<精神的なもの>と置く。この両者を合わせて【狭義の自己】と名づけるが、【狭義の自己】を仮定することは即ち肉体の空間的限界「U」の壁は厳然と存在し、類推された外界の対象そのものを認識単位とすることによって誤謬や錯覚を逃れられないことを意味する。(p.387上)ならばマッハはどうやってそれを乗り越えようとしたのか。

「私の身体的な状況の総体を、現在のところ、さらには分割できない<要素>、すなわち色、音、圧、熱、香り、空間、時間等々に分解することができる。」p.386

 マッハはこれらの要素は「U」の外に存在すると同時に要素の存在は「U」の内に依存すると言う。内と関係性をもったとたんに要素は【感覚】と名付けられる。感覚を認識単位とすれば身体的なものも精神的なものも共通な要素を含むとすることができるため世界の二分法は除去され、世界を自己の中に包含することができる。類推を認識基盤とせずに感覚を認識基盤と仮定した私の精神的なる総体をマッハは【広義における自己】と名づける。感覚を不完全と定義し誤謬に陥らないために設けられた形而上学的な「物自体」を想定することを避けることができる自己概念の科学者的想定である。ただし、世界と自己との対立は消えたものの、肉体の空間的限界は広義の自己の意識の真ん中を貫いている。それではマッハは認識基盤となる<感覚としての要素>をどのように考察するのか。

「われわれの関心を惹きうるものは、これらの要素間の『関数的相互依存関係(数学的な意味における』である。要素間のこの関係を物と呼びたければ呼んでいい。しかしこれは認識不可能ではない物である。」p.388上

「われわれの体験の分析を探し進めて、さしあたりそれを越えて進み得ない要素にまで達することの利点は、主として、その根本を極め得ない物と、また同様に探求し得ない自己の二つの問題を、きわめて単純で見通しのよい形にして、それによって仮象の問題として容易に認識しうるようにすることである。探求しても全く意味のないものを分離することによって、実際に専門科学によって究め得るもの、多様で多面的な諸要素相互の依存関係がますます明瞭に現れてくるのである。・・・ある孤立した自己は、孤立した物同様に存在しない。物と自己は同種の一時的なフィクションである。」 p.389上

 マッハは主体と客体の分化は終わりも始まりもないフィクションであり考察するべきは実体を持たない要素間の関係性であるとする見解はピアジェと共通した見解を持つ。しかし要素間の関係は関数に置き換えられるとする発想や変数としての要素の規定の問題、さらにはそれらをどのように調べてゆくのかという疑問が残る。さしあたりこの問題に対するマッハの答えは、

「幾重にも相互に関連しあう要素の多様性が調べられるとすれば、要素間の依存関係の分析のためにわれわれに残されている使用可能な方法はただ一つ、変異の方法である。すなわち、他のどの要素の変化とも関連したおのおのの要素の変化を観察する以外にはない。その際、それがひとりでに生じたか、われわれの意志でひきおこされたかでは、大した相違はない。この依存関係は<視察と実験>によって調べられる。」p.393下

 その<視察と実験>は自然科学者によって意識され、仕組まれ、方法として本能的に利用されてきた簡便化を携えて行われる。つまり要素間の著明な相互関係の抽出や観察者から実験対象への影響やその逆の影響の一定化を可能とする前提である。(p.393下)要するに、マッハは要素の表象連合的な結合を経験的に検討するという視点を分解したという点、およびそれによって世界と自己との対立を避けられ物理学と心理学を統一科学という名目のもとに一括しようとした点では画期的だったのだが、方法として<視察と実験>を採用することを彼の自然科学者的立場として確保する。彼の立場の表明は以下の言葉となって現れている。

「今日の物理学において慣用の要素(この専門科学においてのみ有効な硬直性をもった)質量と運動で、ある<精神的な>体験を説明する可能性は期待できない。」p.390上

「私の仕事は『哲学的ではなく』、ただ純粋に『方法論的』なものである。しかし充分な経験的基盤の上に本能的に発達してきた日常的な概念、主体、客体、感覚等々を攻撃したり、さらにはこの廃棄さえ意図していると考えられても困るのである。ただこれらの、実際上は充分であっても雲をつかむようなものをもってしては、方法論的には何も始めることはできない。ここではさらに、現にみられるような概念に至ったのは所与の特性相互間の<いかなる>関数的関係によるのかを調べねばならない。これまでに得られた知識は棄てるべきものではなく、これを保持し、<批判的に>活用すべきである。」p.391上


ヒルベルト『公理的思考』

公理:<理論を組み立てるための前提、枠組みを与えてくれるもの>学問を作り上げていく際に、便利な思考方法の提示をして人。数学者。具体的記述については具体的すぎて分からない。一諸科学の家の作り方について。

読書案内

1.「公理的思考」方法によって、彼のどのような企てが見えてきますか。幾何学、数論、静力学等々の既存の諸学問領域における、ヒルベルト彼自身の位置づけを視野に入れて考えてください。

2.彼の体系認識つまりシステム理解とは、どのようなものでしょう。(イデア的)完全なる公理体系というものを念頭において考えていたでしょうか。
 

<仮説・検証主義の強化>新しい、数学的発見がおこれば、直ちにそれを既存の数学的概念体系におさまるようにしなければならない。その数学的発見を説明できる法則を導き出せれば、発見とみなされる。

つまり、次のような手続きになる。発見(仮説段階) →既存の理論の枠組みで説明できるかの検証(理論の持つ公理で説明できるかの検証) → 正しい発見

例えば、「1+1=3」という新しい仮説を立てる。けれども、これを裏付ける公理は存在しないとすると、このことは新しい発見とはならない。これは、矛盾である。

このことは、次のようにも言える。新しい法則の発見は新しい公理の発見であり、結果的に一定の学問領域(概念体系)の基礎を固める役割を果たす。「ここに述べた公理的な方法の取り扱いは、いわば個々の学問領域の土台をより深く沈めることであり、ちょうど家を増築して高くし、しかも安全を期したい場合には、どの家でもこのことが必要になるのと同じである。」(p196下)。このことは、公理は永久不変の法則にはならないのであり、暫定的な仮定として考えることができる。公理自体を実体化するのを避けるため、仮説としたことにより、随時仮定を更新することによって自らの学問領域を拡大して動きが見える。

<自己増殖して行くが、自己完結したシステム>結果的に内部から変革を加えてゆくことで自己再生を行うシステムを形作ることになる。そのシステム自体は矛盾を内包していてはならず、緻密な論理による理論形成を行わなければ、ある学問領域の「家」に入れてもらえない。できることは、家の増築に伴う基礎工事なのであって、家から出たところでする議論は意味を成さないとみなされる.。これは、ある新しい発見を、一定の諸規則に従い構造化してゆく認識の働きに似ている。彼の公理的思考方法を拡大解釈すると「すべての科学的な記述は、若干の統計的要素を含めて数学的・定量的な形式で表現することができるという立場が考えられる。」(20世紀の科学思想、数学言語の普遍性p77)「生物の複雑な機能が相互総合・相互連関性という概念によって表わされる論理的・数学的構造に情報として変換可能である」(同p77)という人間機械論的な考えにつながるだろうし、その了解事項によって、分化した科学は「論理的、数学的記号への変換性」による相互連関が可能な独立領域ということになるだろう。科学を学科に分けられた学問とすることについては、構わないとしたと考えられる。公理的思考を共有することによって、科学者間の認識をつなぐことができるからだ。

このことは、各々の学問領域の研究が究極的には「普遍なるもの」を目指していた19世紀の科学思想とは隔たっている。「これらの基本的命題は、最初の出発点としての学問領域の公理とみなすことができる。こうしてここの学問領域の進歩発展はもっぱら、すでに挙げた概念体系を論理的に仕上げることになる。」(p196)公理への忠誠心は結果的にある一定の学問領域との契約を結ぶことに他ならず、クーンが「通常科学」と指し示す状況に当てはまる。単純化して言ってしまうと、通常科学の状態という一定期間から時間性を排除した考えである。


ノイマン『人工頭脳と自己増殖』

オートマトン=一般には「自働機械」と翻訳されるが、天然の自働機械ーすなわち生物、人間の大脳機能と、人工オートマトン(電子計算機を代表とする)の総称として用いられる。

●ノイマンは電子計算機(人工オートマトン)のデジタル原理を天然オートマトンに導入する。その時、見落とされがちな点、そしてそれに対するノイマンの意見を書いて下さい。また、それらを考察するとき、行動主義心理学(ワトソン、パブロフ)との類似点、共通に抱える問題点も検討して下さい。(P424〜426、P434〜435参照)

 まず、ノイマンは人工オートマトンの代表として電子計算機を出してくる。その電子計算機は二つのシステムを持っていた。・アナログ原理…ある物理量(電圧など)によって数が表される=ブッシュの微分解析機・デジタル原理…数字の寄り集まったもので数を表現する=一般の電子計算機電子計算機は、どのような計算をさせても、かならず正確な計算をするとは限らない。例えば、コンピュータが4桁の数字でしか計算しないのに、5桁の計算をさせようとしたときは、もし計算機が10桁の数しか取り扱わないようにできていると、5桁のうち1桁を無視して仕事をしなければならない(丸めの誤差、四捨五入)。この丸めの誤差も実は数学的に完全に決定されるが、その決定方法はあまりにも複雑なので変数として取り扱うことができる。デジタル方式が重要なのは、絶対的信頼性においてではなく、このあいまいな点においてである。この問題に関しては後に触れることにする。

 さて、ノイマンはこの様な電子計算機の理論が、人間の感覚の基礎単位である、ニューロンやシナプス(=神経構造)に似ているということに気が付いた。ニューロンやシナプスは電気スイッチをON/OFFするように、刺激に対してある一定の以下の反応しかしないのである(P427図参照)。すると、神経のインパルスは、代替において二進数にたとえられる「全か無か」事象となるのである。

 ただし、ノイマンは全てがデジタル原理であるとはいっていない。人間の中にはデジタルメカニズムもあれば、アナログメカニズムもあるのである。それを、承知でノイマンは以下のように発現する。「私は生きた生物のからだにおけるアナログ要素によく気づいてはいるけども、また、アナログ要素の重要性を否定するとすればそれはきわめて不合理であるけれども、議論を簡単にするためにその部分を無視することにする。ここでは、生きた生物体を、純粋にデジタルなオートマトンであると考えることにする」(P426)これを見れば分かるように、ノイマンは高度なデジタル人工オートマトンがそのまま天然のオートマトンとは考えなかった。ノイマンの仕事は「井の中の蛙」的眺望を、天然オートマトンに対して提案することだったのである。
 

●デカルトにおける神の証明は「不完全な私から完全な神という概念が生まれてくるはずがない。だから、神は私とは別に存在しうる」というものでした。ノイマンはこれとは別の考え方を持っています。デカルトとの比較で考えて下さい。(P447〜448参照) また、生物体(=天然オートマトン)は自己再生できていますが、果たして人工体(=人工オートマトン)は自己再生できるのでしょうか?あなたの意見を書いて下さい。

 それまでの科学では「複雑なものから単純なものへ進む」という考え方が一般であった。これはデカルトにおける神の証明とパラレルに考えてもらいたい。だから、19世紀までの科学には元素全体を見通せる元素周期表を明らかにしようとする運動があった。しかし、行き着いたところは、完全な元素周期表を作ることは不可能だという事である。これは、ハイゼンベルクの中でよく現れている。「量子論ではある定まった状態、例えばIS-状態について、電子の位置の確率関数だけをのべうるにすぎない、という点に、ボルンやヨルダンと共に、古典論に対立する、量子論を特色づけるその統計的性格を、認めることができよう ・・・・明らかに『古典論においても』、原子の位相を知らない限り電子のある程度定まった位置の確率だけしかのべえない。古典力学と量子学の間の違いは、むしろ、古典的には前述の諸実験を通じて常に確立した位相が考えられうる、というところにある。しかし現実にはそれは不可能である。」(P332)

 これに対して、ノイマンは「生物体は自己を再生する。すなわち、生物体は複雑さがなにも減少していない新しい生物体を再生産する」(P448)と語っている。つまり人間は何世代経ようと、その複雑さは同じである、だから、人工オートマトンでも複雑さを維持することが可能なのではないかというわけである。その自己増殖プロセスは・・・

1)オートマトンA:オートマトンAに対して命令Iを挿入する
2)オートマトンB:与えられた全ての命令のコピーを作る
3)制御機械C:制御機械Cは、オートマトンAに対して命令Iに基づき新しいオートマトンを作らせる。次に、オートマトンBに対して命令Iのコピーを作らせる。そして、オートマトンAに対して、今し方できたばかりの命令iを挿入させる。

 ただし、この理論のアキレス腱は「命令」が誰によって為されるかが不明瞭な点である。当初の命令が存在すれば天然オートマトンは自己増殖することができる。しかし、当初の命令は誰によって為されるのだろうか?また、人間はどうして世界に産み落とされたのか?それを説明するためには、どうしても神の概念が必要になる。

<< 資 料 >>

★ピアジェ「構造主義」より「生命的なものを物理化学的なものに還元する試みは、還元のあらゆる問題と同様に、すでにそれだけでも、構造主義にとっては、教えられることが多い。・・・・(デカルト的機械論に関して)このようにして、二つの主要な事実が、忘れられてしまった、一つは、物理学は累積した上方の加算から生じるのではなくて、新しい発見M、N等は、つねに知識A、B、C等の完全な改造へとみちびくのだという点だ。しかし、将来の未知のことがらX、Y等はまだ残っているのである。もう一つは、電磁気学を力学へと還元するばあいのように、物理学そのものでは、複雑なものから単純なものへの還元の試みが、総合に達するという点である。そこでは、低次なものが高次のものによって豊かにされ、かつ、そこから生じる相互同化は、加法的合成や同一視的合成とは反対に、全体<<構造>>の存在を明らかにしている。(ピアジェ「構造主義」P52)」

★ハイゼンベルクの不確定性定理 電子の位置と運動量を測ろうとして、ガンマ線を当てると、ガンマ線のタイプで反応がちがう。波長が短いがエネルギーが高いガンマ線を電子にぶつけると、ぶつかった瞬間の位置はわかるが、電子自体がエネルギーを受けて早くなるため、電子の運動量が変わってしまう。また、エネルギーは小さいが波長の長いガンマ線を電子にぶつけると、エネルギーが小さいので電子の運動に影響を与えず運動量が測定できるが、なかなか電子にぶつからないので位置が曖昧になる。これを理論にしたおのが不確定性原理である。 不確定性原理を簡単にいってしまうと、位置の不確定性と運動量の不確定性の積はプランク定数に等しいというもの。量子の世界では、量子の位置がわかると運動量がわからない、運動量がわかると位置がわからない。この位置と運動量をかけたものがプランク定数である。

★ハイゼンベルク資料補足「しかしながら、因果律の決定論的な定式、『現在を精確に知れば、未来を算出できる』というのは、(仮定判断における)後件ではなくて、前提が謝っているのである。われわれはその現在をそのあらゆる規定要素について語ることは『不可能』なのである。それゆえ知覚することはすべて、多様な可能性のうちからの一つの選択であり、未来の可能性の一つの制限である。」(P354)


講義録
担当:上野山

 今回は特に19・20世紀の科学のさまざまな分野における営みを概観することによって、それぞれの科学理論を画一的な正しさという視点からではなく、それらが歴史的な文脈の中でどのような位置を占めるのか、あるいはどのような社会的要請の中で生まれてきたものなのかということを考えた。それは同時に近代社会の中で、独立を志向する個人がますます孤立し、他者(あるいは社会)との親密さを失う過程で、いかにして共通の基盤を見出していくか、という営みとして現れていたわけであるが、これまで科学主義批判に関する文献を読み進めてきた中では、そのような営みによって個人は、ますます自己と環境世界との関わりを喪失していくこととなったことを確認した。それは実験にせよ視察にせよ、対象をいかに扱うかという問いが、理論(あるいは公理)によって規定されているとすれば【1】、それに合わないものは見ようともせずに排除してしまう、という態度に結びつくからである。しかし、それでもなんとか共通の認識可能性を求めようとする姿勢【2】は、今回扱った内容ではそれぞれ、感覚としての要素、力動的なエネルギー、暫定的仮説としての公理、アナログに対する指標としてのデジタル的な把握、というところに認められた。そしてそれは同時に、既存の科学における固定化された理論体系では十分に説明できない現象に対して、新たな枠組みのもとでそれを捉え直そうとする試みとして現れていた。また古代アリストテレス以来ヨーロッパにおいてさまざまな議論として行われてきた感覚と知覚、あるいは類推に関する議論【3】は、主体と客体、あるいは認識に関わる問題の歴史的な変遷へと展開される。

【1】理論がそれ自体独立して存在するのではなく、それは科学者の思惟と密接に関わり合っている、という議論がありましたが、それはポパーの以下の個所でも確認しました。
「われわれの純科学的な理想や動機も、純粋な真理探究の理想も、科学外的な、宗教的ともいえる価値判断に深く根差しています」『社会科学の論理』(P.120)

【2】自然科学は、システムの完全な制御(閉じたシステム)を目指して、徹底したデータの絞り込みを行うことにより、OUTPUT だけでなく INPUT をも制御しようとしたのだが、それでもそこには常に不確実性が付きまとっていた。しかしそれが文化産業に至っては、完全に制御されたシステム(=神話)が生み出されることとなった。(『啓蒙の弁証法』第3章参照)

【3】感覚と知覚の違いとしては、前者においてはまず最初に何らかの刺激があって人間はそれに対して完全に受け身であるのに対して、後者においては人間の方からの働きかけが存在する、つまり人間によるデータ処理が行われる、ということがある。


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