担当:江西・大頭・鈴木
【イントロ】
・弁証法と、実証主義的な方法
弁証法は、言語や知覚できない経験、または経験による知覚できない影響や、あるのならば人間の本性といったものの背後には立てないにしても、弁証法論者たちが考える上では、人間が社会学の方法を考えていくうえでは、できるかぎり束縛を受けない方法であるとする。
一方、実証主義的な方法は、仮に、それが虚偽と知りつつではあるにしても、人間によってある基準を作る。そして、その基準の上で話を進めて行くわけで、原理的に、その人間の作った基準と、弁証法論者たちももっているような、人間がそもそも持ってしまうと思われる基準の2つの基準に束縛を受けてしまう。 アドルノが「社会科学の論理によせて」において、ポパーにたいしてポパーの理論を把握した上で、弁証法的にポパーがその土台によって立っているがゆえに、自らでは批判しえないところを、より広く捉えて批判できるとっていたのと同じである。
【1】一に「私はさまざまな吟味手続きの長所と短所とを比較しようとするのではなく、ただ私の諸問題を解明したいのである」(P245)とありますが、ここでハバーマスがアルバートとの違いに言及していることも考慮して「私の諸問題」とは何か答えてください。[P244-246]
ハバーマスとアルバートの共通認識は、どこかで経験が理論に含まれるのは避けられないし、基本的な経験にも必然的に決まりごと(理論)が入ってくるという点である。しかし、その扱いかたが両者で異なっている。それは、目的の違いにも依拠する。それでも基準を決めて話を進めていこうというのが後者で、前者は基準を定めてしまえば本質が見えなくなることを心配する。ハバーマスの関心は、以下の疑問に集約されよう。
「しかし・・・哲学的純潔を王座につけようとするのでなければ、吟味条件のこのような定義によっては言明の経験的妥当性の可能な意味があらかじめ確定されてしまうのではないか」「それによってどのような意味の妥当性が予断されているのか」P244
なぜ、前提(その妥当性)を疑う必要があるのかは、すでに証明されている。「感覚経験が究極的に妥当な明証性をもつという権利主張は、カントがわれわれの知覚のカテゴリー的要素を証明して以来、拒否されている。・・・さまざまな出発点から、無媒介の知なるものは存在しないことを証明したのである」したがって、「知識の源泉はいつもすでに不純化されており、根源への道はわれわれにとって遮られている」P246それに関しては「アルバートはこれらを討議しえない。というのも彼は迷うことなくテストを、経験に即した理論の可能的再吟味一般と同一視するからである」P245
【2】二に「基礎命題は、形式的理論の現実への適用もまたわれわれを一つの循環に陥らせるものであることをわれわれに想い出させる」(P248)とあります。そこでいわれている、われわれの陥りやすい「一つの循環」のプロセスを書いてください。[P248-250]
「理論を観察されたものへと適用するさいに彼らが不可避的にそのなかで動かざるをえない循環」P250
・ポパーの「否定的な存在言明」のわな
「一つの循環」とは、二つに区別をしようとすると、必然的にその二つがそれぞれの前提となって、その結果、根本をとらえられない現象である。また、区別を厳密にしようと言ったところで、完全な区別はありえない。たとえば理論と事実の間にある相関関係。お互いを必要とする。理論を作る前に、妥当性の意見を一致させる必要がある事実もまた、理論に基づいて必要とされるから、結局、分離できない。
(参考までに2例)理論と経験または規則と決断の間の「基礎命題」法則体系と事実でもお互いが前提となるし、一般的法規と評決も同じである。
この「一つの循環」は、のちに詳しく扱われる「メタ理論的究明」の特徴であり、おおもとがわからないという存在論的問題をうむことになる。目に見えるものが本当に「ある」のかどうかわからないうちに、どんどん話を進めれば、仮象や神話化と呼ばれるような、社会の真の姿が偽って表現されることになりかねない。
・「一つの循環」が暗示するもの
「経験可能なものの範囲は、特定のタイプの吟味条件と連関している特定の構造の理論的仮定によって最初から確定されている、と私は考える。経験科学的理論がそれに出合って挫折するかもしれぬ実験的に確認された事実のようなものは、可能的経験についての解釈の事前の連関のなかで、はじめて構成される」P249「合同した活動は予言を制御するという目標に照らして組織され・・・活動規則についての暗黙の事前了解は・・・決断する場合、彼ら(研究者)の討議を導いている」P249
「一つの循環」は、それに陥ることに気づいていないと振り回されることになりかねないが、それに気づけば、普遍と限られた観察との不均衡を構造的に把握できるようになる。「経験科学的理論は、結果を制御された行動を−実現可能で情報として伝えうるかたちで−保証し拡大するという指導的関心のもとで現実を解明する」P250
「科学的情報の真理性についてのわれわれの原理的不確実さは、どのようにして、そのたいていは多様な、そしてまさに持続的な技術利用に合致されるのであろうか。経験的同形性の知識が技術的生産力の中に入りこんで、科学的文明の土台へと転ずる瞬間には、すでにもう日常経験や持続的な結果の制御の明証性は圧倒的なものとなっている。すなわち機能している技術的体系が日毎に新たに獲得している国民投票[信頼]に対しては、論理的疑念は自己を主張しえない・・・われわれがこの前提を放棄し、社会的に制度化された結果の制御というもっとも広義の技術を知識として、まじめに受けとれば、ただちに検証のもう一つの形態が考えられる。それはポパーの疑念を免れており、またわれわれの前科学的経験を正しいものとする。そのとき、結果を制御された行動を導くことができ、しかもこれまで実験的に求められた失敗によって疑問とされることのなかった仮定をすべて、経験的に真なるものであると考えるのである」P251
【3】何が批判として妥当しうると考えているのか。
p258「何が批判として妥当しうるのか、についてはつねに、批判の過程においてはじめて発見され、可能ならば再び訂正される基準に基づいてのみ見出される。これが、最終的基礎づけはできないが、にもかかわらず反省的な自己正当化の循環の中では展開される包括的な合理性の次元なのである。」とあります。
ハバマスはこの3章で、いくつかの批判または演繹的正当化の形態について言っていますが、これらはいくつかに分類できます。
一つは、P253で出てくる「形式論理学における、ヴィトゲンシュタインが言語分析の基礎にすえた命題と事態との二元論」のことで、妥当するかどうかが直接問題にされないレベルで、「演繹的連関の再吟味」とも言います。これは、P253でも「批判とは仮定の留保なき討議である。〜批判は再吟味の方法ではなく、討議としてのこの吟味そのものである。」と言われているように、仮定から結論へと向かうことが前提となっていて、その過程はたんなる再吟味でしかない。つまり確実に予想された範囲の結果がでるというものです。
二つ目は、その演繹的連関の再吟味ではない、ポパーが行う批判的合理主義です。これは、単に仮定から結論へともっていくのではなく、常に厳しい批判にさらし、解決案を暫定的とする方法です。しかし、これも常に「結果をだす」という点においては共通しています。アルバートは3章のはじめに、このレベルにおいて、アルバートは「方法論的連関において経験的論議を放棄せず、したがって研究の論理と知識社会学との禁じられた混同を犯している。」とハバマスを批判していると書かれているのですが、ハバマスは逆に、どんな明確な区別の上でも「形式的言明と経験的言明との非演繹的連関がつくられる」と言います。つまり、どんな批判にも「経験的態度」がはいりこむということを言っています。
そして三つ目は、このハバマスの批判にたいして、アルバートが「要請によって排除できる」としたことに対して、ハバマスが「このような要請がメタ理論的究明の領域にとって正当化されうるかどうかという問題の解明へと討議を導いていきたい」といっているレベルです。つまり、批判の前提にある基準に目をむけます。ハバマスは、アルバートのことを「彼にとっては合理主義がみずからを基礎づけることを断念することによって、あらゆる問題が解決済みになるのだと仮定するように思われる」(P256) と言っています。
「批判的正当化といえるものはまさに、それが、選択された基準と経験的確認とのあいだに一つの非演繹的連関を立て、こうして態度を、この態度からの展望のなかではじめて発見される論証によってもまた、強化あるいは弱化するところに成り立つのである。」
「論証は、それが演繹的体系の再吟味を乗り越えるやいなや、反省的な歩みをはじめる。論証は、適用そのもののなかではじめて反省されることのできる基準を利用する。論証は、それが遂行されるさいに従っている原理を、つねにともに討議にかけるのであり、その点で単純な演繹よりも優れている。その限りでは、批判は可能的批判の枠組み条件に最初から固定されはしないのである。何が批判として妥当しうるのか、についてはつねに、批判の過程においてはじめて発見され、可能ならば再び訂正される基準に基づいてのみ見出される。これが、最終的基礎づけはできないが、にもかかわらず反省的な自己正当化の循環の中では展開される包括的な合理性の次元なのである。」
【4】四の260ページ10行目において、ハバーマスは「ポパーはこの反省を、真理対応理論へと言及することによって中断する」という。それでは、批判(反省)を旨とするはずのポパーが反省を中断するときとはどのような時でしょう。
ポパーは、人間が真理の規定可能な基準を反省によって規定できるものとはしない。つまり、この時点で断念している。
「真理とは何を意味し、あるいはどのような条件のもとである言明は真であると呼ばれうるのかを知ることが、所与の言明が真であるか虚偽であるかを決定する手段ー決定のための基準ーをもつことと同じではなく、そのことから明確に区別されねばならない、ということを悟ることは決定的に重要である」
とポパーはいう。
ポパーが真理の定義を断念することによって、自己を訂正することが可能となる。つまり、これが正しいということができないという状況で、さらに真理性について語ろうとすれば、残された道の一つは、ポパーのように何らかの約束事を仮に決めておいて、それに基づいて訂正を行い続けるというものである。訂正が可能となることによって、テキストの解明を前進させることが可能になる。こうなることで、論理的な連関、関係性が生まれる。
真理の定義の断念によって生まれる解釈のための基準と、基準ができることによって可能となる記述に分裂が起きる。 しかし、ハバーマスは、物事の真理性を吟味するときに、人間は暗黙のうちに基準を形成するための基準を用いてしまっているという。
【5】「二つの戦略と一つの討議」268ページ13行目において、「出発の姿勢がこのようなものであるために、実証主義者たちと弁証法的な思考過程を恥じない人々との討議は悪意に満ちたものになる」とあるが、それでは両者が討議を行うさいに使用する戦略はどのように異なっているだろうか?
ハバーマスは、みずからは「実証主義の背後に立つ」迂回戦略を採りたいという。アルバートによれば、ハバーマスがいう先験的経験の議論を、議論から排除すべきであるといっているらしい。しかし、ハバーマスは、アルバートがそのように主張するさいに、暗黙のうちに行ってしまっている吟味、使用してしまっている基準そのものを討議にかけていることを考慮すると、アルバートの主張は、内在的批判というより、むしろ非難になるという。そこでハバーマスは、彼とアルバートがかみあった議論ができるように、ハバーマスがポパーの思想と実証主義を相対化という方向で、把握していると言明して、お互いに共通に事前了解をおこなって、その周辺で討議を進めようという。
一方で、ハバーマスはアルバートの戦略を、頑固一徹的なものとして性格づける。アルバートの異議は、ハバーマスが「特別にとりあげて」問題にした前提に基づいているらしい。これは、ハバーマスが「分析的科学理論と弁証法」においてたまたま取り上げた問題のみに着目して、ハバーマス自身が本当に着目している問題、その問題にハバーマスが常に着目しているからこそ「分析的科学理論と弁証法」においてアルバートが異議を立てたような特別な問題が出てきたという、ハバーマスにとっての根元的な問題には着目しようとない。さらに、「論敵に自らの言葉を受け入れるよう強いるはず」、つまり相手の言葉を理解しようとせずに、自らの分かる言葉で説明するように強いる戦略は、異なる言葉(弁証法的な言葉と論理的な言葉)を駆使する論敵同士の間で、かみあった討議を行うためにはどうすればいいかを考えるハバーマスにとっては、いつまで経っても討議を始めることができないという結果になる。
【おわりに】
●ハバーマスの弁明
社会科学の方法論について、フランクフルト学派と批判的合理主義に分かれて起こった「実証主義論争」は本当に「論争」と言ってしまってよいものだろうか。両者はもともと目指すものが同じであった(社会とは何か、社会学とは何か)はずが、方法論が異なるために意見の一致がみられない。彼らはお互いの議論が次元の違う話であるために、それぞれ異なる対応(批判)の仕方を見せる。
そして、ハバーマスはアルバートに話にならないと言われたわけだが、彼にとってそれは誤解である。彼によれば、批判的合理主義という方法論が前提を決めて話を進め、実際に物事をうまく運ぶ面は認めるが、現に使えているものだけが私たちのいる世界のすべてではない可能性を忘れると言う。そこに社会科学の方法をおちつけてしまうと社会がいつでも人間の操作されうるものではないことが忘れられる
●ポパーとの連関
「アルバートは、私の諸論議をポパーの把握への内在的批判という連関から切り離して孤立させる。だから私の論議はごたまぜになってしまっている。−−私は自分でも私の論議をほとんどそれと認められない。さらにアルバートは、私がそれらを手掛かりとして、社会科学的研究において手堅く築かれた方法の外に、一つの新しい「方法」を導入したかのような印象をつくりだしている。私はそのようなものは何もめざしはしなかった。私はポパーの理論を対決のために選んだのであって、それというのも、彼は実証主義への私の疑念の方にすでに一歩踏み出してくれているからである」P242