担当:井上・上野山・関戸
[1] P.276「理論は世界、とりわけ人間とその社会文化的世界についてなにごとかを語ろうとする」とあるが、そのような世界に対する二人の接近方法は(アルバートによると)どのように違うのか。
「彼(ハバーマス)の理論とは、その構築において[あらかじめ]既に形成されている対象に適合していなければならないし、後になってはじめて限定された経験と関係づけられるものであってはならないのであった。随所の発言から推測されるように、彼は理論形成を先行的経験、あるいは彼の表現によると前−科学的に蓄積された日常経験と結び付けようとする。これはポパー流の理論から見ると問題にならない考えである。これに関連して私は、こうした由来の問題を強調したり、経験概念にこだわる態度のうちに、大変な保守主義が認められると指摘した。こうした経験概念[を重んじる考え]が果たす方法上の機能は、せいぜいのところ、尊重すべき誤謬を訂正するのを難しくすることにすぎないのである」P.276
「吟味の条件は、当該の理論の意味や内容によって、その度毎に定められねばならない。それは決して「外から」理論に押し付けられるものではない。われわれが期待できるのは、ただ理論が仮説に応じた可能なテスト条件の下でできるだけ厳しく吟味されることであり、さらに理論の確かさをこうした吟味の試みとの連関において判定することである」P.276
まず、ハバーマスのアプローチの方法として、アドルノと同様に社会を総体性として捉え、理論は前-科学的に蓄積された経験、つまり日常生活から得られたもろもろの経験という基礎から出てくるとし、ポパーにおいてみられる理論の優先による対象の軽視について批判する。そしてそれは、文化が社会的状況の中で歴史的にどのように人々の生活の中で位置づけられてきたかという前−科学的な日常経験の分析を目指すものである。
一方アルバートにおいては、そのような前−科学的な日常経験において技術と実践的企図が密接に絡み合った状況から導き出される解釈は疑わしい誤謬に富んだものであるとして、批判的科学としては、あらゆる認識の源泉を共同的な批判の討議にかけ、さらにそこから得られた理論を暫定的なものとして捉え、絶えず厳しいテストにかけなければならないとする。
双方とも、自然科学的な方法に対して異論を唱えていることに関しては共通している。しかし上記のような違いは、ポパー側がそのような蓋然的な理論が横行していることに対して疑いの目を向け、虚偽性という批判的な方法を用いて真理に近づこうと試みるのに対し、アドルノ側はしかし、そのようなポパーらの方法もまた既存の社会における論理構造の枠組みを抜け出してはいないことを指摘し、理論を前もって(制限)制御された範囲の中でのみ適用することによって無視される全体的および歴史的な関連に光を当てようとする。
[2] P.286「経験科学的認識についてハバーマスが行っているような限定は、むしろ実証主義の伝統にふさわしい」とあるが、ではそのような限定をポパーはどのように乗り越えようとしたとアルバートは理解しているか、またそれに対して(アルバートによれば)ハバーマスはどのように乗り越えようとするか。
ポパーにおいては、上記p.276からの引用にあるように、事態をあるがままに認め、事態の示す法則を積み重ねることをもって科学の本質とする実証主義的な態度を乗り超えようとする意識は方法論上の反省によって現れてくる。すなわちポパーは観察・測定→帰納的一般化によって創り出された客観に対して観察・測定の恣意性に言及することによって実証的に理論化された言説を客観幻想として否定する。そこでむしろポパーは科学における客観性と呼びうるものを「批判的伝統」に求めていくのだが、批判的合理主義のうちには科学的関心/非科学的関心の厳格な区別(あるいは当為/存在)や批判の範囲(基礎命題の設定)がそれに対置される理論のカテゴリーに閉じこめられてしまう危険性をはらむ演繹論理が保たれており、さらには批判が対象とするのは物理的に経験可能な世界という限定を含む。なぜなら批判的合理主義が事象の理論化をすすめるためには、明証性のある対象物が必要条件であり、明証性のない歴史的生活連関や具体的総体性というものはどうしても批判の対象としては扱うことができない闇の次元の建造物である。帰結として批判合理主義は時空を制限された方法論となる。ハーバーマスによれば批判合理主義によって造り上げられた世界は闇の世界を排除された鬼神の世界となってしまうのである。(p.266 産業社会の再生産諸条件のもとでは・・・鬼神に満ちたものとなろう。)例外や飛び地といった綜合的体系を揺さぶる潜在的可能性としての変数もせいぜい理論の誤謬を訂正するための反証材料の形でしか扱われることはない。(アドルノのクラシックとポピュラーの趣味についての話を想起してください。)それら諸要素の固有性や変化の契機、および個別性と体系の相互連関性は問題にはされずに抹殺の対象となるのである。その意味でポパーのやり方は実証主義の伝統からは免れることはない。なぜなら事態そのものを主客分化的に捉え、事態を切り取り、諸要素を硬化(!)させて自らの関数の中に取り組むという形でしか言明を創り出すことはできないからである。批判的合理主義によって造り上げられた分断化された世界は、あくまでも選択的に名づけられた世界にすぎず、その世界の体系からはずれるものは、- たとえそれが暫定的に置かれ正当化されない開かれた体系化が理想であるとしても-、疎外され暴力的に否定される事態に陥る可能性があるのである。
一方、アルバートは「弁証法的社会科学者は一定のタイプの歴史法則の助けを借りて具体的総体性の基本的依存関係と歴史的生活連関の客観的意味を把握し、実践的企図を客観的連関によって正当化しうるというように位置づける。」と述べる。(p.283参照)実際、ハーバーマスによれば、「社会は、それが現にある状態ではないものによってはじめて、その歴史的発展傾向のなかで、したがってその歴史的運動法則の中で、みずからをあらわにする。」し、「歴史は未来に向けて開かれていなければならない。」そして、「実践的意図のうちでのみ、社会諸科学は歴史的に、また同時に体系的に処理をおこなうことができるのであるが、この意図が客観的連関の分析をはじめて可能とするのであり、まさにその客観的連関から、この意図がそれはそれでまた反省されねばならない。」のである。そしてこの正当化が実践的意図を、まさにマックス・ヴェーバーの主観的に恣意的な「価値関係」から区別する。具体的総体性の基本的依存関係という概念はアドルノによって明言化された個別性と体系の相互連関のことであり、それは個別者自身の運動のなかに本質をもっている全体についての洞察を促すものであるために、例えば産業資本主義社会という構造を付与された社会は宗教や家族といった個別性への洞察抜きには語り得ないことをしめすのだが、具体的総体性は物象化された変数として規定されること自体を拒む性質を持った概念であるために、<不確実性によって科学を攻撃する理由はない>アルバートとしてはこのような概念自体が批判不可能なものとして受け入れられない。片やハーバーマスは弁証法的理論そのものの枠内では、経験が制御された観察と同一視されることはないので、思想(総体性の解釈学的先取)は、厳密な反証をすることなしに、少なくとも間接的に科学的正当性を保持することができるとする(p.167)ので、どうしてもアルバートとの溝は埋まらないこととなる。しかしながら、ハーバーマスにおける<包括的合理性>という概念は注目に値する。ここで言う意味での<合理性>はアルバートの言う意味での合理性とは異なり、分析的-経験的手続きの境界線から抜け出た意味での合理性である。(p.194
まさにみずからを隠した・・・なければ。)つまり、それに準じてハーバーマスの用語における客観や正当化の概念もアルバートの意味とはことなるレベルでの意味あいを持つのである。ハーバーマス論文をあえて誤解をおそれずに読みならば、彼の包括的合理性の次元とは、そのなかで諸個人が物象化の危険と形態喪失の危険とのあいだを通り抜けるよう舵をとりながら、人間および自然のこわれやすい同一性を形作っていくところの、コミュニケーション連関の弁証法的な網としての共同性(p.267)を指し示すものであり、彼の立場は大乗仏典における中観論者・虚無論者・唯伽行唯識学派の三者における唯識学派の立場と共通するものがある。アルバートは例えるならば批判的合理主義の批判によって安易な体系化を免れうると主張しながらも、Positiveな側面に光を当てていこうとする姿勢において小乗有部派というわけである。両者とも理性的に獲得されるべき合意の可能性を確信しているのだが、合意の可能性の追求において一方は物を必要とする光を追いかけ、他方は物を必要としない暗闇に迫ろうとするため、どうしても両者の一致点を見出すことはできなくなる。しかし根本的な行き違いの原因は、「言葉があるかぎり、一切は無であり、あらゆるものは有ではない。」という地点での共同性の可能性を見失っているからではないかと思われる。そこでは対象化の波に呑まれることのない楽園の境地が存在するのであろうが、言明をすることによって事態の物象化は逃れられないどころか、人は物象化によって体系化された知を救いとしての共同性という形で求めるものであることも否めない。そこで、上記にある中観派の言葉を双方の歩み寄りのための媒介として位置づけるということもできるのではないか。
[3] P.290「彼(ポパー)が断念しているのは、ただ彼の論証を正当化と呼ぶことだけ」だとあるが、ポパーがそれを断念するのはなぜなのか。
「徹底的な批判主義は正当化思考が陥るジレンマ、すなわち無限遡行かドグマへの遡及かを選ぶほかないというジレンマを克服することができる。」(290)
正当化概念は以上の理由によってアルバートにとっては避けたいものであるが、しかしそれ以上に批判的合理主義において正当化概念は必要とされないのである。
「ポパーがこうした(批判の場についての)分析を行ったのは、われわれが自ら決断しうる可能性を明らかにするためであった。すなわち、彼は合理主義が自らを基礎付け得ないことを指摘しながらも、こうした分析によって影響されるはずの一つの決断に目を見開くことを可能とするためだったのである」(P.289)
ハバーマスは包括的合理性を、歴史的生活連関から導きだした意味を反省的に解釈することで正当化する。一方アルバートはその合理性を批判の場があることで達成されるとする。つまり、ここにおける合理性とは、科学者がそれぞれの立場から理解したことを批判の場に出していく、そしてより真実性のある理論に近づいて行こうとする態度である。アルバートにおいては批判の場は合理主義的態度を基礎付けるものではなく、むしろ合理主義的態度そのものである。理論を組み立てる過程が正当化されることは必要ではない。批判の場においての合理的な行動、批判の場を受け入れる態度が求められるのであって、逆に積極的な基礎付けは批判的吟味の可能性を犠牲にする。つまり理論は全て批判の場で受け入れるか否か決められるべき。
基礎付けをしないことと、批判的吟味がそれによって無意味になりはしないことが主張される。批判の場を有効に機能させるためには同じ言語体系をもっているという前提がある。この事はアルバートが自らバートレイを引用するように、論理自体の訂正可能性には限度があるといわれる。共通にもたれているある言語体系、価値観に基づいた前提を疑ってかかっては、有効、合理的な批判、理論組立は行われえない。
「ここで問題になるのは論証における論理の役割である。特定の本質的特性を失わせるような修正は批判的論証の破壊を意味し、論理の放棄はおよそ合理主義の放棄に行き着くであろう。」
「論証が訂正を可能にする状況として何を前提するにせよ、その状況それ自体は、その状況の内部では訂正しえない」(290)
「ポパーにとっても可能と考えられた、さまざまな態度の合理化の本質は、とりわけわれわれがみずから批判的論議を受ける用意をするところにある。このことは、その限りで論理を受け入れることを前提とする」(p.288)
態度の合理化が維持されるためには、科学者が自ら批判的論議を受ける用意をするところにある。上で述べたように彼らは自ら、違う論理を持つもののあいだには批判の場は持ちえないとされるのだが、そこにはさらに利益の相違という問題も絡む。
[4] P.295「歴史過程の客観的意味を確定するために援用されるのは、批判的合理主義から見れば疑わしい、独断的神学的思考に近い方法である」のはなぜか。
「「総体性」、「弁証法的」、「歴史」といった言葉について典型的に見られる、ヘーゲル主義者による概念に関する過大な努力は、私に言わせれば、概念の「物神化」−こうしたことについて彼らの得意とする表現を使うと−以外のなにものをももたらさないであろう。彼らの言葉の魔術に対して、敵対者の多くは、残念なことに極めて簡単に降参してしまうのである」(p.210『合理的理性の神話』)
「きわめて興味ある能力を付与されている歴史法則は、一体いかなる論理構造を持ち、その法則のテストはどのようにしてなしうるのであろうか。・・・具体的総体性の基本的依存関係を確認するにはどうしたらよいのだろうか。克服さるべき主観的解釈学から客観的意味に進むには、どういう方法があるのだろうか。弁証法論者にとっては、こうした疑問はすべてあまり意味のないものなのかもしれない。神学について認められるような事態がここにある。興味を持つ局外者は、善意を強要されるような感じを抱く。彼は、他の考えが限界をもつという指摘が高いところからなされるのを聞いて、それがどれだけ根拠のある主張か知りたいものだと心から願うのである」(p.212『合理的理性の神話』)
まず、批判的合理主義も批判理論も、個を追求する近代社会において認められてきた価値観を擁護する方向にしか進み得ない実証主義科学を批判するという点では共通する。前者は、単純に理論に対して「無垢な」データを当てはめていくことによって客観性を主張する蓋然的検証手続きに異議を唱え、反証理論を対置する。なぜなら、無垢なデータは存在せず、知と無知との緊張関係の結果生じた問題の認識がまずあるからである。解決案は批判にさらされ、批判に耐えたものが暫定的な理論として受け入れられる。そのときその理論を絶対的なものとして正当化することがないのは、異なった立場からの批判を受け入れるためであり、そこでは言語体系を共有する共同性が想定されている(通約可能性)。
ここが批判理論によって批判されるところである。なぜならそのような共同性が近代市民社会的な論理構造をもっているとすれば、いくら批判を重ねたところで、根本的な準拠枠組から逃れることはできず、そこから導き出された理論によってあらかじめ制御された批判でしかないからである。こうしてアドルノやハバーマスによって出された批判が、どのように受け取られたかということは上に見た通りである。そこでは、自分たちがやっていることがどのような危険性をもつものなのかということは省みられず、もしそれを認めたとしてもあくまで明確な代替案の提示を求めるのである。
歴史的に見るならば、中世において啓蒙は、既存の絶対王政や教会的権威によって貶められていた一般大衆が、なんとか自分たち自身で明らかに確かめられるものを求めていくんだという意味で、自分たちを縛り付ける権威に対するアンチテーゼであった。アルバートが神学について抱くイメージは、根拠のない絶対的権威によって押し付けられる強制概念にしかすぎず、彼が不信を抱くキリスト教によって形成されてきた西欧世界の歴史的社会状況を分析するにしても、明らかに確認しうる何らかの方法がなければ、論敵によって主張される総体性概念という言葉に対してはどうしても信頼が置けないのである。
したがって、一方で啓蒙が行き着く先を反省しようとする試み、つまり合理性の名の下にすべてを制御可能なものとして操作しようとする意志を批判し、また一方では何らかの確固たる合理性をもたなければ、何が自分の自己同一性を保つための対象となりうるのかも判断することのできない状態へと陥ってしまうことからの脱却を目指す試みがあるとするならば、どちらか一方を選択するのではなく、また計らずもわれわれ自身が準拠している近代的枠組みを完全に放棄するのではなく、両者が互いに補い合い交錯する地平を見つめていく作業が要請されるのである。
「われわれの見解はあらゆる点で対立するにも関わらず、われわれを互いに結び付けているのは、批判的討議への関心であるように思われる」(p.274)