「環境倫理研究会」第二回レジュメ

担当:生島 卓也

『環境倫理学』

●「自然保護」アルド・レオポルドの主張

・個物(動物)の権利に対して全体(土地)の権利
 「宇宙船地球号」と同じ立場
   ←「生態系」という概念の影響を受けている

・土地の健康を保全する
 土地は自己更新を行い、相互依存しあう有機体である。
 土地を人間の資源として考えるのではない
   ←人間の利益、資源として自然と接することを否定

・共同体の立場から保全する
 「統一された保全は利益の機会としてよりはむしろ、主として共同体への義務として促進されなければならない。」(p.57 l.17)
 「共同体の動機を創りだすことは教育の義務である」(p.58 l.2 )
(共同体という言葉を安易に使ってはないか?)

●動物権利論と比較して

・人間中心主義から脱しようとしている点では共通している
・個物の権利に対して全体の権利を主張している→典型的な二項対立か?

 「近代の倫理理論は一貫して道徳的価値が個体に内在するものと考え、道徳的価値を持つ個体とそうでない個体を分けるため形而上学的な理由づけに奔走してきた。人道的道徳主義者も確固としてこの近代の慣習の内側にとどまり、個体の道徳的地位や道徳的権利を決定づける基準作りの上での競争に専心してきた。しかし環境倫理学においては究極の価値は生物共同体のものであり、それを構成する個体の道徳的価値は、生物共同体の利益を基準に相対的に決定するのである。」(キャリコット『動物開放論争』p.79 l.1)

●全体論は本当に人間中心主義から脱しているのか?

・「全体」を語るということの危険性
 「全体」を口にしてしまう時点で自然の上に人間が立ってしまうことになる。
 全体の利益は総計によって把握できるという功利主義と同じ視点ではないのか?

→レーガンによる批判

「少なくとも理論のレベルでは、権利論は、環境を巡る現代思想の大部分を特徴づけている全体論的もしくはシステム的アプローチ(いわゆる環境ファシズム)とは相反する。権利論はとりわけ、レオポルドが唱えたような集合的意味合いを持つ理論、すなわち我々の行為の道徳性を、生物共同体の成員に及ぶ既決の総計によって評価し、共同体にとって「最良」の帰結をもたらさないものを認めないというアプローチを拒絶する。(p.41 l.15)

(「土地の健康」「自己更新力」という表現の仕方にも近代の個人を重視する考え方が含まれていないか?)

・「全体」、共同体を我々に知覚させるものは一体何なのか?
 教育、科学から得られた生態系の概念は共同体と人間を結びつけるものなのか?それも人間の創りだしたものに過ぎないのではないか?