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フロイト『自我とエス』
「自我論集」竹田青嗣(編)中山元(訳)(ちくま学芸文庫)

発表者:奥野・万仲
04/20/99

講義録
99/4/20
文責:吉本陵
6月20日update
1.について
フロイトは意識と無意識とを「心的なもの」として統一している。意識の大部分を占めるのが自我であり、無意識の大部分を占めるのがエスである。フロイトは意識だけでは説明できない部分を無意識という、客観的に証明できないものを持ってより整合的に説明することに成功した。極端に言うと、フロイトは無意識を持って、人間の行動をすべて説明することに成功したが、それは反証不可能なものである。無意識は存在を客観的に説明できないからである。フロイトの枠内では、人間は統一的な人間に対する見方を手に入れることが出来た。

2.について
意識と無意識ははっきりと断絶されたものではなくて、連続的なものである。意識と結合している自我の中にも無意識的なものがあり、無意識と結合しているエスにも意識的な部分があるからである。自我が発する抑圧は、自我によって認識されることはない。これが自我の中の無意識的なものである。

3.について
 もし言語表象がなかったら…悲しいという感情は、悲しいという言語を持っていない時はどうなるのか。多分、悲しいという表現を用いず、他の何かを持って表現するのだろう。
 言語というものはシンボルを持つ。このシンボルがすなわち、対象の発見につながり、客観化につながる。また、言語の前段階として想像能力、映像能力がある。それが言語の誕生につながる。
 無意識の分類化は可能か?分類化には必ず認識が伴うので不可能のように思われる。認識とはすなわち構造化ということである。では、無意識が構造化されたものが意識といえるのではないか。
 フロイトは無意識の存在を設定して人間の行動をより合理的に説明した(すなわち記述化)。それを基に患者の治療に臨み、その失敗と成功の中で前意識という概念を導入した。→治療の成功において(フロイトの枠内において)のみ正しい論理。
 前意識の仮説:構造化しやすい傾向性を持っている。(折れ目のついたハンカチは、その形を記憶しているわけではないが、折れやすさの傾向を持つ)一方、抑圧は非構造化に対応する。構造化→意識化しやすい

4.について
 快不快は相対的なもので、絶対的な存在ではない。また快不快は内部知覚であり、それは直接意識されるものではなく、エネルギー備給の増大、現象として感じられる。その時に言語表象と結びつくことなく知覚体系Wに到達することによって直接意識される(無意識的表象を意識にもたらすには結合仲介物(言語表象)が必要である)。
 ポイントは内部知覚と自我との関係である。しかしよく分からない。自我というものは意識と結合している。内部知覚は言語表象を介さないで直接意識されるのであるから、自我は内部知覚をコントロールできない(快不快をコントロールできない)。となるのか?しかしそれは当たり前の結論だ。よく分からない。 
  意識→意味付け、関連付けである。

5.について
 幼い頃は自我がまだ弱いので、幼児はまだ意識が発達しておらず無意識的な存在であるといえる。その時期に父親(母親)との同一化を行うことによって自我を獲得する。すなわち、幼児にとって父親との同一化は初めてのそれなのである。何の基盤も持つことなく同一化を行うので、父親の自我がその幼児にとっての定点になるのである。
 幼年時代は母親は自分と連続的な存在である。その間にはっきりとした境界はない。そこに父親という存在が現れるが、それが幼児にとっての最初の外部環境となり、コンフリクトが生じる。

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