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フロイト『自我とエス』
「自我論集」竹田青嗣(編)中山元(訳)(ちくま学芸文庫)

発表者:奥野・万仲
04/20/99

レジュメ
文責:万仲龍樹 06/21/99 update

1  ”自我とエス”よりも先に”意識と無意識”という叙述が来ている。ということは、”自我とエス”を考えるときの大前提となる”意識と無意識”とは一体何なのか。


2  意識されているか、無意識かという区別の曖昧さはどうして言えるのか。

・「われわれはそれぞれの個人に、心的なプロセスの一貫性のある組織を思い描き、これを自我と呼んできた。この自我に意識が結びついているのであり、これが運動生の経路、すなわち外界に興奮を排出する経路を支配している。」(p.210 ちくま学芸文庫)
・「この抵抗は患者の自我から生まれたものであり、自我に属するものであることは確実であることを考えると、われわれは思いがけない事実に直面することになる。われわれが自我のうちに見つけたものは、無意識的なものであり、あたかも抑圧されたもののように振る舞うものである。」(p.211 ちくま学芸文庫)
・「抑圧されない無意識という第三のものを想定することを迫られる。」P.212


抑圧されたものは無意識的なものであるが、その抑圧は自我によって、生まれるのである。さて、その自我とは「それぞれの個人に、心的なプロセスの一貫性のある組織を思い描き、これを自我と呼んできた。」(P.210)である。つまり、意識的なものは自我ということができるだろう。そうなると、意識的なものが無意識的なものを生みだすが、無意識的なものが意識的なものになることなく自我に影響を及ぼしたり、また抵抗によって抑圧されたものが意識的なものになるのを阻害しているということが説明できない。だから、無意識的なものは抑圧されたものというわけではなく、無意識的なものの一部であり、同時に、自我には抑圧されていない無意識的なものが含まれていると考える必要がある。


3 無意識から前意識へと移行するのはどのようなメカニズムによるのか。

・「無意識的な表象は何らかの認識されない材料に基づいて生まれるのに対し、前意識的な表象ではさらに言語表象との結合も行われるのである。」(p.214)
・「この言語表象とは記憶の残滓である。」(p.215)
・「意識されうるためには、かつて意識的な知覚であったことがなければならないのであり、感情は別として、内部から意識的になるためには、自らを外部知覚に転換しなければならないのである。」(p.215)
・「ここで記憶の残滓は、知覚ー意識システムに直接に接触するシステムの中に含まれると考えよう。すると記憶の残滓の備給は、内部からこのシステムの中に引き継ぐことができると考えられる。」(p.215)
・「精神分析的な作業が、こうした前意識的な媒介者を作り出すのである。意識はその場所にとどまるのであり、無意識が意識にまで上昇してくるわけではないのである。」(p.217)


 <泣く>ことの例は以前ボクが指摘した通りだけれども、それは次のように表される。
			泣く
			|
			無意識
 自分自身、思いがけなく泣いてしまうことがある。その感情を突き動かすものは言葉では説明できないものであることが多い。ただ、<それ>を説明する努力はできる。涙を流すことが生理的にどのような作用があるかは別にして、一般に”泣く”という行為に至るときは悲しみの感情が動く。ではその、悲しみとはどのようなものであろうか。それは人間が自己の生活において知覚していくものである。悲しみの経験は人によって千差万別であり、その程度も数限りなくある。
 しかし、”泣く”にいたるには悲しみの感情だけではない。それは切なさであったり、寂しさであったり、その時のその人の置かれた状況、その人の人生経験など様々なものがかかわってくる。それがいわゆる言語表象であり、記憶の残滓である。それをいちいちデジタル的に分類していくことはできるが、結局のところ、<そうではない何か>の存在を否定することはできない。したがって、無意識から前意識への移行の際は言語表象が媒介となるのだが、それ以外の無意識的な表象があるはずだ、あるような気がしてならない、、、としか少なくともボクにはいえない。

 端的に言えば、なんらかのイメージが、それに対応する言語表象と結びつくことである。例えば、「忘れる」ということがある。それは「忘れた」と自我が思っていても、記憶の中から完全に消え去ったのではなく、無意識状態にあるのである。それが、何らかの刺激、例えば、だれかの言葉やふとした拍子を受けることで、言葉と結びつき再び意識される、思い出すのである。


4 快と不快として意識できるもの、つまり”他なるもの”として意識できるものはどのようにして意識されるのか。

・「臨床的な経験から、<他なるもの>は抑圧された刺激のように振る舞うことが示されているー自我に気づかれずに、その人を動かす力を発揮するのである。この圧迫に抵抗し、排出反応を停止した場合に、初めてこの<他なるもの>が不快として意識化される。」(p.219)
・「すなわち、無意識的な表象を意識にもたらすためには、まず結合する項を作り出さなければならないが、直接伝達される無意識的な感覚には、こうした項が必要でないという相違がある。言い換えると、感覚の場合には、意識と前意識の区別は意味がないのである。」(p.219)


 快と不快は内部知覚である。しかし、それらは直接意識されるものではなく、エネルギー備給(言い換えるならば不満のようなもの?)の増大や減少として意識される。しかし、その時、外部知覚とは異なり、言語表象と結びつく必要はない。それらは、直接に意識に伝達されるのである。なぜならば、不快によるエネルギー備給の増大は、自我に気づかれずに影響を与えるが、(例えば、不満がたまったときには、たばこを吸うなどして、無意識にその不満を解消している。)その排出が損なわれたときには、不快として意識される。


5 何故、幼児期の同一化は一般的で、永続的なのか。

・「これは個人の<原始時代>である幼児期における父との同一化である。この同一化は当初は対象備給の結果や帰結とは見えず、媒介なしの直接的な同一化であり、どのような対象備給よりも早い時期に行われるものである。」(p.231)
・「超自我は、エスの最初の対象選択の残滓にすぎないものではなく、これに対する強力な反動形成という意味を持つ。」P.236
・「超自我は・・・人間の子供時代における長期にわたるよるべなさと依存性、そして人間がエディプス・コンプレックスをもつという事実である。」P.238


4の問題を踏まえてみれば、次のように考えられないだろうか。
成長					意識
|	同一化				|	言語表象
幼児期					無意識
恐らくこのような図式が成立する。幼児期においてはその存在自体が無意識的なものなのである。それが父親との同一化を行うことによって意識的なものへと移行する。つまりはアイデンティティを獲得していく。しかし、そのアイデンティティの獲得の仕方が媒介なしの直接的な同一化であるために、つまりは極めて感覚的、感情的なものであるために、本人にはそれと気づかず、無意識下で影響を与え続ける。


6 強迫神経症、メランコリー、ヒステリーそれぞれに関して自我ーエスー超自我の関係はどのようになっているか。

<神経症>
・「エスからのそのような破壊衝動を自我は受け入れず、反動形成と予防措置によって、それに抗う。それに対して、超自我は、このような傾向が、自我に責任があるかのように振る舞い、このような破壊の意図を真剣に追究することによって、これが単に退行によって呼び覚まされた見かけではなく、憎しみによって実際に愛を代償する行為であることを示すのである。」P.265
・「両方から責め立てられた自我は、罰しようとする良心の非難からも、死をもたらすエスの誘いからも自己を防衛しようとするが成功しない。その両方が持つ野蛮な営みだけは抑えることができるのであるが、その結果として、際限なく自己呵責が生まれる。」P.265


 神経症においては、自我は超自我およびエスからの影響を否定しようとする。しかし、それができずに、際限なく自己呵責に苛まれることになる。罪責感も死の欲動も受け入れない。超自我の怒りの対象を自分に同一化するのではなく、超自我を抑圧しようとする。本来ならば、抑圧は自我が超自我の要請によって行なうものであるが。

<メランコリー>
・「メランコリーの症例では、超自我が意識を独占しているよう印象が更に強くなる。しかし、この疾患では、自我は異議を唱えない。自我は自らに罪があることを知っており、罰に従う。」P.261
・「メランコリーの死の不安を説明する方法はただ一つしかないー自我が超自我に愛されるのではなく、超自我に憎まれ、迫害されると感じているため、自我が自らを放棄するのである。」P.271


 超自我から生じる罪悪感を自我は認識し、それに服従する。それが、超自我の自我に対して強く脅かすことになる。そのような過程を通じて、自我は、自らを放棄する。

<ヒステリー>
・「罪悪感が無意識のままにとどまるメカニズムは、、容易に推測できる。ヒステリー型の自我は、超自我の批判によって脅かされ、この苦痛に満ちた知覚から自己を防衛しようとする。これは抑圧という行為によって、耐え難い対象備給から自己を防衛するために使った手段と同じである。」P.261


これまでの2つと異なり、罪悪感が無意識的である。それに気がついていない。


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