ベンサム レジュメ                                                                

発表者 国広 川本

1 本書で述べられている3つの原理について説明してください。


功利性の原理
 
p82

「功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を,増大させるように見えるか,それとも減少させるように見えるかの傾向によって,または同じことを別のことばでいいかえただけであるが、その幸福を促進するように見えるか,それとも対立するように見えるかによって,すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する。」

禁欲主義の原理
 
p89
 「功利性の原理とは反対に、行為が当事者の幸福を減少させる傾向をもつかぎりにおいて是認しそれを増大させる傾向をもつかぎりにおいては否認するような原理を意味する。」

 
共感と反感の原理
 
p94
 「共感と反感の原理とは、ある行為を,その利益が問題となっている当事者の幸福を増大させる傾向や、その幸福を減少させる傾向によってではなく、単にある人がその行為を是認しまたは否認したいと思うゆえに、是認または否認し、その是認や否認をそれ自体として十分な理由であると考えて、なんらかの外部的な理由を探し求める必要を否定するような原理を意味する。」  
 ベンサムは人間は快楽を求め苦痛を避けようとするという心理学的事実があると認識していたと思われる。これが功利性の原理の基礎となっているのではないか。幸福の促進つまり快楽の促進こそが人間の行動を決定付けるものであると考えられる。
  



2 禁欲主義,共感と反感の原理がなぜ功利性の原理に反するのか考察してください。  
禁欲主義
 
「しかし、禁欲主義の原理は、その加担者達によって、個人の行為の規律として、どんなに熱心に受け入れられたとしても、統治の事業に適用された場合には、相当の程度まで徹底されたことはなかったように思われる」

「ある人が、自分自身を惨めにすることにどんな価値があると考えたにせよ、他人を惨めにすることが価値があるとか、いわんや義務であるとかいうことは、何人の頭にも浮かばなかった。もしも、ある程度の不幸がそれほど望ましいものであるならば、各人が自分自身に加えるものであるか、ある人が他人に加えるものであるかということは、大した問題で話さそうに思われるのであるが」
 
「禁欲主義の原理は、どんな人間によっても、首尾一貫して追求されたことは決してないし、また、そのようなことは不可能である」


 
 禁欲主義を反芻する理由として、ベンサムはその一貫性のなさををあげている。もし、人間にとって真の原理であるとすれば、どの人間にとっても、その原理は価値のある原理でなければならないが、禁欲主義の原理はある人は禁欲主義を価値のあるものと考えているが、ある人にとっては全く価値のないことである。それを禁欲主義者は理解しているのか、禁欲主義を他人に強要したことはないとベンサムは述べている。



反感共感の原理
 
「反感と共感の原理は、真実の原理というよりは、名前だけの原理であることは、明らかである。それはそれ自体、積極的な原理であると言うよりは、すべての原理を否定するために用いられる言葉にすぎない。人がある原理の中に見いだそうと期待するのは、是認や否認の内的な感情を正当付け、これを導いていく手段として、ある外的な理由を支持するような何ものかであるが、是認や否定の感情をそれ自体の理由及び基準として掲げる以外のことはしないような命題によっては、このような期待は満足させられないであろう」P99  

「善悪の基準について作られてきたさまざまの思想体系は、すべて共感と反感の原理に還元することができるであろう」P99
 
「他の多数の原理、すなわち動機は、ある行為がなぜなされたかという理由いいかえれば、その行為がなされたことの理由または原因であろう」P108


 
 反感共感の原理は厳しさ、寛大さというてんで誤りを犯しやすいとベンサムは述べている。というのも、この原理は人間の感情に全く依存するものであり、自分に影響を強く持つものに対してはそれだけ持つ感情も強くなり、また逆の場合には感情は弱くなる。是認の正しい原理であるならば、あらゆる場合において同じでなくてはならないはずである。またベンサムはこれらの原理はある行為がなぜされたかの理由でり、なぜされなければならなかったかという理由を答えることができるのは功利性の原理だけであると述べている。




3 快楽と苦痛の源泉を説明してください。

 
p108
 
「快楽と苦痛とがそれから流れ出すことがつねである源泉には、四つの区別される源泉があり、それらは別々に考慮される場合には、物理的,政治的,道徳的および宗教的源泉と名づけられる。」
 
「もしも快楽または苦痛が生じ,またはそれが期待されるのが、現世のうちの自然の通常の過程からであって、人間の意思の介入によっても,目に見えない至高の存在の特定の介入によっても、意図的に修正されることがないのであればそれは物理的制裁から生ずる,または物理的制裁に属するということができる。」
   
p109
 
「もしもそれふが、主権者すなわち国家の最高支配権力の意志によって、特定の目的のために裁判官に相当する名称のもとに、選ばれた特定の人または人々の手中にあるならば、それは政治的制裁から生ずるということができる。」
 
「もしも、社会のありきたりの人々の手中にあって、彼らが一定の一致した規則によってではなく、各人の自発的な傾向によって,人生の過程において,それにたまたまかかわり合ったのであればそれは道徳的または大衆的な制裁から生ずるということができる」
   
「もしもそれが、現世または来世における,至高の,目に見えない存在に由来するのであれば、それは宗教的制裁から生ずるということができる。」
 



4 快楽と苦痛の種類、諸事情がなぜ詳しく述べられているか功利性の原理を踏まえて考察してください。  
p82
 
「功利性の原理、 the principle of utilityということばに、最大幸福または至福 the greatesthappiness or greatest felicity principleということばが付け加えられ、もしくはその代わりに用いられている。」
 
p86

「功利性の原理ということばは、もっと明瞭で有益な言い方をすれば前に述べたように、最大幸福の原理と呼ぶことのできるものをさす名称として、他の人々によっても、私によっても使用された。」
 
「統治の唯一正しい、そして正当視することのできる目的は最大多数の最大幸福であるという原理ーこのような原理がどうして危険なものとして否定されるのであろうか。」
 
p124 
 
「苦痛と快楽は,なんらかの原因の作用によって、人々の心の中に生み出される。しかし,快楽と苦痛の量は,その原因、言いかえればその原因によって呼び起こされた力の量に比例して、いつも同じであるわけではない。このような見解が正しいことは、原因,量および力ということばの意味を形而上学てきに詮索することによって証明されるものではない。それはこのような力がどんな方法で計られるとしても同様に真実なのである。」


  
 ベンサムの功利性の原理は快楽と苦痛が人間のすべてを支配しているという認識から成り立っている。功利性の原理が最大多数の最大幸福といわれるようにベンサムにとって幸福とは測定可能なものであり幸福の要素である、快楽と苦痛も測定可能なもので泣ければならない。




5 快楽と苦痛は測定可能なものかどうか考察してください。

 
 上記でも述べたように最大多数の最大幸福を考える上で幸福とは測定可能なものであり、その要素である快楽と苦痛もまた測定可能なものでなければならない。個人の測定にあたってはそれの強さ,持続性,遠近性を考慮すべきであるとし、また個人の感受能力に影響を与える諸事情をあげこれらを考慮に入れるべきとしている。しかし質の異なる快楽を数量化することは不可能である。自然科学に見られる客観的法則を道徳哲学に求める意味は何であるのか。
  
 社会の幸福は個人の幸福の総計であるとしている。最大多数の最大幸福を達成するためには個人  の幸福を計る必要性がある。しかし、それは現実に可能であるのか。この著書の中ではその実例は  述べられていないが、もし不可能であると考えるのであれば、ベンサムの功利主義そのものが成り  立たなくなってしまう。であるからといって、社会の個人の幸福をはかれるのかどうかは疑わしい  。実際計るとすれば、その作業は途方もないほど時間と労力を必要とする。ベンサム自身もその作  業の実現の困難さを考えていたはずである。それでもなお、功利主義を提示したということはそれ  なりに意味があると考えたからである。その意味とは何か。
  
 ベンサムは可能か不可能であるかの二極的な考えであることよりも、功利主義という方向性を示す  ことに意味を見つけだしたのではないだろうか。事実、ある統治者が政策を作り出すときに、各個  人の幸福をはかるとすれば、社会が大きければ賛成反対という形でしか計ることしかできない。賛  成反対の形で、それぞれ個人の快、不快はわかるが、諸事情による幸福の程度は計ることはできな  い。しかし、功利主義の実現という方向性を示すことにベンサムは意義を見いだしたと考えられる。




6 人々の犯罪行為を規制するにあたって刑罰の必要性を述べているがそのと  きベンサムは道徳をどのように位置付けているか考察してください。

 
「『私は何型だしく何が悪いかということを私に告げる目的で、作られてものを持っており、それは道徳観とよばれる』という。そして、気軽に話を進めて、これこれのことはよく、これこれのことは悪いといい、なぜかと問われれば、『私の道徳観が私にそう告げるから』とこたえる」p100
 
「ある人は言葉を変えて、モラルという言葉を取りさり、コモンという言葉をそのかわりに付け加えて、常識という。・・・彼によれば、常識とはすべての人類によって所有される何らかの種類の感覚であり、自分と同じでない感覚を持つ人の感覚は、取るに足りないものとして、問題外におかれるのである」p100  

「ある人がでてきて、道徳観のようなものがあるとは信じられないが、自分は悟性をもっていて、それは全く立派な働きをしているという。彼によれば、このような悟性は善悪の基準であって、彼に善悪について告げるのである」p100
 「
ある人は永久不変の正義であり、その原則があれこれのことを命令すると言い、次いで最高の地位にあるものについて彼の感情を述べ始める」p101
 
「ある人、おそらく前と同じ人は、あることは事物の適合性にかない、他の行為はこれに反すると言い、次いでひまにまかせて、どんな行為がそれにかない、どんな行為がそれに反するかを語るが、それはその人がたまたま好み、または好まないことによる判断にすぎない」p101
 
「ある行為が、不自然であるという理由で、しばしば避難されるのは、反感の原理に基づいている」                                           p102
 
「道徳的感情が、功利性の考慮以外の源泉から根元的に認識されるかどうかということは一つの問題であり、道徳的感情が、事実の問題として、自分自身を内省する人々によって、検討と反省のもとに、功利性以外の基礎の上に実際に主張されたり、正当づけられたりすることができるかどうかということは、別の問題である。・・・最初の二つの問題は思考の問題であって、それらがどのように解決されるかということは、どちらかといえば大した問題ではない」p103
 
「私的倫理と立法とは人間の幸福という同一の目的を持ち、相互に協力しあう関係にある。しかし、私的倫理の対象であるすべての行為が、立法の対象であるわけではない。立法による干渉は政治的制裁、すなわち刑罰を伴うが刑罰の効果には限界がある。従って私的倫理は立法と同一の目的を持つのであるが、その適用範囲ははるかに広いのである」p209
 
「立法の援助をもっとも必要としないのは慎慮の義務である。自己の幸福を増大する道を誤ることは、本人の無知によるのであって、立法の介入すべき余地はない。個々の幸福については、本人がもっともよく知っているのであり、立法者の不用意な干渉は不幸を生み出すだけである」p209
   
 ベンサムによると個人の幸福の領域は道徳観に任せるべきであるとしている。道徳観の源泉が何であろうとも、人によって異なろうとも、他人の幸福に害を与える行為でなければ問題はない。そして、他人の幸福に害を与えることを法律によって規制するべきであるとしている。すなわち協調性を彼は重要視していたと考えられる。協調性を法律によって確保する必要性がでてきたということは、その協調性が危ぶまれ始めたのではないだろうか。法律が存在する以前は、法律のかわりをしていたのは道徳観である。この道徳観だけによって、他の人々との協調性を確保することが困難になり始めたのではないだろうか。道徳観とは、おそらくその共同体の中においてすべての人々が共通して持つ観念であって、そのために、道徳観とよばれるものがコモン、常識という言葉に置き換えることができた。その、皆が持つ道徳観、常識が、信頼できなくなってきた、つまり、各個人によって道徳観、常識が変わってきたと考えられる。これは、共同体の崩壊と関係してくるのではないだろうか。 おそらく、ベンサムは道徳観が危ぶまれてきた背景の上で、これを書いたのではないか。であるから、一部分では道徳観の必要性を認めながらも、法律の必要性をも感じていたと推測できる。