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デュルケーム「自殺論」
発表者:奥野、堀川、吉本
99/6/15 レジュメ

文責:吉本陵
(6月18日update)

1.デュルケームは自殺の種類を自己本位的、集団本位的、アノミー的の三つに分けています。それらを簡単に説明してください。

@自己本位的自殺
 個人は自分が属する社会(家族、宗教、政治体制など)の統合力が弱まったとき、それまで社会が示してくれていた「なすべきこと」「生きる指針」のようなものを失ってしまう。そのため個人は欲求を満たすため、知識などに没頭する。独力で生きる目的等を作りだそうとするが、個人の能力には限界があり、それを一人でかなえることは不可能である。個人は生きることに対する目的を失う孤独状態に陥り、何らかの引き金(社会が新しく生む自殺を暗示する道徳)があった場合自殺を犯してしまう。これが自己本位的自殺である。
A集団本位的自殺
 緊密に統合された社会においては、社会は個人に対してその規範に厳密にしたがうことを要求する。このような社会は異質性を強力に排除するので、均質化された個人が生まれる。したがって、個人の尊重という考えは決して生まれることはなく、個人が社会に隷属された状態になる(没個人的な社会)。このような状況において、社会の要求によって行われる自殺が義務的集団本位的自殺である。また、義務的集団本位的自殺ほどあからさまに社会が個人に自殺を要求しているわけではないが、有形無形の方法でもって、個人を自殺に仕向けるタイプは随意的集団本位的自殺とよばれる。さらに、個人が社会から賞賛されるために自殺を積極的に選ぶ場合は激しい集団本位的自殺といわれる。
Bアノミー的自殺
 極度の繁栄(産業の発達)や、社会秩序(政治的、経済的、また家族における秩序)が破綻した場合に、それまで個人を規制していた規範が崩壊してしまう。この時社会は無秩序状態になり、個人は一種の興奮状態に陥り、それまで抑えられていた欲望が暴走する。その欲望は全て満たされず、個人は絶望に陥る。これがアノミー的状態であり、この時に起こる自殺がアノミー的自殺である。(人間の欲望というものは際限のないものであるから、それを暴力ではなく、人々から尊敬の念を持たれた権威によって抑制される必要があり)

2.デュルケームは社会的事実を「もの」として取り扱うことに、どのような目的も持っていたのでしょうか。この事を踏まえて、デュルケームが序論においてそれまでの純粋社会学をどのように批判しているか説明してください。(p.274&p.278、及び序論、序文より)

引用
「社会学が、その取り扱う問題をはっきりと限定された形で提起していない。p53」 「社会学成立するとすれば、それは他の諸科学がすでに探求している世界とは別の、未知の世界を研究するものでなければならない」(p.279)
 反形而上学「かりに個人が、自己自身と物理的宇宙を知っているだけに過ぎなければ、自己自身と周囲の全てのものをこのように無限に超越している力(神)の観念には、決して到達しなかったであろう。」(p.281)
「崇拝の対象となった力は社会であって、そもそも神とは、社会の実体化された形態に他ならない。」(p.282)
「普通、集合的傾向とか集合的情念などというときには、人々は、それらの表現を、たんなる比喩、あるいはものの言い方としか考えず、ある数の個々人の状態の一種の平均を表す以外には、何ら実在的なものをさしてはいないと思いがちである。人々は、それをものとみなすこと、個人の意識を支配する一種独特の力とみなすことを拒んでいる。だが、これ(ものであること、一種独特の力であること)がそれらの本質なのであり、…」(p.274)
「そられは、まさに一種独特のものであって、言葉の上だけの実在ではない。…したがって、社会的事実は客観的なものである、…」(p.278)

解答:
 社会というものは、すべての個人の総和だけで成り立っているわけではなく、それと個人間の関係によって成り立っている。ゆえに、個人を足しあわせただけでも社会がいかなるものかは見えてこないのである。したがって、個人を単位としたのでは社会的事実としての自殺を科学的に分析することはできない。個人間の関係というブラックボックスを作ってしまうからである。そこでデュルケームは社会的事実を単位(もの)として扱うことによって、彼の論理に反証可能性を持たせ、彼の社会学を科学にすることができた。これが社会的事実をものとして扱ったデュルケームの意図するところであった。
 現代にいたるフィールドワーク的社会学は、データ至上主義的で、思惟を省いて事実を測るデータのみを用いることが客観性とし、ポイントを限定せずに一般論を展開しているのみである。
 デュルケームはそれを批判し、問題を「個人と社会の軋轢」に絞り、そこから問題の原因は3パターンであると推論し(社会の個人に対する凝集力が稀薄になる時、個人が社会に強く規制される時、社会が無規制状態に陥り、個人との関係が崩壊する時)、その理論をベースにポイントを「自殺」に限定し、個々の事実を”もの”としてしか取り扱っていない。
 これは、彼独自のアプローチである。それは当時における上のような実証主義的手法でもなく、又、絶対的な何らかを想定し、それから全てを説明しようとする世界観をもつ形而上学的な手法でもないからだ。

3. 個人と社会の理想的な関係とはどのようなものですか。また、それは意図して作れるでしょうか。(アノミー的自殺、第三編,第三章より)

引用
「凝集度の高い活気に満ちた社会では、全体から各個人へ、また各個人から全体へと観念や感情のたえざる交流があり、これがいわば道徳的な相互の支えとなって、個人を自分一人の力に還元してしまわずに集合的なエネルギーに参加させ、自分一個の力が尽きたときにもその集合的エネルギーの中で活力を回復させることができる。(p.157)」
「社会は個人に優越した唯一の道徳的な権威であり、p206」
「人間の肉体的構造の中にも、心理的構造の中にも、このような欲求傾向に限界を画してくれるものはない。p293」
「この相対的な抑制とそれから生まれる節度が、人々をその置かれた境遇に満足させ、(p.207) 」 「(職業集団は)同じ労働に従事している個人によって構成されているし、彼らの利害は連帯し、一体化してさえいるので、社会的な観念や感情をはぐくむ上でこれほどうってうけの地盤はない。…それが組合員に対して一個の道徳的環境となることができたことは疑いをいれない。p363」
「国家の活動はつねに画一的で、限りなく多様な個々の事情に従うことも、それに順応する事もできない。その結果国家の活動はひどく圧迫的になり、また均質的になっている。p364」
「同業組合は現実と十分に密着し、十分直接的、恒常的な接触があるので、現実のあらゆる微妙な性格を良く把握しており、しかも十分な自立性をもっていて、現実の多様性を尊重しうる。p365」
「しかし、彼ら(同業組合)が、共通のものを今以上に分有するようになり、また彼らとその所属集団との関係が、この意味でさらに緊密に隔てのないものになったあかつきには、かつてほとんどなかったような連帯感が芽生えてこようし、この職業的環境の精神も、まだ冷たく、成員にとってあまりにもよそよそしく感じられているが、それも必ずや熱気を帯びてこよう。(p.366)」
「職業集団は、この二重の性格を備えている。それは集団であるからには、個々人の上に十分に君臨し、彼らの欲望に制限を加えることが出来るが、又、個々人の生活ときわめて一体となっているので、彼らの要求と呼応することも出来るのである。p370」

解答:
 個人の欲望には限りが無く、それを放置することは、無規制状態に陥るので、個人が充足するためにもこの限りない情念を規制し、精神的孤立状態から個人を救う凝集力(恐怖ではなく尊敬の念によるもの)が必要である。そのため社会の役割が重要で、理想的な共同体は国家でも宗教集団でもなく、職業集団(同業者組合)である。個人と社会の理想的な関係というものは、個人が社会から離れすぎたり、社会の中に埋没して個人の<個>というものがなくなるような状態ではなく、社会と個人との関係が相互に関係し、高めていくような関係である。職業集団では常に個人と接触を保つことができ、生活の全てであるため、一つの道徳環境となる事が可能である。自殺抑制にはこのようなレベルの共同体が必要とデュルケームは説く。

4.個人と社会の関係において、「自殺」とはどのような役割を担っているのですか。

引用:
「自殺というものは、そうひんぴんとは起こらない事実なのだ。もっとも自殺の多い国でさえ、人口百万あたり、せいぜい3、400件にすぎない。(p.269)」
「個々人が結合してつくりあげた集団は、一人一人の個人とは異なった別種の実在である。(p.291)」
「だが、今日では、個人は、一種の尊厳を獲得し、自分自身よりも、また社会よりも優越したところにおかれるようになった。・・・人は、人々に対して一個の神になった。したがって、人に対して加えられる侵犯は、我々にとってすべて神の冒涜という結果を生む。(p.307)」
「自殺は、我々の道徳のすべての基礎をなしている人格尊重の精神を傷つけるために非難されるというわけである。(p.308)」

解答:
ボクがこの「自殺論」を読んでいて思ったのは、「どうも自殺はいけないことらしい」ということです。それは確かにそうなのだと思うのですが、どうも自分の中ではしっくりとこないことでした。しかし、それを説明しているのが以上の部分であるといえます。つまり、社会において、個人というものがもっとも尊重されるようになったために、自殺というものはその個人尊重の精神が著しく傷つけるのです。

5. なぜ、デュルケームはテーマとして自殺を選ぶ必要があったのでしょうか。

解答:
 デュルケームが出てくるまでは自殺というものは、完全に個人的な問題であり、自殺の分析は個々の自殺について行われていた。例えば、精神疾患を持っていたとか、精神病であった、というような説明をしていた。
 デュルケームは自殺は社会によって規定されているものだという発想の下に自殺の分析を行った。これがデュルケームの新しさだった。しかしこれだけなら自殺という社会的事実ではなくてもよかった。他にも個人的な問題と考えられているもの(例えば結婚)はあったからである。
 その中で自殺を選んだ理由は二つある。まず第一に、当然デュルケームは2番でふれたような推論を下にデータを分析したのだが、推論とデータが相当の整合性を示したことである。しかしこれだけではない。
 デュルケームの論理はあくまでも推論であって、仮説の域を出ない。仮説の域を出ないが、対象が自殺者なので、その仮説に対する決定的な批判もまた生まれない。自殺者を対象とすることによって、デュルケームは彼の反対者の口を封じたのである。

6.デュルケームの社会学における自殺の捉え方と、心理学のそれとの違いはどのようなものですか。

引用:
「実際には、たしかに諸個人を支配している同じ一つの原因あるいは原因群によって引き起こされた結果・・・」毎年毎年見ず知らずの個々人の意志が、なぜ同数で、同じ目的に向かうのか・・・p272」
「彼らをつつむ共通の環境のなかに、彼らすべてを同一の方向に向かわせる何らかの力がひそんでいる・・・」
「社会を構成している個人は年々変わっていく。にもかかわらず、社会そのものが変化しない限り、自殺者の数は変わらない。p274」

解答:  個人心理学においては、自殺はあくまでその個人が何ゆえ自殺を選んだのか、経済的理由からか、人間関係の障害からか…などを分析し、明らかにすることによって自殺を解明すると考えられる。だがデュルケームの社会学において、自殺とは一つの社会的事実(もの)としてみられ、その社会における個人がどのような状況で自殺を選んだのかを分析する。極端な言い方をすると、心理学はある個人が自殺をするかどうかの“動機”を分析すことことができ、デュルケーム社会学は、ある社会において一年間にどれくらいの人が自殺するかを分析することができるのである。ただ、ある社会においてその成因の構成は常に変化している(人口流入、流出など)のに、その社会が変化しない限り自殺率は変化しないという事実を心理学は説明できないが、社会学には可能である。それはデュルケームが自殺を個々人のレベルに分解することなく、一つの社会的事実としてみたからである。

7. デュルケームの論は一見完全なものにみえますが、ある前提を基にして構築されています。その前提とはどのようなものでしょうか。その前提は自殺論にとって不可避のものだったのでしょう。

引用
「社会学者は、社会的事実に関する形而上学的思弁に甘んじないで、はっきりとその輪郭を描くことができ、いわば指でさししめされ、その境界がどこからどこまでであるかをいうことができ、そこに確実に帰属するような事実群を、その研究対象としなければならない。(p.54)」

解答:
 デュルケーム社会学の前提は、社会学の範囲を限定し、その中での認識であるとか、正しさであると最初に述べている点である(経験論的実在論)。すなわち、社会学の範囲外の部分は形而上学などに任せるということである。 このような前提はデュルケーム社会学に限ったことではなく、すべての学問体系について言える。
 その範囲は誰が決めるのか。その学問を行うものが決定するのである。 であるならば、学問は決められた範囲の中での整合性を競う知的ゲームにすぎないといったら言い過ぎであろうか。

<提題> 心理学と社会学との違いは端的にいうと視点の違いなわけですが、これら二つの学問体系に接点はあるのでしょうか。

 7番の問題でも触れたのだが、二つの学問体系が違いに全く独立していて、何の関係もないのであったら、一体学問の存在意義とは何なのか。
 二つの学問体系の接点はあるはずである。そしてその接点を足場にすることで、それらの二つを相対化することができる。すなわち二つの学問を比較検討することができる。この時、二つの学問体系相互に了解しあえる場ができる。そしてこの事が知的ネットワークを作り上げることなのであろう。
 また、次のようにも言える。
 心理学と社会学の共通点は人間を対象としていることである。しかし、人間をどのように見るかの視点が違う。そして、どちらの学問体系も人間の一部分しか映し出すことができない。そして、心理学も社会学も映し出している範囲においては、正しい人間像を映している。そしてこの二つの学問を接点を共通の足場にすることでつなぎあわせ、より広い人間像を作り上げることが知的ネットワークを築くことであろう。
 では心理学と社会学の考えられる接点とは何なのだろうか。

 

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