ジンメルレジュメ

   

                     発表者     国広 川本

 

1)ジンメルは社会学の存在の確立をどのように展開していますか。彼の考えた社会概念をふまえて考えてください。

p392

「相対的に客観的な単一体であるといえるのは、それらの各部分に相互作用が見られたときのみである。」

「社会学的考察にとっては、それぞれが単一体として作用する種々の観念、個人集団だけが問題となるこのような相対的意味において、社会は多くの単一体からなる単一体といえよう。」

 社会が単に個人の総和にすぎないなら社会に関する科学は存在しなくなる。なぜなら私たちが確実に把握できるのは個々の人間とその行動だけでありそれらの個人が対象となってしまうからである。そこでジンメルは社会は個々の人間の総和とは異なるものであるということを示そうとした。ジンメルは個人を諸要素に分解し、個人を諸要素の相互作用としての単一体と見なすことにより絶対的単一体であることを否定した。この方法で考えるとあらゆる物にはその間に相互作用があるときに単一体であるといえ、社会についても個人の相互作用がありそれに基づいて単一体と言えるのである。社会には個々人の間に相互作用が存在し、社会が単に個々人の総和ではないということを示すことにより、社会を単一体と考える事ができ社会学の研究対象となりうる事によってその存在を確立しようとした。

 

2)個人の属する集団の変容によってその個人の犯す罪の責任の所在の変化を説明してください。

 

 集団が分化されていない状態

「一つは客観的な側面であるが、それは個人の行為が、厳密にいうと個人的 なものではなく・・・・個人と全体との統合が緊張であるということである。他の一つの主観的な側面 であって・・・・・他のすべての点 で関係している集団から、罪を犯した個人を区別する能力を持って いないということである」 p395

 個人が集団に依存している状態、つまり個人がその集団の外において、生きていける可能性が少ない状態は 、それだけ集団と個人は分化がされていないといえる。この状態は客観的側面と主観的側面で文化が 進んでいない。客観的側面において、個人と全体が緊密であり、そのために主観的側面において、他者が集団と個人とを区別することができなくなる。主観的側面においては、類似性と現実的関連が存在するためである。それによって、個人の罪が集団に課せられることになる。

 集団の変容につれて個人の犯す罪の所在も変わってくる。未開時代には、個人の犯した罪に対する懲罰は社会全体に集団的責任として処理されていた。これは未開時代には集団の規模が小さく個人と集団の統合は緊密であり、また個人の罪とみなす判定者がその個人と集団とを区別できなかった。

 

集団が分化した状態

 「第三者にたいしてある個人がどうと苦情の罪を犯すことは、第三者に、その個人が属している集団全体にたいして反作用するような刺激を与えているということ、また、もしかりに反作用する感情と行動が集団のなかのある一定の局部だけに精確に向けられるとすれば、そのためには、非常に精細な分化が、集団のなかでは客観的に、また被害者の認識能力の場では主観的に行われていなければならないということが、以上のべたことから明らかになる」p410

 

 集団に与えられていた罪は、集団はその数的増大により集団が分化されることによって、集団のなかの個人にその罪の所在がうつされる。これは個人が集団から自立していく過程である。さらに分化が促進されると、個人に与えられていた罪は、個人そのものが分化されることによって、個人の一部分である性向、つまり教育、模範、素質といったものに移される。このようななかで、社会の影響が強化されると、分化された個人の一部分の性向そのものが社会の影響を受けていると考えられ、ジンメルのいう先祖返りなどのように再び社会にその罪が与えられるようになる。つまり、分化されて社会から個人に与えられた罪は再び社会に復帰するというようになる。

 

3)(2)番を参考にして個人は社会の中でどのような制約(立場で)を受けて存在していると考えられますか。

  p422

 「個人は無数の社会的な糸の交差するところにおり・・・・・・・・・」 

 「現在について考えれば、現存の世代とのあいだにどんなところにも相互作用が存在しており、将来について考えれば、遺伝質の上にそれぞれの行為が影響をおよぼしているということなのである。」

個人の行為が将来に影響を持ち、またその行為は過去からの影響を受けているとも考えられる。また個人は集団の影響を受け、又影響を与える。この事から個人は個人だけに局限されて存在しているわけではなく、歴史の縦軸と社会の種々の集団に属する横軸の交差する一点に存在していると考えられる。  

 

 

4)なぜ分化が進むと類似するのか。

「そうしたことが起こるのは、どんなに異なっている社会集団でも、分化の諸形式は、同一であるか、あるいは類似しているという理由による」

ジンメルによれば緊密に結ばれあった構成員からなる集団はその発展に伴って構成員間の生存競争において次第に趣向を凝らした特殊な手段を用いていかなければならなくなり、その結果構成員が互いに分化し個別化していくようになる。分化し個別化していく事によって構成員に個性を発展させる余地が出てくる。しかし集団内部に置ける個性の発展に対して集団そのものの個性が、この発展とは逆にますます目立たないものになってくる。全体の個性は部分の個性とは逆比例的に貧弱なものになってくる。異なった社会集団で分化の諸形式が同一であるという理由、つまり単純な競争関係、一人の強者に対する多くの弱者の団結、個人に見られる貪欲さ、一度出来上がった個人的な関係の増進などがあり、これらの諸形式が同一であるか、類似しているかで集団も類似してくる。

 

 

5)分化の進んだ社会において共同性はどのように獲得されるか。

「平準化は、低い人が引き上げられるというよりも、高い人が引き下げられることによってのみ、可能なのである」p462

「しばしば、まず他者の行動の模倣は、その行動の内的理解への鍵を与えてくれる」p467

 集団において、個人が、より高い、洗練された属性をもって立ち現れる場合、その個人は個別化しているといえる。その個別化していったなかで、どのように共同性が獲得されるのだろうか。分化した状態ではその行動の統一には平準化が必要である。より洗練されたものにとって、他のものは質の低いものとなる。その中で彼が共同性を獲得していくには、低次な人々にあわせるほかにない。そこにおいて、合わせなければならないものと、合わせてもらうものがいるわけだが、これは両者の犠牲によっての共同体ではなく、一方の犠牲による共同体の形成である。果たしてこれは共同性といえるのだろうか。しかし、ジンメルは低次の人々に会わせることが相互理解であるとのべている。それは、模倣によってなされる。模倣そのものは低次な精神的機能であるとのべているが、これが、社会的水準の等しさを生み出すとのべている。つまり、ジンメルの考える共同性とは、相互理解でありその手段として模倣などの低次に合わせることをあげていると思われる。

 社会の意志は個人のもっとも低いものであると考えられる。なぜなら個人のもっとも低い衝動には迷いが無く、集団の意志にも迷いがないからである。

 

6)集合の発展にあたっては分化への傾向とともに力の節約の原理の傾向も存在している。力の節約の原理を説明して下さい。

 

ジンメルは社会の発展を未分化から分化へと把握している。又その発展過程の中に力の節約させる傾向が存在しているとも述べている。ジンメルは個人有機体にも集合的有機体にもその発展過程には分化への傾向が存在しており、それに加えてその発展過程には目的を達成する際の障害を回避する力の節約の原理も存在していると述べている。個人有機体に関しては個人の内部には様々な衝動があり、これらがそれぞれに自己主張をして競い合えば力が浪費されて各自の目標を達成する事ができない。しかしそれらの衝動が分化して別々の目標とそこにいたるまでの各々の手段を持てれば競争も摩擦も起こらずに力を節約できる。同じように集合有機体に関してもその内部で諸要素が未分化のままに同じ目標を求めれば目標そのものよりも競争者の排除に関心が集中して力が浪費されてしまう。しかしこれらの諸要素が分化されれば要素間の競争や摩擦は回避され目標を効果的に追求する事が出来る。過度の分化は危険をもたらすが発展する限りでは力を節約する傾向に支配されているとジンメルは考えている。力の節約は競争や摩擦を無くす事を意味し、分化の増大によってこうした競争や摩擦が克服されるにしてもそれがすぐに力の節約につながるのではなく、この分化が分化のまま一つの全体に統合される事が力の節約にいっそうの促進を与える。

 

 

7)ジンメルの理論の根拠はどこに求められるか考えて下さい。

  

  p489  

「 主観的なものの総合が客観的なものを生みだしたあとで、こんどは客観的なものの 総合がより高次の新しい主観的なもの生みだす。」

  

 ジンメルの社会的分化論において、全体を通して客観性に欠けるように感じられる。では、彼の理論は主観的根拠しかないのであろうか。社会学を自然科学のごとくとらえることは客観性を重視するということであり、その傾向がこの時代にあったはずである。その中であえてこのような理論をうち立てた意義はどこにあるのだろうか。そこで上の引用部分を考えてみる。ジンメルの理論は一見主観的であるが、その主観性は客観性が高次に総合されたものと考えることができるのではないのだろうか。彼が求めた客観性とは、すべての人が共有する意味での客観性ではなく、真理という絶対に存在する意味での客観性を求めたと思われる。