Back
マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
発表者:堀川、万仲
06/29/99

レジュメ
 

引用は(P.35; P.100上段)などとして、前者を岩波文庫、後者を世界の名著としています。

1)資本主義と「近代」資本主義の違いについて説明して下さい。

「そうした「資本主義」には今述べたような独自のエートスがかけていたのだ。」(P.45; P.116上段)
「資本主義の特性に適合した生活態度や職業観念が「淘汰」によって選び出される・・・こ
とが可能であるためには、そうした生活態度や職業観念があらかじめ成立していなけれ
ばならず、しかも、それが個々人の中にバラバラにではなく、人間の集団によって抱かれ
たものの見方として成立していなければならない。」(P.51; P.119下段)
「貨幣を渇望する「衝動」の強弱といったものに資本主義とそれ以前の差異があるわけでは
ない。」(P.54; P.121下段)
*「貨幣への注意を欠くことは資本の胎児を「殺す」ことで、だから倫理的罪悪感なのだ。
」(P.59; ---)
「「倫理」の衣服をまとい、規範の拘束に服する特定の生活スタイル、そうした意味での資
本主義の「精神」が、何はさておき遭遇しなければならなかった闘争の敵は、他ならぬ
伝統主義とも名づくべき感覚と行動の様式であった。」(P.63; P.122下段)
「むしろ簡素に生活する、つまり、習慣としてきた生活を続け、それに必要なものを手に入
れることだけを願うにすぎない。」(P.65; P.124上段)
「どうすればできるだけ楽に、できるだけ働かないで、しかも普段と同じ賃金が取れるか、
などということを絶えず考えたりするのではなくて、あたかも労働が絶対的な自己目
的(「天職」)であるかのように励むという心情が一般に必要となるからだ。」(P.67; P.125上段)
「「資本」の定義の意味からすれば、組織形態上「資本主義的」と見なければならぬ経済で
ありながら、「営利」経済の領域からはみ出て「必要充足経済」の領域に入るものが非
常に多い。」(P.71; P.127下段)

 資本主義と「近代」資本主義の差異は、その経済形態よりも心理的なものであったといえる
。端的に資本主義といったときには、それがいわゆる近代資本主義を指すとは限らない
。例えば、「中国にも、インドにも、バビロンにも、また古代にも中世にも存在した」
(P.45; P.166上段)。また、心理的な面の差異と言っても、「金銭欲」が近代以前の資
本主義では、近代のものよりも少なかったというわけでもない。例えば、伝統主義のよ
うなものとの違いなのである。伝統主義とはどのようにすれば現在と同じ生活を維持する
ことができるか、換言すれば、労働者においては賃金が上昇すればそれだけ働く時間、気
力とも少なくなるし、前貸問屋の場合でも、現在の生活を維持する程度に働くことが重要
であった。
 しかし、近代資本主義の精神はそのような、現状の生活を維持する手段として職業を考え
るのではなく、労働を自己目的として生きるように考えていた。形態的には近代資本主
義的なものであっても、その心理的な要素が旧来の伝統主義的な、必要充足経済的なもの
をここでは近代資本主義とは呼ぶことはできない。
 また、ベンジャミン・フランクリンの例に見られるように、資本主義的形態が現われる以
前にも、近代資本主義的な精神が見られたことも忘れてはならない。


2)ヴェーバーは合理性をどのように捉えているでしょうか?

「一切の自然な享楽を厳しく斥けたひたむきに貨幣を獲得しようとする努力は、幸福主義や
快楽主義などの観点をまったく帯びていず、純粋に自己目的と考えられているために、
個々人の「幸福」や「利益」といったものに対立して、ともかく、まったく超越的なまた
およそ非合理なものとして立ちあらわれている。営利は人生の目的と考えられ、人間が物
質的生活の要求を満たすための手段とは考えられていない」(P.48; P.117下段)
「事業のために人間が存在し、その逆ではない、というその生活態度が、個人の幸福の立場
からみると、まったく非合理的だということを明確に物語っている。」(P.80; P.132下段)
「純粋に幸福主義的な利己心の立場からすればはなはだ非合理なーー職業労働への献身とを
生み出すに至った、あの「合理的」な思考と生活の具体的形態は、一体、どんな精神的
系譜に連なるものだったのか、という問題でなければならない。」(P.94; P.141上段)

 ヴェーバーは合理性を一義的に決定されるものではなく、時代や立場によって異なるもの
と考えた。それは、貨幣を生むことが、いわゆる経済合理性と考えられる功利主義のよ
うな自己の利益を考えるもの、労働を手段と考えるものではなく、その立場から見ると非
合理的にみえる禁欲的な、職業労働を自己目的として生きる立場において大いに発展した
というところに見ることができる。


3)ルター派、カルヴィニズム、ピューリタニズムの禁欲がどのように資本主義の精神につ
ながったのか、それぞれの宗派の特徴を踏まえて説明して下さい。

「各人は原則としてひとたび神から与えられれば、その職業と身分のうちに止まるべきであり
、各人の地上における努力はこの与えられた生活上の地位の枠を超えてはならない。」(p.122; P.157上段)
「職業労働によってのみ宗教上の疑惑は追放され、救われているとの確信が与えられる。」(p179; P.188下段)
「獲得した富のうえに満ち足りて休息することは、たいていのばあい破滅の前兆だ、…地上
では、望むことがなくなるほどに満足するようなことはありえない。――そうであって
はならないのが神の聖意だからだ。」(p296; P.247上段)

 どの宗派にも共通して言えることは、働くことが宗教的意味を持ち、各々がそれに従事す
ることが神の恩恵に対する義務ということである。
 ルター派は、個々人の内面的な信仰と、神が与えた世俗的日常生活に固くとどまり、労働
に励むという天職観念が重要視された。天職観念には、従来続いていたカトリックの行
為主義的禁欲を危険視し、聖書に基づき「旧約聖書サムエル記でのダビデのゴリアト退治
の動機を参照」、個々人を解放しようとしたルターの試みが読める。
 それに対し、カルヴィニズムは超越的存在である神と自己との結びつきを重視した、選民
的信仰を持つ。そして、神に選ばれている否かの不安を払拭するため、職業労働に従事
することが神の救いを確信する場である。故に信徒は神の栄光を増やすために自分のうち
に生きており自分で自己の救いの確信を「造り出す」自己の内面的孤立化が大切にされる。
 ピューリタニズムでは、休息の危険性が言われる。働くことは神の栄光を繁栄する場であり
、それを怠ることが罪である。財産は神から委託されたもので、人間は神の栄光のため
に管理する義務があり、現状の富に満足せず、不断の努力によって増加しなければなら
ない責任感が必要である。


4)プロテスタンティズムの倫理とベンジャミン・フランクリンの言う資本主義の「精神」
はどのように異なるのでしょうか?

「時間は貨幣だということを忘れてはいけない。」(P.40; P.113上段)
*「貨幣への注意を欠くことは資本の胎児を「殺す」ことで、だから倫理的罪悪感なのだ。」(P.59; ---)
「道徳的に真に排斥すべきであるのは、とりわけその所有の上に休息することで、富の享楽
によって怠惰や肉の欲、なかんずく「聖潔な」生活への努力から離れるような結果がも
たらされることなのだ。」(P.292; P.244下段)
「神の栄光を増すために役立つのは、怠惰や享楽ではなくて、行為だけだ。したがって時間
の浪費が、なかでも第一の、原理的に最も重い罪となる。」(P.293; P.245上段)
「時間が限りなく貴いというのは、その失われた時間だけ、神の栄光のために役立つ労働の
機会が奪い取られたことになるからだ。」(P.293; 245上段)

 プロテスタンティズムのなかでいわれている怠惰による時間の浪費は、職業労働に従事す
ることで、神の栄光を増すことを妨げる一つの罪悪である。また、ベンジャミン・フラ
ンクリンの「時間は貨幣だ」という言葉も貨幣は資本の胎児と考えることで擬人化し、時
間の浪費を倫理的な罪悪感として捉えている。
 この両者の違いはどこにあるかを考えると、プロテスタントの場合は宗教的な意味合いが
強い。なぜなら、彼らにとっての労働は神の栄光を増すものや、神から与えられた天職
といった観念によってなされるからである。フランクリンの場合はそのような宗教的な意
味が薄れているがそこには倫理的な要素が含まれていて、功利主義や幸福主義に基づいた
手段としての労働ではなく、目的としての労働という意味合いが強い。


5)「・・考察の方法としては、宗教的思想を、現実の歴史には稀にしか見ることのできな
いような、「理念型」として整合的に構成された姿で提示するよりほかはない。」
(岩波文庫版:P.141 世界の名著:P.167上段)とあります。この「理念型」とはどのよう
なものでしょうか、説明して下さい。
*「以下の描写は、さまざまな地方のさまざまな部門における事情に基づいて「理念型」的
にまとめ上げたものだ。・・・ここに書かれた通り正確にそのまま行なわれた事例が一
つもなかったとしても、もちろんかまわない。」(P.75; P.130上段)
*「これはただ、我々がここで観察の対象としている起業家類型が決して経験的に得られた
ものの平均ではない、ということを言っているだけだ。」(P.81; P.133下段)

 理念型はマックス・ヴェーバーの提唱した重要な方法論であると思われる。それは、現実
の個別的な事象の個別性を認識する際に、それらの個別性を合わせた平均である「平均型」を
利用することは論理的矛盾に陥ることになり、不可能である。したがって、われわれは意識的にもしくは前意識的に、個別的事象の総体の特徴を観念的に考えているのである。そ
のような「理念型」を用いて、個別具体的な事象の検証ができるのである。
 これは、データを集めてくればそこから理論が生まれるといった立場(実証主義)に対
する痛烈な批判と考えることができる。われわれは、そのデータを集めるときにすでに
何らかの観念的なものを持っていなくては、そのデータ収集さえも行なうことができないとい
う認識論を展開したと考えられる。
 また、カントが述べた認識のツールとしての感性とそこから得られたデータの処理の形式
としての悟性と近いものといえるのではないだろうか。

<補充>(「哲学・思想事典」岩波書店 より)
理念型

人間・社会・文化の科学における概念の基本特性を浮き彫りにするために、マックス・ヴェ
ーバーが案出した用語。あい連関する二つの逆説的主張よりなる。まず第一に「理念」
(あるいは「観念」)という形容に関わるもので、「現実」を科学的に認識するには、純
粋に観念的に構成された「虚構」が必要不可欠であるという主張。概念と実在との分裂を
所与の前提とすると、模写や直観で現実を把握することはできない。人為的に構成された
概念や仮説を導きの糸に因果帰属を行ない一歩一歩断片的現実を整除するよりほかない。
思惟による整序は、現実そのものを直接反映することなく、虚構という性質を失うことは
ない。とはいえそれは、特定の仮説を思いつかせ、更なる因果帰属を必然化するという点
で「発見的」意義を持つ。第二の主張は「(類)型」という用語に関わるもので、歴史的
事象の個性的特質を認識するには、抽象概念が必須不可欠であるという逆説。質的に独自
な対象を発生的に理解するには、対象を個性的に描き出すことが必要である。歴史的過程
や関係をそれ自体矛盾を含まないような一つのコスモスとして提示するような概念を構成し
、それとの比較考量によって対象の個性は明らかになる。多数の現実から帰納的に得ら
れた「平均型」を用いて個性を浮き彫りにすることはできない。価値関心に従い特定の観
点を定め、それに基づき一定の要素を選び出し、それらを論理整合的に結合して形成され
た概念、すなわち純粋に思惟によって構成された極限概念こそが、個性的事実の因果認識
のための準拠点になる。理念型の持つ個性の普遍的把握の可能性を明らかにするために、
フォン・シェルティングによって個性的理念型と一般的理念型という区別が提案された。
ウェーバーが学問研究に求めた価値自由を、概念装置の面から補完・補強するのが、この
理念型に関する議論である。
マックス・ヴェーバー(富永祐治・立野保男訳)「社会科学方法論」岩波文庫1936


<<提題>>
プロテスタンティズムの倫理が資本主義の発達に大きな影響を持っていたとヴェーバーは結
論づけています。それでは、そのような倫理は現在の不況といわれている日本の景気を
回復させるための有効なものといえるでしょうか?



Back