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トーマス・クーン「科学革命の構造」
レジュメ
文責:吉本陵
(8月10日update)

<提題1>
科学者は何のために科学をするのか?

 ボクが人と出会って感じるのは「この人は<その先に>なにを見ているのか」ということ。「環境問題を扱ってる学部にいます」「演劇やってます」「西洋の思想史を勉強してます」「主婦やってます」・・・その先になにを見ているのか。これは自分自身の問題であるから、人のが気になる。たとえ大学でどんなに苦しんで勉強してもその人がその向こうに卒業ー就職ということを見ているのなら、「こんなに儲かる仕事に就いてます」「こんなに社会的に地位のある職業やってます」というところにしかたどり着かと思う。
 さて、科学者は<その向こう>に何を見ているのだろうか。
 つまり、彼らが欲したのは、『プリンキピア』と大陸は力学とが陰に陽に教えていることをもっと論理的に整った形にして、力学の新しく整備された問題に応用する際に、より統一がとれてあまり曖昧でないようにすることであった。(p.37)
 彼を駆り立てるものは、腕さえあれば今まで誰もできなかったパズルをうまく解けるという信念である。(p.42)
 科学者たるものは、たとえば世界を理解しようと心がけ、その理解の精度を高め視野を広げようと常々心がけていなければならない。(p.46)
 科学者は、教育やその後の文献の精通によって得たモデルから仕事を始めるのであって、その科学者の属する集団のパラダイムの地位が、どういう性格のものであるかを知りもしないし、知る必要がないことが多い。(p.51)
 そのようなルールや仮定は、あとから歴史的哲学的研究で見つけられ、付け加えられるものである。(p.52)
 もし科学者に「何のためにやってるの?」と聞けば、返ってくる答えは「おもしろいから」「やりたいから」という答えだろう。彼らは「よーい、ドン」で走り出し、一位になることを懸命に行っている。「なぜ走るの?」「その先にゴールがあるから」というわけなのだ・・・

<提題2>
自己と他者は「通約不可能」な関係にあると考えられますが、その自己と他者とのコミュニケーションはどのようにすれば成立するでしょうか。

 コミュニケーションとは自己と他者が共同性を築くための手段の一部分である。
 自己と他者は同じ人間であるが、自己の「あり方」と他者の「あり方」は決定的に違う。確かに自分は共同性の中で生きているとは思うのだが、どこまで行っても自分の世界しかない気もする。自分が発する表現は自分にとっての意味しか持たないし、それをそのまま理解してくれる他者は決していない。なぜならば、もし完全に他者を理解してしまえば、それは自己と同化してしまうからである。その他者とどのように理解しあうことができるのか。
 翻訳による部分理解をクーンは挙げる(科学者の世界においてであるが)。この発想を自己と他者との相互理解という場合にも使えないだろうか。自己と他者は部分的には理解しあえる部分を持つ。理解できない部分は人間の尊重という言葉において「そのまま」にされる。理解しあえる部分において共同性を築き、理解できない部分はそのままにしておくことが、共同性と個の共存ではないか。共同性は、個を消失させる。個の消失が良いとか悪いとかということではなく、一度個を獲得した個人はそれを手放そうとはしないであろう(宗教というものはある種の個の消失なのかもしれない)。しかしながら、個としてのみの人間は生きていくことができない。そのために個と共同性を共存させることが必要となる。そしてその場合に、個と共同性のバランスをどのように取るのか、ということが重要となるのである。

1.パラダイムは何故ルールに優先するのでしょうか。通常科学と異常科学のメカニズムを念頭において説明してください。

引用
 ルールはパラダイムから得られるが、パラダイムはルールがなくとも研究を導きうる。(p.47)
 しかし、ヴィトゲンシュタインは、われわれが言語を用いるやり方やそれを当てはめる世界を与えれば、そのような一連の特性は必要がないと結論した。「多数」のゲームとか椅子とか木の葉に共通した「いくつかの」属性を論じることが、その言葉の使い方を学ぶ上で役に立つことがあるけれども、その部類のすべてに、しかもそのすべてだけに同時に当てはまる一組の特性というものは存在しない。(p.51)
 通常科学は、関係する科学者の集団が特定の問題と解答をすでに定説として問題なく受け入れる限り、ルールなしで進行しうるのである。だから、パラダイムやモデルが不安定に感じられるときには、ルールは常に重要になり、通常科学時代の特徴たるルールに対する無関心は消滅する。(p.54)
 そのようなルールや仮定は、あとから歴史的哲学的研究で見つけられ、付け加えられるものである。(p.52)

解答
 パラダイムはある思考様式であると考えられる。判断の枠組みといえばいいだろうか。そしてその結果として抽出されたものがルールである。通常科学においては、ルールというものは特に意識されない。しかし、パラダイムがどうやら怪しくなってきたときに問題になるのはルールである。このルールはおかしいのではないかという疑問が立ち現れてくる。そしてそのルールのおかしさを検証していくうちに実はパラダイムが違うのであるという事実に直面する。それは一見ルールがパラダイムに優先するように思えるが、それは外面的なものである。パラダイムが無意識的なもので、ルールが意識的なものであるといえばわかりよいだろうか。

2.科学の教科書はどのような役割を持つのでしょうか。
引用
 かくして教科書は、研究に対する科学者の歴史感覚を嬌めることによって始まり、次に嬌めたところに何か代わりのものを置き換える。(p.155)
 当然の、しかも高度に機能的な諸理由によって、科学の教科書は(また、古風な科学史のほんの多くも)、過去の科学者の仕事のごく限られた部分、つまり、教科書のパラダイムになっている問題や、その解答に直接役立つように見えるものだけにしかふれない。(p.155)
 上に述べた諸例は、それぞれの革命の事情の中での歴史の再構成のはじまりを示している。その再構成はふつう革命後の科学の教科書によって完成される。しかしその完成において、上に例示した誤てる歴史の再構成が何重にも含まれることになる。(p.158)

解答
 パラダイムが変化し、革命がなったことの証明として、教科書というものは存在するのだと考えられます。しかし、その教科書というものは、パラダイムの歴史を述べるものではなく、その新しいパラダイムから「科学というものはこういうものだ」と主張するのです。そして教科書はそれを学ぶ人のパラダイムを規定するのです。

2-1.科学者の住む世界と実際の世界の違いは端的に言えばどこにあるのでしょうか。

解答  端的に言えば、時間のずれです。
 提題に書いていたことと関係するのですが、科学者は世界を理解する人らしいです。世界というものをその研究の対象とし、理解しようとつとめます。共同性を喪失し、自己と他者という関係のもとでしかものを考えられなくなった近代人にとって、科学者は近代人の持つ近代性を体現するものであり、先駆者なのです。したがって、一般人は科学者の敷いたレールないし、彼らが切り開いてくれた道を進むことしかできないし、その道からはずれることは考えられないのです。

3.何故パラダイム間には通約不可能性が生まれるのでしょうか。

引用
 「パラダイムの存在は、解くべき問題を設定する。」30
「革命前と革命後の通常科学の伝統の間に同一の基準で計れないものがある・・・。」167
「新しいパラダイムは古いものから生まれるゆえに、普通、古いパラダイムが今まで使ってきたのと同じ用語や装置、概念や操作を多く使う。しかし、新しいパラダイムが、古いパラダイムから借りてきた要素を全く同じように使うことは稀である。新しいパラダイムの下では、古い用語、概念、実験はお互いに新しい関係を持つことになる。その結果、適切な言葉ではないかもしれないが、二つの対立する学派間の誤解と呼ぶものに、不可避的にいたるのである。」168
「・・・避け得ない論争の中にある各派は、どちらも携わっている事件、観測的状況のあるものを、異なったふうに観ていることを論じた。しかし、・・・ほとんど同じ言葉を使っているゆえに、彼らは用語のあるものに異なった性格を付与しているに違いなく、彼らの間のコミュニケーションは、不可避的に片寄ったものになる。だから、一つの理論が他の理論に優越することは論争で証明し得ないことである。」227

解答
 異なるパラダイムは、異なる解くべき問題を持つ。解くべき問題が異なるために、議論がすれ違ってしまうことが第一の理由である。そして、パラダイムが移行したとしても、その成員が全く入れ替わるというとではないので、同じ用語や概念がパラダイムが変わると違う意味や文脈で使われることが出てくる。すなわち、ウィトゲンシュタインの言語ゲームの議論のところによると、認識というものは「家族的類似性」と呼ばれる類似性を持つ一連のグループのセットで成立する。この認識のセットはパラダイムが変わってもそのまま保存されるのだが、その関係の解釈が変わってしまう(コペルニクス前後における地球と太陽)。この時にも議論がすれ違ってしまう。またパラダイム間で議論が行われる時は、焦点となるのはそれぞれのパラダイムの前提となる部分なので、論理的に相手を論破することはできない。このために通約不可能性が起きるのである。

3-1.中立言語は何故成立しないのでしょうか。

引用
「例えば力学では、ニュートンの三つの運動法則は、新しい実験の成果というより、むしろ無性質の基本粒子の運動と相互作用で既知の観測を再解釈する試みであった。」118-119
「しかし感覚的経験は、固定した中立的なものであるか。…しかし、その観点はもはや有効に機能しない。そして、中立的観測言語を導入して機能させるようにする試みは、今や私には絶望的と見える。」142
「彼が常に見ているのは黒のハートの五であることを、外側の権威に、つまり実験者によって保証されるので、知覚像が変わったに違いないことを知る(より正確には、そのように説得される)。」128

解答
@名前には常に対象がある。その対象に名前をつけるという行為がすでに意味付けであり、その対象に関する解釈をすることになるのである。ある対象をAと呼ぶかBと呼ぶか、という時点でその対象に対する解釈が入り込んでいるのである。したがって、その対象に関わろうとする場合に、AからもBからも等距離の場所に身をおくことはできない。このことがすなわち、中立言語が存在しないということなのである。
Aパラダイムが違うということは、認識の構造が異なるということである。あるパラダイムにおいて対象を認識するということは、そのパラダイムの認識の構造にその対象を当てはめるということである。したがってパラダイムが異なれば同じ対象で、同じ名前を持つものであっても認識に構造が異なるために、その当てはめ方も変わってしまい、対象の捉え方も変わってしまう。
 また、次のようにも言える。対象を「裸のまま」認識することができたならば、その認識は中立言語によって行われたといえるのであるが、それは不可能である。したがって、中立言語は成立しない。

4.クーンは旧パラダイムから新パラダイムへの移行を「進歩」といっていますが、それはどのような進歩なのでしょうか。

引用
 「・・・新しいパラダイムは、その前任者によって勝ち得られた具体的な問題解答能力の大部分を保持することを約束せねばならない。」191
「この本で描いた発展の過程は、原始「から」の進化の過程であって、・・・何ものか「へ」の進化の過程については何も語っていない。」193
「生物進化の場合と同じく、この全ての過程も、定まった目標、永久に固定した科学的真理というものがなくとも起こりえたであろう。」195
「・・・科学の発展は、生物の進化のように定向的で不可逆的な過程である。後に出た科学理論は、前のものよりも問題を解く能力において、時には全く違った状況にまで適用できる、より良いものである。」237
「『真にそこにある』という言葉が何を意味するか分からないからであり、また一つには、理論の実体論とその自然における『真の』対応物との間の適合という観念自体は、私には原則として今や幻想に見えるからである。」237

解答
 クーンは明らかに科学革命の前後で「進歩」はあると言っている。しかしながら、その「進歩」は通常考えられているような「真理」に近づいていくという意味での「進歩」ではないのである。なぜなら、すべてのパラダイムはその中に前提を内包しているからである。前提を持っているという意味で、すべてのパラダイムは同列に並べられる。同列に並んでいるものの中から、精確性、無矛盾性、広範囲性、単純性、多産性、の五項目を総合的に判断することによってより進歩したパラダイムが成立するのである。したがって、その進歩とは進化論になぞらえて、真理に向かう進歩ではなく、新しい環境(新しく生まれた解くべき問題、すなわち旧パラダイムにおいてはパズルとみなされていた問題)に適応したパラダイムへの進歩なのである。

5.科学革命の構造を把握することと歴史を解釈することとの関係を説明してください。

(グループワーク)

6.「最初のパラダイムができて以降のパラダイム間の通約不可能性」と、「最初のパラダイムが成立する以前の状態と最初のパラダイムとの通約不可能性」には大きな隔たりがあると考えられます。それは何故なのでしょうか。

(引用1)
 「ヴィットゲンシュタインは、我々が言語を用いるやり方やそれを当てはめる世界を与えれば、(ものの)特性は(何であるか、と問うこと)は必要がないと結論した。・・・観察されたことのない活動に直面して、いま見ていることが、これまで「ゲーム」という名前で呼ぶ慣わしであった多数の活動との間に密接な「家族的類似性」を認めるから、ゲームという言葉を使うのである。・・・(ものの特性は)自然の家族であり、・・・似たもの同士を構成する。このような類似性が存在するからこそ、それぞれ対応する対象や活動をうまく同定できるのだ。・・・同定や命名の成功が、我々の用いる部類の名前の各々に対応した一連の共通の性格があることの証拠を与えるのである。」p.51
(引用2)
 「ニュートン力学からアインシュタイン力学への移行は、外から他の対象や概念の導入を含まないものであるから、特に科学者が世界を観る概念体系を置き換えるものとしての科学革命を明確に例示している。」p.116

解答
 短時間的な視野で近代以降の一つパラダイムを考察してみると、科学者たちの科学的成功とは、共通のものの見方=現象をどのように科学者の認識枠組みに当てはめるか、にかかっている。それは、現象という自然の記号体系を一つのものの見方で解釈にかける、ことである。つまり、自然のネットワークを記号体系として捉えることにあるのではなく、概念化することによって把握する。
 中時間的な視野で、通常科学から異常科学への以降を考えてみると、その位相は、記号体系間に見られる類似性をセットのまま保存し、次のパラダイムへと引き継ごうとする。そこには、現象に名前を与えることによる記号体系そのものは変わらないとしても、記号体系に与える解釈が変化を見せている。また、ニュートンからアインシュタインへのパラダイム変化をみても、光という現象にどう解釈を与えるかということが問題であり、粒子そのものや波そのものといった現象構成物に与えた名前は変化しない。
 長時間的な視野をもつと、近代以前と近代以降では、同じパラダイムという言葉を使えないほど科学の質が変化している。近代以前の科学的営みは、学派間の対立が見られるような状況=同じ現象に対して、様々な解釈の複数性を許容する状況=記号体系の複数性が成立可能であった。
 これらを総括してみると、近代の科学革命を支えてき根底的な思考方法は、自然現象をどのように概念化し、人間の理解力に取り込むか、という大きなパラダイムであり、そこに科学者に限らない人間の認識の暴力性(同化)を見ることができる。トマス・クーンの仕事は、純粋で価値中立的な科学を一つの解釈と把捉し、それが相対的であることを指摘したことにある。また同時に、科学革命の構造を通じた近代人の解釈とも言える。


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