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『老子』

世界の名著4「老子・荘子」(中央公論社)

発表者:堀川万仲
10/12/99



文責:万仲龍樹
11/02/99 Update
1)道とはどのように理解できますか。

 1、14、16、25、30、32、34、37、51、65(章)など参照

1:道の道うべきは、常の道にあらず。名の名づくべきは、常の名にあらず。
名無きは、天地の始めにして、名あるは、万物の母なり。

25:・・・吾其の名を知らず。之に字して道という。強いて之が名を為し
て大という。大を逝といい、逝を遠といい、遠を反という。故に道は大なり。

32:名は常にして名無し。樸は小なりといえども、天下に能く臣とするも
のなし。・・・

37:道は常に為す無くして、しかも為さざるは無し。・・・天下将に自ら
定まらんとす。


2)万物が道に従って生きることは、即ち何を意味しますか。

引用
16;根に帰するを静という、是れを命に復すという。(根もとにもどること
、それが静寂と呼ばれ、天命に従うことといわれる)命に復するを常という
。常を知れば容なり。(常を知る人は、全てを包み容れることが出来る)

46;罪は欲大きより大なるはなく、禍は足るを知らざるより大なるはなく
、(欲望が大きすぎることほど大きな罪悪はないし、満足することを知らな
いことほど大きな災いはない)

51;是を以って万物は、道を尊んで而して徳を貴ばざるはなし。(それゆ
えに、あらゆる生物はすべて「道」をうやまい徳をとうとぶものだ。)・・・
常に自ら然り。(それは常に自ずからそうなのである。)


(解答)  植物が土から生まれ、最期にその土に返ることのように、そのものが自分
の本性に従い、根本に帰することである。又人間にとっての道に根ざした生
き方とは、物的所有欲や心的な志を捨てることであると老子は述べる。こ
れらの否定は、それによって人間が自分の存在の根本にある共同性に気づ
くことを示唆し、そこに帰結することを意味する。


3)無為とは「(行)為すること無し」と読むことが出来ます。これは、
何もしないことなのでしょうか?

引用
41;夫れ唯道は善く貸して且つ成す(道こそは何にもまして全てのものに
援助を与え、しかもそれらが目的を成し遂げるようにさせるものである。)

64;未だ乱れざるに治る(混乱が起こらないうちに秩序だてる)  
  ;万物の自然をたすけて、而も敢えて為さず。(万物がその本性に従う
ことを助けてやる、しかし行動することを進んではしない)

 81;既く以って人の為にして、己は愈いよ有り。(何もかも他人のため
に出し尽くして、自分はさらに豊かである。)
   ;天の道は、利して而して害せず、聖人の道は、為して而して争わず
。(天の道は、利益を与えて害を加えないことであり、聖人の道は、行動し
て争わないことである。)

(解答)
道に精通する聖人のあり方は、万物が心身の本性に従うことを干渉しないよ
うに治めることである。ここから老子は、政治思想として必用最低限の行動
を取る者を必要とした。


4)水という比喩が8章などに出てきます。なぜ、水という比喩を用いよ
うとしたのでしょうか。

 8:上善は水のごとし。水は善く万物を利してしかも争わず。衆人の憎む
ところに処る。ゆえに道に近し。

 6:谷神は死せず、これを玄牝という。玄牝の門、これを天地の根という
。綿々として存するがごとし。これを持ちうれどもつきず。

(玄:黒い、奥深い道理、しずか)
(玄武ーー四神の北を表わす。水の神。)
 1:道の道うべきは、常の道にあらず。名の名づくべきは、常の名にあらず。
名無きは、天地の始めにして、名あるは、万物の母なり。

 34:たとえば道の天下に在ること、猶川谷の江海に於けるがごとし。


(解答)
 「水」はすべてのものに対して恵みを与える、また、すべてのものが生ま
れくる源泉であると老子は述べている。それはどのような意味で「道」の比
喩となっているのだろうか。道に対して1章で老子は道は名づけることが
できないが、そこから名をつけることによって万物が生じてくるという。こ
の点で、「道」を「水」という比喩で表わす理由となるだろう。
 また他方で「道」を意味文節化のできないものとして、ダイナミズムのあ
る全体として34章では述べている。意味文節化して(名を与えて)捉えよう
とすれば捉えられなくもないが、そのときには本当の意味での道ではない。
ここでも、水を比喩として用いている。(川の流れとa glass of water)
 さて、老子が「道」を「水」で表現したように、「万物の根源は水である。」
と述べた人物がいる。タレスである。以下の引用は、老子の「道」=「水」
と考えた背景と近いものではないだろうか。

廣川洋一「ソクラテス以前の哲学者」講談社学術文庫
 あらゆる生命にとって不可欠なもの、可変性に富んだもの、普遍的なもの
である「水」は、複雑で多様な自然現象の説明にとって極めて有効である。
それはまた決して神話的、超越的なものではなく、私たちが日常最もよく
経験するものにほかならない。宇宙万有は、この有効な説明原理によって
統一的に全的に了解されることになるだろう。タレスの言葉とされる「大
地は水の上に横たわる」はおそらく「水」をもとのものとする、彼の宇宙
生成説の中によく適合するものであったと考えられる。自然万有は自ら生
成するだけでなく、また水へと還る。かくて水は永遠つまり神的なもので
もある。私たちはここで、日蝕や大地の存在形態など個別な事象に関わる
合理的思考、合理的説明を越えた地平を望見することになる。すなわち宇
宙万有を全体としてその視野のうちに置き入れ、統一的に説明し理解しよ
うとする思考法式に出会うことなったのである。
 あらゆる物の原理としてかたられた水は、しかし単に私たちのいう「物質」
ではありえない。元のものとしての水は、生命原理、つまり魂(プシュケー)
にほかならない。生命原理としての元のもの、水からなるこの自然万有
はしたがって生命をもつ「生ける自然」なのである。タレスの言葉として伝
えられる「万物は神々に充ちている」は、プシュケーとしての水が宇宙全
体に遍在することを語るものであろう。広大な宇宙万有にあまねく行きわ
たり、ものみなに生命と活動を与えるものこそ、ギリシア人にとって、
「神的なもの」にほかならなかったのである。(P.51to52)


*玄徳ーーー「道」と「玄」

51:道は之を生じ、徳は之を畜い、物ごとに之を形あらしめ、勢いもて之
を成す。是を以って万物は、道を尊んでしこうして徳を貴ばざるはなし。道
の尊く、徳の貴きは、それ之に命ずることなくして、常に自ら然り。故に
道は之を生じ、徳は之を畜う。之を長じ之を育み、之を亭んじ之を毒して、
之を養い之を覆う。生じてしかも有せず、為してしかも恃まず、長とな
りてしかも宰たらざる、是を玄徳という。

「道」、「自然」、「玄徳」

65:古の善く道を為す者は、以って民を明らかにするに非らず、将に以っ
て之を愚かにせんとす。民の治め難きは、其の智の多きを以ってなり。故に
智を以って国を治むるは、国の賊なり。智を以って国を治ることをせざるは、
国の福なり。此の両つの者もまた稽式なることを知る。常に稽式を知る
、是を玄徳という。玄徳は深し、遠し。物と反る。然る後にすなわち大順に
至る。

「道をおこなう」、「稽式(規範)を知る」、「玄徳」

 「道」と「水」、そして「玄徳」。水の神秘性ー生命原理などと「玄」の
神秘性と道の捉えがたさ・神秘性の関連。


5)自分の気に入った箇所(章)をどのように気に入ったかを理由を含め
て説明して下さい。(5分程度を目安に。)


(解答1)
16章
身を没うるまであやうからず(その人の身体に終わりが来るまで、危険はない。)
仏教の輪廻転生や、エジプトの死後の世界のような発想は無く、身体
の死をもって帰結とする。


(解答2)
11:三十の輻、一つの穀を共にす。其の無に当たって、車の用有り。埴を
かためて以って器を為る。其の無に当たって、器の用有り。戸ゆうをうがっ
て以って室を為る。その無に当たって、室の用有り。故に有の以って利と
為すは、無の以って用を為せばなり。

@人間の構築によって有(有用性)が生じる、と考えることの危険性を述べ
ていると考えられる。しかし、その構築によって生じたと思われる有も「道」
から生じてくるものである。

Aさらに、考えをすすめると、現在の複雑性の考え方の一つ、emergent
 propertyに近いものがあるのではないかと思われる。器の例で考えると、器
を構築する、土を集めただけでは、器としての用をなさない。その土の集め
方によって、その中心の空間という特性が生まれ器としての用をなすよう
になる。その時に、還元的に認識する事のできないものとして道を考える
ことも可能であろう。


6)老子は、「自然」という言葉を何度か用います。そのときに、
「自然」とはnature のことをさしているのでしょうか。

17:・・功は成り事は遂げて、百姓皆我を自然なりといわん。

23:希に言うは自然なり。故に瓢風も朝を終えず、驟雨も日を終えず。
・・・故に道に従事する者は道に同じ。・・・

25:・・・道は自然に法る。

51:・・・道の尊く、徳の貴きは、それ之に命ずることなくして、常に自ら然り。・・・
 「道」にしたがって行動を行なうこと、それが自然であるという。そのと
きに「自然」という言葉をnatureという意味で扱っているわけではない。し
かし、23章に見られるように、人の「おのずからしかり」という意味での
自然を「nature」という意味での自然と重ねあわせ、人間と自然をアナロ
ジーとして考えていると思われる。

(*自然学の本質は人間学である。)




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