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文責:井上・上野山


絶対知  (発表原稿99/11/25)

「意識が自分に関して行う経験は、その本質からして、意識の全系列を、あるいは、精神の真理の全領域を、掛値なしに内に含むから、独自の形をとって現われる一つ一つの精神の真理は、抽象的純粋な真理として現われることはない。意識と真理との具体的なつながりの中で、全体を構成する一つ一つの要素がまさしく意識の形態として現われるのである。意識が自分の本当の姿にまで行きつくと、意識は自分に対して他なるものとしてしか存在しないような異物につきまとわれることがなくなり、表に現われたものと本質とが一致し、意識の表現がまさしく本来の精神と学問と一致するようになる。このようにしてついに意識が自ら自分の本質を捉えるに至ったとき、絶対知の本当の姿が見えてくるのである」(p.63)

意識の諸段階においては、総体性Totalit?t(精神)がそのまま現われることはなく、それぞれの意識の形態に即して一面的に示されるのみであった。

1. 意識の経験/臨在する精神

「経験のうちにないものは…、知の対象とはならない。経験とは、まさしく、…精神がそれ自体で本体としてあり、意識の対象ともなることなのだから。が、精神にほかならぬ本体は、それがもともとあった姿へと還って行く。自分へと還って行くことの過程を通して、はじめて精神は本来の精神となる(*1)。その運動は認識の運動でもあって、その中で、潜在的なものが顕在的なものに、実体が主体に、意識の対象が自己意識の対象に、つまり、対象性を克服した概念に、転化していく。それは、円環を描いて自分へと還って行く運動であり、はじまりで前提とされたものに最終段階でようやく到達する。精神がこのようにさまざまな段階を内に抱え込む以上、その全体は単一の自己意識の対極にあるものとして直観される。そして、全体がさまざまな段階に分かれるとき、その区別は、純粋な概念や、時間や、潜在的な内容の上での区別として現われる」(P.543)

(*1)「精神が精神となるためには、世の中に思考をもって現実に存在し、もって絶対の対立を経験し、そこから、まさしく対立を通して、対立の中で、自分へと還ってこなければならない」(p.540)

2. 表象と概念の対立/否定の運動における克服

「自我は、まるで外化を怖れてでもいるかのように、実体ないし対象の形式に対して頑固に自己意識の形式をまもるような、そういうものではないのだ。精神の力とは、むしろ、外化の中にあって自分を失わず(*2)、内外ともに自由な存在として、内なる自己と外なる自己をともども要素として抱え込むこと(即自かつ対自的に存在するものとして、対自存在ならびに即自存在を契機として措定すること)にある」(p.546)

「初めにある潜在的な状態は、否定力を持つから、本当は媒介されたものである。その本当の姿がいまや表に出てきて、否定の力がそれぞれの相手に向けられ、潜在的には己を破棄する力となる。対立する二つの部分の一方は、自分に引きこもって一般原則に背反する個としての存在であり、もう一方は、個に背反する抽象的な一般原則である。前者は、自分の自立性を封殺・放棄し、自分の非を告白する(*3)。後者は頑なな抽象的一般原則を放棄し、生命なき自己と動きのない一般性を亡きものにする。かくて、前者には存在の本体たる一般性の要素が備わり、後者には自己の一般性が付け加わる。こうした行動過程を通じて、精神は、純粋な知の普遍性が自己意識となったものとして、或いは、自己意識が知という単一の統一体になったものとして登場してくる」(p.540)
共同の内にある自己を自覚する知
「時間とは概念が存在の形をとったものであり、概念が空虚な直観として意識に思い浮かべられたものである。だからこそ、精神は時間のうちに現われざるを得ず、精神が己の純粋な概念を捉え、時間を除去してしまうまでは、時間のうちに現われざるを得ない。時間は外面的な、直観された自己であり、自己によって捉えられることのない純粋な自己であり、直観されるしかない概念である。概念が自分を捉えたときには、時間の形式は破棄され、直観が概念化されて概念は概念的な直観になる。要するに、時間は完成の途上にある精神の必然的な運命として現われる。それは自己意識と意識との関わりを豊かにし、神が意識される形式たる潜在的なイメージを、動きのあるものとし、逆に、内面にあるとされる潜在的なものを実現し、顕在化し、自己確信へと導く必然的運命である」(p.542)

3. 絶対知

「ここに精神の最後の形態が現われる。それは、完全にして真なる内容に、自己という形式を与え、もって、概念を実現するとともに、現実の中で概念を堅持する精神だが、それこそが絶対の知である。それは、精神の形態のうちに自己を知る精神であり、概念的な知である。真理は潜在的に確信とぴったり一致するだけでなく、自ら自己確信の形態をとるのであって、真理が目に見えるものとしてあり、知の精神に対して、その精神が自分を知るという形で存在する」(p.541)

4. 精神の自由:自然と歴史:外化(entauserung)_内向(inner-gehen)_記憶(Er-Innern)

「知は己を知るだけでなく、己の否定面や限界をも知るものであって、己の限界を知ることは自己を犠牲にできるということである(*3)。この自己犠牲によって精神は外化され、精神の転変を、自由にして偶然の事件という形で表現し、純粋な自己を外なる時間の経過として捉えるとともに、空間的な存在としても捉える。精神の空間的存在とは「自然」のことだが、それは精神が生きて目の前にある姿である。精神の外化である自然は、永遠に存続しつづける外化の姿であるとともに、主体を樹立する運動でもある」(p.547)

「その対極をなす「歴史」は、知を媒介とする過程であり、時間のうちに外化された精神である。が、この外化は外化の外化であり、否定の否定である。その過程は、さまざまな精神の緩慢な運動と継起を表現する、画廊のごときものである。一枚一枚の絵には精神の富がたっぷりと盛り込まれて、絵から絵への歩みもゆっくりと行われるが、というのも、自己が共同体の富の全体に分け入り、それを消化するには、時間が必要だからである。精神の完成が自分の本当の姿?自分の本体?を完全に知ることにある以上、この知は内へと向かわざるを得ず、その内向の過程で現実の存在は捨て去られ、精神の形態は記憶にゆだねられざるを得ない。内向の過程で精神は自己意識の夜に沈み込んでいくが、失われた存在がそこには保存されている」(p.548)



 
1. 知の位置づけ
2. 近代における共同知の可能性

「まずもってなすべきは、認識は絶対的なものを捉える道具であるとか真理を写し出す媒体であるといった無用のイメージや言い草を捨て去ることだ。認識と絶対の真理とを切り離して考えるからこそ解決不可能な問題が生じてくるのだ」(p.53)

 道徳意識においては、次のような個の自由が描かれた。「自己意識が自由になればなるほど、意識の向こう側にある対象も自由になる」(p.409)。つまり、自己は一見自然との関係性を考えるものであるようにみえるが、実際は他に左右されない自律存在を意志するものである。その結果、自然は、ありのままの姿を奪われた従属的な存在として想定されることとなった。だが、他との関係性を断ち切って自己完結した世界にこもる道徳意識が獲得したかに思える自由とは、共同へと至ることのない孤独な個人知として表現された。その裏返しとして、個の操作性から逃れた自然の自由が皮肉的に表現されていた。

 他との関係性を省みない個の即自的なあり方と自然の対自的なあり方は、孤独知が抱える一面性の破棄により快復へと向かう(=個の対自的なあり方と自然の即自的なあり方が顕在化される)。孤独知が至る運命が自覚されたとき、個は自らの認識が、ただ道具的な知としてしか使用されていなかったことに思い至る。破棄されるのは、盲目的な意志に対する認識の従属的なあり方である。こうして、表象の構築力に賭ける孤独な知のあり方は破棄され、表象は概念内容を獲得する。認識形式は、ただ表象を産出するための手段として所有されていた状態から解放され、個は、空間と時間において他との関係性の内にあることに対する自覚へと至る。

 表象に対置して想定された概念のもつ意味とは、道具的に使用されるのみであった認識が、その本来の意味、すなわち他との相互関係を自覚する知を表現するところにある。相互関係という限りは、ただこちらから働きかけるだけではなく、他からの作用を受け入れ、同時に自らの限界を承認する側面もまた表現されている。それは、神の掟に表現されていた、守り引き受ける精神でもある。古代的共同体にあっては現実の光のもとに、力なき影としてのみ存在するものであったが、ここではそのような分裂はすでに克服されている。分裂の中で失われるのは、自己の儚き一面性であって、関係性に包まれた自己が失われるのではない。これまで他を亡きものにすることに振るわれた否定の力は、ここでは孤独な知のあり方そのものへと向かうものである。

 孤独化へと至る知の本質を洞察すること、そこに彼が考える学問 Wissenshaft の第一の契機がある。それは決して、自己に閉じこもり、自ら信じる真理へと向かって知を道具知へと貶めるものではない。むしろ、他との関係性の中において己を知り、相互承認のもとで共有される綜合知 Gewissen へと向かうものである。そのとき、知は愛を表現し、共同知の内に浸透する。ただ、それは絶え間なく繰り返される知の運動においてである。その運動の過程で破棄されるべきなのは、静止した対象へと自らの欲求充足の場を見出すだけの死せる精神であった。新たなる時代の幕開けを担うべく知のあり方を探求するヘーゲルにとっては、生命なき孤独へとひた走る近代人の運命が、火を見るより明らかであったからであろう。