文責:上野山・関戸
V.理性の確信と真理
-B.理性的な自己意識の自己実現
-C.絶対的な現実性を獲得した個人
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B.理性的な自己意識の自己実現
■「万人がわたしであり、わたしが万人なのだ」(p.239)、そのような状態が「自由な民族」においては実現されていたという。しかし理性は、自由な民族において実現されていた「幸福の状態から脱け出さなければならない」(p.239)。それはどうしてでしょうか。
「現実の民族共同体に浸りきって日常生活を送る個の意識は、共同体に無垢の信頼感を抱いていて、その意識にとっては共同体精神が抽象的に分裂することもなければ、意識自らが純粋な個として自立することもない。
が、『必然の道筋として』純粋な個の思想が現われてくると、
共同体精神と素朴に一体化してそこに安住できるといった信頼感は失われる。共同体精神が本体ではなく、孤立した自分こそが本体だと感じられる」p.240
まず、「物が自己であり、自己が物であること」を発見した自己意識は、自ら構築するネットワークを、物の世界のネットワークの中で考え、そしてその両者が互いに排除(否定)の関係にあるのではなく、承認(肯定)の関係にあることを見出すことになります。この否定の関係から肯定の関係への移りゆきは、「生死をかけた闘争」から「共同体精神の王国」への移りゆきと対応するわけです。そのとき、「万人がわたしであり、わたしが万人」であるという状態、すなわち、個の行為(そしてそれに伴う欲望)が共同体(共通の技術や習慣を含む)の中で摩擦を起こすことなく、同時に、個の行為の内容がまさしく共同体により与えられる、そのような調和状態が成立している(=個の行為が万人の行為と交錯している)わけです。
さて、ヘーゲルによると、自由な民族共同体においては、そのような状態がすでに実現されていたと、まずは想定されます。そのとき個は「ありのままの自然体」で共同体精神を体現し、それが共同体精神であるということを意識することはありません。それは「ただそこにある」というだけで、個人は習慣に抗うこともなく、古の掟や知恵を素朴に受け継ぎ、引き渡すわけです。しかし、「わたしたちの生きる近代にあっては」もはやそのような共同体精神は失われていると、そう考えるならば、失われた共同性の後に現われる動きは次の二つの様相を合わせ持つことになります。すなわち、
1、個が共同体精神を引き受ける。すなわち、個が構築するネットワークを共同体精神へと拡大しようとする。そのとき個の意志は共同体精神へと向けられ、まさしく共同体精神を対象とした個の自然衝動(欲望)が発動されることになるわけです。その意味では、追求の対象である共同体精神そのものに重点が置かれるといえます。
2、共同体精神を対象とするということは、個の自立を目指す運動であると同時に、個の自立を破棄する運動でもあるということになります。これは、自己意識が二重の存在であったことと同じことを意味します。すなわち、他をなきものにすることによって自立を獲得しようとする試みは、ついに他をなきものにすることができずに常に他を必要とし、だからこそ他を再生産し、欲望を再生産するプロセスを確保せざるをえないという状況です。しかし、そのときの他とは、自らのネットワークの中で構築した存在であり、近代においては、個が存在を構築し、たとえ「ありのままの共同体精神」を獲得することを目指したとしても、出発点は常に個が占めることになるわけです。その意味では、失われた共同体精神を追求する自己の核心(すなわち「本当の使命や本分」といった目的意識)に重点が置かれることになり、だからこそ「このわたしという個人こそが生きた真理だ」ということになるわけです。
そのような現実を見据えた上で、ヘーゲルはそのような過程を「必然の道筋」だと考えます。必然の道筋であるのは、それほどまでに突出している個の構築力に対して目を背けないからであり(背けたならば生命を否定する禁欲主義へと転ずることはすでに意識の経験の旅において明白となったことであるから)、ならば個による共同性との軋轢を克服することが次の展望への橋渡しとなることを、これまた必然の道筋として描く必要が出てきます。しかし、物事はそうすんなり行くものではありません。以下、個が共同性を獲得しようとしながらも、様々な局面で自ら矛盾へと落ち込む様が描かれます。
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a.快楽と必然性
■「必然性」とはどのような意味で用いられているのか。また快楽と必然性(運命の)との関係を説明してください。
上記のように、「共同体精神や静止した思考の世界」から抜け出した自己意識(必然の道筋として現われた、純粋な個の思想)は、周囲にある現実のみを真の現実と考え、快楽という個別的な感情を通して自己実現に向かう。本来、自己意識は己の自立を確保しようとするが、個としての自己を他者のうちにも見いだしているため、他者と自己という二つの自立した自己意識の統一を求めるようになる。この統一(個ではなく「共同存在」としての自己)が対象となることによって、同時に、個の自立性は破棄されることになる。例を挙げると、恋人と二人だけの世界を求め、まるで一心同体であるかのような錯覚に陥ってしまうような状況である。しかし、そのような状況は、「それを呑み尽くす力を持つ否定的な相の出現によって解体されてしまう」。この「否定的な相」が「必然性」や「運命」であり、また「法律」や「習慣」などである。
「抽象的なものの展開こそ「必然性」と名づけられるものである。必然性とか「運命」とかいうものは、それが何をするのか、その明確な法則や具体的な内容がどういうものかを、ことばにはできないもののことだ。というのも、ただそこに「ある」としか言えない絶対的で純粋な概念<単純で空虚だが、やむことなくおのれをつらぬきとおす関係>が運命の本体であって、そこに生じる事態は個の介入を許さないものだからである」(p246)
このように、自己意識は個の感覚や快楽を通じて自己実現に向かうが、抽象的な必然性に対しては無力であり、そのもとで個人は粉々にうち砕かれ、「自分の存在を謎のように感じる」ことになる。なぜなら、運命の必然とは、「習慣や生活上の掟」などといった「内容空虚で抽象的な純粋観念」であり、自分のうちに持つものではあるが、「自分を支配する空虚でよそよそしい必然性<死んだ現実>」でもあるからである。言いかえるならば、自己意識は快楽という生命溢れる場に飛び込んで自己実現を図ろうとし、真の共同生活を手に入れたかのように感じるのだが、実際は抽象的な共同生活(死んだ現実)に陥ってしまうため、その矛盾のもとに自分の存在を謎のように感じるのである。
また、上述の「運命が個の介入を許さないものである」ことより、近代の個の意識が自らの自己実現を通して運命をも手に入れようとするが、しかし、個にとってはどうすることもできないことが自覚されるので、それまでの「運命」が個人にとって避けることのできない「宿命」となるのである。しかし、「運命の必然という世界に行きわたる純粋な力は、自己意識そのものの本質なのだから」それを「自分の本質として認識するとき、意識は新しい形態をとって登場する」。
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b.心の掟とうぬぼれの狂気
■個による「心の掟」の実現が、狂気(或いは錯乱状態)に陥るのはどうしてでしょうか。
運命の必然が自分のうちにあることを意識が自覚したとき、同時に意識そのものが必然的であることが自覚される。そこでは、自分の掟が世界にも行き渡る必然的なものであることを意識している。しかし、そのような状況にいたる過程で、以下のような経験が為されることとなる。
自己意識は「個としての自分のあり方こそ意識の本質をなす」という考えに基づいており、それ故に心に掟を持つ個人は、心の掟に矛盾する必然的な現実やその現実が生み出した苦しみをも克服することを目指すことになる。しかし、心の掟は心の中の掟であるが故に、実現されることによって心の掟ではなくなり、自分にとってはよそよそしいものとなる。ここでは、正義感あふれる革命家が自分の理想とする社会の実現を目指しながらも、現実の前に屈してしまう姿が描かれている。現実を否定して自己を確立しようとする自己意識である限り、そのまま共同体に受け入れられることはなく、現実の前にあえなく潰えさってしまうことになる。
「心の掟の実現という行為は、個人がみずからを共同体精神として対象化しつつ、しかも、その共同体精神のうちに己を認識できない、といった経験以外のなにものでもないのである。」(p251)
心の掟を持つ意識は、自分を現実的なものとして意識していながら、同時に、疎外された非現実的なものとしても意識せざるを得ないという矛盾を抱えることとなる。こうして自己意識は内面深く錯乱状態に陥ってしまう。
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c.徳性と世のならい
■「徳性」とはどのような性格のものか。また徳性が世のならいに「征服」されてしまうのはなぜでしょうか。
「徳性の側からすれば、共同体精神が真に現実のものになるには、倒錯の原理ともいうべき個を放棄しなければならない。目指すべきは、個の放棄によって倒錯した世のならいをもう一度ひっくり返し、その正しい有様を実現することである。個の正しいありさまは世のならいにもともと備わっているのだが、未だ現実とはなっていないため、徳性の意識はただそれを信じるというにとどまっている。」(p257)
つまり、個々人の快楽や満足を基にする限り、徳性の意識にとって、その共同体精神はあるべき姿ではなく、倒錯したもの(世のならい)といわざるを得ず、その基となる個を放棄しなければならないのである。しかし、徳性の意識が目指すものは現実ではなく、意識の中にしかないため、信念として、あるいは正しいものとして思われているにすぎない。そこで、正義感あふれる徳性の意識は世のならいと対立することになる。
しかし、「徳性の意識が個としてある限りでは、世のならいとの間に闘争が絶えない」ことになり、対象を打ち負かすことによって自分の目指す共同体を確立しようとするが、相手を無きものにすることによって自らをも消滅させてしまうのである。このような構造は、自己意識の章における「生死をかけた争い」の構造と類似している。ここで、徳性の意識も世のならいとの関係性のうちにあるもので、つまりそれらは共同体の二つの側面を表していることに過ぎないのである。(欲求や快楽を切り捨ててあるべき姿を獲得しようとするが、現実においてはそれらを切り捨てられるものではないので、そこにズレが生じることとなる。)
徳性の意識は、個を放棄することによって善を実現しようともくろむが、実際、現実は個々人の活動によって成り立っているため、その努力は空しく潰えさってしまう。「まさしく個人こそが現実の原理なのである。」
「かくて、世間と徳性との対立の中では、世のならいが徳性の思いを征服してしまう。本質を欠いた抽象体を本質とする徳性の意識は、世間に太刀打ちできないのだ。が、世間の勝利は実のある相手に対する勝利ではなく、根拠のないでっち上げの区別に対する勝利であって、そうした理想境や理想の目的は、心を高鳴らせ、理性を空っぽにし、気を引き立てるが、何も構築はしない空虚なことばであるのが明白となって、人々のあいだから潰えさる。・・・所詮は中身のない大言壮語なのである。」(p261)
「近代の徳性は、共同体を抜け出した本質なき徳性であって、実質的な内容を欠く、観念と言葉の上での徳性に過ぎないのである。」(p262)
しかし、徳性と世のならいの対立は無駄なものではなく、そこから生じてくるのは、「意識が、未だ現実性を持たぬ潜在的な善の観念を、意味のない外套のようなものだとして、捨ててしまうという結果」であり、「個人の動きこそが共同体精神を身のあるものにする」ことが意識される。つまり、世間というものが共同体精神の現実の姿である以上、個人の行為が潜在的な状態にある善を現実へもたらす行為となり、個人の行為が理にかなったもの、あるいは目的となる。
「こうして、個人の行為と営みが目的そのものとなる。力の使用と発現した力の戯れこそが、生命なき潜在状態にとどまる力に生命を与えるので、そのとき、表に現れない、萌芽状態の、抽象的な共同体精神に生命が与えられ、個人の生き生きとした現実の動きが、そのまま共同体精神を体現するのである。」(p263)
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C.絶対的な現実性を獲得した個人
■「絶対的な」「現実性」「を」「獲得した」「個人」とはどういう意味か。
「個人にとって存在するもので、個人によって生み出されなかったものは何もなく、個人の素質ないし行為でないような現実は存在しない。逆に言えば、現実でないような個人の行為や潜在的性質はない」p.271
[B]において、個が紡ぎ出すネットワークと共同体精神とのズレに直面した意識は、その矛盾を克服することによって他を否定して自己を確保するという自己意識の段階から絶対的な現実性を獲得するに至る。そのときの「現実性」とは、決して個人に逆らって立つようなものではなく、また実際に個の行為として顕在化した内容(成果)だけに汲み尽くされるものでもない。行為に伴う欲求や個の性質、それら潜在的内容をも含めたあらゆる個の性質をめぐる可能性の発現と共同体精神が一体となり調和しているわけです。そのような状態においては、個が抱く目的と、その目的の実現とは切り離されることがない。切り離されるならば、「設定された目的が自己の確信で、目的の実現が真理とみなされるか、目的が真理で、実現が確信とみなされるかのいずれか」p.264 になるわけです。したがって、調和関係にある個と共同体の関係は次のように描かれます。
「個人が自分の形態を表現する場は、純粋にその形態を受け入れてくれる場であって、意識は白日の下におのれを占めそうとする。行為はなにものも変えず、何ものにも向かわず、ただ、見えないものを見えるものへと移し替えるというだけのもので、表に出されて表現される内容は、もともとこの行為に潜在していたもの以外の何ものでもない」p.265
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「社会的人間は必ず社会の存在を前提とする。彼が表現し、役立とうとする社会を」『自殺論』p.161
社会の存在を前提とする、というところは彼の方法論上の問題もあり微妙ですが、まさしく(社会的人間が表現し役立とうとする行為が実現する)社会と彼との関係は上の引用箇所の描写と重ね合わせることができるのではないでしょうか。しかし自己本位自殺においては、社会の統合が弱まり、彼は自己の目的にこそ真理(あるいは確信)を抱き、それが実現できない現実を前に意気消沈する(あるいはアノミー的自殺においてはその確信のエネルギーは自分自身へと向かう)わけです。
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或いは、クーンにより描写された科学研究の本質、すなわち1つの箱の中に自然を押し込めることができるという強い確信と、その確信が達成されたときに得られるはずの真理とが切り離されている状態を思い浮かべました。そのとき、科学者はまさしく自然を扱っているようにみえながら、同時に実は自然を扱っていないといえる。自然を扱っているようにみえるのは、科学者集団外にいるわれわれもまた近代以前以降という大きな視野で見るなら、近代以降のパラダイムに属しているからである。また、彼らが実は自然を扱っていないというのは、あくまで自分たちが構築したネットワークに掛かるものだけを扱い、それ以外のものは排除するか、データの取り方が誤っていたのだとして斥ける。そのとき行為は、物の世界のネットワークを自己のネットワークにより改変し、「行為が何ものも変えず、なにものも向かわず」という状態からは程遠い。
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次に、「絶対的な」というのは、まさしくそのような現実性(個と共同体との調和関係)が揺るぐことなく実現されている、という意味に解してよいかと思います。しかし、以下の「を」・「獲得した」・「個人」というのは問題があります。この章の出発点は個と共同性との関係における矛盾を克服するところから始まりました。しかし、その矛盾を克服するところが問題なのです。つまり、どのようにしてその矛盾を克服するか、ということについての描写は存在しません。克服したとすれば、次はこうなる、という叙述しか存在しないのです。しかし、その矛盾を克服するのはやはり「個人」であるわけです。個から出発して「絶対的な現実性」「を」「獲得」しようとするわけです。このとき、またもや、調和状態を表現するはずの現実は、破綻せざるをえない。そして「絶対的な」というのは、あくまで個により構想された絶対性へと転ずるわけです。以下はその描写へと移ります。
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a.精神の動物王国とだましー価値あるもの
■「価値あるもの」によって共同性の獲得を志す個々人が、だましあいの関係へと転ずるのはなぜでしょうか。
「共同体のうちにあるものとして捉えられた「価値あるもの」は、単純な社会的存在という形をとってそこにあり、そのように一般的に定義づけられたもののうちには様々な要素が含まれるが、一方また、この「価値あるもの」は特定の要素を脱け出したところで独立に存在し、自由で、単純で、抽象的な価値体として社会に受け入れられる。個人の資質や、個人の価値を構成する目的、手段、実行行為、現実世界、といった様々な要素は、共同体に生きる意識にとって、「価値あるもの」とは関わりを持たぬものとして放棄し無視して構わないものではあるが、その一方、それらすべてが寄り集まって物事を価値あらしめている以上、これらの要素の一つ一つに「価値あるもの」の社会性が抽象的・一般的に影を落としていて、どの要素についても、その社会性を指摘することが可能である」p.276
個と共同体がもはや対立するものとしてではなく、互いに「価値あるもの」として承認される関係にあるとき、個は共同体にとって「価値あるもの」であり、同時に共同体は個にとって「価値あるもの」であるような関係となる。そのとき、「価値あるもの」は述語として両者のネットワークの結び目としての機能を果たしているのであり、だからこそ両者を対立するものとしてきりはなすことはできない「相互浸透」の関係が成立しているわけです。
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社会圏の交錯(ジンメル)において、個が分化を通して達成した個別化が、同時に共同性と矛盾するものではないという両者の相互関係が描かれていたのと、重ね合わせることができるかと思います。
「具体的事物は、それの一つの属性によって一つの一般概念のもとに入れられるときには、我々の認識にとってその個性を失うが、さらにそれが別の諸属性によって他の諸概念のもとに入れられるについて、それだけその個性を取り戻す」『社会的文化論』p.488
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ではなぜ、「価値あるもの」によって表現される両者の調和関係が崩れるのでしょうか?
「全体としてそこにあるのは、個人と共同体精神との相互浸透の運動なのだ。が、この全体は意識にとっては単純な本体としてー価値あるものという抽象体としてー存在するにすぎないから、その要素となるものはその価値から切り離されて、互いにバラバラに存在するしかなく、全体を見渡したとき、そこに見られるのは、外に打ち出す働きと自分を守る働きが、切り離されたまま交替で登場してくるありさまである。社会のためにと自分のためにが交替で表れるこの構図の中で、意識は、一方を独立の本質的な要素として反省的に捉え、他方を外向け他人向けのものとして扱うから、こうして、個人と個人との間に意識の戯れが生じ、それぞれの個人が自分に対しても他人に対しても、騙したり騙されたりといった関係に立つのである」p.279
つまり、上述した「価値あるもの」が述語としての機能を果たしている、というところが問題なわけです。個と共同体の調和関係の中にある個人は、その調和関係をただあるものとして、言いかえれば、その調和関係の中に溶け込んでいるわけです。したがって「価値あるもの」が述語としての役割を果たしているかどうかは気にも留めない。しかし、個による経験の旅はまさしくそこから始まるわけです。その結果、個が共同体に向かって何かを行為しようとしたとき、自らの行為が「価値あるもの」であるかどうかがまず問われます。自分の行為が本当に「価値あるもの」であるかどうか、そして自分の行為と自分の目的が合致したものであるかどうか、それが問題となってくるのであり、さらには、自分の行為が偶然に左右されずに本当に必然的なものとして実現されているのかどうか、というところまで進んできます。そうなると、個は自らの行為に対して、「価値あるもの」を述語として使用せざるを得ません。そうなると、自分の行為こそが問題となってくるわけで、自分に対してはもちろん、他人に対しても、自分がいかに(あるいは何を)「価値あるもの」として行為することができるか、ということが個人にとって最も重要な関心事になってしまう。そのようにして、彼は他人との騙しあいの関係へと足を踏み入れるわけです。
「誰かがある物事を始めると、すぐに見て取れるのは、他の人々が、新鮮なミルクに集る蝿のように、急いでそばにやってきて、あれこれ手出しをするありさまであり、他の人々は人々で、物事を始めた人が、物事を対象として重視しているのではなく、自分のものとして重視している様を見て取るのだ」p.281
しかし、そのような経験を克服した意識は次のような自覚に達する。すなわち、個の行為が万人の行為であるような個と共同体との調和関係を再び見出すのであり、そのとき「価値あるもの」は単なる述語として個の行為に従属させられるものとしてではなく、それ自体が主語として両者の調和関係を表現するものであるということを。
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b.理性による掟の制定
c.理性による掟の吟味
■掟の制定および吟味が「破棄される」のはなぜでしょうか。
「掟は厳にあるのだ。その成立のありさまを尋ね、発生の地点まで追いつめたとすれば、わたしは掟の上に立つことになり、わたしが普遍的で、掟の方が制約され限定されたものとなってしまう」p.293
たとえば、「人は誰でも真実を口にすべきだ」や「自分の隣人を自分と同じように愛せ」という掟が考えられる。ここには、個と個の関係の中で守られるべき道徳律が表現されている。しかし実際には、それらの掟によって要求されている個の行為は、経験の偶然性に大きく左右されるものである。したがって、真実を知っているかどうかはその人の経験によって左右され、少なくとも「そのときそのときの知識と確信に基づいて真実を口にすべきである」ということになってしまうときにはもはや、もとの掟で言われていた「真実を口にすべき」であるという命題は実現されないことになってしまう。ただ(内容のない)形式的な普遍性をもつのみなのである。
掟の制定および吟味が不可能なのは以上のような事情による。すなわち、個による掟の構築が、現実の中で共同性を表現するはずの掟に対して限定づけを行ってしまうことによる個と共同体の調和関係の崩壊である。このようなありかたが克服されてはじめて、掟は「特定の個人の意志に根拠をもつのではなく、正真正銘の絶対的な万人の純粋意志が、そのまま形をとって現われたような、永遠の掟」p.291になる。
「 きのうやきょうの話ではなく、永遠に生きるのが法というもの、
それがいつできたのかは誰も知らないのだ。
『アンティゴネー』ソフォクレス 」p.292