文責:上野山・大頭・万仲
■個の行為と共同性の関係について。
ー男と女という言葉によって何が表現されているのでしょうか?
ー神の掟と人の掟を男と女と関連させて説明してください。
(a.共同の世界ー人間の掟と神の掟、男と女)
★個と共同性
「絶対精神とは共同体の精神にほかならず、それは、傍観者たる私たちの目には、理性の実践的形態を問題にしたときすでに絶対の存在として現れていたものだが、それがここにきて、意識的な共同体精神としてその真の姿が自覚され、対象となる意識の本質をなすものとして登場している。それは、個々人と対峙する位置にあるときは、それとして自覚された精神であり、個々人を包み込む限りでは、潜在的な秩序である」p.302
これまでの意識の運動においては、個人と世界の対峙関係における運動が描かれていた。つまり、個が世界をいかに理解し、同化しつつ、自己同一性を維持するかという運動と同時にその行き着く限界がそれぞれの局面で表現されていた。だが、精神の章における個は、もはや単なる個人としてではなく、個々人として描かれている(「われ」ではなく「われわれ」として)。これが意味するのは、もはや自分がただ一人こちら側にいて、あちら側のものや人々と向き合っている関係にあるのではないということである。つまり、個は世界に対して意味づけを行う以前にすでに世界内存在なのであり、生れたときにはすでに世界の中に存在する。言いかえれば、すでに理性の限界(ものの世界すべてに行き渡っているという確信が、最終的には対象化を行う個が紡ぎ出すネットワークへと収斂されてしまうこと)を経験した個は、ものの世界のネットワークにおいて自らがどのような位置にあるかを自覚すると同時に、自分のものの見方の一面性がどのような限界をもつものであるかを知ることになる。自らを取りまく共有された秩序や慣習およびものの見方といったものが、個であるわれによって構築され得るものであると思い込まれていた意識の段階はすでに乗り越えられ、ストア・懐疑・不幸な意識・快楽・心の掟・徳性などにおいて行われた同化を巡る類似運動が行きつく没落の運命を経た意識は、精神において、生きた共同の世界を生きるとともに、絶えず秩序の解体と個別化へと向かう運動へと歩みを進めていくことになる。
★男と女で象徴されるもの/人の掟と神の掟
「女性の共同体精神と男性のそれとの違いは、個を気遣い、快楽を受け入れる女性が、直接に共同体のうちに身を浸し、個としての欲望には囚われないのに対して、男性にあっては、個と共同性が分離し、市民としては共同体精神の力を自覚的に所有する男性が、まさにそれゆえに欲望の権利を自ら獲得し、それを自由に使いこなす、という点にある」p.309
本文においては、生まれつきの性の違いとして述べられている男と女についてであるが、ここでは両者を人間の本性 (Human Nature)の二面性として考えたい。というのも、2つの「社会的価値」(人間の掟と神の掟)への分裂が、そもそも意識の本性における内面的な区別に帰するということは、人間本性の二重性自体の分裂によって世界の分裂が引き起こされる、ということを意味するからである。
では男と女で象徴されるものとはどのようなものであるだろうか? 第一に、女で象徴されるのは、家族的共同体における伝統的な慣習を引き受ける自然な浸透関係であり、男で象徴されるのは、家族的共同体から抜け出し、自らの力を現実にもたらす近代市民性そのものである。その近代市民性によって構築されるのが人の掟であり、現実の共同体秩序として明文化され承認される。一方、神の掟は人の掟のもとで影に隠れ、潜在的な個の無意識的な掟として内面的に受け継がれる。
こうして、古代ギリシャ的共同体に生きる人々の本性の中に、すでに芽吹いた近代性の萌芽を認めていたと理解することができる。男と女で象徴される二面性は、個がもつ人間の本性としての二面性であり、どちらか一方に執着することが人の掟と神の掟の対立を産み出す。このとき、個はもはや単なる個ではなく共同体精神そのものを体現するわけであるから、対立は共同体精神そのものの解体へと導かれることになる。
「どちらも一方だけでは欠けるところがあるのだ。人間の掟ー地上を支配する、意識的で間接的な掟ーは、神の掟ー地下を支配する、無意識の、直接的な掟ーに発して、生き生きとした運動を経て生じ、やがてまた、出発点へと還っていく。他方、地下の権力は地上に出て現実のものとなり、意識によって存在と活動の場を与えられる」p.310
■個が共同体精神ともども没落するのはなぜですか?
(b.共同体に関わる行動ー人間の知と神の知、責任と運命)
★分裂した現実と没落の運命
「…行為は一方を押しのけてもう一方だけで実行する。が、二つは本来は結びついているから、一方が満たされたとなると、他方も呼び覚まされざるを得ず、その呼び覚まされ方たるや、掟を侵害されたのだから、相手に敵対し、復讐を要求するものとして呼び覚まされる。行動にとっては決断の一面だけが表に出てくるが、決断にはもともと否定の力が備わっていて、決断の知見の範囲を超えて別の存在が呼び出されるのだ」p.317
上で述べたように、人間が生きる場である市民社会と家族、すなわち人の掟と神の掟という二つの分裂は、男と女で象徴される二つの本性として説明される。本来、二つの対立する本性の統一こそが精神を体現するものであったのだが、個の行為においては、一方の掟に執着し、人の掟あるいは神の掟どちらか一方の構築へと向かうことになる。執着は他に、決断、信念、確信といった言葉で表現されるが、一方の掟にひたむきに向かおうとするとき、これまで克服してきたはずのものの見方の一面性は忘れ去られ、その結果、自らの行為を自覚する契機は失われてしまう。
さらに、対立する現実と向き合った個は、現実が自らがしがみつく掟とは異なるがゆえに、異なる現実を自らに対立する存在として承認せざるをえず、本来無意識の精神であったはずの神の掟は、その対立のただなかで、現実のもとへと顕在化させられることになる。ここで、神の掟と人の掟へと分裂した共同体精神は、再び統一される契機を見出すことになる反面、分裂したそれぞれの掟につき従う個と、二者択一的に限定された共同性は、もはや自己同一性を維持することはできず、それぞれ没落へと向かう。
■平等や人格の問題をヘーゲルはどのように表現していますか?
(c.法の支配)
★形式的な法と頑固な個々人
p.328「支配者の権力は、それぞれの人格がそこに自分の自己意識を認識できるよう、精神を一つにまとめる力を持つものではなく、各人格は、それぞれに自立し、頑固に点としての自分の存在を守って、他とつながるのを拒否する。支配者がそれぞれの人格を関係づけ、つなごうとしても、各人格は、他の人格に対しても、支配者に対しても、これを排除する方向にしか動かない」
社会生活における他との関係性を損なうことのない個のあり方がもはや崩壊した社会においては、個は単なる個として(「われわれ」ではなく「われ」として)、自分が思うとおりの行為を現実にもたらそうようとする混沌とした様相が呈することになる。さらに、そのようなバラバラの個に対して、権力者は形式的な支配力を上から覆いかぶせるしか策がなくなる。しかし、それは内容空虚な支配形態であるがゆえに、実質的な力を及ぼすものではなく、個はまさに人格が形式的でしかないがゆえに、形式を解体することによって生命を与えようとする。
「こうした解体と個別化の動きが、まさに、そこに住む万人の行為と自己を成り立たせるものであって、個人の行為こそが秩序を動かす魂であり、共同体の現実の力である。秩序が自己のうちで解体されるからこそ、秩序は死せる存在たることを免れ、現実の生きた秩序たりうるのである」p.297
補:★人_聖霊_聖霊
冒頭引用個所から理解されることは、二極の人間本性および掟の統一が精神においては実現されているということである。さらに、その統一という表現についての理解は次の二つの様相を見せる。第一に、世界との対峙関係、すなわち主体と客体の分離という局面から見れば、その統一は個の行為によって解体され、それぞれ二極へと分け隔てられる。言いかえれば、本来潜在的に維持されていた多様な関係性が損なわれるのは、個の関心に基づいた掟の実体化によってである。第二に、見方を変えれば、世界の解体を行う個自身は、世界から隔絶された場所にいるわけではなく、まさに現実世界の中において生活を営んでいるということである。世界において満ちているものこそ、個と世界に分裂した二極を媒介する中間項であり、この媒介運動がなされ得る限りで、個は精神に包まれた存在となる。しかし、この媒介運動が個による決断によって引き起こされる場合は、個の意志が共同意思へともたらされることはない。これがギリシャ的共同体における個と共同性の関係であったという理解が示されている。
精神=Geist=聖霊についてはすでに自己意識の章において指摘されていた。
「第三は、個としての意識が自ら不動の存在に包まれてあるのを意識する場合である。・・・第三の神は聖霊となって自らの霊的な姿に喜びを感じ、子としての神と普遍的な霊が和解したことを意識するのである」p.148
「自分の意志を放棄することが否定的な面を持つのは確かだが、それは、その本来のありかたからすれば、他人の意思へと配慮を及ぼし、意志を個の意思としてではなく共同の意思として捉える、という肯定面を持つ」p.157