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文責:江西・高島・西澤


B. Der sich entfremdete Geist;die Bildung ,,Phaenomenologie des Geists"
Felix Meiner verlag s.320-322
B 疎外された精神(序)

[1]伝統社会(伝統的な共同の世界)は、個と共同体の対立を単一な意識のうちに保っている。そして対立を共同体との一致のうちに保っている。ここには個の意識と共同体との間に対立の齟齬は感じられない。
[2]したがって、共同体は、存在の規定を意識で表現した。というのも意識はいまだ、個の方向を向いていないため、(自然と)共同性に向いていたのである。それ故、「座る」ということばからくる慣習から秩序への移行は、個に場所を譲ることなく、いまだ共同のもとにあったのだ。その理由としてはまず、単一の意識は、個を排除するような意味をもっていなかったし、また、「それ自体であり、それ自体で存続する」意味をもつ古代的な共同体は、個の意識から排除された存在ではなかった(古代人にとっては、個と共同の区別は希薄であり、それをわざわざ近代人の目線で、あえて区別を施せば、個と共同となるのだ)。つまり個と共同の分化は、分化なき存在から始まるのだから、疎外が起これば、どちらか一方の自分をたてることになるのだ。
[3]しかし(近代に引き寄せて古代社会における精神に着眼すれば)、古代社会におけるさまざまな精神は、自己としては抽象的でまとまりのない存在であり、そのため自分の存在の内実を変わることのない頑固な(共同体へ組み込まれた)現実としてもつ。そして、世界の意味づけは、個を度外視した外面(頑固な共同体)になされるので(個性の発現の契機となる)自己意識は否定され、(共同体との一体感のうちに)存在するのだ。
[4]そうはいうものの、そもそも世界は精神的な全体性にあり、世界は無意識のうちに、共同体と個を貫いているのである。この共同体と個が浸透しあった自然な存在は自己意識の作品であるが、しかし個と共同が浸透しあっている伝統社会の現実においては、自己意識は個性を発揮するものとして疎外されている。だから(この古代社会の)現実は、独特の存在を持ち、その存在を(近代性の根拠となる)自己意識が知ることはない。
[5]古代社会のいたましい現実は、個と共同性が浸透しあった基盤から距離をおいた外側にあり、それは自由な法の内容である。しかし個と共同性の浸透を度外視する外面的な現実を、法による世界支配が成り立たせているのだ。孤独化を裏付ける法がもたらす現実は、一方でバラバラの個の出現を生むにとどまらず、さらに、他方で、肯定的に他との連関を呼び覚ます労働ではなく、むしろ他とのつながりを拒否する否定的な労働であるのだ。
[6](法の支配をきっかけにはじまった個別化の)現実は、個と共同性の間に横たわる浸透性を保つために、自己意識を排除し、自分に一致しない外的な価値づけをうける。しかしこのように自己意識を排除し、外化することは、法の世界が荒廃する中で、自己意識に対し、連関を失ったバラバラの(個の)力を与えるかのように見える。
[7]この原子化された(個別化された)力は、自己意識にとっては、ただの自己荒廃と自己喪失である。しかし他面、見方を変えてみれば、この自己喪失、つまり、他とのつながりを否定するありさまは、自己の裏返しの表現ともいえる。要するに、主体、行為、創造(生成)である。
[8]行為と生成を通して、共同体はたえざる現実の変化に対応しようとするのだが、しかしそれは人格の疎外も巻き起こす。というのも、もし疎外のない、行為の因果性を100%持つ完全な個人がいるならば、それこそ共同性から外れているではないか。そんな個は、個人主義の吹き荒れる中での戯れにすぎない。逆にいえば(不完全な個人しかいないからこそ)、共同体は、個の外化により生まれてくるのである。あるいはこうもいえよう。外化は、世界に共同体秩序を与え、それにより精神的な力を保つ、と。
[9]このようにしてみれば、共同体は、精神的な全体性であり、自己意識による個と共同の統一である。がしかし、個と共同は互いに疎外しあうが故に、全体性が浮かび上がってもくるのだ。
[10]精神を個の意識の面から見れば、個は自由に現実を対象化する。その反面、個の意識にとっては、個と共同性の紐帯は向こう側にあり、個に対向してくるために、ここには純粋な個の意志が現れるのだ(個の突出)。
[11]一方で、現実の自己意識は、外化されることで、対象化された現実の世界へと現れる(理性は世界を自己としてとらえる)。そのことで、世界は個々の自己意識へと還っていく(理性は自己を世界としてとらえ直す)。しかし他面からすれば、外化によって現れてくる現実は、同時に人格も、対象化された世界も、破棄されるので、純粋な普遍性を帯びている。
[12]この対象化による疎外は、まがいもなく純粋な意志(意識)であり、伝統社会の崩壊時(=近代性の胎動)における本質である。
[13]現在は、現在の思考によって彼岸を対象化しようとするために対立をうみ(個は共同を対象化して把握しようとするために、共同から離れていることをはっきりと確信し、個の意志を確認する)、同様に彼岸は此岸に対立するので、此岸は彼岸に排除された異質な現実である(共同体は自分に刃向かう個をよそよそしく扱うので分裂が生じ、そこには対立する個の意志を排除しようとする共同の意志がある)※。
[14]このような(個と共同が分裂した)精神が建てる世界はただ一つの世界だけではなく、二重化された、引き裂かれた、互いに外化された世界である。
[15]これに対して、安定した伝統的な共同体精神は、現在の瞬間が個と共同に二分割されず、調和のうちにある。したがって、共同体における力は統一のうちにあり、その限りで、(上に見てきたような)個と共同体の二つの力が、たとえ区別されたとしても、全体の均衡を保っていた。
[16]古代社会においては、自己意識を否定するものはなく、死んだ孤独な精神は、血縁者のうちに、そして家族の現在のうちにあり、一般的な政府の力は民族を自己とするまとまった意志である。(個の意志=死者は家族という共同へ、家族を通じて、民族という大きなまとまりへと連なっている、個の意志=共同の意志が成立しているのだ)
[17]しかしここで(目を再び近代へと転じてみれば)、現在が時間としての意味をもつのは、現実が対象化された場合であり(すなわち、時間に対象と同じよう位置把握を施し、そこに個の意志を投入できるからである)、そのように把握された現実を、意識が向こう側に持つのだ(意識は決して、完全な対象化の実現をなさない。それをすれば、時間は現在のまま止まってしまうからだ)。バラバラとなった個別的な存在は(対象化の)意識を宿す。それゆえ、現実は自分とは異なるものになり、その限りでの個人の現実があるので、実は個人の本質は、自分が目の前に一瞬一瞬見ている現実とは異なるのだ。
[18](近代では、)自分のうちに根を下ろした内在的な精神はなく(個のうちに共同性はやどらず)、そのかわり、外側にある親しみのもてないものになっている。つまり全体とのバランスは、個別のもとにはなく、しかも、自分のうちに帰ってくる平安には見いだせなくなってしまった。そうではなくむしろ対立物によそよそしくすることによって全体とのバランスがもたらされるのだ。
[19]それゆえ(近代における個と共同の変遷をたどれば、まず)全体は、おのおの個別の要素と同じく、疎外され分割された現実である。すなわち、全体は、一方の世界においては、自己意識が対象化する個別の現実となり、他方の世界においては、純粋な意識が(対象化に嫌気がさし)、現在を拒否するために信仰の世界になる。
[20]神の掟と人の掟に分けられた伝統社会における分裂と共同の世界、あるいは、知と無意識に分けられた共同体の意識は、運命(死)を受け入れ、運命へと還っていくように、対立を否定する力である自己へと還っていく。したがって、この二つの疎外された精神は、自己というまとまりに還っていくのだ。しかし(伝統社会における個と共同体の没落が示すように)、それぞれの自己が、孤独な個として、直接価値を認められるような自己であったとき、次なる自己は、外化という架け橋を渡り、再び自分へ還ってくる自己であるから、普遍性を帯びた自己になる。このような普遍的な自己は概念をとらえた意識である。確かに、この概念に把握された精神界のすべて要素は、固定化された現実と非精神的な存立を守り抜こうとする。が、それは純粋な洞察により消滅するのだ。
[21]純粋な洞察は、自分を概念化してとらえる自己であり、教養を造り上げる。がその場合でも、純粋な洞察は、自己を把握するのではなく、すべてを自己としてまとめあげ把握するのである。すなわちすべてを概念化し、対象化されたすべてを沈静化し、すべての無意識的な存在を自覚的な存在に変容させるのだ。

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使用文献:『精神現象学』ヘーゲル著 長谷川宏訳 箇所:疎外された精神 a&b
<キーワードと展開>
1.伝統社会の没落と近代性の胎動
2.疎外の二重性
3.信仰と純粋な意識

★古代の共同体意志にとって、共同体を崩壊に導くのは個の意志であった。行為に現れる個の意志が、「動かざるものを動かす」p.318 ものであるならば、共同体にとって、個の意志は危険な存在であった。だが実は、個が危機にさらされることは、同時に共同体の危機の裏返しでもある。というのも、たえざる環境の変化に耐えるために、個人は古い秩序を組み替える可能性となりうるからである。したがって、個を共同の力でねじ伏せることは、共同体の将来の可能性を抹消することでもあるのだ。しかし広がりゆく法の支配により孤独化と硬直化を見せて瓦解していく末期古代社会に歩調をあわせて、そもそも共同精神の中にしか生きるすべを知らなかった素直な個人は、共同体の没落に時を同じくして、滅び去っていくのである。

 本来、個と共同の相互性のうちにしか「個」という意味を見いだすことはできないはずである。しかし古代社会の没落に押し出されるように出現したのは、個としてのアイデンティティを保守しようとする自己意識をもった個人であった。個別化された自己意識は、現実を対象化し、固定した世界として受け止めようとする。人を誘惑してやまない富も国家権力も共通して根底にもつのは、対象操作を呼び覚ます共通性格であるのだ。個としてのアイデンティティにとらわれた人間は、固定した尺度で世界を把握しようとするため、自分だけに通用する尺度が全であり、その偏見に入ってこないものは全て居心地の悪いものとして排除されていく。こうして個による個の世界が形を整えていく。
 
 が、他方、あくなき対象操作の欲求に突き動かされる主体は、把握しようとする対象と自分とのうめがたい距離に孤独な現実をみる。別の言葉でいえば、対象への接近が実は自らの自己意識の働きが生み出した乖離にすぎないことに気づくのだ。ここにおいて個は、自分の創造行為の限界を自分の不完全性ゆえに、目の前の現実が創造していることを受け止めようとする。だからこそ、精神的な全体性は、個の孤独な外化を経て、再び呼び覚まされるのだ(疎外の二重性)。

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≪現実性を獲得する(現実の世界)ということ≫

※現実世界は、個人がそのなかにいるであろうということと、人々が現実をつくりあげるという両義性をもつ。

・「国家権力」と「富」を個と共同性との関係を通して述べて下さい。(P338−339、350)・「ことば」はどのように個と共同性を結びつけるのでしょうか。(P345−349)

ばらばらになった個人は、共同体をかたちだけのものとする。共同体は自己(個の意志)が突出することによって、中身(つながり)を失うが、個と共同体の結びつきはもともと浸透しあっていて、個人が一方的に自己を切り出そうとしても完全につながりを切り取ることはできない。しかし、自己(個の意志)が、自己を含む現実世界のなかで突出しようとし、現実世界を支配しようとする欲求は、近代を通してつきまとっている。そのためにおこる対象化も、個人と個人の相互関係(共同性の礎を築く)をよそよそしく乾いたものにする。近代において、自己の突出(自立)という、後戻りできない事態が起こっても、共同性(共同体精神)は事態のなかに息づいており、それが現実世界としてあらわれてくるものとヘーゲルは信じている。共同性を実現した現実世界をふたたびとりもどす(この運動もつねに続くものだと)ために、彼岸と此岸という意識の二重化や、二重の疎外(教養の世界)が行われるのである。いったん、自己の外にあるものとして、対象化された「国家権力」(現実の世界にある)に対し、自己主張をやめることに自ら決断し、服従する。そうすることで二重の疎外は完成し、個の意志という力による共同体の内容(共同体精神)の復帰がなされる。そこでは、ギリシャ時代における共同性とその構成要素(個人)の不可分だった融合世界とは質を異にするものの、代替物として、精神がじゅうぶん個の集合体としての共同体内部の新たな接着剤としてはたらいている。その際に、「ことば」は離れてはくっつく現実と精神の掛け橋となる具体的な手段として、実践的な意味がもたらされ、存在(精神を現実的なものとする)を確かなものにする。

【「現実の意識」と「純粋な意識」の関係】

「こうして、共同体は共同体精神となり、自己と社会の意識的な統一体となる。が、自己と社会は互いに疎外するという関係にもある。精神は、自立した自由な対象的現実を意識してはいるが、自己と社会の統一体はこの意識の向こう側にある。現実の意識と純粋な意識とが対立しているのだ。一方では、現実の自己意識が自分を外化して現実の世界へと移行し、反対にまた、現実の世界が自己意識へと還ってもくるし、とともに、他方、人格をも対象世界をもふくめたこの現実が破棄されて、純粋に普遍的な存在となる。純粋な普遍性へとむかう疎外が、純粋な意識ないしは本質と呼ばれる。現在は、現在を思考のうちにとりこんだ彼岸とまっこうから対立し、彼岸は、彼岸とは異質の現実たる此岸と対立するのだ。こうした精神は、一つの世界を形成するだけでなく、切り離されて対立する二重の世界をも形成する。」P331

「疎外された精神の世界は2つに分裂する。一つは、現実の世界ないし疎外された世界であり、いま一つは、精神が第一の世界を超えて純粋意識の境地に入りこんだところで打ちたてる世界である。が、疎外された世界に対立する第二の世界は、だからといって疎外を免れているわけではなく、むしろ、疎外のもう一つの形態にすぎない。そもそも意識が二つの世界にまたがることが疎外であって、どちらの世界にも疎外はつきまとっている。」P333

【現実性の獲得】「自己は破棄されてはじめて現実的なものになる。従って、自己が自己意識と対象との統一体として自覚されることはなく、対象は自己を否定するものとして自己に対峙している。そうした自己を運動の魂とすることによって、共同体はいくつもの要素へ分岐していくことになるが、そこでは、対立するものがたがいに精神の息吹をあたえあい、自分を疎外することによって他者を支え、他者からも支えられる。同時にまた、それぞれの要素は、他と対立しつつ克服不可能な価値をもち、確固不動の現実性を持ってもいる。」P336

【中間項の必要性】「ところで、たがいにばらばらにある疎外の二面−−純粋な意識の脳裡に浮かぶ「正」と「邪」の思想の面と、その現実形態たる国家権力と富の面−−が、たがいに関係づけられ、そこに判断がなりたつのに見合って、外面的な関係が内面的に統一され、思考と現実との関係があらわれ、判断の二つの形態を担う精神が登場してこなければならない。そこでは二項の関係である判断が、中間項によって必然的につながれる媒介の運動を含んで、三項の関係へと転化しなければならない。」P343

【現実性と国家権力】

「国家権力が現実のものとなるのは、国家権力こそ共同体の本質だと自己意識が判断し、自発的に自己を放棄するというかたちで、現実に服従の行為がなされるからである。社会の本質と自己とを一体化させるこの行為が、二重の現実存在を−−真の現実性を獲得した自己と、真に価値あるものとされる国家権力とを−−うみだすのだ。」P344

「・・・国家権力は、その本質からしてつねに富に通じるところがあるものの、同時に、あくまで富と対立する現実的な力ではある。が、まさにその本質をなすのは、国家権力の形成にあずかる、高貴な意識の奉仕と尊敬の念ゆえに、権力が疎外されて権力の反対物に転化する、という運動である。」P350

【ことば】

「自己の自立性を真に犠牲にする行為は、死をも辞さぬほどに完全に自分を投げ棄てつつ、この放棄の中でなお自分を維持するようなものでなければならない。そうなってはじめて、意識は本来の姿をあらわし、個としての自分と共同存在としての自分とをしっかりと統一する。孤立した内面的精神たる自己そのものがおもてにあらわれ、自己を疎外することによって、国家権力も本来の国家権力へと到達するのだ。・・・この自己疎外は「ことば」を通じてしか生じえないもので、言葉はここでまさしくほかのなにものにもかえがたい存在として登場してくる。」P345-346

「国家権力がいまだ頭で考えられたものにすぎないいま、意識が日常性を脱して国家権力の高みに昇るとき、国家権力と意識との統一が達成されるはずなのだが、その媒介の運動が現実に生じるなかで、それを単純な形で示す中間項がことばなのだ。」P348