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文責:上野山・大頭・関戸


『精神現象学』 精神 B.啓蒙思想 C.絶対の自由と死の恐怖 (1999/10/28発表原稿)

問:「純粋な洞察がこうした矛盾に巻き込まれるのは…」(p.373)とありますが、ここで言われている矛盾を説明してください。「啓蒙思想と迷信のたたかい」前半部

 純粋な洞察は、その性質から考えると、自己意識の外にある他のものについて、洞察しているようにみえても、実際には、個を出発点として、他者は自己の中に抱え込む存在であり、結局、他者という知の対象は、知と同一なので、こういった矛盾が起こる。

一行目:ここで「対立する」とある。対立するということは、これまでのヘーゲルのロジックからすれば、この対立は克服されるということである。

信仰と洞察との対立のしくみ
 信仰において、純粋意識は現実世界から逃避するという形で対立が作られていた。となると、信仰じたいが、疎外の一側面を作り出しているといえる。この一方で、信仰という一形態を生み出すもとになった純粋な意識は、一個の個人として存在するのではなく、だれのもとにも認められるような自立したゆるぎない自己として認められようとする。これが、純粋な洞察である。ここで対立しているのは「純粋な洞察」と、信仰である。ちなみにこれらはどちらとも「純粋意識の形態」である。つまり、形式的には正反対であるが、本質的には同じである。

参考までにヘーゲルに関連する簡単な年表
1770 ヴュルテンベルク公国の首都シュトットガルトにうまれる
1792 フランス革命
1801 イエナ大学の講師となる
1806 ナポレオンのプロシア侵攻。戦禍によりイエナ大学閉鎖。
精神現象学は、ちょうどイエナが戦火に巻き込まれた時期に集中的に執筆され、出版された。
1810年代 シュタインの改革(農奴開放など)
1818 ベルリン大学へ
1831 コレラにより急死

問:精神は絶対の自由を獲得することとなるが、「個々の自己意識が、絶対の自由に基づく共同体の仕事たる、現存の共同体秩序のうちに自分を見いだすことができない・・・その自己意識は、自由意志に基づく本来の行為たる個人の行動のうちにも、自分を見いだすことはできない」(p402)という状況に陥ってしまう。それはなぜか?「直接性の消滅によって共同体そのものの成立を告げている」p406 の箇所とつなげて考えてもらえるとよいかと思います。<「絶対の自由と死の恐怖」より

 絶対の自由を獲得した精神は、「神も現実も自己意識の知に他ならない」こと、そして、「世界は端的に己の意志のうちにあり、個の意志は共同体の意志である」ことを知る。そのように、「自分の自己こそが意志の本質である」ことを知る自己意識は、「(直接的に)全体に関わるような仕事のうちにしか自己実現の実感を持つことができなくなる」。意識は、意識そのものを対象としているため、この自己運動は「(共同体の)意識と(個の)意識との相互作用」という形を取ることになり、いかなる外的に積極的な、目に見える成果というものは現れることはない。

 仮に、「共同体の自由が現実の秩序を形成したとすれば、その自由は個々人の手を放れて、多数の個人からなる集団を様々な場所に適時配置することになるだろう。が、そうなると、一人の人格の行為と存在は、全体の一部分を担うに過ぎなくなり、部分的な行為であり存在であることになる。それが現実の場におかれると、特定の存在という意味を持たされて、本当の意味での共同体的な自己意識ではなくなってしまう」p401

 また、「共同体の意思が一つの行為と(なって現実に現れるため)には、それが一個人のうちに集約され、個としての自己意識を頂点に据えなければならない。共同体の意志は、一個人の自己意志となることではじめて現実の意思となるのだから」p402

 つまり、一個人の自己意志によって集約され、現実の形式を有した、特定の存在という共同体意志は、言い換えると、限定的、部分的な意味を持った、個としての共同体意思であり、それ以外の他の人々にとっては他人の、よそよそしい意志であり、また、人々は現実の行為である共同体にそぐわないものとして排除(否定)されることとなり、それゆえに人々は自らの意志を現実のものとすることができない。このことは、個々の自己意識が、現存の共同体秩序のうちに自分を見出すことができないことである。そして、個は違和感を感じつつ現実の共同体の一部分と化してしまうが、その意味において、個は自らの自由意志に基づいて行為する自分を見出すことができないのである。

  「共同体の自由はいかなる積極的な成果も行動も生み出せないということであって、残るのは否定の行為だけだということになる。絶対の自由は破壊の狂乱を演ずるばかりである」p402

 もともと絶対の自由とは、すべての構造と秩序を抹殺しようとする抽象的な自己意識であり、その否定的な本質に直面したものは死の恐怖におそわれる。そのため、個から出発していた否定の力は、自分自身へと帰ってくることとなり、自己思考や自己意識を破棄するようになる。

「こうして、共同体意志の純粋な自己肯定としてある絶対の自由に、否定の要素が入り込み、・・・人々は絶対の支配者から来る死の恐怖を味わっているから、否定を受け入れ、区別を許容し、集団のもとに自ら帰属し、部分的な限定された仕事へと帰っていく。こうして、現実に安定した秩序が回復される」p404

 この「受け入れる、許容する」という行為のうちに、今まで自己や他を否定するしかなかったものが、一転して肯定へと転化することとなる。つまり、今まで個から出発して自らの世界を構築し、それを世界にまで拡大しようとして否定の力をふるっていた個は、死の恐怖(個、もしくは構築それ自体の限界)を認識すると共に、外部への直接的、積極的な働きかけをやめ、受動的な態度へと移ってゆく。

「自己を主張することなくそれ自体としてあることは、本当は、受動的にあること、他の自己に対してあることなのだ」p398

「こうして、内実なき自己の否定たる、意味のない死は、その意味が内面的に捉えられることによって、絶対の肯定へと転化する。意識にとって、己と共同体意志との直接の統一、言い換えれば、自分を特定の点として共同体意志のうちに位置づけたいという欲求が、それとは正反対の経験に転化していく。その中で消えていくのは、実体なき点という抽象的で直接的な存在であって、こうした直接性の消滅が共同体意志そのものの成立を告げている」p405-6

ヘーゲルにおける意志理解
  〜共同意志および死の連関から〜

 個と共同性との乖離が決定的となるのは、端的にいえば個の意志の発現にあった。つまり古代共同体における両者の一義化することのできない調和関係からの離脱は、個の内面的な本性としては、男と女に象徴される個の二重性"への"分裂にあったし、社会的な側面からいえば、人の掟と神の掟"への"分裂にあった。前近代において自らの同一性を保持するひきかえに個が背負うこととなった他との関係性(=共同性)の回復は、まずは疎外の二重性において、自らの対象化の力(=意志)の限界を自覚すると同時に、限界を超えて広がる共同性に対する畏敬の念として現われた。そのような畏敬の念は、自己の内面に禁欲的な教養の世界を構想する一方で、現実の世界との軋轢の中で現実の彼方に理想的な信仰の国を構想することになった。そして、目の前に広がる現実界からの逃避と、自ら信仰者として絶対神との一体感を追い求めることになった。

 ここに表現される個の意志がどのような事態を意味しているものであるかということを、「死」がどう表現されているかという観点から考えてみるならば、「死をも辞さぬほどに自分を投げ捨てつつ、この放棄の中でなお自分を維持する」(p.345)という覚悟で、自らの行為が共同性を体現するものであることを希望する個の存在構築は、一方では自己犠牲をひきかえとしながら社会的地位を得ると同時に、自ら構想する仮想界への逃避をなすことの裏返しとして理解される。だが、この仮想界への逃避が、一方では社会的地位を得るという効果があるように、また富を消費する行為が他のためにもなりうるものであったように、実用性Nutzlichkeit(有効性)が人々の共有価値となる時代背景においては、個は自らの行為がただ一人よがりのものとしてあるのではなく、他者のためであり、ひいてはすべての人々のためになるものであるとの確信をますます高めながら、自らの仮想世界を構築していく。ここでは、「死」は個にとって乗り越えられるべき課題であり、死の対象化、すなわち死の世界までもが個の意志に収斂され、死の否定を通じた生の肯定が追求されることとなった。さらに信仰者の神との一体感において表現されているのは、個別存在としての自己の否定による普遍存在への到達であり、個別化に対する徹底的な反動による普遍化は、辿り着くことのない長い道程を個の前にもたらすこととなった。辿り着くことがないからこそ現実世界を逃れて没頭することができるのであり、絶対王政からの脱却と啓蒙世界の拡大および意志の自律はこのような精神性と表裏一体で進行していくこととなった。

 だが、啓蒙思想による信仰者批判は、信仰者による個別否定と普遍肯定という相矛盾する命題へと、すなわち普遍的な欲求を個別的禁欲で乗り越えようとする態度へと向けられ、そのような思考形式は喪失した神の国への郷愁のみを残し解体されることとなった。個により仮構された共同性の空虚さは、共同性から離れた個の空虚さそのものの裏返しであり、信仰の没落を経た意識はそのような自覚のもとで、自らの知が自らによって限定されたものに過ぎないという自覚と、他のすべての人々との関係において自らがあることを思い知らされる。

 こうしてすべての現実が最終的には自らの意志に収斂され、自らの意志こそが世界を体現し、共同の意志を体現するものであると確信する個は、再び信仰とは異なる領域において、個別の否定と普遍への意志を肯定することとなる。具体的には、個別化した諸領域において労働を営んでいた個々人は、集団の分化(階層化)を否定し、国家において普遍的な労働の場を見出そうとする。しかし、共同体意志を体現するのはあくまで個人としての−名の与えられた、他から区別された、それゆえ支配力を与えることのできる(p.349)−君主でなければならない。そこで普遍へと向かう複数の個は、複数の君主を求めない共同体に対して、−共同意志を体現するはずの−自らの意志を行使することができないどころか、唯一の頂点に据えられた個の支配力によって、なきものとされる運命へと直面する。

 そのとき直面する「死」とは、疎外された精神において描かれていた個が乗り越えるべきものとしての死、すなわち死の恐怖を乗り越えてでも個の意志を共同意志へともたらすべきであるという個の意志の肯定としてではなく、ここでむしろ死は、個の意志の沈静を表現し、対象化され得ぬ共同性を意味している。こうして死の所有=個が背負うべきものとして想定されていた死の恐怖からの解放は、共同性から乖離した個が構築すべきものとして対象化されていた共同意志からの解放を表現しており、そのことがひいては背後に浮かび上がる共同性を意味している。一方において共同性への回帰と、それと相反する個の意志の確立=自律が要求される近代突入期において繰り返し追求される個別による普遍の実体化は、普遍の実体化の否定を通じて、実体化され得ぬ普遍の内に包まれた個の意志の融和へと導かれる。