文責:上野山・鈴木
T 先験的原理論
第一部門 先験的感性論
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対象を認識する仕方について以下の語を用いて説明してください。
直観 感性 悟性 感覚 現象 (p.86,87)
「対象は、感性を介して我々に与えられる、また感性のみが我々に直観を給するのである。ところが対象は悟性(Verstand)によって考えられる、そして悟性から概念(Begriff)が生じるのである。しかしおよそ思惟は、我々人間にあってはまず感性に関係する、対象はこれ以外の仕方で我々に与えられることができないからである。
我々が対象から触発される限り、対象が表象能力に与える作用によって生じた結果は感覚(Empfindung)である。感覚を介して対象に関係するような直観を、経験的直観という。また経験的直観のまだ規定されていない対象を、現象(Erscheinung)というのである」(p.86)
対象とは、直観によって関係します。そのときに、感性が表象を受け取る能力として働くのです。対象は我々を触発し、我々は表象を感性によって受け取ります。その時の結果を感覚といいます。このような認識の仕方、対象と関係する方法は、経験的直観というのですが、感覚が規定されるまでの対象は現象といい、その内容を整理するのが、形式なのです。
整理するには、感覚よりも前に備わっていなければならず、こういった表象を純粋表象といいます。ですから、現象を整理する形式、つまり感性的直観一般の純粋形式がア・プリオリに成立し、純粋直観と呼びます。これが、空間や時間なのです。我々は直観によって対象と関係し、その対象を悟性によって考え、悟性から概念が生じるのです。
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「我々が対象から触発される仕方によって表象を受け取る能力(受容性)を感性という」
この一文及び前後の文脈から読み取れる対象と認識の関係について説明してください。
(p.86)
「対象が我々に与えられる」
「対象が或る仕方で心意識を触発する」
カントが認識について語りはじめるとき、このような認識の受動性を表すような箇所が多く見られる。しかしカントは、人間の認識について、たとえそれが感性であっても完全に受動的なものと考えていたわけではない。
問題引用箇所の前半を見てみると確かに、「我々が対象から触発される仕方によって」という表現がなされています。しかしこれは認識がどのような働きについての描写ではなく、認識の手段及び過程についての描写である。したがってポイントは後半部分。つまりカントは、(「どんな手段によって対象に関係するにせよ」)、「(我々が)表象を受け取る能力」のことを考えたいのである。
さらに同じくそれに続く箇所の後半部分を見ると、「感性のみが我々に直観を給する(供給する)」。この「受け取る」と表現の中には、認識の受動性だけではなく能動的な働きが表現されている。つまり、対象から触発される限りにおいて感性はそれを受け取る能力と同時に、直観を供給する能力をもっている。
ここにカントによる認識論の特徴がある。人間が対象或いは外部環境を認識する際には、ただ対象に従うというのではなく、あくまで対象との相関関係の中で人間は対象を「受け取り」、規定するのである。
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空間と時間がア・プリオリな認識の原理であるのはなぜか?
またそのような想定を行う必要があったのはなぜか?
(p.88 及び空間と時間参照)
「或るア・プリオリな原理に基づいて、別のア・プリオリな総合的認識の可能が理解せられうる場合に、かかる原理としての概念の説明を先験的解明と言うのである。そしてそのための二つの要件は、次のようなものである、(一)実際にかかる認識が、この与えられた概念から生じる、(二)かかる認識は、この概念を説明する仕方が既に存在していることを前提としてのみ可能である」(p.92)
時間と空間は、感性的直観一般の純粋形式であるのですが、この形式とは、感覚を受け入れるものであるので、ア・プリオリに備わっていなければならない。というのがあります。
さらに、「空間の中に対象が存在しないと考えることはできても、空間そのものが存在しないと考えることは不可能」(p.90)、「時間から現象を除くことはできても、現象一般に関して時間を除くことは、不可能」ということからもわかります。
しかし、ここで注意しなければならないのは、時間も空間も、それだけ存在するのではなく、また、もの自体に付属しているようなものでもないということです。
このような想定を行う必要性に関してですが、まず、空間や時間がアプリオリな原理でなかったらということを考えてみると、 p.118では、空間と時間を物自体と見なした場合について書かれています。ここでは、一切のものがまったくの仮象になるとカントは言います。また、経験的なもの(経験的直観)と考えた時も、p.113にあるように、「経験的直観であるとすれば、そこから普遍妥当的な命題が生じ得る筈はない」となります。
ここでの議論は、幾何学的なものが成り立つということを取り上げており、概念でなくて直観、経験的なものでなくてアプリオリな純粋直観、物自体ではなく主観的なもの、ということを主張して、「空間および時間は、一切の(外的ならびに内的)経験の必然的条件として、我々の一切の直観の主観的条件にほかならない」(p.114)と言っています。
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空間および時間について、経験的実在性と同時に先験的観念性を主張する必要があるのはなぜか?
(特に p.95,102,103 参照)
「我々は、時間が絶対的実在性を要求することを一切拒否する、かかる実在性は、我々の感性的直観の形式を無視して、物の条件或いは性質としてそのまま物に付属することになるからである」(p.102)
経験的実在性とは、対象が我々の認識によって確かに捉えられたことを表す。つまり、対象から触発される限りにおいて、空間と時間の形式によって form(形作る)することの可能な対象の存在を表現している。したがって、主体の認識能力を抜きにして、対象の絶対的な実在性を唱えることはできない。というのは、対象自体に空間と時間が備わっていると考えることは、認識の対象への従属(すなわち認識内容はすべて対象が備え持つ性質から導出される)を説明することはできても、主体の認識能力を説明することにはならないからである。
また先験的観念性だけを主張することもできない。というのは、主体の感性的直観の条件にすべての思惟はまず関係するのであり、経験的実在性を欠いたもの、すなわち可能的経験の範囲を越えたものに対して抱く概念はすべて空虚にならざるをえないからである。つまり、感性によって表現される主体認識の原理を抜きにしては、対象の経験的実在性を概念によって「思惟」することはできても、経験的実在性を「受け取る」ことはできないからである。
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カントによって自然はどのように語られていると考えられるか。(感性論全体を通して)
まず、空間と時間の関係について考えてみたい。
「時間が外的に直観されないのは、空間が我々の内にあるような或るものとして[内的に]直観されないのと同様である」(p.89)
ここでは、空間が外的直観、時間が内的直観のア・プリオリな原理として示されていますが、この外的、内的という区別は、経験的なレベルのおいてはすべて外的に表現されることになる。というのは、内的直観の形式である時間は形態(Gestalt)を与えるものではなく、時間表象は外的空間において表象されることになるからである。つまり
「一切の時間関係は、外的直観において表現せられる」(p.101)
したがってカントによると、我々は内的直観によって獲得した時間表象をさらに外部空間へと投影することによって表現することになる。さらに外部環境との関わりで考えるなら、人間がアプリオリにもつフィルターを通したものだけを「受け取り」、かつその認識内容を外部に投影するということを意味する。それは自然をそれ自体生成するものと想定する場合においても同様である。というのは、生成という概念は、変化あるいは運動を想定しているからであり、
「変化の概念及びこれとともに運動の概念は、時間表象によってのみ、また時間表象においてのみ可能である」(p.99)
そしてそのとき獲得された時間表象は、空間的に形態を与えられることによって初めて、継時的に変化しつつ存在するものであることが認識される。
つまり、認識が対象に従うという観点からの脱却によって、純粋な自然(認識のフィルターの通っていない自然)を認識することができるとは言えなくなった。しかし、このことは表象としての自然を貶めるものではない。というのは、彼の問題意識は、認識の能動性を解明しないままに、対象の絶対的実在性を容認してしまうような従来の経験論や自然的神学への不満が出発点となっているからである。したがって
「思惟は、我々人間にあってはまず感性に関係する」(p.85)
という主張とともに、まず感性の構造を解明する必要があったのである。そしてその結果彼が辿り着いた結論は、少なくとも感性における限り、物自体を認識するとはいえない、ということである。
このように認識の原理を可能的経験の範囲に限定することによって彼は、「認識の起源と内容」について語りたいのであって、感性と知性の区別が単に「知性によるから判明な認識であり、感性によるから判明でない」といった認識内容の判定基準を知性と感性に求めているのではない。というのは、どれくらい判明であるかどうかといった問題は程度問題であり、それを追求するなら、結局人間の認識構造及び能力の解明を放棄するか、あるいは物自体にすべての性質を付与してしまうか(物自体にそれらが備わっていると想定する)のどちらかに帰着するしかないからである。したがって、彼の問題意識はあくまで、自然があるか/ないかといった問題ではなく、自然があるとするなら人間はそれをどのように認識するか、というところにあったのである。