文責:上野山・関戸・西澤
第一版序文(1781)
「人間の理性は、或る種の認識について特殊の運命を担っている、即ち理性が斥けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題に悩まされるという運命である。斥けることができないというのは、これらの問題が理性の自然的本性によって理性に課せられているからである、また答えることができないというのは、かかる問題が人間理性の一切の能力を超えているからである」
前回、「理性とは意志である」ということを確認した。つまり人間は、理性の超越的原則により、一切の可能的経験の領域を越えて、経験に制限されることのない絶対的な無条件者へと昇りつめようとする。このような意志の力をカントは斥けることのできない人間の自然的本性であると考える。ところが一方では、人間は経験から出発する。このことは直観のない概念は空虚であり、同時に概念のない直観は盲目である、ということからも明らかである。それにもかかわらず、人間は経験を越え、たとえ直観のない概念に対しても、あたかもそれが空虚ではないかのように振る舞う。なぜなら人間は自らもつその性向を斥けることはできないからである。
今、人間は自らの経験を越えようとする、と言ったが、これがこの章のテーマである。経験を超えることを理性によって要求された人間は、悟性のツールを用いてその要求に応えようとする。これが理性の統整的使用から構成的使用への移り行きである。なぜなら、理性は自らの要求に対するツールを持っていないからであり、悟性にその役割を委ねてしまうのである。それでは理性は(構成的使用の際において)何によって悟性に経験を超えることを命ずるのだろうか。それが次の理念および理想の問題である。
■理念(Idee)および理想(Ideal)について説明してください。
[B595]「理念は、カテゴリーよりももっと客観的実在性に縁遠いものである、理念を具体的に表示するような経験は決してありえないからである。理念は、およそ可能的な経験的認識が達し得ないようなある種の完全性を含んでいる。理性は、理念によってひたすら体系的統一を志し、経験的に可能な統一をかかる体系的統一に近づけようとするが、ついにこの体系的統一を完全に達成することができないのである」
[B596]「ところが理想は、理念よりもなお一層客観的実在性に縁遠いもののように思われる。なお私がここで理想と名づけるところのものは、単に具体的な理念というのではなくて、個別的な理念のことである、換言すれば、理想とは理念によってのみ規定せられうるーそれどころか規定せられているような個物である」
つまり理念は、一切の経験の領域を超えている。したがって、経験によってはそれを説明することはできない。それは、空間表象や時間表象をすべて集めても、空間と時間という感性の根底形式を説明することはできないのと同様である。次に理想は、何らかの経験によって規定されるのではなく、「理念によってのみ規定せられうる」ものである。したがって理想は、感性において与えられた多様なものを悟性統一する際の、その統一の方向性を与えるものとして機能する。「理想は、理性にとって欠くことのできない基準である」[B597]
[B597]「そしてこれらの理想は、なるほどプラトン的な創造力を持つものではないが、しかし実践的な力を(統制的原理として)有し、ある種の行為の完全性を可能ならしめる[根拠]をなすのである」
理念と理想はどちらも推論によってのみ得られる概念であり、どちらも完全性を含んでいる。理念は例えば徳や知恵といった形を持たない抽象的な概念であり、規則としての働きを持つ。一方、理想はたとえば(ストア派の)賢人(これもまた実際には存在しうるものではないが、理念によって規定されている)のように自分の行為と照らし合わせて比較できるような原型・基準(或いは根原的な根拠)である。
■純粋理性の理想について、以下の一文「むしろ一切の物の可能の根底には、最高実在性が[総括]としてではなく[根拠]として存しなければならない」[B607](及びその前後)を参考にして、説明してください。
[B605]「理性が、物の完全な必然的規定[という理想]を思いみようとする意図のために前提するところのものは、この理想に合致するような存在者の実在ではなくて、かかる存在者の理念にほかならない、そしてこの前提の目的とするところは、理性が完全な規定という無条件的全体性から条件付きの全体性、即ち制限せられたものの全体性を導来するにある、ということである」
『もっとも実在的な存在者』という理想は、一個の個的存在者の概念である。この経験を超えた概念が可能であるのは、根拠としての理念(無条件なもの)から規定される(条件づけられる)ことによって可能になるのである。したがって、
[B607]「我々は根原的存在者を目して、多くの派生的存在者から構成されている、ということはできない。派生的存在者はいずれもこの根原的存在者を前提しているのであるから、派生的存在者が相集まって根原的存在者を構成することは不可能である」
なぜなら、多くの派生的なものは単に理念によって条件づけられた結果であり、たとえその結果をすべて集めることができたとしてもその根拠となる理念を再構成することはできない。それにもかかわらず、理性は悟性のツールを用いてその再構成を目指す。即ち、経験から出発して、最高存在者という理想によって、神(根原的存在者)という理念を実体化しようとする。それが従来の神の存在証明の仕方である。
■従来の神の存在証明(1.存在論的証明 2.宇宙論的証明 3.自然神学的証明)はどのようなものであったか、それぞれ簡潔に説明してください。またそれらの証明が不可能であるのではなぜなのか説明してください。
[B632]「存在論的証明が、最高実在性から現実的存在の必然性を推論したのとは異なり、宇宙論的証明の方は、むしろ何かある存在者において既に与えられている無条件的必然性からこの存在者の無際限な実在性を推論し、その限りにおいて一切の事柄を少なくとも自然的なー理性的であるか弁証的であるかはいさ知らずー推論法の軌道に乗せるのである」
[B653]「自然神学的証明だけでは最高存在者の現実的存在を証示し得ない、むしろこの証明の欠陥は、常に存在論的証明によって(自然神学的証明は、存在論的証明の序論として役立つにすぎない)補われねばならない」
1.存在論的証明では、まず神という概念から出発する。たとえば「神は全能である」。このとき、神という主語に対して、その可能的な述語は付け加えられる。しかし、主語において「神は」という時点においてすでに「神は存在する」という条件が前提されている。したがって「神は存在する」ということを、「神」という概念から出発していくら証明しようとしても、その存在を証明することはできない。なぜなら、「存在」(Sein)=「ある」は主語(即ち人間の認識対象)と概念との関係を表示するのみであって、なんらの規定を含み得ないからであり、まして人間の側から規定し得るものではない。
2.宇宙論的証明では、何かある不定の経験から、その経験の偶然性を遡り、その源泉が存することの必然性を推論する。その必然性は神という概念に重ね合わされ、またもやその概念の存在論的証明へと転ずる。
3.自然神学的証明では、確かに経験の範囲内におけるさまざまな原因性の法則を解明しようとする。その限りにおいては、カントもその自然科学的な有効性について口を挟むつもりはないとしている。しかし、やはりその証明は、理性の超越的原則によって、経験の領域を越え、原因性の法則から経験領域外の神の存在を推論しようとする。言いかえれば、自然神学的証明は宇宙論的証明へと飛躍し、これまた存在論的証明へと転ずるのである。
■純粋理性の統整的使用と構成的使用についてそれぞれ説明してください。
[B647]「最高存在者という理想はそれ自体必然的な実在を主張するものではなくて、理性の統整的原理にほかならない。我々はこの原理にしたがって、世界における[現象の]一切の結合をあたかも一切を充足する必然的原因から生じたかのようにみなし、世界の説明における体系的統一、換言すれば、普遍的法則に従うところの必然的統一の規則の根拠をかかる最高存在者に求めるのである。ところがそれと同時に、先験的なすり換えによって、この形式的原理を構成的原理と思いなし、この統一を実体化して考えることもまた避け難いのである。・・・我々が第一原因としての最も実在的な存在者という理念を根底に置かない限り、自然の体系的統一は我々の理性の経験的使用の原理たり得ないところから、この理念が現実的な対象[物]と見なされ、従ってまた統制的原理が構成的原理に変改されるということが、いかにも自然に行われるのである」
構成的(konstitutiv)使用については既に述べた。つまり、理性の超越的原則にしたがって経験を越え出て行くために、手許にある素材を用いて経験外のものを仮構していくことである。一方統整的(統制的
regulativ)使用とは、悟性統一に対して方向性を与える発見的(heuristisch)なものである。つまり、人間は経験から出発する限りにおいては構成的に後追いしていくしかない。しかし後追いができるということは、それに先立つ理念からの導きがあるかのように(als
ob)想定していることを意味する。(たとえば、何らかの予想をもたずに本に書かれてあることの中から何かを受け取るのは、なかなか難しいというのに近いかもしれない)
■神の存在証明の不可能性を論じる必要があったのはなぜでしょうか。
神の存在が問いただされる時代の中にあって、或いはそのような時代だからこそ、カントはその不可能性を論じる必要があったのではないだろうか。なぜなら神の存在を証明するということは、神のロゴス化であり、同時に神(という理念)によって(統整的に)維持されていた共同性の破壊でもあるからだ。もちろん表向きには、タイトルからも分かるように、理性「批判」、すなわち経験を越えようとして止まない人間の意志の力への批判として、カントは論じている。しかし、そこで描かれている意志の力、すなわち構成的意志の肯定は、「経験できる/経験できない」という悟性概念の土俵上で妥当するにすぎない。言いかえれば、可能的経験の領域内では満足できずに、さらなる基盤の拡大を求めて経験できない領域へと越えて行こうと意欲する人間の自然的本性は、ついに経験という同一平面から抜け出すことができない。(それにも関わらず、統整的理念は悟性に対して導きの光を投げかけている。だが理性はその光の源を上に述べた同一平面上に存するものと取り違えて、悟性のツールを用いて構成しようと欲するのである)
こうして考えてみると、カントが理性という言葉に中にどのような意味を込めていたかという問いに対して、一義的な答えを与えることはできない。それというのも、人間は、一方では経験を越えて経験できない領域へと踏み出そうとする意志の力に突き動かされる本性をもつものとして描かれ、そのとき悟性による理念の構成的使用が「いかにも自然に」為される。そしてそれが可能であるためには、いずれにしても経験から出発する必要がある。しかし経験から出発する限りにおいては、「経験できない」領域(=理念によって条件付けられている領域)へと越え出ていくことは不可能であるだけでなく、その根拠である無条件性へと超えていくことはなお不可能である。この2つの不可能性には大きな隔たりがある。なぜなら、前者においては、たとえ空虚であっても経験によって得られた素材を用いて概念を作り出すことができる。しかしながら、後者における無条件性は、どれだけの条件づけられたものを総括したとしても達し得ないからである。それにもかかわらず、悟性は後者の不可能性を前者の不可能性と同一視し、さらには経験からの推論によってその不可能性を克服しようとする。ここでカントが意図していたのは何であったか。理性の本性、或いは意志の力を浮き彫りにし、それに対する批判という構図以上のものが語られているのではないだろうか。
たとえば神を自然と置き換えてみる。或いは社会と。@自然は、一方では物自体として、われわれには知り得ないものとして想定されている。Aまた一方では感性における多様なもの、つまり悟性の素材になりうるものとして描かれている。素材になりうるというのは、感性においてわれわれに与えられる限りにおいて可能であるということである。Bさらにもう一方では、人間が無限な自然界の一員として、すなわち「理性の本来の領域」=「目的の秩序」=「自然の秩序」として描かれている[B425,426]。(Bは、おそらく85年に著された『道徳形而上学原論』において論じられる)また、@とAに関しては、感性論の「触発」の問題が再び大きくなって生じてくるだろう。なぜなら、触発をどう理解するかは、主体が対象を受動的に受けるのか、それとも能動的に取るのか、という問題であるから。(81年に著された第一版では前者が、87年に著された第二版では後者の意味合いが濃かったということだが)果たしてカントはそのような主客分離を前提として考えていたのだろうか。むしろ主体と対象を対立するものとしてではなく、ネットワーク的な関係性の中で論じたかったのではないだろうか。一方で物自体をおくことで人間中心主義に警告を発し、一方で物自体の存在証明の不可能性を論じることで対象中心主義への警告を発するカントは、彼自身、理性の二重の不可能性に苦悩を覚えつつ、その安らぎの地を、理念の無条件性とその統制的使用の実現へと夢見ている。
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提題:失わつつある共同知と台頭する個人知 知の変遷について
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「一切の根源的根拠としての最高存在者は存在しない」〔B669〕・・・※
カントにより指摘された神の存在についての存在論的・宇宙論的・自然神学的証明の不可能証明においてだが、もちろん我々は、ここで神がテーマになっているのではないことは当たり前である。この証明の主な骨格は、神について語ろうとすることは、感性的な経験をともなわない理性使用のまやかしであり、「可能的経験の形式的条件の表現」=経験を越え出た人間理性の行き過ぎにあった。このカントによる理性批判が我々に残す解釈の可能性は、共同性と個という観点から以下の二つに絞られる。
一つの可能性は、人間将来に対する絶望的なまで透徹した予想と戒めである。つまり、※において述べられているとおり、人間は、経験の領域を遙かに越え出た構築的な結合力(繋辞 Kopula)をもって、根源的根拠と最高存在者を結びつけてしまう。換言すれば、根元をさぐる力と最高存在をつくりだすこと以上に、両者の結合に存在の構築をなすことに近代市民社会に生きる人間の本性が重ね合わせられていることが理解される。そこから敷衍すれば、主語(根拠)に対する述語(神)の関係は、概念操作による、経験なき概念から経験なき概念への跳躍にすぎない。あるいはこうも言えよう、絶対的実在性とは、主語に対する述語が、物の概念の否定を集めていくことによる外延の集合に過ぎない、と。
ここにみる時代背景とは、個に委ねられた近代人の概念操作であり、自由な意志決定であった。自由であることは、既に個別者を産み、個別者の思考の内に、構築の力を与えたのである。社会的には、統一へと動き出していたプロイセンは、内的には、市民社会の建設期に相当し、自ら立法し、自ら裁き、自らの意志と行為を何よりも尊重することが顕著にみられるようになった。法・宗教・芸術・自然科学・哲学といった全ての領域において、もう過去とのつながりを刷新することでしか成り立たなくなったとき、近代は堰を切ったように個の力に殺到し、その力に悩まされていく。
そのような大枠をもつことで、『純粋理性批判』においてカントがもたらす第一の可能性は、次のようになる。認識のもつ主体的な構造から振り返れば、近代市民社会への警鐘が鳴らされる。それは、形なきものに形を与える能動的な意志力の暴走であり、自己意識の根拠なき絶対化である。この予言は、近代を背負って立つ現代において、人権や環境へのアプローチとなって現れてくるだろう。つまり、基本的人権への尊重は、尊重という存在構築へ向かいながら、これ以上上限のないところへと昇りつめていく。もはや、現実的には武器となってしまった人権は、統制的に制限を与えるものではなく、構成的に造り上げるものにほかならないからである。或いは、本来は、人間の構築力と欲求がもたらしたはずの環境問題も、自己の経験の内に、自らの行為の構築力そのものに対する反省がなされ得ない限りは、少なくとも問題のすり替えにはなるものの、問題への新たな契機は、見出すのが困難であろう(或いはその構築力に希望を託すというやり方も人間はつくりだす)。
残された希望は〔B617〕や〔B661-662〕以降にかいま見ることができる。
「絶対に必然的な実践的〔道徳的〕法則は存在する、それだからこの法則が、その拘束力を可能ならしめる条件として何かある現実的存在を必然的に前提するならば、その現実的存在は要請せられねばならない、条件付きのものからかかる一定の条件を推及する場合には、条件付きのものそれ自身が絶対に必然的なものとしてア・プリオリに認識せられるわけだからである。」〔B661-662〕
ここに見られるのは、経験の統一と自己意識の構造化を導いた悟性の領域に限定された法則を、道徳の領域では、理念的に応用する、つまり、「法則への意識」に依拠する形で要請という形をとることになり、まさに近代の個的構想力にかけた実践的道徳哲学へと道を譲る。少なくとも現段階では、カントが単に近代市民社会の危険性を訴えていただけではなく、個の認識構造の中に、普遍性を求めることのできる、いや求めなければならない道が切り開かれていく。以上、カント理解の第一の可能性は、市民社会に対するカントの中間的な位置取りに、近代の個と共同の関係を理解することにある。
カント理解の第二の解釈可能性は、事態の裏側をつく解釈を試みることにある。つまり、個人による構築的な知が出現したということは、それ自体が近代以前に人間が無意識的に具えていた共同知の崩壊である。神の存在の証明不可能性を通じ、共同知の崩壊と、その崩壊の指摘そのものに共同性の理解がなされていることである。※において、絶対的な実在性は、経験を越え出ることの不可能な人間にとっては、空虚なものであることが理解される。換言すれば、物の確実さ・本当に存在する・普遍である、ということを理念的に望むことは、時間と空間の直観形式を越え出るため、実現しない。しかしその希望は、力余った理性が求める拠り所とするならば、或いは、人間が人間自らの思考による仮想的な構築界の熱望ならば、(カント的にいえば実現不可能であるものの)人間は全てのものが自律的行為にはよらないネットワークの中に生きていたことの痕跡でもあり得る。つまり、共同知において実現されていた「ものの確からしさ」は、自己内世界の構造化を渇望し超越しようとする一点を除外すれば、明らかに個別者の内に居所を移したといえるのではないだろうか。
そう考えるならば、人間の歴史は、自己意識の希薄ないにしえにおける「ものともの」のネットワーク的共同性を破壊しながら、近代へと進んできたのではないだろうか。いにしえのネットワーク界においては、「万物の根元は水である」とは、全ての人間が万物に関与しているということであり、同時に、その安定性が行為を端緒に破壊されたという共同性崩壊の始まりである。そのように見れば、知は人間の孤独の始まりを訴えることからはじまるのであり、それ以上に何かを構築するものではないのではないか。これがカント解釈の自分なりに考える第二の可能性である。