学術的自己紹介

 

 現代の学問は体系化され、様々な分野から様々なアプローチがとられている。その中で、自分は総合的な視野から、クロスボーダー時代に存在する諸問題に取り組むためのツールと視点をで養うために、このゼミを希望した。

 15世紀から20世紀における近代の歴史上で、世界の主導権を我が物顔で握って来た欧米諸国を私は不思議に思った。欧州地方を見てみると、資源の備蓄量は、中東や南米などと比較すると非常に乏しい、先端技術はイスラム圏や中国からはいってきたものである。このように欧州は実に後進的な地域にしか思えない。だが、その欧州で、他の地方と唯一肩を並べられるものが思想ではなかろうか。さらに、世界を見据える理念をもつキリスト教のバックアップと、欧州人の強靭な精神力と欲こそが、彼らの支配圏を広げ、世界の中枢を自覚できたゆえんであろう。特に、欧州で民衆レベルでの蜂起がいち早く起こったことは注目に値する。欧米人ほど物事を批判的に検討し、自己の利害を考えられた人種はいなかったのかもしれない。つまり、欧米諸国の世界的発展とは、思想を制したからでなかろうか。
 これが私の思想に対して面白さを感じた理由の一つである。そして、現代における様々な問題をも思想的アプローチ無くして、それを見極めることはできないような気がした。

 そして、私は大学に入り、欧州の古代・中世・近代の自然観社会観の遷移や、時代の流れと共同性の変化を学んだ。近代以降、共同性には亀裂が走り、個人は自己の限りない欲求を求め追いかけて来た。
 そこで私は一つの疑問にぶつかった。一体個々人の自己充足の終着点は何なのか。どこまで求め続ければ人は満たされるのか。

 大学に入って、私はフィリピンの片田舎の小さい村を何度か訪れた。そこでは何も無い土地に、家や井戸をつくり、一から共同体を作っていこうとする試みが為されていた。村の基盤整備は全て人間の手でなされ、機械は一切使われない。新しい共同体を夢見る人達が汗を流してそれに取り組む。そこでは、何かを成し遂げる共通の目標と、互いが信頼し協力しあわなければ目標を達成できないというまとまりが存在した。その中で私は、海外からの一労働力提供という形で、各家族の家作りの手伝いをして来たわけである。
 私は、この村で驚愕した。それはここで見られた強固な共同性である。その共同性の秘訣はキリスト教の教えであった。その信仰においてこの共同体は誕生し、その精神の元で皆は団結していたのだ。家が建てられ完成すると、一軒一軒、宗教的セレモニーが行われる。新しく家に住むことになる人は、そこで神と契約を交わし、神の共同体の一員となるわけである。その共同体では、何が善で、何が悪かを悩む必要はない。また、自分の方向性を己で決断し、進路を切り開いていく必要もない。つまり、自分が生きていく“範囲”または限度線のようなものが明確化されているのである。なぜなら、そこにおける真実は神によって定められ、又この共同体に住む者は神に仕えるものなのだ。そこでは共同体全員の存在価値を認めてくれ、居場所を提供してくれる場所だからである。隣人を愛さない者は、神の共同体の一員を愛さないことである。そして一人一人が神と愛交わすことによって、隣人とも互いに助け合うことができていたのだった。

 共同性が崩壊したという現代において、個々の人間の心の拠り所である神的存在が何かを解くことが、私が取り組みたいことである。それは言い換えると、どのような共同体であれ、それをまとめる精神的な拠り所に興味がある。その精神的拠り所には、中世における魔女のように、共同性のために排除、差別されるべきものも含まれるだろう。
 総合政策学は学問として未だ完成されていない。今後、この学問が発展していくにあたって、様々な学術的視点が加えられ、また総合の意味が何かが吟味されていくであろう。世界レベルの環境問題、国際協調問題を扱うには、その行為主体である人間を見ていく視点は必要不可欠である。その中で、僕は現代における個人の神的存在という視点から人間を見て、それら諸問題に取り組んで行きたい。

 以上の学術的自己紹介は一つの問題提起です。以下の私の論文、エッセイを読みすすめるにつれて、謎は解かれていくでしょう。

 

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